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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

天然マイタケとウラベニホテイシメジの共演! 毒キノコも続々。同定は確実に(妻女山里山通信)

2016-09-24 | アウトドア・ネイチャーフォト
 一週間近く雨ばかりの日が続いていましたが、やっとあがったのでキノコ狩りと撮影にでかけました。厚く雲が覆っていますが降雨はなさそうです。長雨のせいで倒木や落枝があちこちに。途中、ログハウスのKさんに邂逅。ウラベニ一本採れたよと。期待して山中に入りました。

 足元でバタバタと大きな音が。見るとスズメバチがミンミンゼミを襲っています(左)。顔紋が確認できなかったのですが、25ミリぐらいなのでコガタスズメバチでしょう。長雨で樹液も出なくなったので、餌のターゲットをセミに変えたのでしょう。盛んに顎で噛み付いて仕留めようとしますが、セミも激しく抵抗します。結局、コガタスズメバチは諦めて飛び去って行きました(中)。帰りに寄るとオオスズメバチでしょうか、持ち帰った様でなくなっていました。
 秋になって樹液バーに訪れるのは、オオスズメバチだけになりました。そのオオスズメバチも長雨で樹液が出なくなった様でいませんでした。秋は幼虫が育って大量の餌が必要になるため働き蜂(全てメス・オスバチは生殖専用)は大忙しで巣の大きさも最大になります。そのため働き蜂のストレスも最大になり、攻撃性が増すのです。樹液が出なくなると、カマキリやコガネムシ、カミキリムシ、セミなども襲いますが、オニヤンマやオオカマキリには逆に襲われて捕食されることもあります。秋が深まり餌の昆虫が減ると、他のスズメバチも集団で襲う様になります。

 キノコがあちこちに出ています。ベニタケ科のドクベニタケ(左)。ハラタケ科のカラカサタケ(中)大きなキノコで食菌です。二度ほどフライやソテーで食べたことがありますが、特に美味しいキノコではありません。ハラタケ科には、猛毒のキノコもあるので同定は確実に。テングタケ科のカブラテングタケの幼菌(右)。基部で5センチぐらいですが、大きくなると傘の直径が25センチにもなります。不食。

 道なき山を30分以上歩いてやっとウラベニホテイシメジのシロへ。ウラベニホテイシメジ。傘に霜降り模様があります。(左・中)。ウラベニホテイシメジの軸は地中に潜っているので根本を持って折らないように抜きます。矢印から下が地中にあります。軸は太く中実。近くにあった毒のクサウラベニタケ(右)。軸は枯葉から出るため矢印から下が短いのです。軸はやや細く中空。傘は霜降り模様がなく艶があります。全体に華奢な感じですが、稀にウラベニの様に太いものもあるので要注意です。絶対に間違えない秘訣は、ウラベニホテイシメジと同定できても、軸が細く地中部分が浅いものは念のため採らないことです。

 20m位離れたところからでもすぐに分かりました。天然マイタケ。大きなコナラの根本に大小二株ありました。味は栽培種と同じですが、濃さが違うのです。今年採取したこの木からは、あと2〜4年は出ません。

 天ぷらと鍋がオススメです。出汁やポリフェノールを出すため水から煮ます。風味が強いので、ジビエやゴボウなど、味の強いものと合わせても大丈夫。きりたんぽ鍋やだまこ汁、チゲ鍋にも。炊き込みご飯もいけます。パスタやリゾット、グラタンやピザなど洋風もいけます。中華料理にも合います。

 ヤマザクラの立ち枯れにウスヒラタケ(左)。10m位の幹にビッシリ付いていました。こんな木が何本も。倒木にキクラゲ(中)。キクラゲは有毒のものがないので安心して採れます。トマトと卵の中華炒めに入れると最高です。帰りに、私のシロではない森に寄ってみました。そこで見つけたウラベニホテイシメジ(右)。長雨のせいでしょうか、今年はこんな風に軸が曲がったり、横に伸びたものが散見されました。結局、ウラベニホテイシメジは16本採取。今秋初めとしては上出来でしょう。

 林下には猛毒のドクツルタケがたくさん生えていました(左)。これも全草が猛毒のヤマトリカブト(中)。ハナオチバタケ(褐色型)(右)。不食ですが、可愛らしいキノコです。

 妻女山展望台の登り口にヤクシソウ(薬師草)の群生地。蕾は真上に林立し、花後はうなだれるのが特徴です。キク科オニタビラコ属の越年草。薬師草と書くように、薬師如来に由来する薬草です。腫れ物に効くそうです。別名は、苦味が強いのでニガミグサ(苦味草)。茎や葉を折ると白い乳液が出るのでチチクサ(乳草)。馬が好んで食べるのでウマゴヤシ(馬肥)などがあります。

 妻女山展望台から松代方面。右に象山と奥にプリン型の皆神山。左の奇妙山は山頂が雲の中。更に奥の根子岳と四阿山は、全く見えません。反対側の北アルプスも、もうずっと見ていません。さすがに秋晴れが欲しい信州です。

 雨ばかりなので、現在所有している主なナイフを撮影してみました。一番上はバックの特別モデルで、これはほとんど使いません。二番目は、アルマーの軍用ナイフで、ヘビーデューティーな最も実用的なナイフです。相当ハードな使用にも耐え、サバイバルナイフとしても使えます。三番目は、ウェンガーのチャンピオン。スイス・アーミーナイフといえばこれとビクトリノクスが有名ですが、ウェンガーはその傘下になり、ブランドもなくなりました。ハンドルが赤いのが特徴ですが、これは黒いので何か特別モデルだったのでしょうか。キャンプやBBQなどに便利です。四番目は、30代の頃に自作したナイフです。加工だけでなくデザインも自分でしました。ブレードは、フルテーパードタングで、ハンドル部分は4本のピンで留めています。持った時にちょうど中指に重心が来る様になっていて、非常に使いやすいナイフです。現在、シース(鞘)が無いので、手持ちの皮で自作したいのですが、なかなか時間が取れません。それと手入れが不十分なので、ケアが必要です。錆防止には、純正椿油を極薄く塗っておくといいそうです。

 里山に撮影に行く時に携帯するツールの中から選んでみました(右)。左から剪定バサミ。ヤマガシュウやエビガライチゴなどの棘のあるバラを切ったり、目を突きそうな枯れ枝を切ります。次は熊鈴。2つがぶつかり合ってよく鳴ります。カウベルタイプよりこちらの方が高い音が出てよく響きます。三番目はホイッスル。熊鈴が鳴らない時や、非常時などで使います。四番目はサバイバルツール。コンパス付き。もう一種類持っています。五番目は、ガイガーカウンター。こんなものも必要な嫌な時代になりました。最後は、ハチに刺された時に使う毒抜きのためのポイズンリムーバー。これは必須です。

