モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

熊木杏里を聴きながら・・(妻女山里山通信)

2010-11-29 | BABYMETAL・LOVEBITES・ジャズ・宮本佳林・クラシック
 ここのところずっとPCの前から離れられない日が続いていました。重いアプリを使う時はできませんが、そんな時にBGMでよく聴いていたのが、YouTubeで聴ける熊木杏里の歌でした。カーテンを開けると斎場山の紅葉が輝いています。資生堂やユニクロ、京王線のCMなどでお馴染みの彼女の歌声ですが、実は同じ旧埴科郡の出身だったと知ったのはつい最近でした。

 彼女は、自分で作詞作曲もする所謂シンガーソングライターです。その少しハスキーな澄んだ声と、琴線に触れるような詩が、細かな神経を使う作業にはなんとも心地よいのです。その豊かな感性のルーツが、「熊木杏里 故郷更埴に帰る」を観て分かりました。杏里という名前なので、あんずの名産地・森の出身なのかなと思いましたが、山を越えた埴生小学校に通ったそうです。ムービーのバックにもしなの鉄道(旧信越線)や冠着山、有明山が出てきます。森に限らず松代藩の領地だった集落には杏の木がたくさんありますからね。彼女は10歳まで更埴(現在の千曲市)にいたそうですが、自分の歌の素地はここ(山)にあると言い切っています。彼女の感性を育んだ信州の自然に乾杯です。

 その彼女が愛してやまない信州の里山ですが、通っていた小学校が遠足で登る山が、東にある有明山です。北の中腹には東日本最大の森将軍塚古墳があります。戸隠がパワースポットとして脚光を浴びていますが、古代科野国の初代大王の墳墓といわれている森将軍塚古墳や、この地の産土神の墳墓といわれている斎場山古墳や皆神山の小丸山古墳も強力なパワースポットですよ。そういう場所に古代の人々は古墳を造ったのです。有明山がある南北に連なる長い山並みを五里ケ峯山脈(五一山脈)といいますが、そこをトレックしたルポはこちらです。有明山と古墳は3ページ目に出てきます。また、ムービーにも映っていた彼女の故郷の西にある山は、冠着山(姥捨山)といい、姨捨伝説と鑑月の名所です。こちらも登ったことがあるかもしれません。そのトレッキング・ルポはこちらです。彼女を育んだ信州の里山の自然と歴史がご覧戴けると思います。

 さて、そんな彼女の歌を聴いていたら、たまらなく山に行きたくなりました。昼休みに車を飛ばして妻女山へ。最短距離を登り山に入りました。森は落葉松の落葉が始まって陽に照らされた地面がオレンジ色に染まっています。キノコも落葉松の針のような葉の下に隠れています。この時期になるとキノコも少なくなり、枯れ葉の下に隠れてしまうので、いわゆるシロを知らないと採ることは不可能です。森の切り株に天然の大きなエノキダケを見つけました。エノキダケの人工栽培は松代で始まったのですが、その松代の里山に天然のエノキダケがあることを知って採取に来る人はほとんどいないでしょう。その姿は、栽培ものしか知らない人にはエノキダケに見えないでしょう。

 暖冬なんでしょうね。30分ほどの間に、エノキダケ、ムキタケ、ヒラタケ、シイタケ、ムラサキシメジが採れました。思わぬ大収穫でした。これらは酒、味醂、醤油、出汁で煮つけて信州の郷土料理蕎麦の「おにかけ」のトッピングになりました。真冬にキノコ狩りするのは、松代でも私ぐらいかもしれませんが、春までエノキダケが採れます。去年もでしたが、年末まで熊が歩き回っています。3月の中旬にはもう冬眠開けしています。熊の場合、正確には冬眠ではなく冬ごもりなんだそうです。冬でも暖かい日などには起きて歩き回る事もあるそうです。去年は12月26日に陣場平で足跡を見ています。この冬は餌不足なので、徘徊があるかもしれません。ヤマコウバシなどを除いて落葉が全て終わると、冬毛に変わったニホンカモシカに遭遇する事も多くなります。

