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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

古代科野の国と斎場山(旧妻女山)のお話(妻女山里山通信)

2008-07-19 | 歴史・地理・雑学
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 戊辰戦争の戦没者を祀った現在の妻女山(411m)ではなく、江戸時代まで妻女山と呼ばれていた本名斎場山(513m)の頂上には円墳があります。二段の墳丘裾があり頂上は、直径10mほどの平地です。岩野村誌によると、「古代この山は、斎場山といい、天神山祗を祀る聖なる霊場であった」と書かれています。また、「明治初期には、円形の祭祀壇凡四十九箇あったという。信濃国造(くにのみやつこ)、続いて埴科郡領が斎場・斎壇を設けて、郡中一般が袷祭(祖先を会わせ祭る)した処といわれ、旧蹟も多く認められるが、その詳細は定かではない。」とありますが、円形の祭祀壇凡四十九箇というのは、古墳の西方に一列に点在する通称「旗塚」と呼ばれる丸い塚のことでしょうか。現在は七基しか確認できませんが。

 斎場山は、科野国の国府が埴科にあったかもしれないとされる古代(その後小県に移る)天神山祗を祀る聖なる霊場であり、科野国造(しなののくにのみやつこ)が袷祭した重要な場所であったと伝わっています。その科野国造とは、崇神天皇の代に、大和朝廷より科野国の国造に任命された、神武天皇の皇子・神八井耳命(かむやいみみのみこと)の後裔の建五百建命(たけいおたつのみこと)であるといわれています。科学的には永遠に証明されないかもしれませんが、森将軍塚古墳は、建五百建命の墳墓ではないかといわれています。会津比売命は、その妻女といわれており、そうであれば同じ古墳に埋葬されたのではと考えます。

 森将軍塚古墳は、川柳将軍塚古墳、倉科将軍塚古墳、土口将軍塚古墳、有明山将軍塚古墳、斎場山古墳へと数百年続いていきますが、それらはこの地を治めた代々の王の墓といわれています。この雨宮を中心とした大穴郷は、まさに「古代科野国の王家の谷」なのです。

 斎場山は、平安時代になってからも、重要な斎場(いつきのば)であったといわれています。斎場山古墳の近辺には、坂山古墳、堂平古墳群、笹崎山古墳、北山古墳などがあります。『日本三代実録』貞観四年(862)三月の項に三月戊子(廿日)信濃国埴科郡大領金刺舎人正長(かなさしのとねりまさなが)・小県郡権少領外正八位下 他国舎人藤雄等並授、借外従五位下 とあります。里俗伝によると、埴科郡の郡司の筆頭・大領の金刺舎人正長が大穴郷にいたということです。そして、斎場橋を渡って祭壇への口、土口から斎場山へ登り祭祀を執り行ったということです。

 斎場山古墳は、「墳墓の中心に南南東方向に、長さ5m、幅約2mの窪地ができていて、主体部の盗掘壙であることが明瞭である。」と岩野村誌には記してあります。さらに、「墳盗掘壙の状況から察すると、縦長のもので、壁石を取り除いた跡の散乱がないことから、粘土郭ではなかったかと考えられるが、詳細は不明というほかない。」とありますが、上杉謙信が本陣とした時に石室を壊した可能性もあると考えます。陣所を作るには石が必要ですから。天城山の坂山古墳も清野氏が天城砦を作る時に壊したのかもしれません。

 斎場山古墳や天城山(てしろやま)の円墳は、土口将軍塚古墳よりも新しいものです。大室古墳群のように渡来人のものかもしれません。また、前記のように、斎場山古墳の西側の斜面には、円形の塚が七基並んでいます。これらは、円墳に近い最も大きなもの以外は、まだ発掘されたことがないと思います。会津比売神社があったかもしれない御陵願平と合わせて学術調査が行われるといいなと思います。

