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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

岩野村の伊勢講と仏恩講(ぶっとんこう)。戌の満水と廃仏毀釈。明治政府の愚挙(妻女山里山通信)

2015-01-26 | 歴史・地理・雑学
 今回の記事は、自分自身の備忘録としての側面が強いもので、善光寺平南端にある千曲川畔の小さな集落の歴史の話です。状況に応じて、その都度加筆修正します。歴史や郷土史、民俗学や文化人類学に興味のある方には、面白い内容だと思います。名もない寒村の話なのですが、この記事へのアクセスがトップのBABYMETALの記事についで多いので驚いています。アンダーラインのある文は、全て過去記事や外部へのリンクです。過去記事も読むと、本を一冊読むぐらいの量になりますが、興味のある方は、ぼちぼち読んで下さいませ。
                
 川中島の戦いで有名な妻女山の麓に岩野(いわの)という集落があります。明治の埴科郡誌によると、古代は斎場山(旧妻女山)の麓にあることから斎野(いわいの)といい、室町時代の延徳年間(1489~1491年)に上野村(うわのむら)と改称されます。この時代に国中で疫病が大発生し、延徳から明応へ改元せざるを得ませんでした。当地でも疫病が猛威を振るったのかもしれません。そして、江戸時代中期の始め、寛文6年(1666年:松代藩領内の総検地あり)に現在の岩野に改称されました。最初の改称の理由なのですが、疫病だけではなく、斎野という名称そのものが疫病の流行と共に忌避される対象となった可能性もあります。
                
 斎場とは、古代においては祭祀(さいし)を行う清浄な場所という意味だったのです。「齋(いつき)の場」あるいは「ゆにわ」ともいわれました。隣の清野村の清野は、古名を須賀野(菅野・すがの)といい、清々しい野という意味。どちらも神聖なる場という意味でした。古代科野国の聖地だったのです。
 ところが、斎場という語は時代を経るに連れ、単に葬儀、あるいは葬儀場を意味する言葉に変容して行きます。殯(もがり)という古代の、死体が白骨化するまで見届け、死を受認するという風習も、大化の改新の薄葬令や仏教の伝来と共に消えました(その名残がお通夜)。そんなわけで、いつしか忌避の対象になってしまい、改称を余儀なくされたということでしょう。
妻女山の位置と名称について「妻女山は往古赤坂山であった! 本当の妻女山は斎場山である」
                
 明治の土口村誌には、斎場山の代わりに松代藩が付けたと思われる妻女山という名称は最も非なりと否定し、読みと意味が同じことから祭場山とすべきであると記しています。妻女山の妻女は、上杉軍が残してきた妻女を想いなどという伝説がありますが、そんな下世話な話ではなく、山上(御陵願平)に神社があり謙信が庇護していたという、信濃国造の妻であった会津比売命のことを想定して付けたのだろうと思います。山上の神社は、戦後武田軍により焼かれ、後に現在の山陰に再建との里俗伝があります。詳しくはリンクを。
                
 会津比売命は、『日本三代実録』貞観8(866)年6月甲戌朔条(最初の行)の記述に、「授信濃國-無位-會津比賣神 從四位下」と記されています。官位のない会津比売命に従四位下(じゅしいげ)の位を授けますよということです。かなり高い位を授かっています。その理由は、大和王権より初代科野(信濃)国造に任ぜられた武五百建命(たけいおたつのみこと)[古事記]の室(妻)といわれているからなのです。父は皆神神社の祭神・出速雄命(いずはやおのみこと)で、祖父は諏訪大社の祭神・建御名方富命(たけみなかたのみこと)。その父は大国主命です。この科野で、出雲系と大和系が結婚したのです。これはある意味衝撃的な出来事だったはずです。一緒に従四位下を授かった、草奈井比賣神というのは、会津比売命の妹です。さぞや美人姉妹だったことでしょう。
 会津比売命と、父の出速雄命(いずはやおのみこと)については、「松代の古名・海津という地名の起源」を。武五百建命と会津比売命については、以前の記事「古代科野国の初代大王の墓といわれる森将軍塚古墳の歴史検証」をお読みください。『會津比賣神社御由緒
                
 享保16年(1731年)、藩主は第四代真田信弘の時代に編纂された真田氏史書『眞武内傳』の川中島合戦謙信妻女山備立覺には、「甲陽軍鑑に妻女山を西條山と書すは誤也、山も異也。」とあります。戦国時代は口述筆記のため、読みが合っていれば漢字はどうでもよかったのですが、松代藩、怒ってますね。松代には西條山(にしじょうやま)という別の山がありましたしね。しかし、藩が命名した妻女山は、不評だったわけです。妻女山の初出は、現在調べた限りでは、江戸中期初めの正保4(1647)年、幕府の命により作られた『正保国絵図』です。制作には松代藩が関わっています。戦国時代には、妻女山という山名はありませんでした。恐らく西条山と誤記されることに業を煮やした松代藩が、改名したのでしょうが、この名称は全国的に全く普及しませんでした。マスコミもネットもない時代ですから当然です。
                
 いずれにせよ、斎場山という本名が、妻女山という俗名に変えられ、昭和の時代に赤坂山へその名称が移ってしまったということなのです。でも岩野は岩だらけでもないのに、不思議な村名だなと子供の頃に思っていました。祝野という名称があったという里俗伝もあります。まあ、優秀なコピーライターがいなかったということでしょうか。現代も、歴史を無視した大手ディベロッパーがつけた安っぽい町名が全国あちこちにありますね。歴史に学ばない者は、いずれ歴史に逆襲されます。歴史の記憶を失うことは、己を失うことです。文化を失うことです。
                
 岩野の集落は千曲川の畔にあるため、古代より度々洪水の被害に遭い、平安時代の貞観、仁和の大地震では、八ヶ岳が突然水蒸気爆発をおこし崩壊。千曲川・相木川を堰き止めて“大海(南牧湖)”や“小海湖”を造り、翌年大決壊して善光寺平までその被害は及んだといいます。小海湖は、江戸中期まであったようですが、恐らく「戌の満水」で決壊して消滅したのでしょう。当地は、その後も幾度も洪水の被害に遭っています。
                
 そして、なんといっても前述の江戸時代中期1742年(寛保2年)に起きた「戌の満水」では、村人の約3分の1にあたる160人(男58人、女102人、馬2頭)が亡くなり、家屋144戸が流出という未曾有の被害を出しました。松代藩最大の犠牲者を出したのです。原因としては、北流していた流れが、蛇行を無視して一気に西から村を襲った。増水の速度が異常に速かった。山際でいつでも逃げられるという油断があった。山際の方が海抜が低く逃げ遅れた者が流された。などが考えられます。
 その時の村のある組の伊勢講帳には、数人で伊勢講へ代参したことが書かれているそうです。それらの話を、『ムラにおける講集団とその役割」ー岩野地区の伊勢講を事例としてー』という論文にまとめた女性が近所にいます。彼女は調査のほとんどを、一昨年鬼籍に入った父から聞き出したそうです。父の葬儀には彼女も参列してくれ、お爺ちゃんがいなければ卒業できませんでしたと言っていました。私の息子が、祖父の話で卒論を書くと言ったら止めたでしょうけどね。卒業できなくても知らんぞと(笑)。父もなかなかやるなと思いましたけれど。それをきっちりまとめて論文にした彼女も凄いなと思いました。こちらで、その概論が読めます(19番目)
                