君の名前/熊木杏里


長野電鉄屋代線90年 24.4kmの思い出 ありがとう屋代線 熊木杏里


星を追う子ども~Hello Goodbye & Hello〔熊木杏里〕【歌詞付】HD


彼女の歌は、私のYouTubeのお気に入りに何曲か入れてあります。

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★その他の信州のトレッキングルポは、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】をご覧ください。最新作の虫倉山では、北アルプスの大パノラマを掲載しています。

★古代のパワースポット・妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」。「きつつき戦法とは」、「武田別動隊経路図」など。このブログでも右下で「妻女山」での検索していただくとたくさん記事がご覧いただけます。
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錦秋の虫倉山から、北アルプス大展望アップ!(妻女山里山通信)

2010-11-26 | アウトドア・ネイチャーフォト
 【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】に、11月7日の長野市中条と鬼無里、戸隠、小川村に跨がる虫倉山トレッキングのフォトルポをアップしました。高校時代の旧友達と登ったのですが、当日はほぼピーカンの好日で、北アルプスのスカイラインがそれは奇麗でした。

 登りは鎖場が連続する「さるすべりコース」を選びました。初心者には少々きついコースですが、後から小学校低学年を含む家族も登ってきたので、経験者が的確に指導すれば、登れないコースではありません。ただ、下りには選ばない方が賢明でしょう。いずれにしても滑落すればただでは済まないのは北アルプスも低山も一緒です。むしろ、熊や薮こぎ、作業道や獣道と登山ルートの見分け方など、低山の方が迷うリスクや気遣わなければならないこともあります。奥の院の裏手の崖さえ登れれば、あとは急登にとりついてから、40-60分で山頂です。

 人気の山なので、頂上は次から次からハイカーが登ってきました。中にはなんと2歳の女の子もいました。頂上直下の崖下に靴を落としてしまったと泣いていましたが、回り込んで無事に拾ってもらえたようで安心しました。そうでないと彼女にとって虫倉山は、酷い思い出の大嫌いな山になるところでしたから。善光寺地震の大崩れで山頂の南面は崖だらけですが、地震の前の虫倉山がどんな山容だったのかは、もうひとつはっきりしません。地震の後は、松代藩の御用絵師・青木雪郷が克明に描いているのでわかりますし、現在の姿ともほぼ一致するので山抜けの様子も想像できるのですが・・。

 虫倉山の魅力は、日本の原風景を思わせる麓の美しい風景と、北アルプスをはじめ戸隠連峰から四阿山、浅間山、八ヶ岳から美ヶ原とほぼ360度の大展望が望めるということでしょう。手持ちのカメラは、マクロが身上で望遠は苦手なのですが、いつも通りパノラマ写真もアップしてあります。ご覧ください。







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★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、地衣類、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、森の動物、特殊な技法で作るパノラマ写真など。この夏の四阿山。根子岳からのパノラマ写真も。
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長野えびす講煙火大会 遠花火

2010-11-24 | 歴史・地理・雑学
 江戸時代に遊郭が客寄せに初めて大当たりしたのが起源という「長野えびす講煙火大会」ですが、季節外れの大きな花火大会でもあり、ハイレベルな煙火師が集まる大会として全国の花火マニアから注目されています。全てを見たわけではありませんが、今年は竹の姿を現した実に高度な技術の花火があり、それは見事でした。形を模した花火というのは結構あって、まあそう見ようと思えば蝶に見えなくもないねというレベルのものが多いのですが、これは違いました。驚きました。しかも美しい。

 冬の花火というのは、空気が澄んでいて映えますが、日本では花火はお盆の精霊を弔う行事として定着したので季節外れであり、清少納言にいわせれば「すさまじきもの」になるやもしれませんが、欧米ではむしろニューイヤーの花火など冬に打ち上げられることも多く、必ずしも夏のものではありません。ウディ・アレンの名画「マンハッタン」のオープニングでニューヨークの摩天楼に打ち上がる無数の花火のシーンが有名なように、真夏のイメージとリンクしません。
Manhattan (Opening)花火のシーンは、ガーシュインのラプソディ・イン・ブルーのサビとともに最後に出てきます。