 会津比売命は、『会津比売神社御由緒』によると建五百建命の妻とされますが、『松代町史』には、諏訪大社祭神建御名方命(たけみなかたのみこと)の次男熊野出速雄命(くまのいずはやおのみこと)の女とも書かれています。この記述は曖昧ですが、御子ということのようです。また、『會津比賣神社御由緒』には、土口将軍塚古墳が会津比売命の墳墓と書かれていますが、建五百建命の古墳とされる森将軍塚古墳と築造が100年ほど違うので、妻とするとつじつまが合いません。
 また、天城山の坂山古墳が出速雄命の、斎場山古墳が会津比売命の墳墓という説もありますが、いずれも推測の域を出るものではありません。斎場山は、『甲陽軍鑑』に誤って西條山と書かれたことで、間違った漢字で有名になってしまいました。それをなんとかしたいと考えた松代藩が、斎場山で祭祀を行ったとされる建五百建命の妻ということで、妻女山と命名したのでしょう。しかも、その新しい山名は、明治になると斎場山から下の赤坂山へと移ってしまいました。

 このように斎場山は、非常に数奇な運命を辿った山なのです。

 というわけで、現在斎場山を国土地理院の地形図に掲載してもらうべく活動中です。妻女山は?と思われた方もおられるでしょうが、既に地元でも赤坂山を妻女山と呼んで100年以上経つので、妻女山は現行のままでいいということなのです。妻女山の詳細は、妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。
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西條山は、斎場山である!:川中島の戦い(妻女山里山通信)

2008-07-11 | 歴史・地理・雑学
 斎場山? 初めてだなあと思われる方も少なくないはず。妻女山じゃないのと思われる方がほとんどかと。しかし、川中島の戦いで上杉謙信が布陣した西條山は、斎場山なんです。では、なぜ斎場山という言葉が400年以上も史料や軍記物、はたまた歴史研究家の文章に出てこなかったのか。不思議に思われるかもしれません。ここでは、それを解説していきましょう。

 西條山の初出は、『甲陽軍鑑』です。もちろん、これは斎場山と間違えた西條山のことです。間違えたのは、武田信玄の愛人であった高坂弾正忠昌信(こうさかだんじょうのじょうまさのぶ)その人(後に春日弾正虎綱)。高坂は、香坂とも書かれるように、戦国時代において書状は必ずしも大将が書くわけではなく、家臣が口述筆記することが多かったといいます。ですから読みが合っていれば漢字が異なっていても、それを殊更に問題にすることはなかったわけです。ですから、『甲陽軍鑑』の元となった文章を高坂弾正の元で口述筆記していた家臣が間違えたとしても少しも不思議はないのです。

 そこで斎場山(さいじょうざん)は、編者といわれる小幡景憲によりそのまま西條山と書かれてしまい、それが後世まで伝えられてしまったというわけです。(江戸時代の木版本では、「妻女山」と書き換えられています)第四次川中島合戦に関する軍記物は、ほとんど全てが『甲陽軍鑑』を参考にしていますから、西條山が必然的に流布することとなりました。また、それらを書いた者は、越後か甲斐の人々。西條山が本当は斎場山と書くなどということは、全く知らなかったとしても不思議ではありません。後世の歴史家もそれらを読むわけですから、当然斎場山ではなく西條山となります。

 ところが、江戸時代になり、太閤記などの秀吉に関する本がご禁制になると、川中島ブームが起こります。世の中には西條山と書かれた講談本や浮世絵、絵図などが出まわりました。これが松代藩の癇に障ったわけです。なぜなら松代には、西條山という斎場山とは全く別の山が存在するからです。一般的には、村上義清の家臣西條氏の西條城があった象山を西條山といいますが、明治の埴科郡誌を見ると、外部の人が西條山というときは、特定の山頂名ではなく、狼煙山から高遠山辺りの山域をいいます。
 西條山が、象山と呼ばれるようになったのは、江戸時代中期以降、明から承応3(1654)年に来日した 隠元禅師僧の故郷の地名をとって、山号を「象山(正しくは臥象山)」としてからです。佐久間象山の名は、この山号に由来します。よって佐久間象山は、しょうざんではなく、地元では「ぞうざん」と読むのが正しいのです。しかし、象山本人が、「しょうざん」と呼んでくれと書き残しているので、「しょうざん」が正しいともいえるのです。地元では、「ぞうざん先生」といいます。

 松代藩にとっては、この全く別の山である西條山が斎場山に成り代わって広まっていくことが我慢ならなかったのでしょうか。斎場山(さいじょうざん)を妻女山(さいじょざん・さいじょやま)」と読みも漢字も変えてしまったと思われます。そして、1838(天保9)年、幕府が各大名に作らせた『天保国絵図信濃国』に、正式に妻女山と記載されました。