 キノコは、図鑑や生半可な知識で同定すると、いつか酷い目に遭います。原則持ち帰ってからではなく現場で同定します。発生した場所の環境が重要なのです。怪しいキノコは保健所に持って行って鑑定してもらってください。そして、福島第一原発の事故後、日本のキノコは汚染されました。原発を推進してきた政府と東電が日本の伝統食文化を破壊したのです。高汚染地のものは食べられません。そうでない場所のものも必ず除染してください。塩水に浸けてから茹でこぼしが基本です。
ウラベニホテイシメジとクサウラベニタケの見分け方 :プロでも間違えやすいキノコ。同定は確実に。確信が持てないなら採らないで。死ぬことはないが激しい嘔吐と下痢に襲われます。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。


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■『国分寺・国立70Sグラフィティ』村上春樹さんの国分寺「ピーター・キャット」の想い出。
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クモガタヒョウモンの日向ぼっこ、ヌルデの美しい実、キノコ続々。猛毒のキノコも(妻女山里山通信)

2016-09-18 | アウトドア・ネイチャーフォト
 今年の信州の春は、例年より10日から2週間も早く始まり、アッという間に終わってしまいましたが、この秋はゆっくり目で進んでいる様です。しかし、台風16号が本格的な秋を連れて来そうです。長雨になる前に、妻女山山系の撮影に行きました。今回は、普段行かない山奥まで足を伸ばしました。急斜面のザレ場の森が連続で筋肉痛になりました。

 カメムシの仲間のアカサシガメを発見(左)。鋭い口先を小さな甲虫や蝶や蛾の幼虫に突き刺して体液を吸います。セミもこの仲間。不用意につかむと刺されることも。成虫は木の皮の裏で越冬します。イチモンジセセリがゲンノショウコ(現の証拠)で吸蜜(中)。花が小さく一回で吸える量が少ないためか、忙しなく花と花を行き交います。体調5ミリぐらいの極小のクモ(右)。網を張らないのでハエトリグモ科かなと調べると、マミジロハエトリのオスと判明(右)。忙しなく動くのでピントが甘いのが残念。再撮したいのですが、発見するのが大変。

 ゲンノショウコで吸蜜中のミナミヒメヒラタアブ(左)。似たホソヒメヒラタアブは8ミリ以下とのことでミナミヒメヒラタアブとしましたが、正確な同定は交尾器なども観察が必要で、かなり困難です。両方共オスの方が胴体が細いので、これはメスでしょう。
 センニンソウ(仙人草)で獲物を待ち構えるイオウイロハシリグモ(中)。やはり網を張らないクモです。左のハナアブなどを狩ります。クモは脚が8本、目が8個あり昆虫ではありません。以前、ナショナル・ジオグラフィックに、クモは体に比べて脳が大きく、体の隙間にはみ出している種さえあると。そのため、小さなクモが大きく緻密な網を張れるという記事がありました。蜘蛛の糸は強靭で、太さ1センチもあればジャンボジェットが釣れるという記事を読んだことがあります。人工的に蜘蛛の糸を作る技術も開発されたので、将来性は高いでしょう。
 ヤクシソウで吸蜜中のイチモンジセセリ(右)。ヤクシソウは、花後にうなだれるので見分けがつきます。

 ヌルデ(白膠木)の赤い実。まだ完熟ではありません。ウルシ科なので過敏な人はかぶれる場合もあります。完熟した実は白く粉を吹き、酸塩味があるため、信州ではこれを煮詰めて塩の代わりにした地域があるそうです。
 葉や葉軸にある種のアブラムシが寄生し、ヌルデミミフシやヌルデハイボケフシ、ヌルデハイボケフシなどの虫癭(ちゅうえい)ができます。このコブを「五倍子(ふし)」といい、タンニンを多く含み、黒色染料の原料になります。晩秋には、イカルなどの鳥が食べているのを見かけます。
「足柄の 吾を可鶏山(かけやま)の かづの木の 吾をかつさねも かづさかずとも」(万葉集:詠人知らず)
 かづの木(ヌルデ)を男性にたとえ、私を誘ってくださいという歌だそうです。

 シマハナアブのオス(左)。果樹の受粉に利用されるハナアブです。ネオニコチノイド農薬の空中散布をすると、真っ先に絶滅する昆虫です。ミズヒキの茎にぶら下がった小さな虫(中)。カメムシの仲間のツマグロオオヨコバイでした(右)。ツマグロヨコバイは稲の害虫ですが、ツマグロオオヨコバイはそうではない様です。東京の子供たちはバナナムシと呼んでいました。ヤマクワ、キイチゴ,ヤマブドウの木などを吸います。この虫も不用意につかむと刺されます。

 ヤブサンザシの実が成っていました(左)。1mほどの低木で、葉は手の平型。果実は生食はできない様ですが、果実酒にはなるそうです。この秋は、ガマズミの実が不作です(中)。酸味のある抗酸化作用の高い美味しい果実酒ができます。毎年作っていましたが、今年は無理そうです。クマノミズキの実も熟して来ました(右)。完熟した実は、色々な鳥たちの餌になります。

 センニンソウも結実し始めました(左)。人が踊っている様に見えます。ヤブマメの花(中)。地上の鞘の豆と、地下にも落花生の様に豆ができますが、アイヌの人達は食べたそうです。茹でて油を付けていただくとか。美味しいそうなので食べてみようかなと思います。春先に掘り出すそうです。ツトガ科のシロオビノメイガ(右)。幼虫の食草は、フダンソウ、ホウキグサ、アカザなど。ホウレンソウも食べるので、農業では害虫です。吸蜜するそうですが、この時はぶら下がっているだけでした。

 クモガタヒョウモン(雲形豹紋)が日向ぼっこ中。タテハチョウ科ミドリヒョウモン属。6月から10月に発生しますが、盛夏は休眠します。幼虫の食草はスミレ類。妻女山山系では、ミドリヒョウモンやメスグロヒョウモンはよく見ますが、クモガタヒョウモンは珍しいかも知れません。今まで見つけても、高速で飛び交っていて全く撮影できませんでした。この日は雲が多く気温が下がったので、日向ぼっこをしてくれました。

