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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

甘酒と簡単べったら漬けに白雪漬け:新信州郷土料理(妻女山里山通信)

2009-01-31 | 男の料理・グルメ
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 麹がたくさん余っていたので甘酒を作りました。米2カップに水8カップで、お粥を作ります。60度にまで冷ましたら麹を3カップ入れます。これを炊飯器の保温で8時間。50~60度が目安です。8時間経ったら塩小さじ二分の一を入れてかき混ぜ、10分ほどおきます。これでできあがり。あとは瓶につめて保存。飲みたいときに温めていただきます。もち米を少し混ぜると甘さが増します。

 添加物もなく砂糖も入れないので、天然の発酵した麹の甘さだけなので、さっぱりしていますがコクがあります。元がご飯なのでたくさん飲むとお腹がいっぱいになります。今回は3カップの米ともち米少々で作ったのですが、10合炊きの炊飯器がいっぱいになるほどできてしまいました。

 この甘酒を使って「簡単べったら漬け」も作りました。これもいけます。さらにじいさん特製の地大根の切り干し大根を使って「切り干し大根の白雪漬け」も作ります。最近は、探すと麹も売られているので、ぜひ作ってみてください。発酵食品は体にもいいですよ。また、甘酒は和食や中華の調味料としても使えて便利な食材です。

  新信州郷土料理は、MORI MORI RECIPE(モリモリ レシピ)をご覧ください。山菜・キノコ料理、内臓料理、ブラジル料理、エスニック、中華の込み入った料理などの「男の料理レシピ集」です。特に本格的なアンチョビーの作り方を載せているのは、当サイトだけだと思います。手作りオイルサーディン、手作りベーコンもお薦めです。
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塩豚の蒸しもの、蕗味噌、椎茸酒蒸し焼き、春の味:新信州郷土料理(妻女山里山通信)

2009-01-29 | 男の料理・グルメ
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 豚バラブロックを一週間塩漬けにして蒸す料理です。豚肉の熟成した旨味が堪能できる料理です。塩漬けの塩の量は、豚肉400gの量で小さじ1強ぐらい。ドリップがでたら捨てながら冷蔵庫で漬けます。蒸す日の半日ぐらい前から日本酒をふりかけておきます。

 蒸し器の中に、白菜や青菜をしいて塩をかるくふります。その上に豚肉をのせ、白髪ネギ摺りおろし生姜をのせ、日本酒と醤油少々をふりかけて豚肉に火が通るまで強火で蒸せばできあがりです。あら熱が取れたらスライスして盛り合わせます。下にしいた白菜にまで味がうつって美味。下の蕗味噌をすこし付けるとばか旨です。

 詳しくは私のレシピ集MORI MORI RECIPE(モリモリ レシピ)皮付き塩豚の蒸しものをご覧ください。掲載のレシピは中華風ですが、アレンジで和洋中エスニックと応用がききます。また最近は、麹を買ってきて自家製の塩麹を作り、それに漬けて蒸すのもお気に入りです。カボチャやタマネギ、ナスなど野菜にのせて蒸しても美味です。

 副菜は、うらの畑で採れた蕗。早春の味覚です。蕗味噌は、蕗を食べるというより、蕗風味の味噌をいただくという料理。味噌を多めの油で炒め焼きして、花鰹、酒、味醂で味付け。砂糖は入れません。味醂で充分。蕗はみじん切りであら熱で和える感じで。火を通しすぎると風味が飛んでしまいます。春の山菜の苦味は、冬にたまった毒を流します。

 もう一品は、妻女山で採れた椎茸。大きいものは15センチあります。塩と酒をふって網の上でひっくりかえして(汁がこぼれないように)アルミホイルをかぶせて蒸し焼きにします。山の尾根では、ダンコウバイの蕾が今にも咲きそうにふくらんでいました。今頃の信州ではありえないことです。日溜まりでニホンカモシカの親子が食事中でした。今年も異常気象のようです。

 新信州郷土料理は、MORI MORI RECIPE(モリモリ レシピ)をご覧ください。山菜・キノコ料理、内臓料理、ブラジル料理、エスニック、中華の込み入った料理などの「男の料理レシピ集」です。特に本格的なアンチョビーの作り方を載せているのは、当サイトだけだと思います。手作りオイルサーディン、手作りベーコンもお薦めです。
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土口将軍塚古墳でニホンカモシカと遭遇(妻女山里山通信)

2009-01-25 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 快晴、気温は4度。山歩きには調度よい日曜日、早めに昼食を食べて用事の帰りに妻女山へ寄りました。蝶の越冬幼虫を撮影するためでしたが、食樹は見つかるのですが肝心の幼虫がなかなか見つからず落胆していました。