 その論文で彼女は、岩野の伊勢講が、信仰的な側面だけでなく、講仲間によって葬儀の際に野働きといって、埋葬の穴を掘ったり、納棺や棺を担いで墓地まで行き埋葬する役割があったということを記しています。葬儀において村人の相互扶助的な役割があったということです。内働きは、内輪(ウチワ)や隣家(リンカ)がやるわけです。その性格のためか、逆に土葬が無くなると同時に、伊勢講も消滅したと母は言っています。そして、奇しくもその最後の土葬となったのが、1972年に鬼籍に入った祖母だったのです。
 彼女は、幾度も聞き取りに見えた様ですが、父は歴史の話ができるのが相当嬉しかったのか、何度もその時の話をしてくれました。まあ、若くて可愛い美人の娘さんが、熱心に話を聞きに来てくれるのですから、それは楽しかったでしょうよ(笑)。しかし、卒論にするとは知らなかった様です。父が彼女の名前をお姉さんのそれと間違えていたというのはご愛嬌でしたが。父の最晩年に幸せな時間を作ってくれた彼女には、本当に感謝しています。非常に聡明な女性なので、臆せず色々なことにチャレンジして欲しいですね。彼女とは、民俗学の話を色々としてみたいのですが、なかなか会える機会もないのが残念です。
 ひとつは、彼女が論文で戌の満水以後に、村の代表が伊勢参りに(代参講)として行ったと書かれているのですが、それは何年後か。村の財産がすべて流失したので。旅行費用はどう捻出したのか。戌の満水以後に伊勢講が始まったと記されていますが、それ以前に松代藩の古文書に伊勢宮の記述があるが、それはどう説明するかなどです。伊勢講自体は戦国時代に始まり、江戸時代になり発達した経緯があるわけで。しかし、小さな集落で古文書も流失し、旧家にあるかもしれない古文書も埋もれたままで、非常に解析が困難なのです。
                
 そうそう、彼女の家の大本家の庭で、晩年の後藤新平と村の重鎮達が撮った写真があります(村会議員だった若い頃の祖父も)。彼はなぜこんな小さな村にわざわざ訪れたのか。以前の記事、【1930年頃の日本】OLD JAPAN-1930s と 東京復興の父・後藤新平。リンクの記事では、ナショナル・ジオグラフィックの貴重な当時のカラー写真のスライドショーと、後藤新平と祖父の写った写真も掲載しています。震災からの復興を成し遂げた現東京の父ともいうべき後藤新平が、腐敗しきった現在の政治家、官僚、財界人と放射能で汚染された東京を見たらなんと言うでしょうか。
                
「戌の満水」で、伊勢講が始まったと思っていたら、前記の『眞武内傳附録』(一)川中島合戦謙信妻女山備立覚において、上杉軍の斎場山(旧妻女山)布陣を書いているのですが、「赤坂の上に甘粕近江守、伊勢宮の上に柿崎和泉守、月夜平に謙信の従臣、千ケ窪の上の方に柴田(新発田)道寿軒、笹崎の上、薬師の宮に謙信本陣」と記されているのです。戌の満水より11年前の記述です。既に伊勢宮があったことが分かります。伊勢宮とは、西幅下の笹崎の近くにあったらしく、祖母がよく伊勢宮の畑に行って来ると言っていたと父から聞いたことがあります。その土地は後年洪水で流失しました。そのいずれかの洪水の際に、伊勢宮も流出し、その後も伊勢講は続いたのですが、伊勢宮は再建されなかったということでしょうか。どこかに移されてないかと色々探しているのですが、明治生まれがもういないので難しいですね。
「戌の満水」の後に松代藩が行った大規模な瀬直し(領民を守るためではなく、松代城を守るため)では、幕府に城普請の許可を得るとともに、一万両の拝借金を許されました。そのことが松代藩の財政を逼迫させ、領民に多大な辛苦を強いることになりました。領民の復興は後回しにされたのです。なんだか、福島第一原発事故後の日本と似ていますね。
                
 講自体は、戦国時代に組織が強化されたそうですから、当地の伊勢講も実はもっと古いのかも知れません。千曲川畔の各地には伊勢宮が数多くあります。加えて近隣の山には、御嶽講や大山講などの石碑や石像もあちこちに残っています。里山トレッキングをしていると、古墳や塚や、石碑や石像に遭遇することがあるのが楽しみなんです。
 だいたいこの地は川中島の戦いで戦場になったわけで、元からいた住民で戻ってきた者もいるでしょうが、現在の住民の多くは戦後移り住んだ武士が帰農したといわれています。我が一族も、小笠原長時に使えたとかとかなんとか。元は松本の林城辺りの出とかなんとか。分かっている最初の祖は、林采女(うねめ:宮中の女官を束ねる官職名。戦国時代以降勝手に名乗る風潮があった。佐久間象山は修理)といって、戒名を釈林斎(ここに斎場山の斎の字があることが重要)といい、薬師山の北山隧道の上に天正10年3月10日没と記された墓があります。墓の様式は戦国時代のものではなく、明らかに幕末ごろのもの。集落の苗字を見ても、元々は武田か上杉に使えた武士だろうと思われるものが多いのです。そんな系図の村ですから、講への参加も早かったかもしれないと思うのです。
                
 数ある講の中でも伊勢講は非常に盛んだった様で、特に60年周期の「お蔭参り」で検索すると分かるのですが、当時の伊勢参りというのは、本当に凄いもので、1705年(宝永2年)のお蔭参りでは、参詣者が330万~370万人。当時の人工が2800万人弱ですから、なんと日本人の8人に一人は参拝したということになります。伊勢講のメンバーで積立をし、くじ引きで当たった数人が代参するのが習わしだった様で、他の村の記録を読むと、農閑期に、短くても数ヶ月、東北や九州からだと半年も旅をした様です。山梨県上野原村の記録では、伊勢参りだけでなく、京都や奈良にも行っています。この熱狂ぶりは、経済を活性化する側面もあり、庶民の不満のガス抜きの効果もあって、幕府にも止められなかったのでしょう。実際に他国の文化を経験する事で、得られるものも大きかったはずです。無尽講や頼母子講なんていうのは、今でも残っている地域があります。
 たまたま蔵書にあるのを見つけて読み始めたのですが、岩波新書の江戸時代シリーズで、『「おかげまいり」と「ええじゃないか」』藤谷俊雄著。これは面白い本です。江戸時代の人々の熱狂ぶりが伝わってきます。と共に、「ええじゃないか」が結局革命には至らなかった事もよく分かります。民俗学や文化人類学は本当に面白いですね。里俗伝は、歴史家は軽視しがちですが、英雄史観では見えてこない時代を動かした人の営みが分かります。しかし、富や権力が一極集中して、たった1%の人間が世界を動かしているという現代は、人類史上最も異常な時代なんでしょう。
                
 彼女と話した時に、なぜ葬儀の相互扶助が仏恩講(ぶっとんこう)ではなく、伊勢講なのか聞いた?と訪ねたのですが、そこは分からなかったそうです。その際に、宗教的な問題じゃないかなと。色々な宗派があるし、伊勢講ならまとめ易かったんじゃないかなと言ったのですが、これが最近とんでもない間違いであることに気づきました。そもそも伊勢講と仏恩講では、まったく歴史が違うのです。信毎から出ている『「戌の満水」を歩く』というムックの中で、父が「仏恩講は、明治の廃仏毀釈で始まった(明治5年という記録)。戌の満水の犠牲者供養とは特に関係がない」と言っているのです。つまり、伊勢講の方が、遥かに歴史が古いということなのです。集落のほとんどは浄土真宗ですが、他の宗派の人も村の行事として参加しているそうで、宗教的な縛りは緩かったようです。また、村にあった正源寺は、戌の満水で流出しましたが、再建までかなりの時間を要したはずで、それも伊勢講が葬儀の相互扶助に用いられた理由かも知れません。
                