 ところが、松代藩の思惑とは別にこの妻女山という名称が全国に全く広まらなかったのです。以後も江戸や上方の浄瑠璃や歌舞伎、浮世絵などは全て西條山のままです。地元で書かれた『甲越信戦録』や土産物で売られた川中島合戦絵図には、妻女山と書かれるようになりましたが、というか書くように藩が奨励、あるいは命じたのでしょう。それでも全国区にはなりませんでした。松代藩の大誤算です。

 ではなぜ松代藩は、斎場山を流布させずに、新たに妻女山と命名したかというと、それは斎場という意味が、古代と江戸時代では違うということだと思うのです。古代において斎場は、単なる墓場という意味ではなく、神聖な神を祀る祭事の場でもあったのですが、仏教が普及し神道本来の意味が失われると、忌避すべき言葉に変容してしまったのだと思います。明治の土口村誌には、「妻女山は、斎場山、または祭場山であって、近俗作なる妻女山はもっとも非なり」と書かれています。

 妻女山が一般的に出まわるのは、『甲越信戦録』が出てからですが、戊辰戦争後に松代藩が、赤坂山に妻女山松代招魂社を建立してからは、地元でも赤坂山を妻女山というようになり、大正時代に日本陸軍参謀本部陸地測量部制作5万分の1地形図に山頂表記もなく妻女山と記載されるに至っては、斎場山という名は次第に地元の人々の記憶からも消えていくこととなりました。地元が赤坂山を妻女山とか妻女というのは、山頂名ではなく小字名や、その下の地名にそういう名前があるからなのです。旧清野村にも、旧岩野村にも、妻女山とか妻女という小字名や地名があるのです。

 では、どこに斎場山の記載があるかというと、地元の村誌や郡誌、県史、古文書などです。しかし、歴史研究家は軍記物は読んでも地元の村誌などは読まないでしょうから、斎場山の名が世に出ることはありませんでした。もちろん、地元の人で斎場山を知っている人はたくさんいます。またいたはずです。しかし、声高に唱える人はいなかったのです。上記のように非常に込み入った話ですし、表現手段もありませんし……。大河ドラマ『天と地と』の時に、長野市が建てた古い妻女山の看板が間違っていても、まあしょうがあんめえという感じでした。

 ところが昨今の『風林火山』ブーム、来年の『天地人』と紹介されるに至っては、訪れる人も昔は考えられないほど増えました。これは見過ごせないと、私は研究を始め、長野郷土史研究会に「妻女山の真実 -妻女山は往古赤坂山であった。本当の妻女山は斎場山である-」という原稿用紙20枚の文章を寄稿したのです。

 というわけで、現在斎場山を国土地理院の地形図に掲載してもらうべく活動研究中です。では、現在の妻女山は?と思われた方もおられるでしょうが、既に地元でも赤坂山を妻女山と呼んで100年以上経つので、妻女山は現行のままでいいということなのです。お年寄りの中には、いや赤坂山だと譲らない人もいますが・・。
 妻女山の詳細は、妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。
 
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上杉謙信の誤算(妻女山里山通信)

2008-07-10 | 歴史・地理・雑学
 山本勘助が信玄に「この度の軍術木啄(ぼくたく・きたたき・啄木鳥)の木をつついて虫を取るに朽つる穴を構わず後ろの方を嘴にてたたき候 故に虫は前に現るを喰い候 この度の軍法ははばかりながらこれに等しく存せられ候と申し上げる。」と提唱します。

 さらに、「半進半退の繰分と唱え、味方二万余の御勢を二手に分けて、一万二千を大正(たいせい)の備え、八千余人を大奇(たいき)の備えとし、一万二千の大正をもって夜中に妻女山に押し寄せ、不意に切って入らば、さすがの謙信もこれに驚き山を逃げ下り、川を渡るところを、味方八千余人と引率し川中島に備えを立て、越後勢が犀川の方へ渡らんとするところを待ち構えて、ことごとく討ち取ることは、礫(つぶて)をもって鶏卵を打ち砕くに等しい。味方の勝利は疑なし。」と続くわけです。(『実録甲越信戦録』より)