 妻女山にあるのはほとんどノコンギクなのですが、長坂峠だけにこの群生地があります。これは草高も低く花もやや小さめ。ユウガギクでしょうか、シロヨメナか。野菊の同定は本当に困難を極めます。
鏡台山の柴平樽滝線で野菊の同定調査。完全にど壺にはまりました(妻女山里山通信)
 シソ科のイヌコウジュ(犬香薷)(中)。葉の鋸歯の数が細かく10以上あるのでヒメジソではないでしょう。乾燥させて薬用風呂に。「和漢三才図絵」、「本草図説」にも掲載。この山系にはナギナタコウジュも咲きます。ミツバアケビ(三葉木通)の実がたくさん成っていました(右)。
アケビのブルーチーズ入りミソバーグ(オリジナルレシピ) 信州味噌にブルーチーズを合わせたところが、まさにミソ。味噌とブルーチーズのはんなりとしたコクのある香りが漂ってきて食欲をそそります。

 イノコズチ(猪子槌)別名はヒカゲイノコズチ(左)。いわゆる引っ付き虫の典型で、動物にくっついて広がる動物散布植物。イノコズチにできた虫えい(イノコズチクキマルズイフシ)(中)。生薬名の ゴシツ(牛膝)は、この虫えいの形が牛の膝に似ていることから。根を干したものが牛膝で、利尿・強精・通経に効くといわれます。ヒナタイノコズチに比べると茎の毛がほとんど見えません。キノコ狩りなどで不用意にこの草むらに入ると酷い事になります。代表的な引っ付き虫には他に、ヌスビトハギ、チカラシバ、センダングサ、オナモミなどがあります。
 帰化植物のマルバフジバカマが咲き始めました。アサギマダラが吸蜜していたのですが、気付かず近寄ってしまい飛び去ってしまいました。

 林道の真ん中にイグチ科の大きなキノコ(左)。アシベニイグチの仲間でしょうか。同定できていません。コナラの森にあった、やはり大きなイグチ科のキノコです。ニガイグチの仲間でしょう。ニガイグチは誤って一本でもキノコ鍋に入れると苦くて全部食べられなくなります。これがクサウラベニタケ(右)。ウラベニホテイシメジと間違いやすいキノコです。激しい嘔吐と下痢をもようします。
ウラベニホテイシメジとクサウラベニタケ(妻女山里山通信)プロでも間違えやすいキノコ。同定は確実に。確信が持てないなら採らないで。

 薄暗い林下に怪しく佇むシロオニタケの幼菌(左)。猛毒です。次は別名死の天使といわれるドクツルタケ(中)。カエンタケなどと違い触ったぐらいでは大丈夫ですが、誤食すると死に直結する猛毒のキノコ。致死量がわずか8グラムですから、大きなものだと7〜8人分の致死量になります。今回林内中にたくさん生えていました。妻女山山系では、7月と9月に大量に発生します。テングタケ科のキノコと白いキノコは、猛毒のものが多いので採らないことです。最後にやっと食菌を発見。ウスヒラタケです(右)。煮ても炒めても美味しいキノコです。

 カワラタケ(瓦茸)。木材腐朽菌で、タマチョレイタケ科 シロアミタケ属。制癌作用があるということで薬用に用いられます。私は煮出して飲んだり、焼酎漬けにして飲用しています。新陳代謝が促進され美肌効果もあるとか。これは非常に綺麗で裏も真っ白です。老菌になると裏が茶褐色になります。

 根本の太さが70センチぐらいあるヤマザクラが地上3mぐらいのところで折れていました(左)。シラカバやオニグルミ、コナラの木を巻き沿いにしています。幹の中は虫に喰われてボロボロでした。いずれキノコが大量に出るでしょう。友人のログハウスで昼食(中)。曇っていて北アルプスは見えず、風景も霞んでいます。帰りに立ち寄った樹液バーはオオスズメバチが4匹(右)。子育てに忙しく相当大変そうです。これからの季節はより攻撃的になるので要注意です。拙書でも書いていますが、黒髪や黒い服は厳禁。甘い香りの化粧品やキャンディーも駄目です。威嚇されたら速やかに立ち去ること。万が一に備えて、毒抜きのポイズンリムーバーも必携です。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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「戊辰戦争」の戦没者を祀る妻女山松代招魂社と松代藩の戦没者名簿(妻女山里山通信)