 元々日本では、農村を中心に「村落共同体」という集団単位で長い間生活していました。明治時代になるまで、現在の我々が概念として持っている「家族」という集団単位は存在していなかったのです。現在の「家族」につながる婚姻制度(一夫一婦制)が生まれたのは明治時代に入ってからです。1898年(明治31年)に「家制度」が制定され、武家の家父長制的な家族制度を基に、それを一般庶民にまで浸透させようと図ったのです。そのヒエラルキーの頂点には、もちろん天皇がいるわけです。この「家制度」は1947年(昭和22年)に、女性の参政権、日本国憲法の制定に伴い廃止され、現在の家族制度に繋がっています。つまり日本の一般大衆においては、「家族」はたった100年程度の歴史でしかないのです。それ以前、父子による血縁を重んじたのは、武家(あるいは武家の血筋)だけでした。名門の系統にいることが、唯一の存在理由(レーゾンデートル)の拠り所になっていたのです。
 多国籍企業による独裁的寡占の進行で、資本主義は完全に動脈硬化を起こしています。原価30円の紙を一万円と共同幻想に浸る時代は、そろそろ終わるのかもしれません。昔、ジャン・ボードリヤールの『記号の経済学批判』を読んだ時に、商業主義経済はいずれ破綻するのかなと、思った記憶があります。ありとあらゆるものが、商業主義の中で家族や人生さえも消費の対象となり、そこから逃れる術はない中で、家族とは何なのかを追求し、これからの人々の意識に合った新しい集団形態とは一体どのようなものが相応しいのか、考えなおす時代に来ているのでしょう。
シミュラークルとシミュレーション』J.ボードリヤール
                
 大正時代以降というのは、村落共同体が国家の圧力や、発達してきた経済市場の圧力で、徐々に浸食され始めた時代といえます。核家族は、都市部では既に大正時代に見られる(消費の爛熟。モボ・モガの出現)のですが、敗戦後、GHQの占領(植民地)政策の中で増大し、家族は生産の場と消費の場に分断されました。家庭は徐々に伝統的に継承されてきた教育機能を喪失した集団となり現代に至っているのです。皮肉な話ですが、恋愛至上主義ゆえに結婚制度が壊れ、家族が消失するという現象が、戦後の日本です。婚姻の商品化が、それに拍車をかけました。祖父母や父母は、神前でも仏前でもなく人前結婚でしたが、それが普通でした。核家族の脆弱さについては、厚労省もその問題点を指摘しているほどです。夫婦別姓、事実婚、同性婚、養子縁組や小さなコミューンなど、フランスや、友人がいて訪ねた北欧などは、既にかなり家族観や結婚観が変貌しています。誕生から死まで、全てのステージでメディアと企業が作ったライフプランに乗っかって生きるような(生かされるような)人生に疑問を持つ人が増えてきていると感じます。
                
 3組に1組が離婚し、7組に1組が不妊に悩み。家庭内離婚は数知れず。それ以前にお金があっても忙しく、お金がなければ貧乏で結婚できない現状。結婚できなければ子供も作れない社会です。昔は一人扶持(ぶち)は食えなくても二人扶持は食えると言いました。なぜそうでなくなったのでしょうか。共働きと家事分担が当たり前の時代に変わっても、「お金は男が稼ぐもの」という価値観に男女とも縛られ続けているのも問題ですが、働く既婚者をケアする政策が事実上、全くされていないのが最大の問題でしょう。少子化対策など全くないのが現状です。加えてこれから2016,17年には放射能パンデミックが必ず起きます。ウクライナの例を見ると、人口の大規模減少は避けられないでしょう。
 いずれにせよ、古代から家族という制度があったわけでもなく、不変なものでもなかったということです。興味のある方は、『日本婚姻史』を読まれるといいかも知れません。『共同体社会と人類婚姻史』未開部族の婚姻様式などから、人類500万年に亙る共同体社会の原基構造に迫るブログもお勧めです。
                
 江戸時代の共同体の話に戻りますが、江戸時代というのは誤解を恐れずにいうと、ゆるやかな共産体制だったといえます。年貢は個人で払うのではなく、村に課せられます。家屋敷地内の畑は別として、山林は個人所有ではなく、村の財産で、組単位で管理していました。我が家が所有する山林は、属していた組のものを、明治になってそっくり買ったものだと父も言っていました。田畑は個々の領主の所領でしたが、年貢は名寄帳を元に、村全体に課せられるものでした。年貢は飢饉の時などは相当に厳しいものだったようですが、農民が本当に単なる農奴であったのなら、伊勢参りなどできるはずもありません。江戸時代を貶める教育をしたのは、明治政府の策略でした。実際、年貢が租税として個人に課せられる際には、全国で一揆が起きています。特に松代藩は、戊辰戦争のために膨大な軍事費を使って財政を破綻させたあげくに、「松代騒動(午札騒動)」が勃発。大規模な一揆が起きました。農民数千人が松代城下に迫り、約200戸を焼きました。これにより真田幸民も謹慎処分になりました。その真田への反感でしょうか、大正時代に建てられた松代城の石碑には、松代城ではなく、海津城と刻まれています。
 明治維新というのは、実は英仏の金融勢力を背景とした「田布施システム」によるクーデターであったというのが真実です。こんなことは決して大学では教えません。戦後GHQが、全ての天皇陵を調査しその結果を発表しています。興味の有る方は、「田布施システム」、あるいは「孝明天皇 暗殺」で検索を。歴史はいつも時の権力者によって都合よく捏造されるものなのです。
                
 この集落の、もうひとつ特徴的な側面は、集落内の道がいずれも微妙に曲がっていて、綺麗な直線がほとんどないということです。カギ型に曲がった小路もいくつかあります。父は、昔はカギ型の箇所がもっと多かったと言っていました。特に集落に入ってくる道が全部曲がっていて内部が見通せないのです。その理由は、ここが笹崎の難所を利用した松代藩の外部に対する橋頭堡の様な役割の村だったからだと考えられます。松代には、「ま抜け言葉」というのがあります。「行きましょう」を「行きしょ」。「やりましょう」を「やりしょ」など。これは江戸初期に、真田信之は父・弟と別れて徳川方につき、その功によって父・昌幸が築いた上田城とその領地を継ぐことを許され、1622(元和8)年には松代に転封となったわけですが、完全には信用されていなかったから、外部の隠密を見破るために考えられたものだという俗説もあります。しかし、この曲がりくねった細い道は、車社会には全くそぐわないもので、住民は往生しています(笑)。

 上の写真は、仏恩講が行われる清水庵地蔵堂で、生前の父が私の息子達に由来や仏像の説明をしているところです。801(延暦20)年、征夷大将軍、坂上田村麻呂が正法寺と号した清水庵地蔵堂を岩野に建立と伝わる古刹ですが、古くは戌の満水で流出した荘厳山正源寺の境内にあったといわれています。地蔵堂の北の堤防の辺りの芦原という字に寺屋敷という地名があります。そこに正源寺があったということで、現在はその一部が集落の主な墓地になっています。ところが、前記の様に戌の満水で流出。貴重な古文書なども失われたといいます。
                
 後に斎場山の北西の麓、旧岩野駅の南に再建されましたが(再建年度は不明。地蔵堂と同じ文政の頃か)、後継者がなく戦後廃寺になりました。本堂は篠ノ井御幣川の太平観音堂として寄進されたのですが、2005年8月24日未明に全焼しました。ここでも貴重な古文書が失われたかも知れません。正源寺の山号の荘厳山とは、薬師山のすぐ東にある前方後円墳の土口将軍塚古墳のことです。正源寺と共に流出したと思われる清水庵地蔵堂は、1822(文政5)年に村出身の、中興釋妙証僧尼により再建され、同じく村出身の再盛透禅法師(宮本勘左衛門)により、1856(安政6)年に近村(不詳)より寄進を願い、百観音菩薩を安置したと伝わっています(8体損失)。再建は、なんと戌の満水から80年後のことです。いかに洪水のダメージが大きかったががうかがい知れます。戌の満水で被災者を出した他の村には、今も慰霊祭などの行事があるのですが、当地には石碑はありますが、慰霊祭などはありません。村人の3分の1が亡くなるという悲劇に、贖う気力さえ奪われたのでしょうか。言葉を失います。
                