 斎場山古墳の上で熱い緑茶を飲んで休憩、気を取り直して薬師山の方面へ下りました。ここで御陵願平から岩野駅方面へ下る今は廃道となった古い山道を発見。途中まで下りてみました。ひょっとしたら昔あった正源寺から土口将軍塚古墳へ登る、江戸時代後期の榎田良長『川中島謙信陳捕ノ圖』にある山道ではないかと思いました(頁下部の絵図・中央山麓の小さな寺から右上のひょうたん形の古墳へにょろにょろと登る山道)。だとすると凄い発見です。帰宅して父に聞いても知らないというのですから。正源寺の山号は「荘厳山」といいます。荘厳山とは、国指定史蹟・土口将軍塚古墳のことで、岩野では「荘厳塚」といいます。古代科野の国の重要な史蹟です。

 これは後の宿題にして、陽射しの麗らかな尾根を古墳へ。古墳の左手に回るとバラにひっかりました。剪定ばさみで切り落として刺を外していると、前方で枯葉を踏みしめる音が。だれか来たのかなと見上げるとクヌギの木の向こうにグレーの動物。ニホンカモシカです。

 いつもは、視線を感じて見るとニホンカモシカがこちらをジッと見ているというパターンで、相手にいつも先に見つけられていましたが、今回は初めて私の方が先に気付きました。クヌギの幹に隠れてしばらく観察することにしました。距離は10mほど。相手は全く私に気付いていません。

 カモシカは、クヌギの根元で盛んに枯葉を押しのけてはなにかを食べています。枯葉の下には、春を待ちかねて既に草が新芽を出しているので、それを食べているのだろうと思いました。すると突然カモシカが顔を上げて匂いを嗅いでいます。風向きが一瞬南風から東風に変わり、私の匂いに気付いたのでしょう。警戒して逃げられてはまずいので、木の陰から姿をゆくりと現しました。

 今までの経験から、カモシカは黙っていると逃げてしまうことを知っているので、話しかけてみました。思った通り逃げません。ジッとこちらを見ています。話しかけながら撮影し、少しずつ間合いを詰めます。それでも5mを切ろうかろいうときに振り向いて逃げ出しました。そこですぐに声をかけました。「あ~ちょっと待って!」と。するとカモシカはちゃんと止まるんですね。振り向いて「何?」という表情をするんです。

 暫くすると古墳の北側に下りていきました。後を付いていきまた声をかけると止まってくれました。そしてまた写真を撮らせてくれた後、ゆくりと雪の残る北側の斜面を下りていきました。写真で分かるように、すぐ下には人間の街があり、車も行きかっています。こんな近くに普通にニホンカモシカがいるなんて、おそらく麓の人はほとんどが知らないでしょう。ニホンカモシカは、そんな下界をどんな思いで毎日見つめているのでしょうか。それにしても、いつも思うのですが、ニホンカモシカとの出合いは、冷え切った心を優しく温めてくれます。

 ニホンカモシカ。日本に分布する野生では唯一のウシ科動物。せきつい動物亜門哺乳類(哺乳綱)偶蹄目ウシ科ニホンカモシカ(日本羚羊)。定着性の動物でなわばりを持ち、普通単独で生活します。複数のときは、繁殖期か子供と一緒の時です。秋に交尾をして7ヵ月の妊娠期間の後、春から初夏に一頭出産します。母親は子供と2~3年は一緒に行動するようです。角を木の幹にこすりつけマーキングをします。眼下腺や蹄腺から酸っぱい臭いのある分泌液をつけてなわばりを主張します。イネ科の笹や草木の葉、樹皮や新芽を食べます。

 角は雄雌ともにありますが、骨が発達したものなので鹿のように毎年生え替わることはありません。なので角の大きさで大雑把な年齢を判断することはできます。また、角研ぎをするので、大きな個体は角の前部がすり減っています。

 縄張りは食性の豊かさや雄雌により違うようですが、直径1キロから2キロということです。溜糞をする習性があり、糞場は決まっています。また、縄張りには必ず岩場やガレ場があり、避難や休息の場所とします。平均寿命は5年前後ということです。非常にデリケートな動物で、ストレスに弱く飼育が困難でしたが、関係者の長年の飼育研究で人工的な繁殖もできるようになりました。

 古来ニホンカモシカは、重要なタンパク源として狩猟の対象でしたが、乱獲によって絶滅しそうになり天然記念物に指定されて保護され増えました。逆に今度は増えすぎて林業などに重大な損害を与えるようになり、捕獲や射殺が行われています。野生動物の人工的な保護管理は、非常に困難な命題で、ニホンジカやニホンザル、月の輪熊などと同様に色々な意味で危機的な状況にあることには変わりないのです。

 ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、特殊な技法で作るパノラマ写真など。
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武田信玄の狼煙山と立川流和四郎富昌作木造神馬の白鳥神社(妻女山里山通信)

