モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

ロマンチスト

2007-07-29 | サッカー
なんでしょうねオシムは。でもこのチームは、そもそもがスタメンが彼の理想とはほど遠かったようで。穴埋めをあちこちしているうちに、全く別のチームになってしまったという感じですね。
トゥーリオが抜けて、センターバックに阿部を起用。ボランチのストッパーがいなくなったので鈴木を投入。左サイドバックがいないので、駒野を左へコンバート。空いた右には一応実績のある加地を入れる。接戦が予想されるアジアでは、ジーコに倣って川口をGKに。

でも個々のレベルは、付け焼き刃もあって、ジーコジャパンと比べるとかなり見劣りするのは確かです。ただ、監督の体を為していなかったジーコが、若手を育成しなかったつけがここにもはっきり出ました。選手層があまりにも薄い。そして、この少ないコマを見るにつけ、オシムは人選を誤ったのではと思うのです。もっとリアリストでもよかったのではないかと。あと、ムードメーカーの幡戸の離脱は痛かった。

少年サッカーに少しでもかかわったことがある人は、Jのジュニアユースからユース、そしてクラブのレギュラー、日本代表になるという道がどれほど大変か、知っていると思います。だからこそおかしくないかと思うのですよ。
日本代表の両サイドが、なんでフェイントのひとつもまともにできないんだと。昨今親子サッカーでも、お父さん達は、ジンガもやるし、アラブフェイントもやるし、中にはマルセイユルーレットをやる人だっています。その人にとっては同じレベルの中でできているのだから、代表レベルでまともなフェイントのひとつもできないのは変じゃないかと思っても不思議はないのです。

これはね、少年サッカーの育成法が間違っているんです。スキャモン曲線てご存じですか。大脳の活動は、10歳ぐらいで既にピーク近くになるんですね。ですからこの時期に徹底的にテクニックやフェイントを覚えないといけないんです。猪口才なプレーが無意識に最も効果的にできるようにね。しかし、少年サッカーの全国大会を見ていると、チームとしての完成度を高めるようなコーチングしかしていないなと思うのです。クラブのコーチも結果を出さないと首になるサラリーマンですからね。でも、これではマラドーナやカカ、ロナウジーニョは生まれません。

今回、サッカークラブにいた&いる息子達の感想を聞きながら代表戦を観ていると、やはり今回は人選が間違っているのではないかと思うのです。そして、ユースからの育成法もおかしいのではと。現在カターニャの森本は、最初の頃スタジアムへ試合を見に行きましたが、すごいやつが表れたと思いましたね。でもコーチやクラブが寄ってたかってちんまい選手にしてしまうんだろうなと危惧したものです。ですから彼がセリエに行ったときは、これはいいかもしれないと思いました。狩猟民族の狩りのDNAをすり込まれて化けて欲しいなと。

昨日の試合。体力的なことばかりいわれていますが、息子と私の意見は、サッカーインテリジェンスが足りない代表だな、という感想でした。おそらくこのチームは一年後は半数ぐらいが代表から外れているのではないでしょうか。そんな気がします。
コメント (3)
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風林火山と妻女山【妻女山里山通信】

2007-07-13 | 歴史・地理・雑学
武田晴信が、村上義清に大敗し、板垣信方を失い自らも負傷した上田原の戦いまで進んだ風林火山。といっても第四次川中島合戦までは、あと13年もあるのですが。武田軍というと、大河ドラマのオープニングにもあるように、騎馬戦士が白刃を抜いて猛然と攻め込むなんてイメージですが、さにあらず。

普通は、先方集が弓矢や鉄砲で開戦するのが普通だったようですが、『信長公記』によると、武田軍は、まず郷人(農民)に石を投げさせることから始めたとか。まるで昔の子供の喧嘩みたいで笑ってしまいますが、雨霰と降ってくる石をかいくぐって突進ていうのも嫌ですね。石なんか当たったら戦う気力が失せますもんね。

その後に、騎馬戦士が突進するわけですが、テレビのようにサラブレッドなわけはなくて、木曽馬や道産子のような背丈130センチぐらいの和種の馬ですね。まあ、ポニーだと思えばいいわけです。農耕馬で、確かに足腰は強いのですが、サラブレッドのように速くはない。パカパカ走るって感じでしょうか。ですから騎馬戦もあったらしいですが、多くは降りて戦ったのではないかと云われています。

武田軍も鉄砲を使ったらしいのですが、旧式で弾も100mぐらいしか飛ばず、しかも竹を束ねたもので簡単に跳ね返せたそうで、後年信長が作った最新式の鉄砲軍団とは比べものにならなかったようです。その古い戦法が徒になり、突進する旗本騎馬軍団は織田軍鉄砲隊の恰好の的になり、武田軍は勇猛な戦士を多く失ったと云われています。

当時の武士は、普段は農奴をかかえ農業をしていて、戦はたいてい農閑期に行われていたわけですが、時には収穫期に襲って、収穫物を強奪なんてこともあったようです。ドラマでもやっていましたが、武田晴信は、佐久の志賀城を落とした折りには、婦女子を売り飛ばしています。風林火山で盛り上がる信州ですが、佐久ではまったく話題にもなっていないことでしょう。

武士でない農民は、当時地下人(じけにん)と呼ばれていました。本来は戦には関わらなかったのですが、大戦になると招集され、鍬や鎌、鉈、綱をもって馳せ参じたようです。砦を作るのに必要ですからね。こういう軍役もあったわけで、城や砦の普請は、相当に重い負担だったようです。婦女子や老人は、山の中に逃げたようです。上杉と武田が、千曲川を挟んで対峙し、和議が成立しなかった時、また戦かと遠巻きに見ていた農民達が肩を落として散っていったということも書かれています。

いずれにしても大河ドラマは、面白可笑しく戦国の武将達を描いていますが(昔の大河ドラマほど英雄視して描いていないのが救い)、戦場にされた信濃の小豪族や農民の辛苦は、耐え難いものであったに違い有りません。

その、やがて来る第四次川中島合戦で有名な、妻女山ですが、現在妻女山と云われているところは、赤坂山で本当の妻女山ではない。真実の妻女山はここだという私の特集ページ「妻女山の位置と名称について」が、ほぼできあがりました。古文書が多く読みにくいでしょうが、写真のように次男が作った3Dによる妻女山地図や武田別働隊の進軍経路図、古地図、古い写真などもあり盛りだくさん。地元でしか分からない事実もあり、歴史好きには楽しんでいただけるページだと思います。ご高覧ください。
コメント (2)
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