 斎場山(妻女山)布陣で、炊飯の煙を見た謙信は、「諸葛孔明名付けて半進半退の術と云い、日本にては繰り分けの術と云えり。」と武田信玄の啄木鳥戦法を見破ったとされていますが、『甲陽軍鑑』には、啄木鳥戦法という言葉は出てきません。これは、中国春秋時代、呉の将軍・孫武が書いた兵法書『孫子』の軍争篇の一説です。これでは、一般大衆はなんのことか分からないので、江戸時代に出版された『甲越信戦録』の作者によって啄木鳥戦法と命名されたのでしょう。もっとも啄木鳥には、いわれるような習性はありませんが。これは山本勘助が無知なのではなく、江戸時代の作者が啄木鳥の生態を知らなかったのでしょう。

 炊飯の煙を見て見破ったとありますが、実際は上杉方の記録にあるように間者や乱取りの兵などの情報が入ったのでしょう。確かに闇に乗じて象山の陰より南進し、西條の入から登って戸神山脈中腹の唐木堂に潜めば、倉科はすぐ峠の向こう、鞍骨は大嵐の峰づたいにすぐです。しかも、斎場山からは天城山を越えるか唐崎を回ってくるまで見えない。相手の喉仏まで迫れるわけです。別働隊に選ばれたのは、高坂弾正、真田、相木、芦田など地の利に長けた信州勢。迎える本隊は、甲州勢。作戦は完璧に思えました。

 しかし、別働隊が斎場山に到着してみると蛻の殻。この決戦の日は9月10日とありますが、現行暦にすると10月28日だそうです.。早ければ北信濃では小雪が舞ってもおかしくない季節。お互いにとって後がない状況だったわけです。月齢は9日目、霧の出る前夜は空が澄み月明かりもあったはず。月の入りを待って双方は動き出したと思われます。この頃、川中島には川霧が立ちはじめます。霧は急激に増殖し自然堤防を溢れ山裾に押し寄せ、ついには山をも隠してしまいます。地元の人はみな知っていますが、10m先さえ全く見えない状態になります。フォグランプを点けても車の運転もままならないほど。一度上信越道でそういう状況になったことがありますが、風景がホワイトアウトしてしまって、空間感覚がなくなり恐怖を覚えた経験があります。

 上杉軍は、雨宮の渡を渡ったとする本や、屋代の渡、戌ケ瀬、十二ケ瀬を渡ったとする本がありますが、斎場山の上から下まで、清野から岩野、土口まで布陣していたのですから、数カ所の瀬から渡ったとみるべきでしょう。記述が分かれたのもそのためだと思います。

「越後方は、月の入りを待って、静かに用意をして、丑の中刻(午前3時頃)妻女山を出給う。直江、甘粕、柿崎宇佐美の諸将は下知し、十二ヶ瀬、戌ヶ瀬を渡った。謙信公も戌ヶ瀬を渡るなり。直江山城守は、小荷駄奉行として、人夫に犀川を渡らせ、自分は丹波島に留まる。甘粕近江守は一千余人で東福寺に留まり、妻女山に向かいし敵兵が出し抜かれて、やむなく川を渡ろうとするのを阻止するため川端に陣を備えた。」(『実録甲越信戦録』より)

 さて、上杉軍は車懸りの先方で武田軍に襲いかかったとありますが、まあ相手の虚を突いた振り向き様シュートみたいなものでしょうね。上杉軍は表向きは善光寺へ向かって進軍していたそうですから。霧は日が昇ると共にアッという間に消えます。武田軍は鶴翼の陣とありますが、おそらく千曲川、つまり斎場山の方を向いていたでしょうし、まだ早いからと陣形も充分ではなかったと思われます。驚愕したでしょうね。

 しかし、上杉軍は武田軍を打ち破ることはできませんでした。これは、甘粕隊や直江小荷駄隊などを除いた上杉軍の数が武田軍とほぼ同数であったからではないかといわれています。そこへ別働隊が加わったのですから多勢に無勢。上杉軍は敗走するしかなかったわけです。