 仏恩講は、明治5年(1872)に、村の宮本英重と山崎与一が伊勢参りに行き、その途中に京都の西本願寺に参拝し、六字名号を拝領し、始まったと伝わっています。しかし、明治新政府の神仏分離政策により廃仏毀釈の動きが高まります。それは神仏混淆(こんこう)の中で従属的立場に置かれていた神道側から仏教側への激しい攻撃を生み、寺院や仏像の破壊といった廃仏毀釈の動きをもたらしました。
 明治5年には、修験道を廃し、無檀無住の寺院庵堂の廃止の布告が出されました。岩野の地蔵堂でも透禅法師が廃却届けを提出。仏像仏具は正源寺へ移され、地蔵堂は村へ譲渡、透禅法師は還俗(げんぞく)し、宮本勘左衛門として帰農した旨が書かれています。
 しかし、地蔵堂は7年後の明治13年に再び認められ、『科野国仏堂明細帳』に記載されました。長野市内ではわずか16箇所と少なく、廃却されたお堂は400箇所にのぼります。その再建の基になったのが仏恩講の存在であったと考えられているのです。仏恩講を組織した宮本英重が、地蔵堂の本寺的な正源寺の檀家総代で、透禅法師と親戚関係であり、仏恩講が檀家に相当するような組織としてお堂の再興を願い出たということの様です。仏恩講が、本来の浄土真宗では相容れないようなお堂の行事を主体的に行っているのも、このような歴史に由来すると思われるということです。岩野の仏恩講は、地蔵堂を守ることを目的として作られたということです。(参考文献:『村人の祈りと集いの場~お堂の役割を探る~』長野市博物館)
                
 現在の堂宇は、1970(昭和45)年建築のもの。古い地蔵堂は、藁葺でした。お釈迦様の入寂した涅槃会(3月15日)に、上新粉で作った「やしょうま」を沢山奉納し、それを貰いに行ったことを思い出します。お釈迦様が臨終の際に、弟子のヤショに美味かったと言ったと父は話してくれました。「ヤショうまかった」が「やしょうま」に転化? ダジャレですか・・。他には妻のヤソダラという説や、痩せ馬が転化したという説もあるようです。「やしょうま」は、今でも人気があり、春になると、和菓子屋の店先やスーパーに並びますが、昔は各家々で食紅を入れたり、胡麻や青海苔などを入れたものを作ったものです。私は祖母の手伝いをして作った思い出があります。中国菓子の麻花兒(まふぁーる)も作りましたね。背が高く「おはなはん」が大好きなハイカラな祖母でした。やしょうまは、今でも信州の春を告げる郷土料理のひとつです。
                
 正源寺は、浄土真宗本願寺派(西)で、大本は上野国(こうづけのくに:群馬県)にあったが、戦乱を避けて当地に移ったという由緒があります。現在の住民の多くが檀家の千曲川対岸の東福寺にある専精寺(元は土口にあった)は、浄土真宗本願寺派(東・大谷派)です。専精寺は、海野山報恩院専精寺といい海野氏と深い関係にあるようです。正源寺も上野国ということで、真田や滋野、海野辺りと深い関係があるのかも知れません。東京の高輪にある榮山淨喜院正源寺(ばんえいさんじょうきいんしょうげんじ)は、慶長8年(1603年)、上野国新田郡出身の繁蓮社昌誉萬榮和尚によって木挽町に創建とあります。恐らく同根なのでしょう。これについては、現在調査中ですが、正源寺は、前記の様に、戌の満水で流出し、再建されたが廃寺になり、挙句の果てに全焼という哀れな末路を辿ったがために、ほとんど記録が残っていません。旧家に関連の古文書でも残っているといいのですが・・。
                
 正源寺より古い古刹として、薬師山(笹崎山)の瑠璃殿があります。正式名称は、笹崎山(一名薬王山)政源密寺といいます。「笹崎山薬師如来の縁起」については、長いので以前書いたリンクのページを参照してください。境内の広さは四町(4ha)余りで、七堂伽藍が建ち並び壮大なものであった。とあるのですが、どうなんでしょうね。ただ、こちらも何度も洪水に襲われ、山上に移ったり里に下りたりを繰り返していた様です。縁起には、戦国時代には山頭にあったが、武田の兵火に焼かれたとあります。謙信が寝屋としていたとも。そうすると御陵願平にあったのか。会津比売神社が当時山上にあったが、同様に兵火に焼かれたという里俗伝もあり、御陵願平、陣場平、堂平(下の絵図参照)などが山上の平地なんですが、それぞれがあった場所がどこなのか非常に興味深いところです。
                
 真ん中の写真、左の本尊は行基(668~749年)作といわれていますが、松代町史には、慈覚大師(円仁:794~864年)と記されています。行基作と伝わる木彫は、この地に多いのですが、行基ではなく弟子の伴 国道(ともの くにみち)を鎮東按察使として陸奥・出羽の東国へ赴任させている〔天長5年(828年)頃か〕ので、その途中に弟子達と立ち寄ったのかも知れません。戌の満水で流出したが、十二河原で見つかったという逸話まであります。百番観世音菩薩は、上杉謙信の家臣、宇佐美駿河守が安置といわれていますが、別の本では文政5年(1822年)安置と。右の派手な魚籃(ぎょらん)観世音菩薩は、幕末の松代藩の御用絵師、青木雪卿(せっけい)重明(1803享和3年-1903明治36年)の慶応2年(1856年)正月2日61歳の時の作。右の地獄絵図も恐らく彼の作でしょう。彼は我が家の斜め裏に居住し、当時名主をやっていた逸作爺と仲が良かった様で、肖像画を送られていますが、友の為にと書かれています。
                
 逸作爺は、子がなかった先祖が、善光寺御開帳の時にたまたま隣り合わせで意気投合した夫婦と縁ができ、養子に来た人物で、享和4年(~2月10日)か文化元年(2月11日~)(1804年)の生まれ。天保2年(1831)の古文書(妻女山の霊水騒動が起きた頃)、弘化4年(1847)の名寄帖、安政2年(1855)の古文書があり、描画は元治元年(1864)61歳とあることから、少なくとも27歳から51歳、あるいは60歳まで名主を務めたということになります。本家、大本家でもなく、養子でありながら若くして名主に選ばれたのですから、相当優秀で人望もあったのでしょう。時代は、天保の大飢饉、天保の改革失敗、善光寺大地震、黒船来襲と一気に幕末から明治へと移る激動期です。松代は佐久間象山の進言などにより尊皇攘夷に固まり、官軍として戊辰戦争に参加。その功績から明治新政府には松代から多くの人が入ったそうです。

 写真右は、薬師山の先端の笹崎。左の未舗装の道は、昔の堤防です。現在の堤防上(中央の家の土台の高さ)には6,7軒の家がありました。その笹崎の山際に、地元で金毘羅さんと呼ぶのが右の写真。仏恩講で管理をしているそうですが、世話人をしていた父も、起源や由来は分からないと話していました。幕末か、どんなに古くても文化文政の頃だと思います。なぜ金毘羅さんと呼ぶのかと思っていたら、近所の方に、堤防上にあった家の間に金比羅宮があったという話を聞きました。それがどこへ移設されたかは分からないそうです。もしかしたら現在秋葉社といわれているものが、それかもしれません。
 金比羅さんは、明治維新の神仏分離・廃仏毀釈が実施される以前は真言宗の象頭山松尾寺金光院でした。廃仏毀釈というのは、天皇制を神格化するために行われた文化破壊の愚行でした。南方熊楠も猛反対した合祀令も、文化と歴史を大きく歪め破壊しました。

