モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

氈鹿(カモシカ)も貝母もビックリの春雪(妻女山里山通信)

2010-03-30 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 日本氈鹿(ニホンカモシカ)も新芽が出てきたので、食糧の乏しい真冬に比べると心なしかゆとりがあるような振る舞いです。その昔、薬草園だった場所の貝母(バイモ)も蕾がずいぶんと膨らんできました。4月の上旬には咲き始めると思います。以前「俯いて 知らぬ間に消ゆ 貝母哉」と詠いましたが、蕾の状態の時は真上を向いています。これが開花すると俯いてしまうのです。そして開花後は、跡形もなく地上から消えてしまうというスプリング・エフェメラル(春の儚い命)なのです。

 林道沿いには木五倍子(キブシ)が鈴生りに咲き始めました。江戸時代には、タンニンを含む果実がおはぐろ用の五倍子(フシ)の代用として使われました。接骨木(ニワトコ)の新芽も大きく開いています。まもなくオレンジ色のニワトコフクレアブラムシが大発生するでしょう。新芽は山菜ですが、食べ過ぎると当たります。招魂社裏手の梅林も満開になりました。

 先日、陣場平に行った折りに、林道ではなく私が作った東側の道から登ってきたハイカーがいました。昨年は12月末に熊の足跡がありましたし、猪や羚羊も頻繁に現れます。こんな陣場平の奥へ来る人は、私とK氏と蕗を取りに来る東福寺の女性の三人だけのはず。道に迷ったのかしらと話しかけました。するとこの山域をよく歩かれている方と分かりました。しかも、数日前には知人のK氏のログハウスに立ち寄り、ちょうど居合わせた里山に自製の標識を立てておられるM氏とも、この辺りの山の話をされたとか。驚きました。

 よくよくお話を伺うと信州山岳会の会長のIさんと分かりました。私もよく拝見して参考にさせていただいているサイトです。すると私のMORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)をよく見ていただいているとおっしゃるのです。実に光栄なことです。山が取り持つ出合いというのは、実に不思議だなと思うことがあります。前述のM氏との出合いもこの山中でした。こんなヤブ山の外れで偶然に出会うのですから奇跡というしかありません。山の神は洒落たことをしてくださるものだと思わずにはいられません。大切にしたいご縁です。

 Iさんには、陣場平の片隅にある、まだ誰にも紹介していない積石塚古墳をお教えしました。ここ陣場平は川中島合戦の折りに上杉謙信が陣小屋を七棟建てたと伝わる高原の平地で、その一角にその古墳がひとつだけあるのです。陣小屋が史実だとすると、他の古墳は全て壊されたのかもしれません。その後は畑地になりましたから、現存するのは本当にこの一基だけ。しかも荒れた林と藪に埋もれたため地元でも知る人はいないと思います。この間も強風で高さ15mほどのカラマツが轟音と共に倒れました。そんな所です。

 陣場平は、薬草畑と養蚕の盛んな頃は桑畑でしたが、現在は夏になるとバラが繁茂し酷い藪になるので入れません。それでも見通しの良い冬枯れの季節に来て、ここに兵共(つわものども)が闊歩していたのだと想像すると、毘沙門天の旗のたなびく音が聞こえてくるような気がします。陣場平について、詳しくは、上杉謙信斎場山布陣図をご覧下さい。また七つ前のブログ記事『上杉謙信布陣の斎場山と陣場平「今昔物語」』も合わせてお読み下さい。

 里山も春ですねえと思っていたら、突然の雪景色。真冬に戻ってしまいました。エルニーニョのせいでしょうか。昨年の夏から異常な天候が続きます。なにか異変が起きなければいいのですが…。

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、地衣類、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、森の動物、特殊な技法で作るパノラマ写真など。ニホンカモシカの写真も[野生動物]にたくさんあります。

★陣場平は、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】にいくつもルポがあります。
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村上義清の葛尾城跡から五里ケ峯、新発見?の勘助道踏破!(妻女山里山通信)

2010-03-29 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 三連休の最終日、息子達と村上義清と鉄とテクノの町・坂城町へ。坂城神社から葛尾城跡経由で五里ケ峯(五里ケ峰)へ登りました。初めは遠足気分の山歩きぐらいのつもりでしたが、前夜に降った雪の急斜面を滑りながら下りて勘助道に辿り着くと、笹平方面の植林地が大きく伐採されており、なんとその先に微かに勘助道が続いていることが分かったのです。

 勘助道(勘助横手)については、09年10月12日の私のルポで紹介しましたが、西は主稜線で、東はひとつめの谷で消滅し、現存するのは200m足らずと記していました。ところが今回、東の谷が伐採されたために消滅したと思っていた勘助道の続きが顕わになったのです。沢山の谷を見下ろす勘助道は、伐採されて大きな谷の姿が一望できるようになり、木霊(こだま)の発する(実は次男の声ですが)山彦も寥亮と響き渡るほどでした。
 五里ケ峯は、旧森村では寥亮(りょうりょう)山と呼ばれました(埴科郡誌より)。寥亮とは、声や音が澄んだ音色で響き渡る様で、寥戻(りょうれい)ともいいます。その山名の由来が納得できる風景でした。

 主稜線の標識が立っている尾根からすると道幅はかなり狭くなり、いわゆる獣道と変わりませんが、尾根を巻くところなどに幅広い往時の姿が残っています。伐採されなければ薄暗い植林地の中でバラが繁茂しているため、とても通れなかったでしょう。伐採されたことで初めて辿ることができたわけです。しかし、道はかなりの急斜面にあり、滑落したら50m以上は落ちてしまう危険な場所もあります。また、伐採後の灌木の切り株がたくさんあり、その上当日は積雪もあってトラバースは難儀しました。

 勘助道は、林道大洞線の上をほぼ平行に笹平方面へ向かっていました。そして伐採地から自然林に入り、尾根を大きく回り込んだ先の谷で完全に消滅していました。そこは、林道大洞線の上の10m余りの崖上だったため、最後は谷を回り込んで転がり落ちるようにして林道に出ました。その先は、急傾斜の植林地のため消滅したか、林道大洞線の建設と共に消滅したのかもしれません。結局、勘助道は約1000mほど残っているということが分かりました。

 帰りは笹平まで出るのは距離があるので林道を歩いて1024mから北に延びる尾根の先端にとりつき、別の伐採地を直登して笹平から五里ケ峯への尾根道に出ました。勘助道は北側で積雪もあり冷えて持病の腰痛が出て難儀しましたが、最後までその痕跡を辿ることができたことで満足感が得られました。

 勘助道は、武田軍が難攻不落といわれた村上義清の葛尾城を背後から攻略するために、山本勘助が造らせたという軍道です。伝説上のものであり史実とは証明できませんが、深山に残る道の痕跡はいわゆる峠越えの山道(街道)を作るような場所ではないので確かに不可解です。山仕事の作業道は、基本的に自分の土地にしか作らないし、上下に枝道がたくさんあるはずです。このように隠れるように山腹をほぼ水平に長く続く道は、なにか別の目的で作られた可能性が高いと思うのです。