 雨宮の渡には有名な頼山陽の詩碑があります。
「鞭声粛々夜過河 暁見千兵擁大牙 遺恨十年磨一剣 流星光底逸長蛇 」
(鞭聲肅肅夜河を過る 曉に見る千兵の大牙を擁するを 遺恨なり十年一劍を磨き 流星光底に長蛇を逸す)
 結局川中島は信玄の領地になってしまったわけですから、謙信の悔しさはいかばかりのものだったか計り知れません。しかし、日本海を制し上洛するという信玄の夢も叶うことはありませんでした。まさに強者共が夢の跡。歴史とは実に残酷なものです。

 妻女山の詳細は、妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。
 
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武田信玄の誤算(妻女山里山通信)

2008-07-08 | 歴史・地理・雑学
 『武田信玄の古戦場をゆく』安部龍太郎著 集英社新書という興味深い新書を読みました。副題には「なぜ武田軍団は北へ向かったのか?」とあります。確かに、普通に考えれば上洛を果たし天下を狙うのであれば、東海道、或いは甲州道中から中山道を西へ向かうのが最短距離のはず。しかし、著者は故網野義彦氏の「日本中世社会における武田氏」という講演録に着目し、武田一族が、鎌倉時代より対馬、安芸、遠江の守護をつとめ室町時代には若狭の守護にも任じられていて、戦国時代になっても一族の交流は保たれており、信玄が北進したのは、日本海へ出て日本列島を横断する道を押さえようとしたのでは、という網野氏の説を元に、信玄が辿った経路を年代順に訪れ、信玄の真の野望を解き明かそうとしています。

 21歳で当主になって以来、48歳の最晩年まで、上洛には遠回りと思える北進の戦略を取り続けた信玄。そこまで北にこだわった理由とは何か。武田信玄の狙いは、同族の奥州南部氏や若狭武田氏と連携しながら、日本海ルートで都に迫ることにあったのではないか―、と安部氏は記しています。千曲川の物流をおさえ日本海に進出すれば、武田一族の海運力をもって上洛し天下を取る事も可能と考えたというのです。今川を敵に回して太平洋航路を確保するよりは安全で早いと考えたということです。

 確かに、戦国初期の上杉家は内紛が絶えず、信玄が付け入るすきはあったようにも見えます。しかし、信濃には、信玄を二度までも打ち負かすことになる宿敵村上義清がおり、その背後には関東管領の大義名分をもつ戦おたくの上杉謙信が待ちかまえていたわけです。これが信玄の不幸と誤算というべきでしょうか。なまじ謙信には天下を取る気などさらさらなく、義を重んじて信玄を撃退することに執念を燃やされたことが、知略謀略をつくし戦わずして勝を得ることを最良とし、国を多く取り、いずれは天下もと考えていた信玄にとっては、実に戦いにくい相手だったといえるでしょう。

 戦国武将の中でも、謙信の出陣の回数は飛び抜けて多いのです。そして戦に強い。ところが、12年もの長きに渡って謙信と戦を繰り返しているうちに信長が名門今川義元を敗るという驚天動地の、まさに下克上が起きるわけです。早く日本海に出ねばと信玄が川中島の決戦を挑んだのもむべなるかな。しかし、謙信は強かった。その上失ったものはあまりにも大きかった。永禄12年、信長の仲裁により和議を結ぼうとするも謙信は無視。それでも信玄は北(日本海)はもうよいと方針の転換をしたのですが、時すでに遅し。三方が原までが精一杯でした。

 『武田信玄の古戦場をゆく』は、そんな信玄の足跡を追うように、山城を巡りながら温泉に入り郷土料理に舌鼓を打つとい誠に羨ましい旅を綴った本です。惜しむらくは、いくつかの山城に登頂失敗していることと、「妻女山を鏡台山から北へ延びる尾根が千曲川に突き出した、その先端部に位置している。比高は三十メートルしかないが、平坦な尾根が長くつづき、本陣を構えるには充分の広さがある。謙信は現在招魂社の本堂があるあたりに床几をすえたと思われるが」と記されていること。

 できれば、武田別働隊の経路を辿って妻女山から鞍骨城ぐらいまでは行って欲しかったですね。歴史探究には体力も必要です。そして、これはそれを説明できない地元の責任でもあるのですが、現妻女山(比高60m)は、戦国当時は赤坂山といい、本陣の妻女山は斎場山古墳のある513メートルの頂で、妻女山という名称は当時はまだなく斎場山と呼ばれていたということです。もうひとつ、せっかく村上義清の坂城行ったのであれば、激辛激旨の名物「おしぼりうどん」を食べて欲しかったですね。
 信玄の真の野望を解き明かそうとした良書だと思います。旅日記でもあり気軽に読めるのでお薦めの一冊です。