2009-01-24 | 歴史・地理・雑学
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 最高気温が11度という信州の冬としては異常な温かさの午後、用事ついでに松代町西条のノロシ(狼煙)山に登りました。松代城(海津城)から見ると、南に三角にそびえる秀麗な山で、標高は843.9m。北西に延びる尾根には舞鶴山があり、その中腹には日本武尊命と真田家の祖と伝承される貞元・貞保親王とともに真田信之公(松代藩初代『武靖大明神』)の霊をあわせてお祭りした白鳥(しろとり)神社があります。今回はここを登山口としました。

 白鳥神社は、小学校の遠足以来の訪問。七代幸専(ゆきたか)公が、文化10年(1813年)に改築を行ったという久能山東照宮(祭神は徳川家康公)を模した社殿は、拝殿の敷地に入れないという珍しい形式。ここには、まるで生き馬のようといわれる立川流和四郎富昌〔天明二年(1782)生-安政三年(1856)没〕作の木造神馬像があります(写真)。小学校の時は、そのあまりの迫力に怯えた記憶さえあるほどです。参道からは、象山や松代が一望できるので、杏や桜の季節に訪れるといいでしょう。

 狼煙山へは、白鳥神社を正面にして左上に見える尾根にとりつく必要があります。とりあえず本殿の裏手にまわって道を辿りましたが灌木に遮られ、右手の山道を辿りました。そのまま行くと左ではなく右の支尾根に行ってしまうので、適当な沢道から左へ。すると作業道があったので辿ると、すぐに舞鶴山から南西に延びる尾根に乗りました。舞鶴山は、城郭の跡のようで、小さな曲輪が見られました。ここが西条城という説と、竹山城が西条城であるという説があるそうだと後で出合ったかたから聞きました。

 舞鶴山からは尾根の正面に三角の狼煙山が見えるので迷うことはありません。尾根も道がはっきりしない所もありますが、基本は尾根の高みを外さなければ、いつか頂上には着きます。むやみに谷にさえ下らなければ危険な箇所もありません。尾根を辿って檜林で真っ直ぐ登る急登と左へトラバースして左の赤松の尾根を登る一般的なルートに分かれますが、どちらを行くかは好みで。私は雨後でもあり、雪も少し残っていたので後者を選びました。急登のバリエーションルートは、大峯山で堪能しましたし。

 麓の白鳥神社の鳥居から山頂までは、季節天候個人差によりますが、1時間半から2時間みておけば充分だと思います。今回は1時間20分ぐらいでした。山頂は見晴らしはほとんどありませんが、冬枯れや芽吹きの頃であれば、樹間からそこそこ楽しめます。武田信玄の狼煙台があったというので、狼煙を上げる狭い山頂のみかと思っていたら、ちゃんと山城の構造を持っていたので驚きました。西と北東に段郭を持ち、南東に延びる尾根には腰郭と堀切、第二郭と堀切、尾根が続いてもう一つの頂上、その向こうには段郭と、それなりの構えです。調べると、狼煙台には常時20人ほどの武士を置いていたそうですから、これぐらいの規模は当然必要だったということでしょう。非常に重要な通信施設ですから防備も必要だったということです。

 25分ほど頂上で撮影したり休憩したり思索に耽ったりした後、同じコースを今度は駆け下りました。50分ほどで神社に戻りましたが、そこで散歩に来られた地元の初老の男性と知り合いになりました。神社やこの地の山名について伺っていると、その方は40代の頃からこの辺りの山城の写真をほとんど全て撮影しているという方だと分かりました。

 西条山について伺ったのですが、やはり西条城の本城がどこにあったかが定かでなく、それによって説は分かれるとのこと。江戸時代後期の狩野文庫所蔵の『河中島合戰圖』小幡景憲には、高遠山に西条山と記されているという話をすると興味を示されました。大嵐山、御姫山についてはご存じなかったのですが、母袋山については、字の最高地点を母袋山とした私の話に、腰(越)山の下にある城跡のところが母袋山だと言われました。なんでも中世の母袋氏の山城があったといわれているそうで、埴科郡誌に記されているということなので、後日調べてみようと思います。母袋は、現在は母と袋と書きますが、本来は甕(もたい)という一字を用いたそうで、瓶(かめ)という意味です。城門の外に出た小城を甕城(おうじょう)といいます。

 狼煙山は、もう少し登山道を整備して北面の展望が得られれば、ビギナーや子供まで登れるいい山になるだろうと思います。その方の話では、白鳥神社ではなく、舞鶴山から北へ延びる尾根の先端が登山口とのことでした。また、参道の途中からその尾根に乗る道もありました。参拝した後で、少し下ってそこから登るのがいいでしょう。また、神社の左手からトラバースして尾根に乗る道もあるようです。最近は舞鶴山裏手の地震観測所まで車で上ってそこから登る人も多いと聞きました。参道を下りながら色々な情報が得られて非常に有意義な時を過ごしました。遠くに雪をかぶった戸隠の雄姿が異常に暖かい陽射しを浴びて光っていました。