花火の始まりは狼煙だそうですが、花火大会を最初に見たのは、天正9年(1582年)4月にイエズス会が最初だとか、天正17年(1589年)7月の伊達正宗が最初だとかいわれていますが、戦国時代ですから庶民が楽しめるようなものではなかったでしょう。本格的に花火大会が行われる様になったのは、慶長18年(1613年)8月に明の商人によって持ち込まれた花火を見た徳川家康からだといいますから、平和になった江戸時代からということです。いわゆる打揚花火は、1751年に開発されたとされているようです。それまでは、いわゆる大筒から火の粉が吹き出すような花火だったようです。長野は花火の生産地で、妻女山の山向こうにもあったそうですが、爆発して廃業したそうです。

 信州では、イベントや運動会の合図に盛んに花火が打ち上げられます。これは東京から来た人には信じられないことなのですが、当の信州人は子供のころからそれが当たり前に思っているので、不思議には思いません。ところで妻女山にも麓の小学校で打ち上げた花火の丸い殻がよく落ちているのですが、この「音花火」は非常に危険なんだそうです。「花火情報館」の「花火の威力と危険度」に詳しく書かれています。火薬がたくさん詰まった花火が、こんなにたくさん一般商店で売られているのは、中国と日本ぐらいじゃないでしょうか。欧米ではあり得ないことです。武器が作れますからね。子供の花火だって実は危険なんです。手持ち花火の温度は1200~1500度だそうです・・。昔、よく花火を分解しましたが、絶対やってはいけないと言われていた意味が、これを読むとよく分かります。

 昨年のブログで書きましたが、遠花火というのは夏の季語ですが、切なさや郷愁を誘うものでもあるようです。無常や祖先を弔う日本人の文化や感性とよく合うのでしょう。

「しずかさや 外山の花火 水をとぶ」
「大名の花火そしるや江戸の口」小林一茶
「音もなし 松の梢の 遠花火」正岡子規
「死にし人 別れし人や 遠花火」鈴木真砂女
「遠花火 人妻の手が わが肩に」寺山修司

「遠花火 歓声もなく 温もなく」
「遠花火 記憶の底に 散る夜かな」
「君の名を 呟いてみる 遠花火」 林風
まあ、色々な想いが交錯する遠花火ではあります。

★虫倉山のトレッキングルポは、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】にアップします。北アルプスの大パノラマや山座同定を掲載する予定です。現在製作中。

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森の貴婦人、ムラサキシメジ(妻女山里山通信)

2010-11-19 | アウトドア・ネイチャーフォト
 ムラサキシメジがたくさん採れだすと、信州の秋も終わりに近いと感じます。枯れ葉が舞い散る錦秋の森で、この美しい紫色の傘を見つけると本当に心が躍ります。時には何本も輪になって生えている事もありますが、落葉が盛んになると写真のように落ち葉の下に隠れてしまい、シロの場所を知らないと、なかなか見つけにくいものです。

 落ち葉を白色腐朽する落葉分解菌のキノコなので、主に広葉樹林の林内に出ますが、杉林や赤松、落葉松の混合林にも出る事があります。竹林に出る事もあるそうです。尾根筋よりは、落ち葉が積もる半日陰の沢筋の方を好むキノコです。なんでも南米を除く世界中にあるキノコだそうです。なぜ南米にだけないのでしょう。

 若い時の美しい紫色は、まさに森の貴婦人のようですが、この淑女はほとんどの場合お腹にウジ虫を飼っています。いわゆるキノコ虫ですが、丸く膨らんだ石突きの部分にいることが多いので、採取にははさみを持ってその部分から切り取ります。すると三つ四つの穴があいていて、中にウジ虫がつまっています。その場でとるのも面倒なので、帰ってから塩水に浸けて虫を追い出します。もっともキノコを食べている虫ですから、誤って食べてもまったく問題はありません。

 さて、このムラサキシメジですが、豆腐とすまし汁、味噌汁、鍋の具、きのこうどん、バターソテー、グラタン、クリームパスタなど色々合いますが、新信州郷土料理としておすすめしたいのが、ムラサキシメジのおやきです。作り方は、丸ナスのおやきと同様にムラサキシメジを刻んで油と味噌で和え、小麦粉の皮で包み、油で焼いてから蒸します。ムラサキシメジの香りと旨味が閉じ込められて、それは美味しいおやきができあがります。辛党は豆板醤を入れてもいいでしょう。フランスでは、ピエ・ブルーといって高級食材です。青い足という意味ですが、日本のムラサキシメジのように傘まできれいな紫ではないですね。厳密にいうと別種なのでしょうか。