 左に水祖(みおや)罔象女(みずはのめ)神。真ん中に秋葉社の石祠。右に水天宮。俗に金毘羅さんともいいます。これらがいつからここにあるのか分かりませんが、石碑を見るとそう古いものではなさそうです。いずれにせよ、皆水に関係のある祭神で(秋葉社は防火ですが、消火には水が必要)、この集落がいかに水害に悩まされていたかを物語っています。戌の満水で助かった我が一族の娘が、死に物狂いで岸に上がると、着物の袂に蛇がたくさん逃れて入っていたという言い伝えさえあります。

 秋葉社の中に置いてあった御札。八百万の神。右は、そこから、伊勢宮があったと思われる岩野橋方面を見たところ。

 左は、薬師山への登山道入り口と廃線になった長野電鉄屋代線の北山隧道。サイクリングロードとして復活の予定です。中と右は、登山口にある祠(何社か不明。上の薬師山瑠璃殿の里宮か。破風板の先端が屋根を貫く千木(ちぎ)が無いので伊勢宮とは違う? あるいはこれが金比羅宮か)と市大神の石碑。市大神は、大国主命ですね。会津比売命の曽祖父(ひいおじいちゃん)です。もうひとつ道祖神もあります。薬師山の祭り(おやくっしゃん)では、昔はここに飴細工や駄菓子やおもちゃの店が出ました。市の神様の石碑があるということは、昔はここに市が立ったのでしょうか。昔、父か祖母に、ここに千曲川で採れた魚を中心に市が立ったという様な話を聞いた気もするのですが、記憶が定かではありません。

 GHQが昭和23年に撮影した航空写真です。昔、私がある出版社(廃業)から買い、父に贈った掛け軸状の大きな写真です。赤丸の場所に昔は伊勢宮があったと思われます。明治43,44年の大洪水の前は、千曲川はこの写真より50mほど左を流れていたそうです。赤い線は、うちとあと二軒の旧家で金を出し合って岩野橋を造った場所。渡り賃としてわずかな金を徴収していたという話を聞いています。その袂に伊勢宮はあった様です。祖先が名主を30年余り務めていたという幕末の頃の話だと思います。50mもの河原があったので、我が家はそこに一反分(300坪=約992平方メートル)の伊勢宮の畑があったそうです。上の写真の赤坂山(現妻女山)の右側(東)は、旧清野村ですが、中沖と西沖にそれぞれ伊勢宮があります。
                
 青い線は、戌の満水が来る前の千曲川の流路の想像図です。恐らく戦国時代もこんな感じだったことでしょう。千曲川は、一級河川としては類を見ないほど水位の増減が激しく、その上犀川の流れに押されて、南側の山際に押し付けられるように流れていたのです。昔は堤防などないのですから、網目状に勝手に流れ、洪水の度に流路が変わったのです。川式(川敷)という地名は、川だったことを証明するもので周囲より低く、展望台から見下ろすと、2本の平行な畑道と共に、昔の流路が浮かび上がって来ます。赤坂山の文字の坂の字の上の山際には、下の絵図に描かれている千曲川の流路の跡である蛇池(または、ヒビ池)が残っています。現在は埋め立てられ高速道路の下ですが、私もここで雷魚を釣ったりザリガニを捕まえたりしました。小学校か中学校でやった理科の授業の、カエルの解剖のウシガエルもここで捕まえた様な気がします。
地名から読む戦国時代の千曲川河道(第四次川中島合戦当時の千曲川)
上杉謙信が妻女山(斎場山)に布陣したのは、千曲川旧流が天然の要害を作っていたから

 これは、江戸時代後期に榎田良長という人が描いた『川中島謙信陳捕ノ圖 一鋪 寫本 』(かわなかじま けんしん じんとり の ず)。出典:東北大学附属図書館狩野文庫(平成20年5月23日掲載許可取得済)。それに、地名や遺跡名、神社仏閣名を書き込んだものです。これだけ書き込めるほど正確に描かれているということなのです。上の写真とは天地が逆で、上が南です。新しい千曲川の流路や蛇池が描かれていることからして、この絵図が戌の満水の瀬直し以降、つまり1781(天明元年)より後に描かれたということが分かります。絵を逆さにすると、笹崎の上で二つの流れが合流しているなど、昭和23年当時とよく似ていることが分かります。絵図の赤い線は山道を、赤い点は兵士を表しているのでしょう。
                
 江戸時代後期になると、伊勢講だけでなく庶民の旅が盛んになるのは、十返舎一九のやじさんきたさんでお馴染みの『東海道中膝栗毛』がベストセラーになったことでも分かります。善光寺参りも盛んで、その土産に何種類もの川中島合戦絵図が描かれ売られたといいます。これもそのひとつかも知れませんが、他の絵図に比べると段違いに地形の描写が正確なのです。この榎田良長なる人物が、いつの時代のどういう人物か調べたのですが分かりませんでした。善光寺参りの旅人が、この様な絵図を買い求めて、戦国の世に思いを馳せたのでしょう。平和だからこその営みです。
                
 この絵図には、他に信玄の茶臼山陣取りの図と川中島古戦場の絵図があります。それらについては、以前の記事『上杉謙信と武田信玄「川中島合戦陣取りの図」』で紹介しています。ご覧ください。今は地滑りで崩壊してしまった茶臼山南峰にあったかもしれない山城も描かれています。赤い線の古道や、千曲川と犀川の渡しも描かれていて興味を引きます。いずれにせよ、歴史に学ぶという謙虚さがなければ、また同じような自然災害で、多数の犠牲者を出すかも知れないということです。広島、長崎、チェルノブイリに学ばなかった日本が、福島第一原発の核爆発やメルトダウンで、人類未曾有の放射能汚染のまっただ中にいます。そして、現在破滅の危機にある現状を見れば、自ずと分かるでしょう。政府や御用マスコミの情報だけを頼りにしていたら、生き残れませんよ。
 仏恩講に関しては、新しい資料も入手したので、いずれ加筆していきます。廃仏毀釈は、中国の文化大革命に匹敵するほどの文化破壊だったわけです。それに贖うために全力を尽くした村民の気持ちが仏恩講に込められていたのです。権力者は常に歴史を捏造すると心得よ。

この記事の続編『信州『松代里めぐり 清野』発刊と戌の満水など千曲川洪水の歴史(妻女山里山通信)』もぜひお読みください。
 
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村上春樹さんのピーター・キャットを中心とした70年代のクロニクル『国分寺・国立70Sグラフィティ』
 70年代というのは、学生運動がある程度沈静化して、アメリカ文化を若者に浸透させる新たな愚民化政策が始まった頃と私は捉えています。アメリカのグッズ紹介を中心としたカタログ雑誌『ポパイ』が創刊されたのもその頃。実は、その原点となった本があるのです。現時点で32ページの記事を掲載中。外国からのアクセスも増えてきました。孫崎 享さんの『戦後史の正体』導入部も必読です。
国分寺・国立70Sグラフィティ

[BABYMETAL] 矢沢もヒッキーも成し得なかった世界へのハードルを軽々と超えてしまった美少女達

【必見】マスコミ報じず!アメリカ政府が公表した放射性ヨウ素の汚染地図が凄まじい件!東京の千代田区で5154Bq/kg!
アメリカ政府が発表したストロンチウムの汚染地図がヤバイ!神奈川県を含めて関東各地で放射性ストロンチウムを検出!
 今年は、2016年問題の前年。昨年以上に厳しい現実を突きつけられるのは間違いない。情報弱者にならず、安全性バイアスにかかるべからず。太平洋沿岸の魚介類は、危険。汚染地の食材を積極的に使う「食べて応援企業リスト」。国産表示は危ない。「ホワイトフード」の食品汚染情報と安全食品。
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雪が降ったのでアニマルトラッキングに行ったが、ぽんぽこたぬきの足跡だけ(妻女山里山通信)