2016-09-14 | 歴史・地理・雑学

 9月の第二日曜日(今年は11日)に、妻女山松代招魂社で戊辰戦争以降の戦没者を慰霊する祭が行われました。早朝から煙火が打ち上げられていました。清野村史には、招魂社「東西十四間五尺七寸、南北二十五間、村の西の方、妻女山の中腹にあり。岩野村に跨(またが)る。」とあります。つまりここは妻女山の頂上ではないわけです。「一般にここを妻女山と呼ばれて久しいが、正しくは赤坂山である。」とも記されています。本来の妻女山は、これより15分ほど登った土口が見える長坂峠から更に西へ距離100mほど登った斎場山古墳(円墳)がある標高512.8mの山です(長坂峠の目の前に見えます)。古来より本名を斎場山といいます。妻女山は江戸時代につけられた俗名です。このことは岩野村誌や土口村誌にも記述があります。また、第四次川中島合戦では、上杉謙信が古墳上に床几を敷き本陣としたことで、古来より床几塚、謙信台、両眼塚とも呼ばれています(私有地)。1901(明治34)年の『信濃宝鑑』には、「妻女山 まことは斎場山なるべし」と記されています。斎場とは現在の葬儀場という意味ではなく、祭祀を行う神聖な場所という意味です。いつきなる場、ゆにわともいいます。
 西条山という記述は、『甲陽軍鑑』によるものですが、これは斎場山を西条山と誤記したものです。口述筆記の際に本来の漢字を知らずに当て字をしたのでしょう。戦国時代の文書にはよくあることです。地元では西条は、「にしじょう」と読み「さいじょう」と読むことはありません。また、清野氏のこの山を、西条氏が治めたという記録も残ってはいません。松代藩の古文書には、「西条山と記すは誤りなり山も異なり」と書かれています。西条山とは、松代の南、高遠山からノロシ山までの山一帯を指します。全く別の山です。
                   ◆
 この招魂社は、松代藩(藩主真田幸民)が1868(明治元)年の戊辰戦争で明治政府軍として、幕軍と戦ったときの戦没者を祭った社です。瓦には真田の六文銭の紋が記されています。その功績を受けて、新政府から3万石を与えられ、松代藩からは多くの人が新政府に重用されました。この平地は、招魂社を建てるときに造成したもので、それ以前は松代藩の射撃練習場ではなかったかと推察されます。南面の山からは、多くの銃弾が出土しています。また村誌には赤坂山古墳があったという記述も見られます。
                   ◆
 新選組の殲滅に加わり、会津若松城を大砲で破壊したのは艦船で来た薩長よりもむしろ松代藩でした。遡って昔、豊臣秀吉の命により、上杉景勝は会津へ転封となりましたが、善光寺平の土豪たちは皆景勝とともに家族家来を連れて会津へ移ったのです。さらに江戸時代前期に、保科正之(第二代将軍秀忠の四男・第四代将軍家綱の後見人)が第三代将軍の異母兄家光により信濃国高遠藩3万石から会津23万石に転封になり会津藩を隆盛させました。その時、信濃から家臣も会津にたくさん移っています。わが家のある祖先も同行し、後に子孫は商人となって会津藩を支えました。それ故、会津は信州人が造った町といえるのです。これは歴史の皮肉であり悲劇ですが、会津戦争は、ある面信州人同士の戦いでもあったのです。松代藩士の中には当然この史実を知っていた者もいたでしょう。悲劇という他はありません。現在に至るまで、会津の薩長に対する怨念は引き継がれていますが、松代藩に対する誹謗中傷や怨念は聞いたことがありません。同根故の複雑な想いがそこにはあるのでしょう。
                   ◆
 招魂社は拝殿が先に建ち、後背の本殿は後に建てられたといいます。本殿の後ろには52の戦没者の霊を弔う石碑が並んでいます。ここを赤坂山ではなく妻女山と呼ぶようになったのは、そんな理由から妻女山招魂社建立以降ではないかと推察されます。本殿の土塁の中は官地、周りは真田の領地(尾根の狭い範囲)で、ある方が管理をしていましたが、管理を村に移管して、現在は長野市の妻女山公園となっています。1871(明治5年)に招魂社祭を4月24・25日と執行と決まりました(飯山に於いて戦勝の日)。1881(明治14年)には、一町六カ村立妻女山招魂社となりました。昔は舞楽の奉納があり、剣道や相撲の奉納試合もあり、出店もたくさん出て賑やかだったそうです。春の桜、秋の紅葉は見事です。また夕日の景勝地ともなっています。
                   ◆
 戊辰戦争当時、松代藩は日本有数の軍事力を持っていました。会津藩に、「薩摩真田に大砲なくば、官軍破るも何のその」 と嘆かせるほどでした。1872(明治5)年、上田城の東京鎮台第2分営より乃木希典少佐が、廃城の松代城と武器を受領すべく来迎。その時、「松代藩は大砲のみにて53門の多きに達し、他の10藩全部の兵器を合するといえども松代藩の足元にも及ばず」と言ったとされています。真田幸民と佐久間象山が最新の洋式装備化を進めたわけです(大砲の試し打ちで倉科の生萱から試射した弾が、一重山を超えて天領満照寺まで飛んで大騒動になりました。)。
 しかし、戊辰戦争への参加で財政は悪化。財政再建のため、1869(明治2)年、「商法社」という会社を設立、生糸・蚕種の生産・販売、午札(紙幣)の発行を始めましたが失敗。その穴埋めをすべく増税したために(午札の交換比率の不当を訴えて)民衆が決起し、「松代騒動(午札騒動)」が勃発。農民数千人が松代城下に迫り、約200戸を焼きました。これにより幸民も謹慎処分になりました。その後伯爵になっています。
 ※真田幸民:10代藩主・伊予宇和島藩主伊達宗城次男・養子・1869(明治2)年6月24日松代藩知事就任・1871(明治4)年11月松代県解体、長野県の誕生により解任、真田氏の松代支配は終わったのです。
                   ◆
 戊辰戦争以降の経緯は下記の通りです。
●明治元年戊辰2月、朝命により松代藩は信濃十藩の触頭を命ぜられ、2月東山道総督より大隊旗、錦の袖章を賜る。
●4月、関東脱走の幕軍林昌之助・近藤勇ら新選組・甲陽鎮撫隊が甲斐に侵攻を図る。真田幸民・大熊藩士を総隊長として兵750人で甲府を守らせた。
●4月24日、幕軍の将古屋作左衛門が、長岡より信濃に入り、飯山城を囲む。幸民は、河原左京を総隊長として、兵10,300で進撃させる。
●4月25日、幕軍は大敗して敗走。後にこの日を戦勝の日として松代招魂社の大祭が行われた。
●9月24日、会津城が降伏。(会津城をメリケン砲で破壊したのは松代藩。薩長真田に大砲なくばと言わせた。会津は薩長を恨み嫌うが松代藩はそうではない。同根だから)
●10月29日、松代に凱旋帰国。各地に転戦すること90回以上、出兵3271人、戦死者52人、負傷者85人を出す。
●明治2年4月17日、真田幸民は藩戦死者の英魂を、妻女山頭(赤坂山)に祀る招魂祭を執行。石の玉垣をめぐらした戦没者の石碑を建立、「松代招魂社」と称す。
●6月、戊辰戦争の功績をたたえられ、松代藩は賞典録三万石を賜る。
●明治3年、松代藩知事・真田幸民により「妻女山頭鎮座松代招魂社」建立。真田家は、賞典録の中百石を祭祀料として寄付。藩兵、兵制士官学校生徒の合同調練式を行う。
 同年幸民は、戊辰戦争による大出費を埋めるべく「商法社」設立。生糸・蚕種の生産・販売等始めるも殿様商売は大失敗。増税に民衆が決起し翌年「松代騒動(午札騒動)」勃発。幸民は謹慎処分になる。
●明治4年7月、廃藩置県で松代県に、11月には長野県となり、松代県は解体され幸民は解任。真田の松代支配は終わり、松代は政治の中心地でなくなる。本来の地名・赤坂山を使わず妻女山としたのは、ここの小字名が妻女山(本来の妻女山の中腹)だったから。また、赤坂山より妻女山の方が有名だったからと思われる。
●明治5年4月26日、妻女山松代招魂社祭を毎年4月24・25日執行と決定。県祭となったのはこの頃か。
●明治6年には、松代騒動を引き起こした失政のためか、放火により松代城花の丸は焼失。一説には花街に建物が売られるのを嫌った元藩士が放火したともいわれるが、定かではない。
●明治13年、拝殿を修繕。
●明治14年、一町六か村(松代、寺尾、東条、西条、清野、雨宮)立妻女山松代招魂社建立。
●明治29年、社殿の傍らに山縣有朋による一大石碑を建立。
●明治44年5月18日、社務所を建立。合わせて松代、寺尾、東条、西条、清野、雨宮の一町六ケ村により日清・日露の戦没者を祀る乃木将軍筆による忠魂碑建立。盛大に除幕式が行われた。
●昭和22、23年頃、玉垣の上に小さな本殿を建立、石碑を現在のように並べ替える。