 勘助道は、五里ケ峯山脈(五一山脈)から葛尾城に向かって五里ケ峯の西面をトラバースしていたのかもしれません。葛尾城跡上の曲松辺りに出るはずです。ひょっとしたら西側にも痕跡が残っているかも。また今回辿った先は笹平へ続き、森村や鏡台山を越えて西条から海津城へと続いていたのかもしれません。西条から坂城へ抜ける道は、猿飛越と呼ばれた古道です。それに通じていたのかもしれません。

 五里ケ峯へ再び登って昼にしたあと、帰りは葛尾城跡から姫城方面へ向かい、分岐を飯縄岩稜の下に下りてフリークライミングの真似事(ボルダリング)を楽しみました。上田方面から車で走ってくると正面に見える葛尾城跡の中腹に大きな岩稜線が見えますが、それが飯縄山岩稜です。坂城市街や千曲川が真下に見え、鳶が下で円を描くほど高く眺めは最高です。

★このトレッキングは、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】の「葛尾城跡・五里ケ峯・勘助道」に掲載してあります。本邦初公開の「勘助道」の貴重な全貌をご覧下さい!




★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、地衣類、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、森の動物、特殊な技法で作るパノラマ写真など。
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皆神山探訪記(妻女山里山通信)

2010-03-28 | 歴史・地理・雑学
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 松代へ所用の折に息子達と皆神山(みなかみやま)を訪ねてみました。小学校の遠足以来か中学生の時に一度登ったかぐらいで、いつも見ているのですがとんとご無沙汰でした。松代や篠ノ井方面から見るときれいなプリン型なのでプリン山とかお尻山とかいわれるのですが、東条の岩沢地区や奇妙山方面から見ると横に長く豪州のエアーズロックのようです。まず皆神神社に参拝しました。

 皆神山は、長野県長野市松代にある、標高659メートルの30~35万年前にできた安山岩質の溶岩ドームです。そして、1965年(昭和40年)8月3日から約5年半もの間続いた、世界的にも稀な長期間にわたる松代群発地震の震源地のほぼ中心でした。有感地震は6万2826回、あまりに長期に渡ったためノイローゼになる住民も出たほどです。幸い死者は出ませんでしたが、怪我人や家屋の倒壊はありました。私は当時小中学生でしたが、同じ世代の地元の子供達は多感な時期でもあったためなんらかの強い精神的影響を受けただろうと思います。そのためか私は今でも地震対策にはかなり気を遣う習慣がついています。

 私自身も目撃しましたが、地震時の宏観現象として皆神山や妻女山などの発光現象があり、大きな話題になりました。このような目撃例は安政の大地震など古くから目撃例があり、岩盤の崩壊による放電が原因のようで特に珍しいことではないようです。また、この群発地震で山は1m高くなったということです。

 皆神山付近には低重力域があり、地下には、縦800m、横1500m、高さ200mのマグマ溜りが起源と考えられる空洞があって、地下に巨大な貯水池があると推定されています。皆神山溶岩は150m程度の厚さがあることが確認されていて、その下に湖水堆積物が見つかっています。また、山頂には川の跡の河床礫が見られます。つまり溶岩がまだ地上に出る前は、ここは池や川があったということです。皆神山を形成した溶岩は極めて粘性が強く噴火したり流れ出したりせずに、そのままプリン状に固まったと考えられています。

 ノイローゼ患者が出るほど長期に渡った松代群発地震は、最終的に大量の深層地下水湧出という事態になり、火山性群発地震という当初の想定が、水噴火群発地震であったとの考えに変わりました。しかし、最新の学説では地殻の継続的な変形による応力速度の上昇によって説明できることが分かったということです。興味のある方は、こちら産能研の「群発地震発生のメカニズムを解明」をお読み下さい。

 私は全く興味がありませんが、山頂にはある宗教団体が唱えたピラミッド伝説の看板があります。たいていの観光客は笑い飛ばして通り過ぎていくだけですが、中には遠方からわざわざ訪れるオカルトマニアもいるようです。もちろん皆神山はピラミッドではありません。むしろ放置されて荒れ放題になった里山であることの方が、私は心配です。小丸山古墳(円墳)の近くで出会った地元の方もそう言っていました。

 皆神山には、その小丸山古墳と岩戸神社とされている古墳があります。山の東南の麓には古墳時代後期(6世紀)の築造とされる積石塚の円墳・桑根井空塚があります。大室古墳群や東条地区の竹原笹塚古墳、菅間王塚古墳、千曲市土口の堂平古墳群などと同様に朝鮮半島の渡来人との関係がある遺跡として注目されています。また、皆神神社は、熊野出速雄命(くまのいずはやおのみこと)が祭神で、熊野出速雄神社ともいいます。(本殿は室町時代のもので長野県指定県宝)熊野出速雄命は、諏訪社の祭神・建御名方富命(たけみなかたのみこと)の子で、貞観二年に信濃国従五位上の位を授かっており、斎場山(旧妻女山)の麓にある會津比賣神社の祭神・會津比賣命(あいづひめのみこと)が御子ともいわれています。

 その小丸山古墳の近くでもうすぐ皆神山登山五百回という地元の方と出会ったのですが、話の最中に低くこもった太鼓を叩くような音がすぐ近くの谷から聞こえたのです。その音は以前千曲市の天城山(てしろやま)や関東の山でも聞いたことがあり、なんだろうと不思議に思っていました。啄木鳥のドラミングよりずっと低いこもった音でトントントントンと素早く四回鳴ります。その時、息子達はうり坊(猪の子)らしきものが上方を通り過ぎたと言うのです。猪の威嚇音でしょうか。地方によっては「山神楽」とか「天狗の太鼓」、はたまた「狸囃子」とか「狸の腹鼓」とかいうらいいのですが…。本当はなんなのでしょう。息子達と「なんだろうね」と言いながら山を後にしました。

 とある日のこと、妻女山奥で同じその音を耳にしました。その前に雉か山鳥の地面に舞い降りる音とケーンという鳴き声がしました。もしやと思い、そおっと木の陰から近づいて覗くと山鳥の雄が歩いています。そして、やにわにドドドドッというあの音をたてました。羽を閉じたまま素早く体に打ち付けたのです。向こうにニホンカモシカがいたので威嚇かと思いましたが、帰って調べると「ほろ打ち」といって雌へのデモンストレーションでした。

「雉も鳴かずば撃たれまい」といいますが、これでは簡単に居場所が分かってしまいます。雉や山鳥は、普段は倒木の枝が折り重なった下にいることが多く、側を通った時にいきなり飛び出して驚かされることがあります。また、卵や雛がいる巣の近くに急人が来た時などは自傷行為として傷ついた振りをして地面を走り回ることがあります。なかなかの役者です。
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白梅薫る見返りの塔ふたたび:国宝大法寺三重塔(妻女山里山通信)