 このトレッキングは、後日フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】にアップします。

 ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、特殊な技法で作るパノラマ写真など。
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なんとニホンカモシカ三頭と遭遇(妻女山里山通信)

2009-01-19 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 最低気温が-8度という朝、信州は千曲市の倉科氏の鷲尾城跡から-6度ぐらいの中をトレッキングを開始。厳寒なのに急登を20分足らずこなすと汗をかいてしまいました。鷲尾城跡の本郭の中央で汗を拭いていると誰かの視線を感じました。視線を感じた方を見ると真っ黒な動物が。熊か!?とドキッとしましたが、大きな真っ黒いニホンカモシカが本郭の縁からジッと私を見ています。

 ニホンカモシカは、個体によってグレーのものと真っ黒なものがいるのですが、真っ黒なものは一瞬熊に見えるので本当に驚きます。あわてて服を調えカメラを構えると、彼は(なんとなく雄)本郭の縁を伝って向こう側へ下りてしまいました。残念に思い荷物を仕舞ってザックを背負い、本格の西にある土塁に登ると、なんと深い堀切の向こうに彼がいるではありませんか。彼はそこで3分ほど私を待っていたのです。
 ちょっと待っててくれと言って本郭を8mほど駆け下りました。微動だにせずにこちらをジッと見る彼を撮影すると、やはり向こう側へ下りていってしまいました。

 堀切を登り、もうひとつの堀切を超え、倉科将軍塚古墳を越えて、さらに深い堀切を超え、急登をこなして北山に登りました。途中で月の輪熊のものと思われる大きな糞を発見。そして北山の頂上を過ぎて鉄塔にさしかかった時。鉄塔の向こうの林の中にニホンカモシカがいたのです。最初の出合いから18分後です。同じ個体のようにも見えますが、少し小さいような気もします。つがいか親子か。すぐに茂みに消えてしまいました。その後、月の輪熊の足跡も発見しながら天城山へ。

 そして約1時間後。清野氏の鞍骨城跡の南面の岩の下で巻き道を探しているときに、また上の方から誰かに見られている視線を感じました。見上げるとグレーがかった大きなカモシカがこちらをジッと覗き込んでいます。動かないでねと話しかけながら接近し撮影。暫くすると急斜面を巻くように下りていきました。すると谷から鳴き声が。子供が母親を呼んだのでしょうか。何度か鳴き声が谷に響いていました。一日に三度も出会えるという幸運に恵まれました。

 それにしても野生動物は、気高く美しいものだと思います。下卑たところが一切無い。特にニホンカモシカは、森の孤高の人という感じがします。人間のように精神を病むこともないだろうし、子育てに失敗してトラウマを植えつけACにしてしまうこともないでしょう。人間は野生動物に学ぶべきかもしれません。人間の引き起こす戦争と野生動物の生存競争とは根本的に違います。

 ニホンカモシカ。日本に分布する野生では唯一のウシ科動物。せきつい動物亜門哺乳類(哺乳綱)偶蹄目ウシ科ニホンカモシカ(日本羚羊)。定着性の動物でなわばりを持ち、普通単独で生活します。複数のときは、繁殖期か子供と一緒の時です。秋に交尾をして7ヵ月の妊娠期間の後、春から初夏に一頭出産します。母親は子供と2~3年は一緒に行動するようです。角を木の幹にこすりつけマーキングをします。眼下腺や蹄腺から酸っぱい臭いのある分泌液をつけてなわばりを主張します。イネ科の笹や草木の葉、樹皮や新芽を食べます。

 角は雄雌ともにありますが、骨が発達したものなので鹿のように毎年生え替わることはありません。なので角の大きさで大雑把な年齢を判断することはできます。また、角研ぎをするので、大きな個体は角の前部がすり減っています。ウシ科の動物のせいか好奇心も強いようです。

 縄張りは食性の豊かさや雄雌により違うようですが、直径1キロから2キロということです。溜糞をする習性があり、糞場は決まっています。また、縄張りには必ず岩場やガレ場があり、避難や休息の場所とします。平均寿命は5年前後ということです。非常にデリケートな動物で、ストレスに弱く飼育が困難でしたが、関係者の長年の飼育研究で人工的な繁殖もできるようになりました。