2015-01-17 | アウトドア・ネイチャーフォト
 15日はたった5センチの積雪でしたが、いわゆる善光寺平でいう上雪で、非常に重い湿雪でした。打ち合わせから帰る車のヘッドライトに雪がこびりついて、対向車の明かりがまるで提灯の様でした。いや怖かった。皆時速30キロぐらいのノロノロ運転。雪かきも難儀でした。昨夜から降り始めた雪は、パウダースノーで、10センチほど降ったのですが、朝7時から家の前と近所の雪かきを2回したのですが、いい運動になりました。そして、午後はアニマルトラッキングに妻女山へ。

 妻女山は10センチから25センチの積雪。バージンスノーかなと思ったら、既に展望台へ行った観光客か歴史マニアがいたようです。これぐらいだと四輪駆動のSUVなら、なんの問題もなく登れます。妻女山公園の駐車場に止めて林道を登ると、タヌキの足跡が続いていました。梅の花の様な足跡なので分かります。それと、キツネは比較的真っ直ぐに歩くのですが、タヌキはあちこちで道草をするのです。アニマルトラッキングをすると分かるのですが、野生動物も歩きやすい林道や登山道を頻繁に使うのです。時々ショートカットもしますが。ですから、林業のために林道を作ると、それを使って鹿が移動し繁殖し、食害が起きるという皮肉なことが起きるのです。最後のカットは、長坂峠から。黒い筋は千曲川。

 長坂峠から見る斎場山(旧妻女山)。ここを左へ300mほど歩いて、踏み跡を左へ50m登ると陣場平。真ん中の陣場平のカット。右の太い桐の木の右向こうに、わずかにこんもりしたものが見えますが、唯一残る積石塚古墳です。ここは、第四次川中島合戦で、上杉軍が陣城を七棟建てたと伝わる場所ですが、その際に他の古墳は壊されたのではないかと私は考えています。昭和30年代までは、ここは薬草畑や畑、果樹園でした。その後放置され荒れ放題の藪になっていたのですが、私が帰郷してから2年かかって除伐し、現在の姿になりました。森の奥のこの広いギャップは、鳥や昆虫の楽園になりました。ニホンカモシカもよく来ます。その後。今は亡き山仲間のKさんのログハウスへ。林道に山桜の倒木が。腐朽菌にやられた様です。8m位あり、重くて動きませんでした。

 途中から西の風景。中央少し左の森が雨宮坐日吉神社。そのすぐ右が雨宮の渡し。戦国時代は、ここを千曲川が流れていました。今は小川があります。現在の千曲川は、これより800mほど北を流れています。ログハウスは静まり返っていました。時折カケスが鳴くだけ。堂平大塚古墳は横穴式で、複数回使える様になっています。Kさん一家は、昔ここに住んでいたのですが、野菜などの貯蔵庫に使っていたそうです。ある時、怪我をしたのか、子供のニホンカモシカが中にいたと言っていました。今日は、残念ながらニホンカモシカの足跡はありませんでした。

 古墳から見る千曲川。さすがに北アルプスは見えません。手前から黒く見える国道403号線。上信越自動車道。国道18号線。しなの鉄道。北陸長野新幹線。奥に西山が見えています。幹線道路には雪はありません。

 戻る途中で見つけた山桜の折れた太い枝。腐朽菌もついています。大きいのは、ツガサルノコシカケでしょうか。いわゆる木材腐朽菌で、制ガン作用があるとかで、1キロ10000円以上で売られています。非常に固く、強固に付いているので、ナタとハンマーを使わないと採れません。私は、これやコフキサルノコシカケ、カワラタケ、マンネンタケなど、制ガン作用があるというキノコを、焼酎漬けにして愛飲しています。
 真ん中も腐朽菌がついて枯れた山桜。こういう樹木が増えました。排気ガスのせいで弱っているので、腐朽菌も付き易いのでしょう。なにせ高速と国道で、一日45000台も通るのですから。最後は、仲間とうちの山でやっている椎茸のホダ木栽培。春になるとたくさん出るでしょう。この春にまた種菌の駒打ちをします。市販の原木シイタケは、ちょっと怖くて手が出せません。

 妻女山展望台から北西を見ると茶臼山。右が茶臼山(北峰)で、左が地滑りで崩れてしまった有旅茶臼山(南峰)。手前の中腹の森は、茶臼山自然植物園。レッサーパンダで有名な、茶臼山動物園があります。右下には恐竜公園。手前の斜面は、リンゴ畑。フジ、秋映、シナノゴールドなどを作っています。

 展望台から南南東を見ると鞍骨城跡。左に二つある展望岩もこの季節は見えます。ここから約90分。非常に眺めのいい場所です。

 東を見ると、松代城下。左に上信越自動車道の松代SA。その左向こうに松代城跡。右の黒い森は離山。清野氏の離山神社があります。右へ象山への尾根。この尾根を登って、鞍骨城跡や鏡台山まで行くことができます。

 展望台から茶臼山。堤防上の道路も雪は溶けたようですが、畑の道はシャーベット状になっています。今夜はまた降雪があるようです。右は、高速をくぐった上のカーブにある上杉謙信槍尻ノ泉。冬期なので水は少なめです。野生動物も飲みに来ます。江戸時代には、霊水騒動も起きた泉ですが(江戸時代と場所は異なる。詳しくは、「上杉謙信槍尻之泉の新事実発見!妻女山湧き水ブームとは・・」を)、煮沸して飲むことをお勧めします。このカーブが曲者で、泉の水がこぼれて凍結すると、スタッドレスでも登れないことがあります。明朝は、また雪かきでしょうか。
 結局、雪は道路を薄く白く染めるだけでしたが、最低気温が-7度。非常に寒い朝になりました。天気は晴れなので、昼までには道路の雪は溶けるでしょう。
 
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最低気温-6度の妻女山。春の兆しの福寿草とニホンカモシカとの遭遇(妻女山里山通信)

2015-01-11 | アウトドア・ネイチャーフォト
 雪の少ない冬は、寒い。雪が降った方が最低気温は上がるんです。特に翌日が晴れの日は、夜間に放射冷却があるので、凍てつく寒さになります。そんな日に妻女山を歩いたのですが、午前10時というのに気温は-1度。長坂峠までは北面なので、-3度ぐらい。カーブは凍結していて、スタッドレスでも登れません。去年のような豪雪がないといいのですが。なんて書いていたら、もの凄い牡丹雪が降り出しました。これは明朝は雪かきでしょう。しかも湿雪なので重い。やれやれです。

 妻女山招魂社奥の広い駐車場に車を止め、右手の林道を登ること15分。長坂峠まで来ると南面はほとんど雪がありません。陣場平に向かって凍結した林道を歩いて行くと、突然檜林の中からシュッ!という威嚇音が。ニホンカモシカです。シロの双子の子供の兄妹の兄のプレット(黒)でした。妹のブランカ(白)は、夏毛になると、ヤギのように白くなりますが、プレットは冬でも夏でも顔だけが白く、対照的です。それにしても大きくなりました。もうパートナーを見つけて交尾する年齢でしょう。昨年の10月に、長野市のサイトで妻女山で熊の目撃情報がありましたが、彼でしょう。向こうを向いて地面の何かを食べていると、熊に見えます。10月に熊は、この辺りには出没しないからです。私も、ドキッと驚かされたことが幾度もあります。
 彼と別れて堂平大塚古墳へ。古墳の南斜面に、そろそろ福寿草が咲く頃と思いやって来ました。咲き始めのものがいくつか見つかりました。満開になると、パラボラアンテナの様に、太陽に向かって花びらを開きます。死に至る毒草なので、注意が必要です。誤って食べると、呼吸困難や心臓麻痺を引き起こします。