 拝殿の中にある招魂社の額は、真田幸民(ゆきもと)の書ですが、本姓の滋野幸民と記してあります(左)。52名の戦没者の名を刻んだ石柱が本殿の背後に立っています(中・右)。風雪や排気ガスでかなり風化して傷んでおり、修復や覆屋で守ることが必要かもしれません。傷んだ箇所が新しいので、人為的に誰かによって壊された可能性も否定できません。いずれにせよ、激しい内戦は今に至る深い傷を残しました。結局勝っても負けても、戦争で本当に幸せになる者などいないのです。川中島には「七度の飢饉より一度の戦」という戦国時代の庶民の言葉が残っています。それほど戦は悲惨で惨めなものだったということです。現代においては戦争をしたがる人間は軍需産業を操る極一部の輩。己は絶対に戦地に行きません。そして莫大な富を得るのです。

 拝殿は、明治13年に修繕されましたが、それ以降はほとんど手付かずのままだそうです。銅葺きの本殿は綺麗ですが、拝殿の瓦などは相当傷んできています(左)。右手の石の台には、戦前は日露戦争でバルチック艦隊を撃破した戦艦の大砲の弾が置いてあったそうです、戦艦信濃丸のものでしょうか(中)。第二次世界大戦の供出でなくなったそうです。これが前述した招魂社の南面の山中から出土した戊辰戦争当時の銃弾(右)。このことから、ここは松代藩の射撃練習場だったのではと思われるのです。

 明治時代の招魂社の絵葉書。社務所がないので明治43年以前の例大祭の様子かと思われます。かなり賑やかですが、剣道や相撲の奉納仕合が行われているのかも知れません。鳥居は今とは異なり、南側にあります。鳥居の両側には、射撃練習に使われたと思われる土塁が今も残っています。写真でも分かるように現在の広い駐車場は、林道倉科坂線を造る際に出た土砂を埋め立てて造ったものです。

 これは大正時代か昭和初期のものと思われる一枚。社務所は明治44年にできましたが、本殿はまだありません。右に「しら雲に 果てはつつみて 花深し」鸞生(らんせい:文化七年中沢村生明治五年没)の句碑が見えます。妻女山(旧赤坂山)は、古くから桜の名所だった様です。現在も桜が満開の頃には、近隣の小学生が大勢遠足に訪れます。

【明治元年北征の際 松代藩戦死人】
◉海野知正
明治元戊辰年七月二十五日、越後国古志郡長岡蔵王口に於いて戦い傷つく。十月三日本藩病院に於いて死す。享年三十四。
◉禰津直頼
同年七月二十九日、越後国古志郡宮内村に於いて戦死す。享年三十二。
◉牧野義為
同年九月四日、岩代国耶麻郡小土山に於いて戦傷、同十七日越後国五泉病院に於いて死す。享年三十三。
◉西山昌高
同年七月二十五日、越後国古志郡亀崎村に於いて戦死す。享年四十。
◉藤井正忠
同年九月十一日、耶麻郡熊倉村に於いて戦死す。享年三十一。
◉増田驥(名は馬編に上が北で下が異。読みは、き・すすむ)
同年六月十二日、越後国三島郡久田村に於いて戦傷、同二十日同国出雲崎病院に於いて死す。享年二十三。
◉三輪高致
同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて戦傷、同二十九日越後国五泉病院に於いて死す。享年三十四。
◉佐川重東
同年七月二十五日、越後国古志郡長岡蔵王口に於いて戦死す。享年二十一。
◉森山一似
同年七月二十五日、越後国三島郡興坂原村に於いて戦死す。享年三十四。
◉前島一忠
同年五月三日、越後国三島郡片貝村に於いて戦死す。享年二十九。
◉松村貞安
同年七月二十五日、越後国古志郡長岡蔵王口に於いて戦死す。享年四十三。
◉山本直房
同年七月二十五日、越後国古志郡長岡蔵王口に於いて戦死す。享年二十三。
 以上十二名騎士
◉海沼義路
明治元戊辰年七月二十五日、越後国古志郡長岡蔵王口に於いて戦傷、二十六日同国興坂病院にて死す。享年三十三。
◉小山友重
同年七月二十五日、越後国古志郡長岡蔵王口に於いて戦傷、九月三日同国十日町病院に死す。享年二十。
◉古川康備
同年七月二十二日、越後国古志郡亀崎村に於いて戦傷、同二十四日同国長岡病院に死す。享年二十三。
 以上三名歩士
◉相澤則忠
明治元戊辰年五月十四日、越後国魚沼郡高梨村に於いて戦死。享年二十二。
◉村澤重勝
同年六月二十二日、越後国古志郡蔵金村に於いて戦傷、七月二十五日同国長岡に死す。享年三十。
◉佐々木高照
同年七月六日、越後国古志郡陣ヶ峯に於いて戦死。享年十六。
◉小沼直重
同年四月二十五日、本国水内郡安田村に於いて戦死。享年四十二。
◉藤田茂久
同年五月十一日、越後国魚沼郡三仏生村に於いて戦傷、六月二十一日本藩病院に死す。享年四十一。
◉小林正久
同年六月十二日、越後国三島郡久田村に於いて戦死。享年四十二。
◉中曽根仲正
同年七月三日、越後国三島郡御経塚に於いて戦死。享年十七。
◉小林直廣
同年七月五日、越後国三島郡御経塚に於いて戦死。享年十七。
◉古澤義縁
同年七月二十六日、越後国古志郡亀崎村に於いて戦傷、同二十九日同国十日町病院に死す。享年十七。
◉松田義意
同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて戦死。享年十九。
◉奥村長知
同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて戦死。享年二十一。
◉平林一興
同年七月二十五日、越後国古志郡長岡蔵王口に於いて戦傷、同二十六日同国小千谷病院に死す。享年四十。
◉丸山俳眞
同年七月二十五日、越後国古志郡長岡蔵王口に於いて戦死。享年四十六。
◉八町忠安
同年七月二十五日、越後国長岡四郎丸口に於いて戦死。享年四十。
◉栗林直英
同年七月二十五日、越後国長岡四郎丸口に於いて戦死。享年五十一。
◉春原泰直
同年七月一日、越後国古志郡亀崎村に於いて戦傷、同三日同国長岡病院に死す。享年四十二。
◉小林重行
同年閏四月二十六日、越後国魚沼郡生峠に於いて戦死。享年二十一。
◉青木忠政
同年九月四日、岩代国耶麻郡小土山に於いて戦傷、同十一月二十日越後国柏崎病院に死す。享年十八。
◉若林義一
同年九月四日、岩代国耶麻郡小土山に於いて戦傷、同二十四日越後国柏崎病院に死す。享年二十二。
◉神戸清成
同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて戦傷、同十月八日越後国新潟病院に死す。享年三十九。
◉丸山忠泰
同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて戦死。享年三十八。
◉浅井清成
同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて戦死。享年二十。
◉山本嶽房
同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて戦死。享年二十六。
◉五名氏宣
同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて戦死。享年四十四。
◉宇敷恒正
同年七月二十六日、越後国三島郡興坂三楯山に於いて戦死。享年二十四。
◉岡澤信重
同年七月六日、越後国三島郡興坂原村に於いて戦傷、同二十三日興坂病院に死す。享年十八。
◉村松宣安
同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて戦死。享年五十一。
 以上二十七名平士
◉富国水内郡長井村、文吉 明治元戌辰年閏四月二十六日、越後国魚沼郡生峠に於いて死す。享年二十九。
◉同国同郡上祖山村、末吉 同年六月一日、越後国三島郡興坂陣ヶ峯に於いて死。年十九。
◉同国更級郡東福寺村、義市 同年六月一日、越後国蒲原郡赤坂峠に於いて死。年二十六。
◉同国水内郡和佐尾村、甚右衛門 同年六月五日、越後国三島郡興坂原村に於いて死。年五十二。
◉同国同郡北高田村、長蔵 同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて死。年三十九。
◉同国更級郡中澤村、一郎左衛門 同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて死。年四十六。
◉同国高井郡沓野村、辨(弁)作 同年七月二十五日、越後国古志郡長岡蔵王口に於いて死。年六十。
◉同国埴科郡清野村、安之助 同年九月二日、岩代国河魚郡桂村に於いて死。年二十八。
◉同国同郡雨宮村、浅吉 同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて死。年十九。
◉同国更級郡八幡村、百六 同年十一月十三日、越後国刈羽郡柏崎病院に於いて病死。
 以上十人軍夫
総計 五十二名県祭なり。祭日四月二十四日、二十五日。
長野県令大野誠殿
(出典:埴科郡誌 清野村)