2010-03-24 | 歴史・地理・雑学
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 一月に訪れた国宝大法寺三重塔へ、息子達を連れて行きました。ちょうど裏山の梅園が満開で、枯れた佇まいの三重塔とは好対照。梅の花越しに見る三重塔は、また格別でした。裳階がないため、非常に軽快で安定感があり美しい塔です。

 今回は住職がおられたので、前回疑問に思ったことを訊ねてみました。ひとつは初層にある額の文字です。聞くと「照庭」と書かれていると分かりました。「庭を照らす」という意味ですね。大法寺は天台宗ですから、「照庭」にも深い意味があるのでしょう。「我々は仏の子であり、皆仏の庭で遊んでいる。その庭を照らしているのが仏の慈悲である」というようなことなのでしょうか。この額は後世にかけられたものの様です。

 もうひとつは、肘木に残っている丹塗(にぬり)・弁柄(べんがら、オランダ語:Bengala)の赤い顔料と垂木の間に見える白い胡粉について。これは創建当時のもので、その後は塗り替えられていないとのこと。つまり創建当時、この三重塔は現在のような枯れた木肌の色ではなく、白い胡粉は地塗りの色で、三重塔は朱色の艶やかなものだったということです。それは誰もが思わず振り返らずにはいられない美しさだったと思われます。

 最後は檜皮葺(ひわだぶき)の屋根について。これもそんなに持つわけがないだろうと思っていたのですが、訊ねると約三十年に一回葺き替えているとのことです。そろそろ葺き替えの時期だということです。

 塔は、大正9年の解体修理の際に発見された墨書により、鎌倉時代滅亡の年である1333年(正慶二年)に建立されたことが分かっています。三重塔は、塩田北条氏の栄華の象徴として、この山に燦然と輝いていたのでしょう。しかし、建立と同時に北条氏は鎌倉にて滅亡しました。その後、室町時代を経て戦国の世になり、この地でも上田ケ原の合戦など、幾多の戦いが繰り広げられたわけですが、兵火に落ちることもなく里人の手により篤く守られて今に至ると住職は言っておられました。それは、ひとつの奇跡と言っていいでしょう。

 境内の枝垂れ桜の蕾も例年になく早めに膨らんでいるようです。いにしえの里人の祈りを想いながら、桜吹雪の中での古刹巡りもおすすめです。

★この古刹探訪は、【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】の国宝大法寺三重塔にアップしてあります。また、今回のフォトは、そのルポの後に附録でつける予定です。
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万葉の里・倉科の節分草と三滝春景(妻女山里山通信)

2010-03-21 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 千曲市倉科の杉山にあるセツブンソウ(節分草)が満開というので、帰省中の息子達と訪れました。セツブンソウはキンポウゲ科セツブンソウ属で、本州の関東地方以西に分布する高さ10センチほどの小さな多年生草本。花の直径は約2センチ。花びらに見えるのは萼です。先が黄色く見えるのが退化して蜜腺になった花びらです。

 早春に咲き、2、3ヵ月でその年の生活サイクルを終え消えてしまう植物は、スプリング・エフェメラル(Spring Ephemeral、春の妖精、春のはかない命)と呼ばれます。セツブンソウの種は、黄色い蜜と一緒にアリが巣に運んで発芽する虫媒花です。種子から開花まで3年以上かかるわけですから、林床の環境が良い状態で続かないと生育できないわけです。昔は雑木林に入って草刈りをしたので、明るい林床にセツブンソウがたくさん咲いたのだとか。カタクリと同様、人の暮らしと密接な関係にある植物だったのです。ですから、自生地の環境が破壊されると真っ先に消える植物です。(絶滅危惧植物II類)

 倉科のセツブンソウは、地元の方が手入れをして増やしたものです。訪れたときもボランティアのおじさんがいて色々話をしてくれました。今年はニホンカモシカ、イノシシが地中の虫を食べるために林床を掘り起こしたりして荒れてしまったそうです。また、下部の方はなぜか花が咲いていませんでした。非常にデリケートな植物のようです。場所は書けませんが、この山域には保護地以外にもセツブンソウの咲く場所が人知れずあります。

 帰りには、三滝に立ち寄りました。鏡台山を水源とする三滝(みたき)は、一の滝(上段)・二の滝(中段)・三の滝(下段)で構成され、延長20m。848mの周回遊歩道があります。ファミリー向けとなっていますが、高度差があり転落防止の柵もないので、幼児や老人は要注意です。また、単独や少人数のときは、冬季以外熊鈴必携です。今春は、雪解けの水に多雨も伴って水量が豊富でした。

「三瀧川は倉科村の三瀧山船ケ入に発源し御姫山より発する草山沢を合わせ倉科村を流るること一里三町にして沢山川に合す 三瀧一の瀧二の瀧三の瀧三階瀑布あり又南沢に樽瀧あり」(埴科郡誌)

「三瀧山岩の苔間に住ながら思ひくらせし瀧の水かな」(西行法師)
 此歌里俗の口碑にして、確乎たらず。(倉科村誌)

 三滝は、厳冬期には氷結します。この冬は氷結しました。その様子は【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】の「三滝氷結ルポ」をご覧下さい。

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30年後に収穫か?コフキサルノコシカケ(妻女山里山通信)

2010-03-19 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 昨秋の9月に採ったわが家の山のコフキサルノコシカケ(写真下)は、最大幅28cm、厚さ10cmもありました。今回その切り株に新しいコフキサルノコシカケが発生しているのを発見しました。半年で大きさはわずかに2センチ。触ると非常に固いことが分かります。これが30センチになるには、いったい何年かかるのでしょうか。少なくとも20~30年はかかるのではないでしょうか。

 このコフキサルノコシカケは、国立がんセンターの研究でも、がん細胞の増殖阻止率が非常に高いことが証明されています。非常に固いキノコで、樹木にしっかりと付いているため、30センチぐらいだと猿どころか人も腰掛けられるほどです。採取にはノミとカナヅチが必要です。

 コフキサルノコシカケは、サルノコシカケ科ではなくマンネンタケ科です。そのマンネンタケも幻のキノコといわれていますが、私が知っているシロでは毎年たくさん出ます。これも細かく粉砕して煮出してキノコ茶として飲用したり、薬膳鍋として出汁に加えたり、焼酎漬けにしたりして利用します。

 ダンコウバイに続いてミヤマウグイスカグラ(深山鶯神楽)の小さな桃色の花が咲き始めました。梅雨時になる赤い実は透明感があり森の宝石のようです。ナツグミと違って果実には渋みがなく甘いのですが、いかんせん実が小さいのが欠点。多くは鳥や昆虫のえさになるのでしょう。

 鶯神楽の名前は、ウグイスが実をついばんでいる様が神楽を踊っているようだとか、ウグイスが鳴く頃に咲くからとか、語源は鶯隠(ウグイスガクレ)で、ウグイスが隠れるのに調度よい枝の茂り具合だとか、スイカズラ科で鶯葛(ウグイスカズラ)からきているとか、実をついばみに来た鶯を鳥もちや網で捕獲しやすい狩座だからとか、諸説あるようです。