 古来ニホンカモシカは、重要なタンパク源として狩猟の対象でしたが、乱獲によって絶滅しそうになり天然記念物に指定されて保護され増えました。逆に今度は増えすぎて林業などに重大な損害を与えるようになり、捕獲や射殺が行われています。野生動物の人工的な保護管理は、非常に困難な命題で、ニホンジカやニホンザル、月の輪熊などと同様に色々な意味で危機的な状況にあることには変わりないのです。

★このトレッキングは、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】にアップしました。ご高覧ください。
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謙信戦勝祈願の武水別神社へ(妻女山里山通信)

2009-01-16 | 歴史・地理・雑学
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 新年好日、千曲市の、地元では八幡のおはちまんさんと親しまれている武水別神社(たけみずわけじんじゃ)に参拝しました。『日本三代実録』には、清和天皇の貞観8年に信濃國 無位 武水別神に從二位を授けると記されています。後の養和1年(1181)6月、木曽義仲が越後の城資職(じょうのすけもち)を討伐するため、平家軍の偵察を楯親忠(たてちかただ)に命じました。親忠は25日、八幡社を参拝し、「南無八幡大菩薩、我が君の先祖が崇める霊神、願わくば、木曾殿の今度の戦に勝事を得しめ給へ」と祈願しています(『源平盛衰記』横田河原の戦い)。

 さらに後の弘治3年(1557)1月20日、越後の長尾景虎(上杉謙信)は、八幡宮に祈願して、「武田晴信と号する侫臣(ねいしん・悪人)がおり、信州に乱入して、信州の武士をことごとく滅亡させ、神社仏閣をも破壊し、民の苦しみは幾年も続いています。信濃を助け、国を守るために私は戦います。」(『古代古案』)と、願文を献じて必勝祈願をしました。さらに、永禄7年(1564)の塩崎の対陣では、8月1日、八幡宮に長い願文を納めて、信玄の滅亡を祈っています。「武田晴信が父を追放したのは、鳥獣にも劣る悪行です。また戸隠・飯縄・小菅・善光寺らの神領、寺領をとりあげ、社寺を衰えさせ、人民を苦しめました。」(『上杉年譜』)と述べ、自分が信濃に兵を出すのは決して信濃が欲しいからではなく、小笠原・村上など、信濃諸士の憤りを晴らすためと強調しています。

 もっとも、信玄も神仏を信仰する人であったため、当時勢力下にあった八幡宮に戦勝祈願の願文を献じていたはずです。あちこちから祈願されて、さぞや神様も困ったことでしょう。心がふたつに割れてしまうのは、人間だけではないのかもしれません。

 参拝後は、精進落としを兼ねて稲荷山の老舗『つる忠』へ。盛り蕎麦をいただきました。その後、姥捨山上にある国道403号線の信玄が第四次川中島合戦の時に茶臼山布陣の際に越えたという伝説の猿ケ馬場峠手前の展望台から善光寺平の大展望を堪能しました。眼下は田毎の月で有名な姥捨の棚田。

 さらに下には更級、埴科の里と千曲川の流れ。有明山から五里ケ峰の奥には、安藤(歌川)広重が江戸時代後期に描いた浮世絵『信濃 更科田毎月 鏡台山』で有名な鏡台山と、百名山のひとつ、四阿山。鏡台山からは左手に、武田別働隊が越えたという伝説の戸神山脈が続き、その先端には上杉謙信が本陣としたという伝説のある斎場山がそびえています。そして、その左手に広がる広大な善光寺平。どの季節に来ても雄大なパノラマが堪能できますが、特に空気の澄み切った冬は、遠望がきくのでおすすめです。この日は、志賀高原の草津白根山はもちろん、なんと新潟の苗場山まで見えていました。

 この大パノラマ写真は、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】の大峯山の最後でご覧いただけます。

 川中島合戦と古代科野の国の重要な史蹟としての斎場山については、私の研究ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をご覧ください。
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城跡新発見!? 県山から大峯山へのバリエーションルート

2009-01-12 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 信州らしい厳寒の朝、陽射しが出始めてゆるゆると空気が溶け始めたころに、そそくさと支度をして出かけました。目指すは、新年に息子達と登った鷲尾城跡と倉科将軍塚古墳のある北山から南に見えた大峯山。千曲市森の信濃三十三番札所第六番の観龍寺から登る登山道があるらしいのですが、どうにも鷲尾城から見た尾根が気になって仕方がありませんでした。

 千曲市在住の叔父が上程した『岡地探訪 乙路の県 天満大自在天神とその周辺』という本によると、この倉科と森の境にある山を県山(あがたやま)というと書かれています。今回は久しぶりのバリエーションルート。地形図を頭にたたき込んで心して出発しました。