白虎隊と同じく、16歳など少年が散見されることに心が痛みます。

[抜書き] 『偽(いつわ)りの明治維新 会津戊辰戦争の真実』
会津藩と会津戦争

 戊辰戦争で、悲劇的な敗北を期した会津藩ですが、この妻女山招魂社の麓には会津比売神社があり、祭神は初代科野國造の妻といわれる会津比売命(あいづひめのみこと)です。この会津比売命の会津と福島の会津は、深い関係があるのです。歴史の因縁を感じます。詳しくは、下記の記事をお読み下さい。必読です。
大彦命と布施氏の布制(布施)神社詣でと茶臼山ラッセル(妻女山里山通信)

妻女山 有名人訪問年表」政治的、軍事的に利用された稀有な里山(妻女山里山通信)

川中島合戦の上杉謙信にまつわる妻女山と斎場山、陣馬平への行き方」『真田丸』で訪問者が激増中。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。フォトエッセイや記事も書きます。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。


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『真田丸』でお馴染み真田昌幸の、父 真田幸隆に攻略された尼厳城跡へ(妻女山里山通信)

2016-09-10 | 歴史・地理・雑学

 尼厳山「あまかざりやま」と読みます。長野市松代の東にそびえる780.9mの低山ですが、古刹あり、絶景の岩場あり、城跡あり、古墳あり、自然も豊かと見所がたくさんの山です。もちろん拙書でも紹介しています。玉依比売命神社(池田の宮)の前に駐車して望む尼厳山(左)。参道の鳥居前にも駐車スペースがあります。「延喜式」所蔵の古社で、新年に玉の増減でその年の吉凶を占う児玉石神事は有名です(中)。登山口は神社の右にあります。
 まず天王山へ。尾根の端を鋤(すき)崎(古くは兒玉崎)といい、鋤崎峠は、第四次川中島合戦の時、上杉謙信が妻女山布陣の折りに越えたという伝説があります。南尾根と北尾根の分岐で左の北尾根へ向かい、最初トラバースしてから北尾根に乗り、登ると城跡の石垣(右)。この山域に点在する積石塚古墳をバラして作った見張り台でしょうか。

 右にロッククライミングのスポットがあります。オーバーハングしていますが、適度な隙間があり、ボルダリングやフリークライミングができる人ならヒョイヒョイ登れそうです。

 戻って左へ岩稜地帯を登ると、先ほどの岩の上に出ます。休憩に最適なテーブル状の岩頭がありますが、転落しないように注意。皆神山が見え、その向こうに信玄の狼煙山。さらに右奥には前回の記事で紹介した鏡台山。そこから右へ妻女山まで続く戸神山脈。左は高遠山、地蔵峠を経て保基谷岳、菅平へと続きます。

 山頂手前の城跡の空堀(左)。山頂までは、1時間30分から50分ぐらいです。山頂にある城跡の図(中・右)。岩稜地帯に囲まれた非常に険しい山城ですが、真田幸隆の攻略により東条氏はあっけなく陥落しました。その説明看板が山頂にあります。旧字では尼巖山・尼巌山、別字では、尼飾山・雨飾山、天飾山とも書きます。

 山頂からの展望は北側のみ。手前から上信越自動車道、千曲川、ホワイトリング、犀川、長野市中心街、飯縄山。右奥の黒姫山と、左奥の高妻山は雲の中でした。飯縄山は、拙書では3コース紹介しています。特に中社ゲレンデの公共駐車場に車をおいて、中社・西登山道コースを登り、帰路は瑪瑙山コースを下りてくるループコースはオススメです。5〜6時間、休憩入れても7〜8時間と一日で回れる楽しいコースです。詳細は拙書を御覧ください。上杉謙信にまつわる話も書いています。

 そこから右に目をやると、小布施、中野、飯山方面の景色が。左に斑尾山、右に高社山。中央を越後に向かい流れる千曲川。奥の尾根は、大ブナも散見される全長80キロの「信越トレイル」のある山脈で、向こう側は越後です。左にはMウェーブも見えます。