 最も早く蕗の薹(とう)が出る林道へ行ってみましたが、やはりまだでした。1月下旬でしょう。でも、裏の畑の一角では、もう出始めました。おしぼりうどんに合わせる天ぷらの材料にと、11個ばかり採りました。春の山菜の苦味は、熊やニホンカモシカも食べるデトックス(解毒)の食べ物です。帰りに斎場山(旧妻女山)へ。斎場山古墳ともいうという標識があり、五量眼塚古墳とあるのですが、斎場山古墳が正式名称で、五量眼塚古墳は、数ある俗名のひとつに過ぎません。丸い円墳の山頂は、上杉謙信が川中島合戦の時に、本陣にした場所と云われています。近年は、歴史マニアや歴女がよく訪れます。山頂からは、獣害対策で除伐されたために、飯縄山や戸隠連峰が見えるようになりました。眼下には、千曲川と川中島が広がっています。

 そこから西へ下ると、林内に落葉松の倒木の穴に出来た猪の巨大なヌタ場があります。凍結していました。猟で追われると、冬でもこの氷を割って体を冷やすのですが、140キロのオスが捕まってしまって、今は小さなメスと子供しかいないので、氷風呂は使われていないようです。その先の御陵願平へ。ここは、武田信玄に焼かれるまで、古代科野国の産土神である会津比売命を祀った神社があったと伝わる場所です。現在は、この下の薬師山トンネルの裏にひっそりと佇んでいます。山を下ります。6番目のカーブはこんな感じで、轍は完全にアイスバーンになっています。ここに降雪があるとまた滑ります。春先に溶けて凍結して雪が降ると、キャタピラーでも滑るほどです。

 妻女山展望台奥の招魂社。正式には、「妻女山頭鎮座松代招魂社」といいます。明治の村誌には、そう記されています。ここは日当たりがいいので、雪はほとんどありません。左後方には、茶臼山も見えます。夏には、神社の瓦屋根にオオムラサキがたくさん留まって昼寝をしています。時には、塩分を求めて汗をかいた指先に留まることもあります。

 帰路に撮影した陣場平。斎場山の後で、上杉謙信が七棟の陣小屋を建てたと伝わる平地です。100m四方はあるでしょうか。ここは昔薬草畑だったので、4月中旬すぎには編笠百合(貝母)が咲き乱れます。しかし、林道の50mぐらい奥なので、知る人はわずかです。ここも藪になって絶滅しそうだったのですが、私が2年ぐらいかかって除伐し、蘇らせたものです。野生動物の溜まり場でもあります。
 中は妻女山展望台後背の赤坂山古墳。善光寺大地震の慰霊碑があります。妻女山展望台は、私が長野市に要請して、周囲の高木を切ってもらいました。なにせ大きくなりすぎて何も見えなくなっていて、観光客からたびたび苦情を言われていたのです。コナラは、かなり上で伐採されているので、蘖(ひこばえ)が盛んに出てくるでしょう。樹木は、必ずしも伐採がその木の終わり(死)ではないのです。

 展望台から見る長野パルセイロの新スタジアム。千曲川の堤防上を走っていても、このスタジアムと二階席はよく見えます。2月末に完成の予定で、内覧会も行われるそうです。なでしこジャパンの国際親善試合も決まって、あとは完成を待つばかりです。

 展望台から見る戸隠連峰。標高は低くても有名な蟻の戸渡りなど、修験の厳しい山です。戸隠忍者発祥の地でもあります。ちびっこ忍者村には、息子達が小さい頃連れて行きました。忍者屋敷が面白かったですね。

 その右には飯縄山。ここも山岳信仰の修験の山で、飯縄権現は高尾山の薬王院がそうですね。烏天狗というのは、古代にイスラエルからいなくなった11部族のひとつが流れ着いたものとも云われています。飯縄権現は、上杉謙信も武田信玄も信仰した、戦の神様です。皆自分に都合のいいように祈ったわけです。また、飯縄山では修験者がこれで飢えをしのいだという「天狗の麦飯」が有名なんですが、中部地方の火山地帯に産生する微生物の塊のことで、藍藻・細菌・菌類の複合体といわれています。ただ、詳細はまだ分かっていないのです。藍藻が主体の様ですが、粘菌(変形菌)の可能性はないのでしょうか。

 そのずっと右に高社山。左にMウェーブが見えます。高社山を境に、北と南で天候が激変します。麓の白い所は、葡萄、桜んぼ、桃、林檎などの果樹園です。

 昨秋は、柿が大豊作だったので、柿酢を仕込みました。桶に入れて和紙で蓋をし、たまにかき混ぜるだけです。年を越して熟成したので絞りました。白いゼリー状のものができるのですが、なんでしょうね。これは、酵母菌のコロニーだそうです。柿酢は2リットルほど出来ました。柿酢は、高血圧や心臓病、二日酔いや生活習慣病に非常に効くというので、料理はもちろん、色々利用してみようと思います。
 最後に、昨日の埼玉スーパーアリーナでのベビーメタルのライブ◆BABYMETAL <LEGEND“2015”~新春キツネ祭り~> は、内外から2万人の大観衆を集め、大成功だったようですね。彼女達の今後の活躍に期待します。
[BABYMETAL] 矢沢もヒッキーも成し得なかった世界へのハードルを軽々と超えてしまった美少女達(この記事へのアクセスが増えていることでも、注目度の高さが分かります)
 
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AC長野パルセイロのホームスタジアム。昭和レトロの国楽館戸倉ホテル。古戦場八幡原(妻女山里山通信)

2015-01-05 | 歴史・地理・雑学
 今年の正月は、雪が少ない日が続き、新年から雪かきに謀殺されることなく、穏やかに過ぎました。2月末に完成間近のAC長野パルセイロのホームスタジアムは、2日から既に工事が再開されていました。こちらで、その完成予想図(pdf)が。こちらで工事の進捗状況が写真入りで分かります。基本サッカー専用(ラグビー、アメフトも)なので、スタンドとピッチの距離が近く、選手の声や体がぶつかる音も聞こえるでしょう。5月28日(木)には、なでしこジャパンの国債親善試合も決まりました。長野は、冬季オリンピックで国際的知名度も高いので、国際試合の招致も可能でしょう。拡張性も考慮ということなので、将来はフェイエノールト・スタディオンの様に、三階席もできるかもしれません。エコスタジアムに加えて、授乳室、喫煙室、座敷席、キッズルーム、車椅子席と、なかなか設備も充実しています。

 左は、長野市のサイトからお借りした完成予想図。上のpdfで見ていただくと、より鮮明にイメージできるでしょう。試合当日は、長野駅東口と篠ノ井駅東口からシャトルバスが出るようです。写真中。外観はほぼ完成し、内装や椅子の取付工事を行っていました。写真右は、北側の借景に松代東条の奇妙山を頂いたスタジアム。東方から見ると北アルプスが、南方から見ると戸隠連峰が、北方から見ると妻女山がと、背景に信州の山々がそびえる非常に眺めのいいスタジアムです。

 妻女山展望台から見たスタジアム。南面のアウェイ席が一階で、光や風が入る構造。スタジアムの左は、体育館とプール。その左は、冬期長野オリンピックの開閉会式が行われた野球場です。善光寺平の南端に位置します。手前には千曲川、奥には飯縄山がそびえています。驚くほど雪の少ない正月ですが、埋め合わせるように昨年のような豪雪がないことを祈るのみです。