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旧埴科郡(現長野市松代町・千曲市)における山名の考察【妻女山里山通信】

2008-07-03 | 歴史・地理・雑学
 旧埴科郡における山名の考察をしてみると、尾根を境に反対側で異なる山名をもっているという例がいくつもみられます。山名の統一ということも実はなかなか難しいのです。また、山名が時代と共に変化した例もあります。明治13~15年頃調査の「長野県町村誌」の記述から見てみたいと思います。

 例えば、鏡台(臺)山から北へ延びる埴科山脈において、西条の戸神山は、千曲市倉科では、三瀧山といいます。その北の1042mは、埴科郡誌で規定している戸神山である可能性があり、さらに北の大嵐山は、倉科では杉山。さらに北へ御姫山、母袋、越山(下に清野の越という集落がある。松代では小丸山という)、象山と続きますが、なぜか御姫山は、倉科でも御姫山です。母袋山というのは、越山と象山の間、母袋城跡のことか。その上の字母袋の最高地点の尾根の肩か不明です。そこは、清野の字深山の最高地点で、清野から見ると三角の山頂に見えますが、実は鏡台山から続く戸神山脈の尾根の先端(肩)にすぎません。清野では深山と呼んでいます。

 清野氏の鞍骨城の支城、天城城のあった山は、千曲市土口では天城山、または手城山といい、倉科では坂山、岩野でも坂山、清野では倉科坂山と称しています。おそらく天城山よりも坂山の方が古い山名かもしれません。頂上には坂山古墳があります。生萱では入山といいます。誰でも薪を取りに行ってもいい山だったのでしょう。入山という呼称は、妻女山にもあります。

 象山の東のふもとには、黄檗宗象山恵明寺(おうばくしゅう ぞうざん えみょうじ)があります。この寺を創建する際に、明から承応3(1654)年に来日した 隠元禅師僧の故郷の地名をとって、山号を「象山」としたそうです。正しくは、「臥象山」といいます。桂林に同じような形の有名な山があります。須坂の臥龍山のように龍や象が臥せた形を形容した山名は、中国から伝わったものです。隠元禅師は隠元の名に由来するインゲンマメや蓮根、スイカなどの野菜や中国の精進料理「普茶料理」も日本に紹介しました。

 つまり象山と呼ばれるようになったのは、江戸時代中期以降で、それまでは竹山と呼ばれていたか(竹がたくさん生えていた)、西条氏の山城にちなんで西條山と呼ばれていたと思われます。ちなみに妻女山と西條山はまったく別の山です。戦国時代に妻女山という呼称はありませんでした。江戸時代の創作です。妻女山は、斎場山(齋場山)というのが正式名称です。祭場山というのは、土口と生萱村誌のみに出てきます。おそらく松代藩が創作した妻女山に対抗して、斎場山と読みを同じくして村民によりつくられた近世の名前でしょう。

 さらにややこしいのは、斎場山というと513mの円墳のある土口と岩野の境にある山頂でしかないのですが、妻女山という場合には、本来の斎場山をいう場合、赤坂山を指す場合、陣場平を指す場合とあるのですが、部外者にはなかなか区別がつかないと思います。多くの書籍(地名辞典や歴史書)の記載の混乱は、この呼び方と指し示す場所の違いに起因するものです。妻女山と書いた時には、必ずしも山頂を意味しないということなのです。旧清野村の字妻女山や旧岩野村の字妻女を指している時があるということです。本来の妻女山である斎場山は、旧岩野村の字妻女にあるのです。しかも、旧清野村の字妻女山や旧岩野村の字山浦(裏)には、それぞれ妻女という地名があるのですから、混乱します。地元でもこれらを正確に把握している人はほとんどいないと思われます。詳細は、妻女山の字名地名についてをご覧ください。