 山頂には6頭のキアゲハ、2頭のクロアゲハ、6、7頭のヤマトシジミ、オオヒカゲやアゲハチョウなどが乱舞。そのキアゲハが交尾?そこへもう一頭が参加して格闘状態に(左)。そのまま地上に落ちて交尾?(中)。でも何か変です。これ両方共オスではないでしょうか。交尾のシミュレーション? 騒ぎが収まって休憩中のキアゲハのオス(右)。何だかよく分からないことが起きました。蝶の研究家の山仲間に聞いたところ、これはよく見られる現象ということです。理由は不明とのことですが、別に同性愛ということではなく、前述したように、交尾のシミュレーションなんじゃないでしょうか。

 30分ほど昼餉を楽しんで南の岩沢・天の岩戸方面へ30mほど下ると、辰巳の岩という展望地(左)。昔は信玄柏ノ岩展望地と書いてありました…。登山道は左へ下ります。辰巳の岩から見た奇妙山(中)。拙書でも詳しく紹介していますが、この両山を縦走する人もいます。眼下に広がる杏の里、東条の風景(右)。奥の谷の集落は、モーニング娘。16の羽賀朱音ちゃんの生家のある豊栄です。ここから豊栄小学校や松代中学に通っていたわけです。長閑で本当にいいところです。
 また、太平洋戦争時、硫黄島で戦った栗林忠道中将のお墓のある明徳寺があります。

 辰巳の岩からのまるでジオラマの様なバーズアイビュー。麓の民家がほぼ真下に見え、ノスリやトビなどが眼下を飛んで行きます。畑に見える木は杏です。4月上旬の満開の時期は、まさに桃源郷ならぬ杏源郷。風景が桃色に染まります。帰路は途中から右へ折れて南尾根コースへ。休憩していたハイカーと出会い色々楽しくお話しをしました。拙書の紹介も。
 この山域は赤松林が多いのですが、妻女山や長野自動車道沿いの様に真っ赤に帯状に枯れた状況は見られません。やはり近くに高速道路や交通量の多い国道がないからでしょう。これらを見ても、松枯れ病の主な原因は排気ガスだと分かります。つまりネオニコ農薬の空中散布など無意味なのです。百害あって一利無し。税金の無駄遣い。それでも止めないという自治体は、農薬メーカーからキックバックをもらっていないか、市民は確認する必要があります。

 帰りに寄った妻女山展望台(旧赤坂山。謙信本陣はこの上の旧妻女山で本名は斎場山)から右に奇妙山、左に尾根の手前に尼厳山。その手前の森が真田十万石の松代城址(海津城)。手前の松代PAは、下りが名産のとろろ蕎麦セットが安くて美味くてオススメ。上りのおにかけ蕎麦も名物です。上り下りは徒歩で行き来ができ、一般道からもレストランには入れます。帰りは温泉マニア垂涎の加賀井温泉か松代荘へ寄って疲れを癒やすのもオススメです。

●尼厳城は、北の支尾根に谷街道の要所、可候(そろべく)峠を持ち、北には真田へ抜ける地蔵峠があり、松代の防御の要の詰城であったと思われます。第四次川中島合戦に至る8年前、村上義清が越後に逃れた直後の天文22年(1553)8月、武田晴信は真田幸隆に尼厳城攻略を督促しています。城主東条遠江守信広は、真田幸隆の攻略に敗れ越後に逃れます。加賀井にはその時に東条氏達が泣きながら駆け下ったという泣き坂という伝説の地名が残ります。
 落城後、武田晴信は、西条治部少輔に城の普請を行わせ、永禄元年(1558)4月の越後軍進攻の際に、「東条籠城衆」として真田幸隆と小山田備中守昌行をあてています。武田氏滅亡後、天正10年(1582)に上杉景勝が川中島周辺を征圧すると、東条氏が城主に復帰しますが、慶長3年(1598)豊臣秀吉の命により景勝の会津移封によって北信濃の武士(土豪)達は、妻子を連れて会津に移ったため廃城となったといわれています。 会津は信州人が造った城下町です。保科正之も大勢の家来家族を連れて転封しました。


尼厳山から天の岩戸へ下ったフォトルポ。パノラマ写真を堪能してください。天の岩戸の説明も。

川中島合戦の上杉謙信にまつわる妻女山と斎場山、陣馬平への行き方」『真田丸』で訪問者が激増中。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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安藤(歌川)広重が描いた『信濃 更科田毎月 鏡台山』へ秋を探しに(妻女山里山通信)

2016-09-07 | アウトドア・ネイチャーフォト

 姨捨から見た浮世絵、安藤(歌川)広重が江戸時代後期に描いた『信濃 更科田毎月 鏡台山』の鏡台山(1269m)へ小さな秋を探しに出かけました。最近は首都圏からも信州の低山に登る人が本当に増えています。まず千曲市と坂城町の境の沢山峠の登山口の除草(左)。入り口だけいつも草で塞がれるのです。この直後に坂城から来たご夫婦が先に登って行きました。ヒョウモンチョウが沢山飛来。吸蜜していたのはタムラソウ(中)。アザミに似ていますが葉の形が違いトゲがありません。秋の訪れを告げる薄紫のノコンギクが咲き始めました(右)。

 結構翅の傷んだヒョウモンチョウがたくさんタムラソウやタイアザミで吸蜜していました(左)。ミドリヒョウモンですかね。次はフタスジチョウでしょうか(中)。活性が高くなかなか翅の全景が撮影できません。同定は仲間の蝶の研究家にお願いしようと思います。
 海外出張中の彼から返事が来ました。ヒョウモンチョウは、ミドリヒョウモンかメスグロヒョウモンのオス。右はメスグロヒョウモンのメスでしょうと。ヒョウモンチョウは、ミドリヒョウモンとメスグロヒョウモンと二種類いた様に思います。このところ妻女山山系でもヒョウモンチョウが見られるようになりました。

 吸蜜しているのはタイアザミ(左)。一度に吸える蜜の量が少ないのでしょう、頻繁に花を替えます。アサギマダラも飛来。海を渡ってきた後なのでしょうか、翅が相当傷んでいますが、元気に吸蜜していました(右)。

 翅は色褪せていますが、透けた浅葱色が美しい(左)。アサギマダラはこの一頭だけでした(中)。縄張り争いや天敵との格闘などで翅はボロボロですが、飛翔には全く問題ありません(右)。