 花期は比較的長く、真冬でも暖かい日が続くと数輪咲いたり、三月に咲き始めて五月頃まで咲いています。妻女山辺りにあるのは深山鶯神楽で、花や葉、枝、実に細かい毛があります。写真は妻女山ではなく茶臼山のものですが、北信濃では深山鶯神楽が見られるようです。1センチ余りの小さな花ですが、初冬や早春に桃色の樹の花は珍しいのでよく目立ち、心和む花です。

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謙信の陣場平にダンコウバイが咲きました(妻女山里山通信)

2010-03-17 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 壇香梅は、クスノキ科クロモジ属の落葉小木です。ここ妻女山では春真っ先に咲く樹木の花です。この花が咲くと、春の遅い信州にもやっと春の訪れが来たと感じます。葉が芽吹く前に咲くので、まだ冬枯れの森が一度に華やぎます。壇香梅が咲くと、次は梅と木五倍子(キブシ)が咲きます。妻女山にはないので間違うことはありませんが、油瀝青(アブラチャン)は花が似ているので遠目では区別がつきません。花柄がないのが壇香梅で、油瀝青にはあります。

 早春に咲く花は、黄色が多いということです。ロウバイ、マンサク、ダンコウバイ、アブラチャン、キブシ、クロモジ、サンシュユ、レンギョウ等みな黄色い花を咲かせます。樹木以外の山野草でも、バラ科のクサイチゴ、キジムシロなどや、キンポウゲ科のフクジュソウ、アブラナ科のアブラナなどたくさんあります。
 理由については、この時期に花粉を運ぶハナバチやアブが最も好む色であるとか、紫外線を吸収するため殺菌になるとか、フクジュソウのように黄色いパラボラアンテナで光を集めて虫たちに温まる場を提供しているとか、色々な説があるそうです。しかし、詳しくは分かっていないようです。

 この陣場平は、第四次川中島合戦の折りに上杉謙信が陣小屋を築いたと伝わる地です。小幡景憲彩色の『河中島合戰圖』には、陣場平に門を構えた塀囲みの中に七棟の陣小屋が描かれています。図の左下の二枚がそれにあたります。左上の谷が土口の谷。左へ延びるのが斎場山から笹崎(薬師山)の尾根。赤坂(妻女山)は右上にわずかに。陣場平の右には、月夜平の尾根が描かれ、右手には海津城が描かれています。(各画像をクリックすると拡大画像が見られます)

 これだけ多くの陣小屋を建てられる平坦な場所は、陣場平をおいて他にはありません。場所は、前の記事の写真を見るとよく分かると思うのですが、現在は畑ではなく落葉松林や自然林、荒れ地になっていて、その全貌を一度に見ることは、冬枯れの時期以外は困難です。

 また、この陣場平の北西の角には一基だけ積石塚古墳と周りに石垣が残っています。尾根の反対側には積石塚古墳群もあるので、ここもたくさんの古墳があったのかもしれません。戦国時代の戦で壊され、その後は畑の開墾で完全に壊されたものと思われます。積石塚古墳は、この地に定住した高句麗の渡来人のものともいわれ、五世紀中頃以降に作られたといわれています。大室古墳群が、彼らの故郷・朝鮮半島に向いた北側の谷にあるように、堂平古墳群と陣場平も北側に開けています。

 黄色い花が一段落すると、北信濃では桜、杏、桃がほころび始めます。

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、地衣類、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、森の動物、特殊な技法で作るパノラマ写真など。

★『松代町史上巻』には、「直江山城守は先鋒として赤坂の上(現在の妻女山)より滑澤橋(清野村道島勘太郎橋:明治の古い石橋が現存)に備え、甘粕近江守は月夜平(陣場平より物見台にかけて)に、宇佐見駿河守は岩野の十二河原(斎場原から千曲川河原)に、柿崎和泉守は土口笹崎(薬師山)に陣を構えて殺気天に満ちた。」とあります。そして、七棟の陣小屋が建てられた陣場平は上杉謙信本隊が固めたといわれています。(上杉謙信斎場山布陣想像図参照)
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上杉謙信布陣の斎場山と陣場平「今昔物語」(妻女山里山通信)

2010-03-15 | 歴史・地理・雑学
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 上の写真は、昭和22年にGHQが撮影した斎場山、妻女山、陣場平の空撮です。黄色い線は、現在の林道や山道。谷から山上まで開墾され畑地になっているのが分かりますが、養蚕が盛んだったため多くは桑畑です。
 下の絵図は、江戸時代後期の榎田良長彩色『川中島謙信陣捕之圖』。それぞれ同じ場所に番号がふってあります。赤い線は山道。赤い●は兵を置いた所。『甲越信戦録』などの軍記物を参考に、江戸時代の絵師が描いた川中島合戦の絵図です。
 写真と同じ場所の番号をを絵図にもふりました。
 1 会津比売神社(従四位下:日本三代実録)上杉謙信が庇護したと伝わる神社
 2 妻女山展望台(古くは赤坂山、赤坂)直江山城守が陣したと伝わる所。赤坂山古墳あり
 3 斎場山(旧妻女山)上杉謙信が円墳の上に床几を置いたと伝わる所。斎場山古墳あり
 4 東風越(長坂峠)斎場越しの道が、赤坂山、斎場山、陣場平(天城山)、土口へと分岐する峠
 5 陣場平(月夜柵)上杉謙信が七棟の陣小屋を築いた本陣跡と伝わる所。積み石塚古墳あり

 絵図は、実際の写真に比べると斎場山の円墳や御陵願平などが誇張されて描かれていますが、尾根や谷の位置などは非常に正確で、実際に現地を見て描いたのだろうと思われます。また赤線の山道も、現在の黄色い線では大幅に違っていますが、写真にかすかに見て取れる旧道ではほぼそのままというのが分かります。つまり、江戸時代以前からの道が、昭和初期までは、そのまま使われていたということです。戦後、トラクターや自動車の普及により幅の広い道路が必要になり、それまでとは異なるルートの道(黄色い線)が作られたというわけです。

 3の斎場山古墳は、かなり誇張され大きく描かれていますが、実際も二段の墳丘裾があります。5の陣場平には、いずれ紹介しますが、北西の角に積み石塚古墳一基と石垣が残っています。近くの堂平のようにたくさんの古墳があったのかもしれませんが、謙信の布陣が史実だとすると、陣小屋を作る際に壊されたのかもしれません。その後畑地になり、さらに壊された可能性があります。写真では桑畑、梅園、薬草園などが写っています。現在は落葉松林や荒れた山林になっています。絵図では陣場平がはっきりと描かれていませんが、それはこの絵が信玄の軍が茶臼山にいるときのものなので(対の絵に『川中島信玄陣捕之圖』茶臼山あり)、まだ陣小屋はなかったとしているのでしょう。