 写真の真ん中にあるザルに入ったキノコは、ムキタケです。たった30分のキノコ狩りで2.5キロのムキタケをゲットしました。去年目をつけたおいたシロです。地元の人も絶対に入らない場所なので、当分荒らされる事もなく収穫できるでしょう。ムキタケの一部は、ムラサキシメジ、クリタケと一緒に手羽元と里芋で煮物にしましたが、いい出汁がでて後ひきの美味しい料理になりました。

 秋のキノコのシーズンはこれで終わりですが、まだシモフリシメジや冬には天然のエノキダケも出てきます。

★虫倉山のトレッキングルポは、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】にアップします。北アルプスの大パノラマや山座同定を掲載する予定です。現在製作中。

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虫倉山と松代藩(妻女山里山通信)

2010-11-15 | 歴史・地理・雑学
 妻女山展望台から虫倉山は、茶臼山の右奥にこんもりと見えます。松代城からも同様に見えます。虫倉山は、松代藩の領地でした。中条村、小川村までが松代藩の領地で、松本藩の美麻村との境には口留番所が置かれ、出入り口を取り締まっていました。また、虫倉神社は、松代藩真田家の尊崇が厚く、江戸幕府の老中となった第八代藩主幸貫は、定紋の幕、祭礼幟、鳥居を寄進。夫人が神簾、姫が千羽鶴を奉納しています。

 虫倉山の虫とは、蛇という漢字が虫偏であるように、古来は昆虫というよりは、蛇の象形文字でした。それも毒蛇の。蝮(まむし)と書かれている本が多いのですが、私は仏教の発祥地・天竺(インド)のコブラではないかと思っています。虫の本来の字は、蟲(虫という字が三つ)ですが、生物全般を表すものであったそうです。では、虫倉山の虫はというと、水神信仰の虫であり、この場合の虫とは龍のことです。倉は御座(みくら)、つまり神の座のことです。

 虫倉山は、不動滝に象徴されるように周り中にいくつもの沢を持ち、麓の山村を潤してきました。その信仰の中心地であったわけです。その北にある戸隠や飯縄山の様に修験の山ではありませんが、里人の深い信仰を集める山として大切にされ、また松代藩の尊崇をも受けたのでした。虫倉山の山腹には巨岩や洞窟がいくつもあり、それらの多くは信仰の対象になっています。虫倉神社の奥社裏にある夫婦岩などはその典型でしょうし、虫倉神社の元社自体が元穴といって洞窟です。

 洞窟は、原始においては住居であり、それが墳墓となり、修験の場となり、信仰の場となっていきました。洞窟は臨死体験の場であり、御霊と出会える場であり、黄泉の国への入り口でした。現在は、1847年5月8日(弘化4年3月24日)の善光寺地震や風化により消滅したり、辿る道が崩壊したりして麓から穴だけが見えるものもあります。虫倉山の南の麓にある太田の集落から真北を見上げると、山の中腹に大きな洞窟がぽっかりと穴をあけているのが見えます。周りは断崖絶壁で到達は極めて困難に見えます。あの洞窟が調査されたかは未確認ですが、ひょっとしたら数多くの石の仏像が安置されているのではないでしょうか。

 その善光寺地震で、古い太田の集落は虫倉山の大崩壊により消滅しました。11軒の家が埋まり54人の村民が亡くなりました。その様子は、善光寺地震から3年後の1850年(嘉永3年)、松代藩主真田幸貫の藩内巡視の折に、御用絵師・青木雪卿(せっけい)重明(1803享和3年から1903明治36年)により、克明に描かれています。当時の御用絵師というのは、現代でいうカメラマンのことでもあり、状況を克明に描写するのが重要な任務でした。これらの絵は松代の真田宝物館」に所蔵されています。雪郷は、我が家の近所で名主をしていた祖先と近しい関係にあったようで、友の為にと書かれた彼の祖先を描いた掛け軸が残っています。