 ところで『コンサイス日本山名辞典』修正版1979刊を見たのですが、妻女山は(西条山)となっていて、長野市と更埴市(現在は千曲市ですが)の間にある山。標高は546mとなっているんですね。内容は、『角川日本地名大辞典』そっくりという感じです。これは日本帝国陸軍参謀本部陸地測量部制作の地図を元にしたものですが、この地図は誤りや恣意的と思われる捏造も多く非常に不正確です。546mの妻女山は、全くピークのない場所にさも山がある様に等高線が描かれている有様です。現地にも行っていないし、正しいかどうかの検証もしていないというところでしょう。こんな感じで誤った情報が、真実であるかのように流布していってしまうのですから、恐ろしいと思います。

 松代の東にそびえる東条の奇妙山は、一に佛師嶽とあります。さらに奇妙山より高い山として立石嶽と記載がありますが、埴科郡誌によると掘切山のことです。しかし、実際は同じ尾根ですが別の山頂です。掘切山は若穂側、立石嶽は松代側に山頂があります。また、笠原山という記述も出てきます。埴科郡誌には地図が添付されていないので位置は不明です。今度山名事典を見てみましょう。当時は正確な地図と方位磁石がなかったためか、方向の記述に間違いがかなりあります。

 東条の里、尼厳(雨飾)山の支脈にある天王山は、山というより丘に近いのですが、その山のある鋤崎(すきざき)は、往古は兒(児)玉崎といい、上杉軍が可候(そろべく)峠を越えた後に、加賀井から東条へ進軍するとき越えた峠といわれています。また、寺尾城のある城山は、その形から寺尾小富士の俗名があります。

 また、武田軍が狼煙をあげたことで名付けられた西条の狼煙山は、一に高テキ山とありますが、その山の形から本名は舞鶴山ではないかと思われます。狼煙山とついたので本来の山名が、下の白鳥山に移動したのではないかと思われるのですが確証はありません。江戸時代の絵図では、高遠山を西條山と記したものがあります。

 千曲市土口において、岩野の薬師山(笹崎山)は、北山といい、唐崎山(朝日山)は南山ともいい、生萱では、北山といいます。俗称は、単に方向のみで呼ぶ場合があります。ですから同じ北山でも、村によって指す山が違ってくるのです。

 鞍骨城のある鞍骨山は、倉科では清野城ともいい、清野山ともいうようです。倉科城(鷲ノ尾城)のある鷲尾山は、城山ともいいます。岩野では倉科尾根といいますが、では倉科山というかといいますと、倉科山は三滝山の下の字名になり別の場所です。但し、岩野の人は、倉科尾根を倉科山ということがあります。

 森将軍塚古墳は、大穴山にありますが、大穴郷(おうなごう)の名称の元になった山で、大穴山から雨宮、生萱、土口、岩野、清野、さらには西条までを大穴郷と称したという記述も残っています。森村の古清水寺には、信濃国縣庄大穴郷清水里森村という木札が残っています。国、縣、庄、郷、里、村の連記は珍しいということです。

 山の名称というのは、まず地元の人がなんて呼んでいるかというのが基本です。また、寺社のある山は、山号も調べる必要がありますが、全く別の山名を称している場合もあります。国土地理院の三角点の名称は、三角点の名称であり、山名と異なる場合もあります。間違って記載され、そのままになっている例もあるようです。

 岩野では、赤坂山は妻女山で定着しています。土口将軍塚古墳は荘厳山ともいいます。笹崎山は、薬師山で定着しています。斎場山だけがいつしか忘れられてしまいました。今後は、この歴史ある山名を広め、定着させていきたいと思っています。

 また、地域文化(歴史・自然・環境・開発・保護など)のために、地元自治体も地図作成者も、登山者やハイカー、自然愛好家だけでなく一般の市民の方も、自然地名に、もっと感心と責任を持っていただきたいと思うのです。

 ところで、松代藩には全国に自慢すべき古地図があります。信濃教育博物館にある「松代府内測量図」です。松代藩は、元禄の国絵図では不十分であるとして、嘉永3年(1850) 東福寺泰作に領内の測量と実測図作成を命じ、安政2年(1855)に完成させました。全11図、縮尺は約1/6000で、相当に緻密で詳しく、しかも美しい地図です。ぜひこれを印刷して販売して欲しいと思うのですが、いかがでしょう。

 妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。
 
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絶品! ニシンのオリーブ油煮(アヒージョ):新信州郷土料理【妻女山里山通信】