 絵図の2・妻女山展望台の下に池がありますが、実は写真にもその池は写っています。蛇池といい、千曲川の名残です。江戸時代の天明年間まで、千曲川は妻女山にぶつかる様に流れ、その北は広大な氾濫原でした。戦国時代も赤坂山の山際まで千曲川が迫っていたのです。つまり、斎場山は西北東を千曲川に囲まれた天然の要害だったわけです。謙信が布陣した大きな理由のひとつでしょう。蛇池は、現在は高速道路になっています。絵図の千曲川は江戸時代後期の戌の満水以降に瀬直しした新しい流路が描かれています。

 この絵図の描かれた目的と用途ですが、上杉と武田どちらか一方の依頼であれば軍功の誇示ということも考えられるのですが、どうもそうではなさそうです。江戸後期は庶民の旅行も盛んになり、善光寺詣でや川中島合戦の史跡巡りなども盛んに行われたようです。特に1721(享保六)年に大阪竹本座で初演された近松門左衛門の人形浄瑠璃『信州川中島合戦』は、大人気を博しました。また、歌舞伎や浮世絵でもブームになりました。これ以外にも川中島合戦に関する絵図は非常に多く残っています。また、土産物としても縮刷版が売られていました。それほどに川中島合戦の人気は高かったということです。

 しかし、そのストーリーは『三国志』を下敷きにしたうえに『太閤記』も重ね合わせてあるという荒唐無稽なもので、史実とはかけ離れています。武田信玄の子息、勝頼と長尾輝虎(上杉謙信)の息女が、なんと恋仲になっての駆け落ち騒ぎや、軍師山本勘介をめぐる両陣営の勧誘争い、さらには勘介の老母の我が身を犠牲にした悲劇などをからめて、自由奔放に脚色された創作物語です。そこへ『甲越信戦録』などの軍記物語も加味されて、史実とは別のもうひとつの川中島合戦が江戸時代には創られていったのです。

 そんな川中島ブームの中妻女山では、上杉謙信槍尻の泉をめぐって霊水騒動なるものが勃発しました。川中島合戦の色々な軍記物や原作は、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで、川中島合戦と検索するとたくさん出てきて無料で読むことができます。

★妻女山から斎場山、陣場平に布陣した上杉軍については、「「上杉謙信斎場山布陣想像図」をご覧ください。
★妻女山の詳細は、妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。

■『川中島謙信陣捕之圖 一鋪 寫本』(かわなかじま しんげん じんとり の ず) 榎田良長 彩色
 榎田良長の図会は、他に川中島全図を描いた『河中島古戰場圖 一鋪 寫本』と『川中島謙信陳捕ノ圖 一鋪 寫本 』があります。いずれも狩野文庫所蔵。
 出典:東北大学附属図書館狩野文庫(平成20年5月23日掲載許可取得済)流用転載厳禁!
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俯いて 知らぬ間に消ゆ 貝母哉(妻女山里山通信)

2010-03-13 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 特に珍しい花ではないのですが、時に熊も出没する斎場山の藪の奥にはバイモ(貝母)の群生地があります。2週間ほど前から一斉に芽吹き始めました。花の内側の紋様から編笠百合と呼ばれるバイモは、ユリ科バイモ(フリティラリア)属 。享保(1716-1736)年間に中国から薬用植物として入ってきた花です。最初に栽培されたのは奈良県で、大和貝母と呼ばれます。貝母と書くのは、球根が二枚貝に似ているからとか。咳止め、解熱、去痰の効能があるそうです。その鱗茎の形から、別名を母栗ともいいます。薬草ですが、同時にかなり強い毒草なので、庭に植えようなどと思わないことです。無毒の園芸種が売られています。

 リンクは、去年の春に撮影したバイモの蕾バイモの花です。葉の先がくるりと丸まるのが特徴で、花は俯いて咲くのが特徴。花も葉や茎とあまり色が違わず、下から覗き込まないと赤紫の網目模様も黄色い雄しべも見えないという一見地味な花ですが、なぜか心惹かれるものがあります。しかし、遠目に見ても花が咲いているようには見えないので、知らなければ、ただの山野の雑草として全く注目されることもないかもしれません。改良されて園芸用では売られているようです。

 極めて質素な花なので、茶花として好まれるそうですが…。
「編笠の 内に秘めたる 貝母百合」 林風
 貝母百合のような乙女とはどんな人なのでしょう。何を秘めていることやら…。花後は、地上部が枯れてなくなってしまうので、時期を外すとお目にかかれない植物です。カタクリやセツブンソウなどと同じく、スプリング・エフェメラル(Spring ephemeral)、春の妖精・春の儚い命のひとつです。

 昨春にバイモの開花期にこの群生地を訪れたら、足元から突然野兎が飛び出して驚いたことを思い出しました。百合根を食べるのは、日本と中国だけだそうですが、貝母の球根は苦くて薬用にはなっても食用には不適なようです。猪も食べないのか、掘り返した跡もありません。貝母は以前栽培地だったところにしか生えていないようで、一般の山野にはあまりないためか植物図鑑にもほとんど載っていません。群生地も斎場山近辺ではここだけしか見られないので貴重です。

 なぜここに群生地があるのかといいますと、戦前から川中島南原の薬草屋が山を借りて漢方薬の原料として栽培していたからなのです。それが放置されて群生地になったというわけです。栽培を止めてから既に数十年は経っています。その間、ほとんど誰にも知られず、毎年咲いては散ってを繰り返してきたのでしょう。
 中国では、主産地が浙江省で、特に象山で採取された「浙貝母」は最も高品質といわれています。信濃では、象山ではなく尾根続きにある斎場山が産地だったというわけです。

「俯いて 知らぬ間に消ゆ 貝母哉」 林風

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、森の動物、特殊な技法で作るパノラマ写真など。
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鶴岡八幡宮の大銀杏が倒壊(妻女山里山通信)

2010-03-11 | 歴史・地理・雑学
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 鎌倉は鶴岡八幡宮の大銀杏が10日未明、強風により根元から倒れてしまいました。この大銀杏、1219(承久元)年、公曉が実朝を暗殺したとき身を潜ませていたという伝説があり、「隠れ銀杏」と呼ばれていました。樹齢800年とも1000年を越えるともいわれていますが、植物学的にみると、せいぜい400年ぐらいだということです。地元では二代目と呼んでいるそうですし。つまり、最低一度は植え替えられているということです。写真は冬の黄葉です。倒壊したのは非常に残念ですが、これで詳しい樹齢が分かるかもしれません。

 下の写真は、静御前の舞殿と大銀杏。どちらにも鎌倉時代の盛衰のドラマがあります。静御前は京でも随一の人気を誇る白拍子(巫女を原点とする舞いを舞う遊女)で、唐詩や和漢朗詠集などを暗誦もしていた才女といわれています。
 源平合戦後、兄の源頼朝と対立した義経と共に落ち延びた静御前は、山僧によって捕らえられ、京の北条時政に引き渡された後、文治2年(1186年)3月に母の磯禅師とともに鎌倉に連行されました。同年4月8日、北条政子が舞の名人である静に舞を所望したので八幡宮の回廊で披露しました。

「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」
「吉野山 みねの白雪 ふみ分けて いりにし人の あとそ恋しき」