 妻女山展望台から見る奇妙山は、中国からの黄砂により黄色くどんよりと霞んでいました。黄砂は、中国の工業地帯の上を飛んで来るため大量の汚染物質を含んでいます。その上、極めて微細なため呼吸器官や内蔵に悪影響をもたらすそうです。戦国時代や江戸時代も黄砂は飛んで来たはずです。当時、この空を黄色く染める謎の物質を見て、遥か中国から来たと想像できた人はいたのでしょうか。

★このトレッキングは、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】にいずれアップします。北アルプスの大パノラマや山座同定を掲載する予定です。

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錦秋の虫倉山で北アルプス大パノラマを堪能(旧中条村里山通信)

2010-11-09 | アウトドア・ネイチャーフォト
 高校時代の旧友との登山の三回目は、錦秋の虫倉山。太田の水車前に車を置いて、さるすべりコースから不動滝コースのループ。この8月に息子と登った時は湿度100パーセントの汗だく登山でしたが、今回は日本晴れのピーカンの下、色付いた錦秋の森を愛でながらの快適登山となりました。頂上では望んでいた通り北アルプスの大パノラマが堪能できました。

 それでも、温かい日が続いたせいでしょうか、紅葉の輝きはもうひとつ。寒さが足りなかったためか赤い色が少なく黄色が目立ちました。本来なら真っ赤に紅葉するはずのハウチワカエデも黄色がほとんどです。例年ならもう落ちているはずのアケビの実がいくつもぶら下がっていました。登り始めに畑仕事をしていたお爺さんに話を聞くと、たわわに実った柿を食べに熊が出没しているとのこと。さるずべりコースのやせ尾根で熊に遭遇したら逃げ場がないので、各自熊鈴を確認した次第です。猪も頻繁に出没し、野菜を作っても(特に根菜類)食べられてしまうので困ると言っていました。妻女山の麓もそうですが、山沿いや山間部の農業は大変厳しい状況になっています。

 さるすべりコースは、虫倉神社(総社)から登り、奥社の右横の崖の鎖場から本格的な山登りが始まります。その後も頂上まで断続的に鎖場が続き、なかなか厳しいコースですが、ほぼ尾根を直登なので時間はそれほどかかりません。登る時は集中しないといけませんが、鎖場の合間に振り返ると樹間から壮大な北アルプスが望めます。もっとも夏場は木の葉で展望はありませんが。

 狭い頂上からの展望は特筆すべきものです。北アルプスは白馬三山から鹿島槍ヶ岳、燕岳の向こうに槍ヶ岳、左に常念岳と、美しいスカイラインがすべて見えました。すでに10人ぐらいの人がおり、さらに次々に登ってきましたが、お目当てはやはりこの大パノラマでしょう。山頂には大きな望遠鏡があるのですが、前回は雲が厚く見ませんでした。今回覗いてみたのですが、なかなかピントが合いません。壊れているのかなと友人に託すと、いじっているうちにピントが合いました。まず鹿島槍ヶ岳の山頂、続いて槍ヶ岳。登っている人が見えそうなほどドアップで見えます。

 南西には手前に茶臼山。川中島を挟んで妻女山が霞み、そのずっと奥には根子岳と四阿山が重なり、右手には鳥居峠を挟んで浅間山の勇姿が見えます。南は雲が多く展望はもうひとつでしたが、蓼科山、赤岳と八ヶ岳連峰の山塊がよく見えました。展望を楽しみながら缶ビールを開けてのんびりと昼食。至福のひと時でした。一時間あまりの滞在の後、後ろ髪を引かれつつ下山。帰路は夏と同じく不動滝コースをとりました。個人的には柏鉢城跡に寄って太田に下りるコースも魅力的に思えたのですが、次回の楽しみにとっておくことにしました。

 太田に下って虫倉山を振り返ると、尾根の中腹に大きな洞窟が見えます。虫倉神社の元社は元穴といい洞窟だったそうです。よく見るとこの山腹にはいくつもの洞窟があるようです。おそらくそこへ至る道は崩壊してしまったところも多いのではないかと思いますが、中にはたくさんの仏像が安置されているかもしれません。クライマーの協力を得て、きちんと調査されると面白いと思うのですが。