 まずは、雨宮のコンビニで昼食のおにぎりとキャンデーを購入。途中の雨宮田圃の真ん中から、今回のルートの画像を頭に焼き付けました。ピークやコブの形状と数、植生を頭に入れておくのです。右が植林帯の境を登っていくとか、左に植林帯が見えたら頂上は近いとか、イメージトレーニングをしておくのです。それと帰りの尾根や、間違えやすい箇所も想像しておきます。

 登り口は、県山の先端に石垣で作られた小さな公園があり、車一、二台の駐車スペースがあったので、そこを出発点としました。あとは尾根に向かってがしがしと登るのみ。その尾根上で、古い倉科村誌や更埴市誌にも載っていない城跡らしきものを発見しました。本郭の跡らしき平坦なピークとその後ろのふたつの堀切。どう見ても城跡とした思えません。記録がないか後日千曲市に問い合わせてみようと思います。(後日千曲市教育委員会文化財箇に問い合わせたところ、平成10年頃に発見され、県山城跡と名付けられたということです。)

 大峯山への急登は、ニホンカモシカ君との遭遇の後で始まりましたが、これが登山というよりは難行苦行の修行のような山登り。枯葉に積もった雪で滑る急斜面を、立木を頼りにほぼ四つん這いで登るような有様でした。気を緩めると百メートルぐらいは滑落しそうです。立木に激突して昇天でしょう。しかし、こんな山でも木落の沢が何本かあり、信じられないような急斜面で昔は山仕事をしていたのだと驚かされました。

 やっとの思いで着いた山頂は檜林の中、気温は零下。汗だくのTシャツを着替え、昼食もそこそこに下山。息子にメールしようとすると、携帯が凍ってしまったのか動きが鈍い。やっと発信できると息子から返事。やった新発見だね!って気が早い。ところが登山道があるという帰りの尾根が見つけられずにルートを変更。これは正解でした。赤松林を転げるように駆け下り、着いたところが信濃三十三番札所第六番の観龍寺。

 裏山の四阿で森の展望を楽しんだ後で由緒ある寺をゆっくりと参拝。無人ですがなにやら俳句の寺とかで、歌碑がたくさん。鑑賞しながら遠い想いに耽りました。とりあえず林風(りんぷう)なる俳号を勝手に名乗っている私ですが、急登で凍り付いた頭からは、陳句ひとつ出てきませんでした。

★このトレッキングは、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】の2009年版ににアップしました。ご高覧ください。こちらは同年2月に倉科の三滝から登ったルポです

 ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、特殊な技法で作るパノラマ写真など。
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神話と戦と祈りの山、松城町東条の尼厳山へ(妻女山里山通信)

2009-01-09 | 歴史・地理・雑学
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 前日親友N氏から、尼厳山の登山道整備に関わっている話を聞き、急に登ってみたくなりました。尼厳山は、旧字では尼巖山・尼巌山、別名では、尼飾山・雨飾山とも書くそうです。標高は780.9m。頂上には尼厳城跡があります。尼厳城は、雨飾城・東条城ともいい、村上義清に属する東条氏が造った詰めの城といわれています。

 尼厳城は、北の支尾根に谷街道の要所、可候(そろべく)峠を持ち、北には真田へ抜ける地蔵峠があり、松代の防御の要の詰城であったと思われます。第四次川中島合戦に至る8年前、村上義清が越後に逃れた直後の天文22年(1553)8月、武田晴信は真田幸隆に尼厳城攻略を督促しています。城主東条遠江守信広は、真田幸隆の攻略に敗れ越後に逃れます。加賀井にはその時に東条氏達が泣きながら駆け下ったという泣き坂という伝説の地名が残ります。

 落城後、武田晴信は、西条治部少輔に城の普請を行わせ、永禄元年(1558)4月の越後軍進攻の際に、「東条籠城衆」として真田幸隆と小山田備中守昌行をあてています。武田氏滅亡後、天正10年(1582)に上杉景勝が川中島周辺を征圧すると、東条氏が城主に復帰しますが、慶長3年(1598)豊臣秀吉の命により景勝の会津移封によって北信濃の武士達は、妻子を連れて会津に移ったため廃城となったといわれています。

 また、手力男命が天の岩戸をあけた際、二度と閉じられないよう岩戸を隠してしまおうと、 隠し場所を探していてひと休みした場所が尼厳山であり、岩戸を隠したところが戸隠であるという神話の山でもあります。城跡ばかりが有名ですが、周辺には古墳がたくさんあります。また、至る所でお地蔵さんが迎えてくれる信仰の山でもあります。

 低山ですが岩頭からのバーズアイビューが素晴らしく、人気の山のようです。登山コースもいくつもあるようですが、今回は玉依比売命神社から天王山の尾根に乗り頂上へ、帰路は奇妙山へ続く鞍部に下り、岩沢集落へ下りて神社に戻るコースを選びました。比高420mほどの低山ですが、急登や岩場もあり、なかなか侮れない魅力的な山で、他の季節にもぜひ訪れてみたいと思いました。