と静御前は義経を慕う歌を唄い、頼朝の逆鱗に触れます。そして、それを政子が「私が御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」宥めたという逸話は有名です。『吾妻鏡』では、静の舞の場面を「誠にこれ社壇の壮観、梁塵(りょうじん)ほとんど動くべし、上下みな興感を催す」と絶賛しています。

 この時、静は義経の子を身ごもっていて、頼朝は女子なら助けるが、男子なら殺すと命じました。閏7月29日、静は男子を出産。安達清恒が赤子を取ろうとしますが、静は泣き叫んで離さなかったといいます。磯禅師が赤子を取り上げて清恒に渡し、由比ヶ浜に赤子は沈められました。そして9月16日、静御前と母の磯禅師は京に帰されました。憐れんだ政子と大姫が多くの重宝を持たせたといいます。静御前のその後は不明ですが、二十四の時に故郷の讃岐で亡くなったという伝承があります。全国各地にも終焉の地といわれるところがあります。それだけ人々の心を惹きつけるものがあったのでしょう。

*a「倭文(しず)の布を織る麻糸をまいた苧環(おだまき)から糸が繰り出されるように、たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら」。自分の名前「静」を「倭文」とかけつつ、頼朝の世である「今」を義経が運栄えていた「昔」に変える事ができれば、と歌っています。
本歌は、『伊勢物語』32段「古の しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」。
*b「吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい」。吉野山は静と義経が別れた場所。
本歌は、『古今和歌集』の冬歌、壬生忠岑による「み吉野の 山の白雪踏み分けて 入りにし人の おとづれもせぬ」。(河出書房『義経記』高木卓訳より)
 苧環は、糸を巻いておく道具ですが、山苧環(やまおだまき)という梅雨の時期に咲く可憐な山野草があります。また、苧環蒸しは私の大好物です。

 現在の鶴岡八幡宮の建物は若宮社殿が寛永3年頃(1626年頃)に改修されたものです。上宮の建物は文政4年(1821)正月に火災に見舞われ、後に再建されたものがほとんどのようです。 石段の上から見下ろす緑青の舞殿の屋根と黄葉した大銀杏の色合いの組み合わせが大変美しかったのですが、もう見られないのは残念です。三ノ鳥居の向こうに続く段葛。そして二ノ鳥居。頼朝が京都を再現しようとした鎌倉の街並みは健在ですが……。「栄枯盛衰盛者必衰生者必滅会者定離」、即ち「諸行無常」を思わせるできごとではありました。

 実は鶴岡八幡宮は、かつて現在の数倍の規模を誇る「鶴岡八幡宮寺」という寺だったことをご存じでしょうか。1561(永禄4)年3月16日、長尾景虎(上杉謙信)が山内上杉家の家督と関東管領職を相続、名を上杉政虎と改めたのも、ここ「鶴岡八幡宮寺」でした。それが明治初頭の廃仏毀釈の折りに薬師堂、護摩堂、大塔、経堂、仁王門など仏教に関する建築物を全て取り壊してしまったそうです。そのため多くの仏像や経典が散逸し、国内や海外等に渡りました。すさまじい文化的破壊があったわけです。

★鶴岡八幡宮の大銀杏は、05年12月11日の「「鎌倉アルプストレッキングルポ」」をご覧ください。
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「青い大理石」地球の記念写真(妻女山里山通信)

2010-03-09 | 歴史・地理・雑学
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 米航空宇宙局(NASA)が、地球観測衛星テラ(Terra)が撮影した数千枚の画像を合成して制作した、史上最も精細な地球の画像を公開しました。ユーラシア大陸とオーストラリア大陸
こちらはアメリカ大陸。今までにない大きなサイズで美しい地球が見られます。眺めていると色々なことを考えてしまいます。我々はこんな美しい星に暮らしているんですけどね…。

 アーサー・C・クラークがアイデアを出し、後に出版もされた、スタンリー・キューブリック監督の不朽の名作『2001 A Space Odyssey(2001年宇宙の旅)』には、月面から地球が昇るシーンがありましたが、初めて見たときとは、すごい感動がありました。こちらは、そのオープニングムービーです。『ツァラトゥストラはかく語りき』の壮大で荘重なテーマがタイトルの宇宙とよくマッチしています。ホテル西洋銀座の場所にあったスーパー・シネラマのテアトル東京へ何度も通って見たのがつい昨日のようです。こちらはそのダイジェストそして、こちらが当時その解釈について意見が噴出したエンディングです。映画未見の人は観ないように。

 いうまでもなく『ツァラトゥストラはかく語りき』は、ドイツの哲学者、フリードリヒ・ニーチェの後期思想を代表する著作です。有名なフレーズ「神は死んだ」など旧来の価値観の崩壊を記し、ツァラトゥストラを介して超人の思想が説かれている書。世界は、今この瞬間がまったく同じに未来永劫繰り返される、という永劫回帰が説かれています。音楽はリヒャルト・シュトラウスが1896年に作曲。その他、宇宙船が飛ぶシーンでのヨハン・シュトラウスの『美しく青きドナウ』、モノリスのテーマとして流れるジェルジ・リゲティの『レクイエム』など音楽の選択が実に秀逸でした。
 
 地球の大気圏は、高度80kmから120kmあたりをいいます。気象現象が起きる対流圏は、赤道で高さ17kmぐらい、両極で7kmぐらいと本当にごく僅か。そこから50kmぐらいまでが成層圏。よくいわれるオゾン層は10-50kmで、成層圏に含まれます。写真を見て驚くのは、やはり大気のある対流圏の薄さでしょう。その中でも人間が暮らせるのは、せいぜい4kmぐらいまで。薄皮一枚の中で暮らしていることがよく分かります。

 世界で一番高いところで生活しているのは、ネパールのシェルパが暮らすチュクン村で4730m。都市では、ボリビアのラパスが3650mで世界一。擂り鉢状の中にあるので、空港のあるその上の大平原は4000mを越えます。私はサンパウロから空路で入ったのですが、いきなり高山病になりました。深呼吸をしても空気(酸素)が入ってこないというのは地獄の苦しみで、慣れるのに一週間かかりました。
 地元の子供達が駆け上がっていく横を、ナマケモノのようにスローモーションで歩く私でした。こんなところでW杯予選を戦わなければならない南米の他の国は、本当に死ぬ思いでしょう。空気が薄いので火事にならないため消防署がありません。ラパスの旅のフォトエッセイは、こちらをご覧下さい

 これだけ大気が薄いと、逆に太陽の影響力の凄さも想像できるというものですが、二酸化炭素の極微量な増大で本当に地球温暖化がそこまで進むのだろうかとも思ってしまいます。特にクライメートゲート事件以降、短期的な温暖化は間違いないとしても長期的な温暖化ではないのではという疑念も生まれてきました。
 例えば、ミランコビッチ・サイクル(Milankovitch cycle)という学説があって、それによると現在は温暖化の最高地点にあり、これからは寒冷化に向かうというのです(一番上の囲みの一番下のグラフ)。二酸化炭素の増大による温暖化との相殺関係はどうなるのでしょう。最下部には、地球温暖化や地球寒冷化、氷河期についてのリンクもあるので興味のある方はご一読を。