 無事に下山後、車で小川村の「星と緑のロマン館」へ。途中「薬師洞窟」に立寄りました。立ち寄るといっても、虫倉山への薬師尾根コースを10分ほど登らなくてはならないのですが。直下に北アルプスと小川村を見渡せる展望台があります。「薬師洞窟」は、江戸時代に木食山居(もくじきさんきょ)が万体仏を彫った修行の地です。その後「星と緑のロマン館」で入浴。鉱泉の沸かし湯ですが、掛け流しで体が芯から暖まる非常にいい湯です。そしてなにより窓から見える北アルプスの全景が素晴しい。お風呂には私達の他に地元のおじいさんがいました。話をうかがうと、虫倉山の落葉松林は昔は大きなブナがある森だったそうで、とても良かったのだがということでした。

 浴後は、前の駐車場の縁から北アルプスに沈む夕日を鑑賞しました。そして「高山寺」へ。 「高山寺」は、戸隠道と呼ばれた街道沿いにある信濃三十三観音霊場第三十三番札所で満願の寺です。源頼朝が建久六年(1195)創建、江戸時代に木食山居が再建したという三重塔があります。今回は願い事を込めて鐘楼の鐘をひとつ打ってきました。アルプスのシルエットを借景として、暮れなずむ山里に低い鐘の音がいつまでも鳴り響いていました。

★このトレッキングは、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】の「虫倉山さるすべりコース」を御覧ください。北アルプスの大パノラマや山座同定も。




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キノコの瓶詰めを作る小春日和(妻女山里山通信)

2010-11-05 | 男の料理・グルメ
 晴れた休日の午後に慌てて20分だけ行ったキノコ狩りで大量のムキタケをゲットしました。そこは昨年発見したシロなのですが、去年は時期が遅くて採り損なってしまったのです。そこで今年は、今しかないだろうと直行しました。しかし、その場所は荒れた薮の奥にある狭い谷で、地元の人も絶対に行かない場所です。

 しかも、ムキタケは10mほどの土の崖上から倒れたコナラの樹に生えるのです。現地に着くと谷の反対側からもびっしりとムキタケが生えているのが分かります。しかし、相当に厳しい場所にあります。土の崖とはいえ最上部から転落したら10m以上落ちてしまいます。下から足場と移動方法を何度か確認して取り付きました。一度1mほど滑りましたが、倒木にしがみついてなんとか無事でした。そして採ったのが写真のムキタケ。帰りには去年見つけたシロでムラサキシメジをゲット。

 ムキタケは重さが2.5キロぐらいありました。大きな袋三つに分け、一つはすぐ鍋にして食べる様に冷蔵、一つは正月用にそのまま冷凍、最後の一つを瓶詰めにしました。ムラサキシメジも瓶詰めにしました。出汁・酒・味醂・醤油で煮ます。

 今年はキノコの中毒事故が頻発しています。ムキタケとツキヨタケを間違える事故も起きています。ムキタケは、キシメジ科ワサビタケ属ですが、表皮の下にゼラチン層があり、煮込むととろみが出ます。ツキヨタケは、ハラタケ目キシメジ科ツキヨタケ属ですが、標高1000m以上に生えるきのこなので、妻女山山系にはありません。

 ムキタケは、通常は黄色っぽいオリーブグリーンなのですが、成長するとツキヨタケのような茶褐色になります。ただムキタケという名前の通り、皮が剥けます。ツキヨタケは、縦に裂くと根元に黒いシミがあります。しかし稀にシミがないものもあるので、複数見る事が必要です。ムキタケとツキヨタケが同じ樹に生えている事もあります。

 ムラサキシメジのシロは、一年で1mほど移動するらしいのですが、どうも少しずつ下っていくようです。今年は菌糸を上の方に移し替えました。去年移し替えた場所で今年ムラサキシメジが発生したことに味をしめて移植をあちこちにしているのです。

 キノコは古くから日本人に食べられて来た食材ですが、意外な事に万葉集では一首しかありません。
「高松の この峰も狭に 笠立てて 満ち盛りたる 秋の香のよさ」作者不詳「万葉集 巻10-2233」
高松とは奈良の春日山の南に連なる高円山のことだそうです。秋の香というのは松茸のことでしょう。