2008-07-01 | 男の料理・グルメ
 ニシンは、和食だと身欠きニシンの煮物で鰊蕎麦が有名。干物か半生で割とくせのある魚として認識されていると思います。鮮度のいいものなら塩焼きもいいのですが、洋風にオリーブ油煮にすると、これがあのニシン?と思うぐらい上品な白身魚。ノルウェーに行った時には、友人の家でニシンの酢漬けをカンパーニュに挟んでよく食べました。残った酸っぱい汁にタマネギのスライスを漬け込んだら、ポルトガル人の友人が絶賛してくれました。今回使ったのは、ノルウェー産の冷凍ニシンです。

 オリーブ油煮は、いわゆるオイルサーディンと作り方は同じです。ニシンは、まず三枚におろします。この時、数の子が入っているか、白子が入っているかが楽しみです。大きな骨はともかく、細かな小骨は火が通ると食べられるので、そのままでOK。三枚に下ろしたら、半身を半分に切ってフライパンに並べます。

 塩コショウし、白ワインをふり、つぶしたニンニク3片、タカノツメ1本、フレッシュローズマリーの枝1本、ジュニパーベリーの実をつぶして3~5粒。オリーブ油とサラダ油を半々ずつかぶるまで入れて、20分ほどマリネします。

 フライパンに火を付け、小さな泡がふつふつと立つぐらいの弱火で煮ます。火が強いと揚がってしまいます。あくまでも油で煮るのです。オイルサーディンだと小骨が食べられるまで40~50分必要ですが、ニシンは、20~30分ぐらいで充分です(小骨が食べられるのが目安。火力は見ながら調節を)。牡蠣や海老、ホタテやタコなら5分で充分です。ただ、スペイン料理のピルピルの様にしたければ、油が白濁するまで煮ます。するとエキスがほとんど油に移るので、それにパンを浸して食べます。これもおすすめ。
 数の子と白子は、上に乗せますが、すぐに火が通るので少し早めに取り出します。特に数の子は、火を入れ過ぎると硬くなってしまいます。

 今回のポイントは、ジュニパーベリーを使ったこと。ジュニパーベリーは、ヨーロッパ原産のヒノキ科の常緑針葉樹の杜松(ねず)の実で、暗紫色で松ヤニのような樹脂独特の香りがあり、ジンやリキュールの香りづけに使われます。ジビエなどの肉料理やドレッシング、ザワークラウトなどに使います。ガーリックやマジョラム、ローズマリーなど香りの強いスパイスと相性が良く、マリネやパイなどにも最適。ブランデーやジンなど、お酒との相性もとてもいいんです。薬効は、 むくみや水太りの解消、リウマチ、肝臓障害や糖尿病に有効だとか。

 さらに今回は、ニシンの風味漬けにローズマリーと合わせて使ってみました。小骨を食べてみて食べられるようなら火を止めます。小骨に火が通らない様なら若干火力を強めて。出来上がったら、そのまま冷やして密閉容器に入れ冷蔵庫で保存します。オードブルにもいいし、日曜のブランチにレモンをしぼってサンドウィッチにすると最高に美味です。パンはカンパーニュやライ麦パンが合います。いわゆるドイツ系のパンですね。ビールのつまみにも。トマトパスタに加えても美味。オリーブ油で煮る前に、市販の缶詰や瓶詰のように軽く燻煙してから調理しても美味しいと思います。
 オリーブ油煮は、覚えると応用が利いてとても便利です。特に牡蠣のオリーブ油煮は、絶品です。応用で牡蠣のオリーブ油煮のピザも。これは旨いです。タコと海老のオリーブ油煮もお勧め。カイエンペッパーを振ればイタリア南部のカラブリア地方の料理に。お試しあれ!

 色々な魚介類のオリーブ油煮の料理は、MORI MORI RECIPE・男の料理にたくさんあります。西洋料理の項目をご覧ください。最近はアヒージョとかピルピルとか人気ですね。国や地方によって使う食材や呼び方や食べ方にも色々ある様です。贅沢すぎますが、和風なら純正椿油を使って牡蠣とか牡丹海老とかのを作ってみたいですね。和風高級アヒージョですね。椎茸などのキノコや山菜なんかもどうでしょう。アイデアが膨らみます。

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コメント (4)
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