 なんといってもそそり立つ岸壁の上からのバーズアイビューが見事。うららかな畳一枚ほどの広さもない岩頭の上で30分近くも過ごしてしまいました。頂上も、落葉しているため360度そこそこの展望があり、ここでも昼食を食べながら30分ものんびりとしてしまいました。

 写真は岩頭上からの眺め。眼下に延びる尾根が天王山で、左の先に登山口の玉依比売命神社があり、道路脇に数台駐車スペースがあります。

★このトレッキングは、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】にアップしました。ご高覧ください。
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親友N氏と登る鷲尾城跡と倉科将軍塚古墳(妻女山里山通信)

2009-01-07 | 歴史・地理・雑学
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 山でも歩くかということで、どこかいいとこない?と言われて思いついたのが新年5日に息子達と登った倉科尾根の鷲尾城跡と倉科将軍塚古墳でした。時間は午後2時近くでしたが、倉科将軍塚古墳ぐらいならいいだろうと、登ることにしました。急登をハアハアゼイゼイ20分も登ると鷲尾城跡です。前回一人の時は13分で登りましたが。今回はちょっと気温が高め。

 本郭の高い石積みの城壁は他に類を見ないほどの堅個さといわれており特異な城跡といわれていますが、倉科の畑の土止めの石垣が全く同じ石であるところを見ると、ただ単に地の石をふんだんに使っただけという気がしないでもありません。倉科氏の築城といわれますが、詳細は不明です。

 ここで、鹿島槍ヶ岳の絶景に見とれていたN氏が突然ヨウシュヤマゴボウの実を口へ。あっ毒だよそれ!と言ったのですが、少し甘いぞと言いながらペッと吐き出しました。実はヨウシュヤマゴボウの根には毒があるのですが、実は無毒といわれています。染色に使ったりするようですが、山でこの実を服につけると洗濯しても落ちないので困りものなんです。

 次に堀切をふたつ超えて倉科将軍塚古墳。埴科古墳群として国指定史蹟です。前回息子達と行ったのはここまででした。N氏は古墳背後の深さ10m以上ある堀切を超えさらに登り始めました。そこで、倉科尾根を詰めて天城山から唐崎城跡へ回って生萱経由で車に戻るコースと、天城山から二本松峠経由で北ノ沢を倉科の竹尾(嶽尾)へ下るコースを思いつきました。前者は登ったことがあるので、今回は後者にすることに。これなら日没前には下山できるでしょう。

 倉科尾根を登って赤松林の北山を超え、猪の泥場や熊の糞らしきものを見ながら天城山へ。坂山古墳を見てから反対側の清野と松代のパノラマをN氏に見せて二本松峠から下山。N氏も、なかなかいい尾根だと絶賛。二本松峠からは私も初めての道です。清野の人には倉科坂と呼ばれたこの峠道は、戦前までは重要な交通路でした。わが家の先祖の娘が清野と倉科にそれぞれ嫁いで、二本松峠を越えて頻繁に行き来していたと伝わっています。

 倉科の里に下りたころには、冠着山(姥捨山)の向こうに陽が落ちていくところでした。万葉の里倉科は、「人皆の言は絶ゆとも埴科の石井の手児が言な絶えそね」(世の中のすべての人の言い伝えが忘れられても「埴科の石井」にいる美しい乙女の言い伝えはどうか絶やさないでほしいの意。 )と詠われたところ。また、隣の森と共に杏の里でもあり、春の杏の花はそれは美しいものです。残念ながら美しい乙女にはすれ違えませんでしたが、夕日を浴びながら車に戻ったのでした。

鷲尾城跡と倉科将軍塚古墳のトレッキングのフォトレポは、MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)をご覧ください。
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言葉にならぬ想い(妻女山里山通信)

2009-01-07 | 歴史・地理・雑学
目覚めると一面の銀世界。破壊された山塊は、古代科野の国の大王の墓ともいわれる森将軍塚古墳のある大穴山の東面。歴史の重さも分からぬ愚か者が、採石して四基の古墳もろとも破壊してしまった痕跡。そこを通るのは、上信越自動車道。斎場山をぶちぬき妻女山(赤坂山)を削り、上杉謙信、上杉景勝の故郷へと向かう。重すぎる十字架を背負わせてしまったかなと思う。理不尽な宿命だとも思う。南は、謙信が雑兵を食わせるために冬が近づくと攻め込んだ関東平野。それこそいくつもの長いトンネルを抜けないと辿り着くことはできない。きっと再び春が来ることを信じて君が後ろ姿を見送る。「母子草大人子供之母一人目覚朝之白雪之祈」詠人不知
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川柳将軍塚古墳から斎場山と妻女山を望む(妻女山里山通信)