 妻女山の麓では、名物の長芋のつる焼きの煙がたなびいています。10月末というのに緑色だった山々も、ここ数日の冷え込みでやっと色づいてきました。戸隠では雪が舞っていたと息子が言っていました。信州は、例年よりもかなり短い秋を終え冬を迎えようとしています。

★新信州郷土料理は、MORI MORI RECIPE(モリモリ レシピ)をご覧ください。山菜・キノコ料理、内臓料理、ブラジル料理、エスニック、中華の込み入った料理などの「男の料理レシピ集」です。特に本格的なアンチョビーの作り方を載せているのは、当サイトだけだと思います。手作りオイルサーディン、手作りソーセージもお薦めです。山菜料理も豊富です。豆料理もたくさんあります。
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昭和30年代テレビは生きていた!?

2010-11-03 | シネマ・テレビ
 テレビ時代を「一億総白痴化」と言ったのは故大宅壮一でした。それがマスメディアに急成長していくに従い「国民洗脳装置」になったともいわれたテレビですが、時の流れは速いもので、ネット化でテレビを見ない人が増大しました。若者の部屋にはテレビがないというのは珍しくない時代です。テレビは、視聴者がテレビの時間に合わせるということで成り立ってきたわけですが、それがビデオの普及で崩れ、ブロードバンドの普及で根底から崩れようとしています。今盛んにテレビを見ているのは、ネットやワンセグができない人ぐらいでしょう。ただし、それは老人とは限りません。

 そんな風に考えると、テレビ全盛期といえる昭和30年代から40年代は、ブラウン管の中には夢が詰まっていたなあと思わずにはいられません。白痴になろうが洗脳されようが面白いものは面白いで過ぎて行ったある意味幸福な時代でした。そんな昭和のテレビ番組がネットにはたくさんアップされています。まさにテレビの歴史を観る事ができるのです。もちろん、ドラマやバラエティだけでなく、ドキュメンタリーなどもたくさん観る事ができます。外国のものさえ・・。ドラマに映る背景の東京や日本の風景が郷愁を誘います。高度経済成長と共に失ったものが見えてきます。ほとんどが、まだ原発のない時代でしたが、核実験は世界中で行われており、すでに我々は被爆していました。子供の頃、雨に当たると禿になるぞと言われたものです。幸い髪の毛はまだ健在ですが、飛蚊症が酷い。チェルノブイリの後も飛蚊症が増えたといわれています。子供の頃、雨の中で遊んだり、サッカーをしたせいでしょうか。

●キャンディーズ コント「悪ガキ一家の鬼かあちゃん」part1

●昭和のテレビ番組 チビッコ大将(ちびっこ大将) 主題曲

●Little Rascals' Greatest Hits - Part 1

●1958 - Gekkou Kamen OP

●怪傑ハリマオ

●少年ケニア 連続テレビ映画 1960年

●忍者部隊月光

●【特撮】 おっさんホイホイ Ⅱ 月光仮面、白馬童子ほか

●ボニージャックス - 隠密剣士 Theme song of The Samurai Shintaro

●ナショナルキッド National Kid

●実写版 鉄腕アトム

●ニッポン高度成長物語 元番組不明/なつかしのテレビコマーシャル特集

●すばらしい世界旅行 OP 1985年版  山本直純

●前編「昭和の戦争と平和 ~カラーフィルムでよみがえる時代の表情~」


 検索すれば、まだまだたくさんあります。
 ところで、こちらの記事。グーグルがカバーしているインデックスは、400億ページを超えるそうです。グーグル検索ですべてを知れるわけではありませんが、この数字を見てもネット上の全情報を制覇するなど到底不可能だということが分かります。私のサイトを検索で訪れる人のキーワードを見ても、一般の人たちがいかに検索の技術が低いかが分かります。得たい情報にどうやって辿り着くか。それが問題です。

 ただし、それだけ膨大な情報量でも、グーグルが世界の全てではないのです。ところが今のままだとグーグルに載っていないものは世界に存在しないとなりかねません。「米国の一私企業が世界を牛耳る」。こんなことは人類史上未だかつてなかったことです。凄いなと思う反面、底知れぬ恐怖も感じるのは私だけでしょうか。いずれ何かの形でカタストロフィが来るような気がします。

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