 古くは首都東京の奥座敷や善光寺参りの精進落としの湯と言われた戸倉上山田温泉の「国楽館 戸倉ホテル」での新年会。赤松と破風造りの玄関が立派ですが、内装は昭和レトロの鄙びた風情がたっぷりと漂います。温泉は加温していますが源泉で、非常にいいお湯です。料理は、豪華ではありませんが、地元の食材を中心に品数は多すぎるほど。特に鯉こくは美味い。実は高校の同級生がオーナーで、もう何十年も通っているのに、今回初めて地下に卓球室があるのを発見しました。なんという迷宮の宿。
 近代的な宿で、豪華な小洒落た料理を求める人には向いていません。ペット同伴も大丈夫。窓からの景色はありませんが、すぐ裏手が千曲川なので、朝夕に散歩に出るのもいいでしょう。春は森のあんずの里へ花見に。初夏は冠着山(姨捨山)登山の基地に。夏は花火大会や鮎釣り。秋は姨捨の棚田で観月を。冬は姨捨駅からの夜景をと、色々な楽しみ方があります。詳細や口コミは、「じゃらん」や「トリップアドバイザー」などで。

 翌朝は、4~5センチの積雪がありましたが、晴れてすぐに大方の雪は溶けました。川中島の戦いの古戦場・八幡原(はちまんぱら)へ。第四次川中島合戦で、武田信玄が本陣を構えた所といわれています。実際に戦が行われたのは、これより2~3キロ西の上記のサッカー場がある南長野運動公園辺りで、近くには合戦場という地名も残っています。八幡原は、現在は街の中にある感じですが、40年前は周りじゅうが水田で、松林の中に寂しく神社があるだけでした。ここには首塚というものがあり、戦後、海津城将高坂弾正が、敵味方を問わず死骸を集め手厚く葬ったといわれています。明治41年に県道を作る際に塚を壊したら、鎖帷子や刀の一部が出たそうです。
 有名な川中島の戦いというのは、普通第四次を指しますが、第一級史料がなく江戸時代のバイアスがたくさん掛かっています。川中島合戦の逸話のほとんどは、江戸時代後期に川中島の人が記した『甲越信戦録』において初出する話で、面白い物語ですが、史実とは程遠いものです。有名な武田別働隊の「啄木鳥戦法」もそのひとつ。

 そして、その筆頭が、この上杉謙信と武田信玄の一騎打ちの話でしょう。俗に「三太刀七太刀之跡」といって石碑もあります。石像の馬は、人物と比べるとそう大きくないので、割りと忠実に再現されてはいますが・・。所謂、英雄史観が生んだ物語のひとつでしょう。
 当時の馬は木曽馬で、大河ドラマの様なサラブレッドではなく、肩までの高さが130~140センチのポニーサイズ。では非力かというとさにあらず。甲冑を着た武者を乗せて時速40キロぐらいで走れたそうです。それは、「日本在来種の木曽馬を用いての大鎧馬上武芸」という動画を見ても分かります。体重は、350~420キログラム。木曽馬は、山岳地帯の農耕馬ですから力はあるわけです。蹄が外向きなので、山の斜面も苦にすることなく登れるそうです。
 木曽馬は、2、3世紀に蒙古草原馬が、朝鮮半島経由で入ってきた様です。大室古墳群近くには牧島とか、信州には牧のつく地名がたくさんありますが、いずれも古代の馬の生産地だったのでしょう。古墳からは、馬具も出土しています。
 八幡原の駐車場からは、上杉謙信の布陣した妻女山(斎場山)も見えます。

【必見】マスコミ報じず!アメリカ政府が公表した放射性ヨウ素の汚染地図が凄まじい件!東京の千代田区で5154Bq/kg!
アメリカ政府が発表したストロンチウムの汚染地図がヤバイ!神奈川県を含めて関東各地で放射性ストロンチウムを検出!
 今年は、2016年問題の前年。昨年以上に厳しい現実を突きつけられるのは間違いない。情報弱者にならず、安全性バイアスにかかるべからず。

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妻女山(斎場山)の歴史については、「
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日本3大車窓駅の姨捨駅と初詣は雪降りしきる姨捨山長楽寺へ(妻女山里山通信)

2015-01-01 | アウトドア・ネイチャーフォト
 明けまして御目出度うございます。旧埴科郡や旧更級郡の旧家では、元旦の朝に雑煮ではなく、伝統料理の「おしぼりうどん」を頂く風習があるのです。太く長くということでしょうね。今回は、友人が作った幻の小麦、伊賀築後オレゴン(通称イガチク)をブレンドしたうどんを、小野式製麺機で作りました。前々日から足で踏み込んでのして熟成させてきたものです。これを、ねずみ大根などの辛味大根の絞り汁に味噌を溶いた汁につけて頂きます。この食べ方は、醤油がまだ無かった頃の、最も古典的な麺類の汁と言われています。旧埴科郡と旧更級郡は、麺類の故郷なのです。

 左はうどんを茹で上げているところ。中は、昼に作った野沢菜のカブのおやき。野沢菜のカブをついて、人参、キャベツ、海老、アサリ、ホタテを出汁、牡蠣ソース、XO醤、信州味噌、酒、味醂で炒めた具を、イガチクの生地で挟んで焼いたものです。馬鹿旨です。右は、大晦日に二十歳になった次男のお祝いに生まれた時に頂いたワインです。94年もののシャンベルタン。

 そして、元旦の午後に粉雪舞う中を初詣に出かけました。八幡の信濃国二之宮の武水分神社に向かったのですが、凄い人なので諦めて、上の姨捨駅に向かいました。写真は駅のホームからの棚田と五一山脈。間には千曲川が流れています。

 日本3大車窓駅とスイッチバックで有名な姨捨駅のホームから。鉄オタが撮影に陸橋の上やホームに来ていました。別に鉄オタではありませんが、近所にJR東日本に勤めて電車を運転したり車掌をしている美人の娘さんがいたり、息子達も小さな頃から京王線が好きだったので、鉄道は好きなのです。京王線のCMソングを千曲市出身の熊木杏里さんが歌っていますしね。ここから見る夕暮れの景色や夜景は本当に素晴らしいものです。
 中の写真。左の線路は長野から松本への直通線路で、姨捨駅に停まらない特急や貨物はここを直進します。右にある二本の路線が姨捨駅に入るスイッチバックの線路。右は、その姨捨駅。この線路の向こう側は行き止まりです。右下に篠ノ井線の本線が見えます。

 長野から松本行きの二両編成の列車が雪の中を3分遅れで登ってきました。スイッチバックしてバックで駅に入り停車中が中の写真。右は、その後4分遅れで雪煙を立てながら入ってきた松本発長野行きの普通列車。

 右、松本行。左、長野行。雪が激しくなり、善光寺平は見えなくなって来ました。ワンマンカーなんですが、二人乗車していました。降雪と、先日この下で車とワイドビューしなのが衝突する事故があったためでしょうか。それとも運転実習中でしょうか。サービス業というのは、人が遊んでいたり休んでいる時に仕事をしなけらばならないわけで、大変な仕事です。鉄道は人の命を預かっていますしね。まあ、それは普通の見方です。これらの列車に乗っている人には、それぞれの事情があるわけです。新年早々から仕事に行く人。やっと実家に帰る人。彼女と初詣。中にはお悔やみにに行く人もいるかもしれません。様々な人生を運ぶのが公共交通機関なのです。

 まず、長野行きが出て行きました。バックで先に進んで、左下の線路を下って長野に向かいます。その間、この前にある踏切はずっと閉まったままです。ちなみに、この時の気温はマイナス5度でした。次第に雪も激しくなってきました。

 両方の列車が去ったので、その下にある名月の里信濃三十三番札所第14番、姨捨山長楽寺に向かいました。写真は雪に煙る観月堂と姥岩。
「おもかげや 姥ひとりなく 月の友」松尾芭蕉
「わが心 慰めかねつ更級や おばすて山に 照る月を見て」古今和歌集
棄老伝説というのは、実はその起源は日本ではなくインドだと言われています。老人や子供を大事にしない社会は、いずれ滅びます。
正月は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」一休さん(妻女山里山通信)


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