2009-01-04 | 歴史・地理・雑学
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 新年初の史跡巡りは、国指定史蹟の川柳将軍塚古墳と姫塚古墳へ。長野市の茶臼山の南、石川の山腹にあるこの前方後円墳は、森将軍塚古墳、土口将軍塚古墳、倉科将軍塚古墳などと並んで古代信濃の国の重要な史蹟です。全長91m、後円部直径42m、高さ8.4mで、四世紀前後後築造といわれています。さらにこの古墳の上部には、姫塚古墳という川柳将軍塚古墳より古いとされる前方後方墳もあります。これらの古墳の下にある四阿からは、善光寺平(川中島)と前記の古墳が一望できます。

 また、1561(永禄4)年、上杉謙信と武田信玄による第四次川中島合戦の舞台、上杉謙信が本陣としたといわれる斎場山や、後に上杉景勝、直江兼続が陣取ったと伝わる妻女山(赤坂山)がよく見えます。また、武田別働隊が越えたといわれる鏡台山から延びる戸神山脈や斎場山後背の天城山、謙信が陣城を築いたと伝わる陣場平なども見えます。

 戦場となった川中島には、戦争目当ての武器商人や娼婦も集まり、奴隷市場まで開かれたといいます。乱取りの際には、火を放ち、略奪し、女子供を誘拐して売り飛ばしたと記されています。この美しい風景からは、そんな悲惨な過去の光景は想像することもできませんが、惨劇は確かにあったのです。善光寺大地震、戌の満水と悲劇は続きましたが、その度に先人達は雑草のように萌えあがりこの信濃の国を作り上げてきました。

 お雑煮もいいのですが、ここは写真に写っている地域、信州でも埴科と更級という古代科野の国といわれる地域でのみ供される辛味大根の絞り汁に味噌をといてつゆとしていただく「おしぼりうどん」でも食べながら息子達と歴史談議でもしようかと思います。

 川中島合戦と古代科野の国の重要な史蹟としての斎場山については、私の研究ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をご覧ください。

 この川柳将軍塚古墳巡りは、MORI MORI KIDSでいずれアップします。写真にある赤坂山(妻女山)から鞍骨山(鞍掛山)へのトレッキング・フォトドキュメントは、「鞍骨城トレッキングルポ」をご覧ください。上杉景勝と直江兼続が見たかも知れない壮大な風景がご覧いただけます。また、現在年末の鞍骨山トレッキングルポを制作中です。

 新信州郷土料理は、MORI MORI RECIPE(モリモリ レシピ)をご覧ください。山菜・キノコ料理、内臓料理、ブラジル料理、エスニック、中華の込み入った料理などの「男の料理レシピ集」です。特に本格的なアンチョビーの作り方を載せているのは、当サイトだけだと思います。手作りオイルサーディン、手作りベーコンもお薦めです。
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直江兼続も登った赤坂山と上杉謙信鞍掛の松がある会津比売神社へ初詣(妻女山里山通信)

2009-01-01 | 歴史・地理・雑学
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 初詣は、信濃国造(しなののくにのみやつこ)であった、神八井耳命(かむやいみみのみこと)の後裔といわれる建五百建命(たけいおたつのみこと)の室(妻)とも伝わる会津比売命が祀られた上杉謙信鞍掛の松がある会津比売神社と、戊辰戦争以降の戦没者を祀った妻女山松代招魂社へ。会津比売神社は、清和天皇の御代(859年)に従四位下を賜った由緒ある古い神社です。里俗伝によると、川中島合戦の折りに、謙信の庇護を受けていたために信玄によって山上の社が焼かれ、後に麓に小さく再建されたとあります。

 会津比売神社は、詣でる人も多いのですが、妻女山松代招魂社は、さすがにわが家だけ。現在は、ここを妻女山といっていますが、小字が妻女山で、本来の地名は赤坂山です。ここは夕日の名所ですが、真っ暗で林道も凍結しているため、行く人もいないようです。妻女山展望台からは、川中島の夜景が一望できます。また、斎場山(本来の妻女山513m)の上、満天の星空には、オリオン座、北斗七星、カシオペア座、牡牛座、北極星が輝いていました。

 ブラックホールに飲み込まれたような現在の世界状況ですが、光明は、出口はあるのでしょうか。トラウマに憑かれた人を救う術はあるのでしょうか。感度を高くすると、暗闇の中にも希望の光は見えるような気がするのですが。星雲の彼方から飛んでくるニュートリノが体を突き抜けても、我々は何も感じません。それを知る術は深層心理と神の世界までおりていく勇気と、想像力と創造力なのかもしれません。森の中にひとりで行く勇気。私が以前何度か旅をしたアマゾンでは、森から帰ってきた人の目は輝いているといいます。
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