 地球の温暖化寒冷化は、地球だけの問題ではなく、太陽とも深い関係にあるそうです。太陽の黒点の数の増減が大きく影響することは知られています。黒点の数は11年周期で増減し、07年以降はほとんど現れず、黒点がまったくない日は通常の極小期より多いうえ、周期も延びているそうです。過去には100年間も黒点がない時期があり、その多くは地球の寒冷期と一致するということですから、現在は寒冷期か。すると二酸化炭素の増大による温暖化との関係は? 非常に高度な計算が必要となるようです。

 いずれにしても、この美しい地球が永遠であることはなく、いつか終焉を迎えるわけですが、その前に人類が滅びるか、アンドレイ・タルコフスキーの監督の『惑星ソラリス』(スタニスワフ・レムの小説)のように新たな生命体に進化するのか…。地球のみぞ知るというところです。タルコフスキーの作品では、人間の本質と渇望、精神の救済を描いた『ストーカー』も傑作でした。
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氈鹿(カモシカ)の 振り向き振り向き 振り返り(妻女山里山通信)

2010-03-07 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 誰かに見られている。視線を感じて見上げると、ニホンカモシカが一頭こちらを見ています。いつもそんな感じです。丸い体つきと角の横縞の数から母親の方だと思いました。話しかけながら作業を続けると、ジッと見ています。時折耳をピクピク動かすのは、こちらの声に反応しているのでしょう。カメラを構えて限界距離を測りながら近づくと、少し身構えます。立ち止まって撮影。

 しばらくその位置にいると、所在なさ気に横を向いたり、目の前の低木の冬芽を食べる振りをしたり。実際は食べなかったので、本当に食べる気はなかったのでしょう。私とのなんとも間の悪い緊張感をほぐすためか、自らを落ち着かせるためか。別に興味なんかないよとはぐらかすような、実に不可思議な行為です。動物行動学で有名なデズモンド・モリスに問うてみたいものです。

 そこで、さらに近づくと、前脚を一歩踏み出しました。といっても攻撃するつもりではないようです。こちらの動きを窺ったのでしょう。立ち止まって撮影すると、飽きたのか振り向いて歩き出しました。呼び止めると、「何?」という感じで振り向きます。

 しばらくすると、歩き始めたので跡を追いました。再び呼び止めると、「何よ?」という感じで振り向きます。撮影すると、また歩き始めます。三度呼び止めると、またまた「だから何さ?」という感じで振り向きます。切りがありません。撮影するとまた歩き出します。今度は呼び止めずに近づいてみました。すると、限界距離を超えたのでしょうか、シュッという警戒音を発しました。やがて、こちらを気にしながらも振り返らずにゆっくりと森の奥へ消えていきました。最初の撮影から最後のカットまで、わずか二分のできごとでした。

 不思議なのですが、同じ個体でも真冬に比べると、限界距離が短くなります。どういう理由なのでしょう。ともあれ牛科の動物は、牛もそうですが好奇心が旺盛のようです。そのため見慣れないものが来るとなんだなんだと見に来るので、狩りの餌食になりやすく、それが絶滅への大きな要因にもなったのでしょう。

 そんなニホンカモシカの生態を利用した狩りは古くから行われていたようで、江戸時代後期の『遠山奇談』にも、下記のような記述があります。民俗学者柳田国男が「まことに心掛けのよろしくないいやな本」と書いているように、大袈裟で外連見たっぷりの紀行文なのですが、実際に出てくるその山や鳥獣を知っていると、必ずしも全てが出鱈目というわけでもなく結構楽しめる本です。

「始終山林森々たる所のみ通ひなれしに、こゝははれやかにてめをたのしみ、はからず時をうつすうち、羚羊多あつまり岩をくゞりて遊ぶていいとおもしろく見ゆる。あの羚羊をとらへて見んとはかりしに、平七持子(もちこ)ども申合し、手拭扇子を取出しくるくるまはしけるに、獣おのづから近づき、頻にまはせば余念なく見とれたるさまなれば、かねて綱を輪になし、岩の上に幾所もしき置ければ、おのれを忘れ輪の中へ入ところを引とり倒しければ、一同に走行おさへとる。皆々此日の興とせり。」
(補注)「此獣稀有なるものにて、しばらくにても岩の上にたてば、四足ともに石に吸い付はなれがたきゆへ、鴨の水かくごとくに、互いに四足をうごかしゐる。此ゆへに横になりたる岩のはらへ取つくことあり、足のうら岩にすい付ゆへ也。角は一本あり。則羚羊角是なり。」
(『遠山奇談』巻之三第十五章 きじんの家にやどり ころび木を見いだす事)

 割と平易な文章なので解説も不要だと思いますが、「踊り獅子」とか「肉馬鹿」とかいわれたのも頷ける記述です。本当にこういう狩りがあったのかは分かりませんが、ニホンカモシカに何度も接して彼らを観ていると、さもありなんと思われる内容です。

★『遠山奇談』:江戸時代後期の1798(寛政10)年4月に京都で版行された華誘居士(かゆうこじ)による遠山郷紀行文。1788(天明8年)、京都の大火で炎上した東本願寺の再建のため、浜松の齢松寺の僧侶が七人の同行者と信州遠山郷に材木を探し求め伐り出した時の奇談を絵図と共にまとめた全四巻の書。信濃の山々や伝説などが奇妙な体験や伝聞とともに記されています。姥捨山、戸隠山など信州馴染みの山々が登場し、その記述が面白い。
★「遠山郷」:長野県最南端の山と渓谷に囲まれた秘境。長野県飯田市上村・南信濃地区。日本の秘境100選。ジビエ料理がおすすめ

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、地衣類、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、森の動物、特殊な技法で作るパノラマ写真など。ニホンカモシカの写真も[野生動物]にたくさんあります。
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早春の森にキクラゲ大発生…(妻女山里山通信)

2010-03-05 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 信州の早春には珍しく多雨が続いたためか、斜面の倒木上にキクラゲが大発生しました。冬や春先は、丸くて茶色のタマキクラゲを見ることが多いのですが、今回は今の季節にはまれに見る大量発生です。7~8mの倒木にびっしりとついていました。大きなものだけを採取したのですが、30センチぐらいのボウルいっぱいになりました。

 キクラゲ(木耳)は、中華食材として卵炒めや豚肉炒め、豚骨ラーメンの具、スープなどで供されますが、日本でも平安時代の百科事典『和名類聚抄』には載っているそうですから、古くから食べられていたのでしょう。おろし和えや酢の物、味噌汁、煮ものなどにも合います。鉄分、カルシウム、食物繊維が豊富で、最近では免疫力増強の効能があると分かり、健康食品としても注目されています。食感がクラゲに似ているのでキクラゲなので、木の海月(くらげ)ですから木海月とか木水母と書いてもよさそうですね。

 キクラゲには、キクラゲ科とシロキクラゲ科があり、キクラゲ科には同じく中華食材でお馴染みのアラゲキクラゲがあり、シロキクラゲ科には同じく中華の高級食材のシロキクラゲとハナビラニカワタケがあります。珍しいところでは、猫の舌と呼ばれるヒメキクラゲ科のニカワハリタケというのもあります。蜜豆に入れたりメープルシロップをかけたりしてデザートで食べます。

 キクラゲは、欧米で種小名をAuricularia auricula-judae(ユダの厚葉桜草)、俗に「Jew's Ear」(ユダの耳)といいます。そのためか、食する習慣がありません。中国では白いきくらげは、「銀耳」といって不老長寿の薬として珍重されていたそうです。今は栽培されているので昔のように貴重品ではありませんが、天然物を探すとなると以外に大変です。いわゆる「シロ」を知らないと採取は無理でしょう。
 エルニーニョの影響なのかもしれませんが、昨秋から異常とも思える天候が続いています。季節外れのキクラゲの大量発生も手放しでは喜べないものがあります。

「木耳の 聞くや聞かずや 森の息」 林風

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鴨葱ならぬ、犬雁足って?(妻女山里山通信)

2010-03-03 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 犬雁足は、イヌガンソクと読みます。北海道から九州に分布する夏緑性のイワデンダ科コウヤワラビ属のシダ植物です。林道の路傍に生えていました。ドライフラワーのようになっていますが、これは胞子葉で花材としてもよく使われるので生け花をやった人なら、一度ぐらいは使ったことがあるのではないでしょうか。

 夏に見る葉は大きく80センチほどにもなり目立ちます。雁足は、食用のコゴミ(屈み)のことでクサソテツ(草蘇鉄)といいます。葉柄基部が雁の足に似ているということから雁足。その雁足に似ていて、食用にならず役に立たないことから犬がついて犬雁足。雁の足に似ているかは微妙ですが。

 役に立たないものに犬なんとかとつけるのは、よくあることで、犬蕨、犬山椒、犬升麻など、いずれも似ているけれど食用や薬用にならない役立たずということです。「My life as a dog(犬のような僕の人生)」という映画がありましたが、あの犬は一応人の役にはたちましたけれど……。犬は、否だという説もあります。

 シダは羊歯、あるいは歯朶と書きます。雁足と同様、羊の歯といわれてもなんだかピンと来ませんが、面白いものに例えたものだと思います。日本では、ワラビ、コゴミ、ゼンマイ、スギナなど20種類以上のシダ植物を食用とするそうですが、西洋料理ではあまり聞かないですね。やはり湿度の高い日本や東南アジアの方がシダ類の種類も多く、古くから身近で食用としても発達したのでしょう。

 コゴミが大量に出る場所があって採りにいくのですが、ひと株全部を採らずにかならず何本か残してきます。そうしないと胞子が飛ばなくなって耐えてしまうからです。ワラビはアルカロイドを含み毒性があるので、灰汁抜きができない野生動物や家畜は食べません。こういうものを美味しく食べられるようにするのが人間の知恵なのでしょう。ワラビや栃の実を最初に食べた人は、食べられるようにするまで、何度も失敗して酷い目に遭ったのでしょうね。ゼンマイも大変手間がかかります。いずれも縄文時代から食べられているそうです。

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。山藤は樹木で。他にはキノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、特殊な技法で作るパノラマ写真など。動物には、猫やもぐら、ニホンカモシカの写真もあります。
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ニホンカモシカ二頭と遭遇(妻女山里山通信)

2010-03-01 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 林道の斜面で蕗を採っていると、急に視線を背中に感じました。振り向くと30m位向こうの林道上に大きなニホンカモシカが一頭立ってこちらを見ています。妻女山で見る個体と違って一回り大きくがっしりとしています。逃がさないようにゆっくりと近づきます。時折わざと視線をはずして相手の緊張を高めないようにします。声をかけながら行くのもいい方法です。但し、限界距離を超えて近づいたり、攻撃的なことをすると襲われることもあります。

 20mぐらいになったら、相手の緊張がグッと高くなったのが仕草からわかりました、声を掛けてカメラを構えながらゆっくりと近づきます。すると、背を向けてゆっくりと崖を登り始めました。崖の縁に沿って歩き始めたところで声を掛けると立ち止まって振り返りました。最初のカットがそれです。もう少し近づいてみようと崖下に寄ると、シュッという警戒音を発して森の奥へと行ってしまいました。それでもと呼び止めると……。

 倒木に脚をかけてこちらを凝視しています。興味があるのでしょう。なかなか去りません。それでも、暫くすると飽きたのでしょう。横に歩き始め森の奥へと消えていきました。妻女山でいつも見る雌の個体と違って躰も大きく角も太くて横に縞が見えました。妻女山の雌とテリトリーが被っているようで、おそらくつがいでしょう。鞍骨城跡で見た個体と同一かもしれませんが、いかんせんニホンカモシカの個体識別は非常に困難です。なにか上手い方法はないものでしょうか。

 一番下の新芽は、ニワトコです。塩湯でして水にさらすと山菜として食べられますが、過食するとお腹を壊します。日本羚羊が食べるかどうかは分かりませんが、低い位置にあるものなら食べそうです。季節的には、小さな冬芽や針葉樹の葉を食べてしのいだ冬から、春の新芽や山菜などを食べられる季節になり、ニホンカモシカの行動も活発になってきたのでしょう。

 一気に暖かくなったので熊も冬眠(正確には冬ごもり)から覚めるのも早そうです。先日は冬眠から起きた親子連れの母熊に襲われるという事件が起きました。年末まで活動し(クリスマスに足跡を発見しました)、冬眠明けが2月下旬から3月上旬と早くなっているのでしょうか。去年は、この辺りの山で3月中旬には目撃されています。これからの季節は熊鈴も必要になってきます。

 こんな所まで熊が出ますかと、先日も聞かれましたが、年末は林道倉科坂線のすぐ上の中腹と陣場平で足跡を見ましたから、里近くまで下りてきていると思って間違いないでしょう。晩秋は山の麓の柿を食べに来ます。春はキイチゴ、夏は蜂の巣、秋は栗や団栗と食べ物のある所に熊は出没します。大事なことは熊鈴や笛などで人間がいることを知らせることですが、草食動物のように天敵より先に相手を発見することです。距離が充分にあれば、ゆっくりと離れれば大丈夫。
 笛や鈴で大きな音を出していると、私が鏡台山で遭遇したように相手から逃げ出してくれるということもあります。いずれにしても至近距離ではち合わせというのが最も危険なのです。

 帰りに陣場平の上を歩いていると、眼下の森にいつものマダムが現れました。それが下から二枚目のカットです。子供の方は薬師山の方にいるので、母親で間違いないと思うのですが……。夏毛と冬毛で微妙に違うようですし、角は雌雄ともあるし、鼻の色や鬣(たてがみ)の形や色を見るのですが、もうひとつ決め手に欠けます。繰り返しますが、なにか上手い個体識別の方法はないものでしょうか。

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、地衣類、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、森の動物、特殊な技法で作るパノラマ写真など。
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