 途中の富士見の岩から。富士山方向は赤松が育って展望がありません。西側が開けます。右に旧上田市の最高峰だった大林山。左手前に下って九頭龍山とその下に電波反射板。その下で尾根を左へ下って中央の三角の山が岩井堂山(自在山)。秋は松茸の留山で立ち入り禁止。愚かな坂城町は今年もこの山域でベトナム戦争の枯れ葉剤と同成分のネオニコチノイド系農薬の空中散布を行いました。土壌汚染により松茸菌が弱り、いずれ松茸も出なくなるでしょうし、水溶性なのでキノコにも染み込み洗っても落ちません。つまり毒の松茸の出来上がりです。村上義清公も泣くでしょう。そうでなくても菌根菌のキノコは放射性物質を溜めやすいのです。山菜やキノコ、ジビエは要注意です。

 今年は山栗が大豊作(左)。大きな実がたくさん成っていました。昨年はどんぐりも豊作で、暖冬だったため子熊の生存率も高かった様で、この山系でも熊の出没情報が相次ぎました。私も6月に妻女山奥の陣馬平で子熊を目撃、象山の遊歩道では三頭の子熊を連れた母熊が目撃されました。
 ナンテンハギ(南天萩)の小花(中)。アズキナといって、天ぷらや煮物、おひたしで食べられる山菜です。これも山菜のツリガネニンジンで吸蜜するキアゲハ(右)。山で旨いはオケラにトトキと亡父が言っていましたが、そのトトキです。

 山頂直下にあるハンゴンソウの群落。ヒョウモンチョウが盛んに飛び回っていました。ハンゴンソウも若芽は山菜になり天ぷらなどで食べられます。結構苦味やアクがあります。山頂では先の坂城から来たご夫婦と談笑しながら昼食。私はブラジル黒インゲンの煮込みハバネロソースとトマトの卵ガーリック炒め。まだ登られていない山が多いということで拙書の紹介と、山頂から見える山の説明をしました。里山好きが増えてくれるのは嬉しいですね。請われればどこへでも公演や講座に出向きますし、インタープリターもします。

 山頂とその周辺にあるズミの木に実がたくさん成っていました(左)。ヤマザクラのさくらんぼと共に、これもツキノワグマの食料になるのでしょう。ヨツバヒヨドリはほとんどが咲き終わっていました。その残花(中)。シロハツかツチカブリか(右)。シロハツなら可食ですが、ツチカブリだと毒キノコ。その上モドキもあり、どちらも辛いのであえて食べようとも思いませんが。

 山頂から左に鏡台山からは三角に見える冠着山(姨捨山)。右にアンテナのたくさん立つ聖山。鏡台山と共に拙書でも詳しく紹介している魅力あふれる里山です。冠着山の右奥に見える低いトトロの耳の様な山はヒカゲツツジで有名な生坂村の京ヶ倉。もちろん拙書でも紹介していますが、ヒカゲツツジが満開のゴールデンウィーク中は全国からのハイカーで賑わいます。1000mない里山ですが、非常に厳しく滑落死亡事故も起きています。『信州の里山トレッキング 東北信編』でコースを充分に把握してお出かけ下さい。晴れていれば北アルプスのスカイラインが一望できます。拙書ではその貴重なパノラマ写真も載せています。
 聖山の手前は拙書にも掲載の三峯山。低山ですが展望が最高。その手前が姨捨になります。
 鏡台山から富士山が見える看板がありますが、これは本には載せていません。このブログの過去記事の中に写真があるので御覧ください。私も2回しか見たことがありません。

 ザラエノハラタケ(左)。秋のキノコシーズンを告げるキノコです。美味しいという人もいるようですが、人によっては激しい腹痛を引き起こすとのことなので毒キノコとしていいでしょう。イノシシの大きなヌタ場(泥浴び場)もこのところの雨でほぼ満水(中)。近くにある泥浴びしたイノシシが体を擦り付けた跡(右)。これを追っていくとイノシシの塒(ねぐら)の方向が分かります。

 翌日、妻女山の樹液バーに行きましたが、いたのはオオスズメバチが7匹と2匹のヒメスズメバチ、1匹のチャイロスズメバチ、アカタテハとハエとアリ。一頭のアカタテハが飛来しましたが、オオスズメバチの多勢に無勢で飛び去りました。盛んに顎を付きあわせて情報交換をしていますが、キスしている様にしか見えません。あちこちでチュッチュしています。先日、カナブンを殺し肉団子にせずに一匹まるまる巣に持ち帰った場面を見た後では可愛すぎる光景です。
 しかし、実際は幼虫が育ち子育てのストイレスが溜まり始め、非常に攻撃的になる季節の到来なのです。実際この日も2回ほど追いかけられました。車の陰に隠れてなんとかしのぎましたが。秋のスズメバチは要注意です。カナブンが消えると、カマキリやセミも襲います。

 友人のログハウスで昼食中に、10ミリもないヒラタアブの仲間が手の甲に留まり汗を舐め始めました。非常にくすぐったかったのですが、我慢して撮影。左はログハウスのデッキの柱に留まったところ。右は私の手の甲を舐めるカット。同定は非常に難しいのですが、似ているホソヒメヒラタアブは8ミリ以下で細いことを考えると、ミナミヒメヒラタアブのメスが一番近いとは思います。どうでしょう。
 こういう小さなハナアブやミツバチはネオニコの空中散布をするとすぐに全滅します。受粉ができなくなり、果樹や野菜に大被害が出ます。もちろん人間にも。発癌性が高く、うつ病、多動性障害、脳の発達障害などを引き起こします。欧米では製造販売が禁止されているところも増えています。アメリカでさえ規制を始めました。野放しの日本。中国産の野菜が農薬まみれと忌避する人が多いのですが、日本は世界第三位の農薬使用国。単位面積辺りでは世界一かもしれません。放射能汚染も考えたら中国産の野菜の方が安全かもしれないという笑えない現状です。

川中島合戦の上杉謙信にまつわる妻女山と斎場山、陣馬平への行き方」『真田丸』で訪問者が激増中。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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 長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。


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長野のギャラリー82で「幕末から明治に活躍した宮彫師 山嵜儀作展」を開催中。9月4日まで(妻女山里山通信)

2016-09-02 | 展覧会・イベント・コンサート

 9月4日まで、友人の宮彫研究家が長野八十二銀行本店のギャラリー82で「幕末から明治に活躍した宮彫師 山嵜儀作展」を開催中です(左)。車は八十二銀行の駐車場へ。2時間以内なら帰りに駐車券をギャラリーのカウンターに出すと無料になります。信濃毎日新聞で大きく紹介されたこともあり、連日大勢の人が訪れています。年配の方が多いのですが、若い女性も。とにかく見応えがあります。来訪者の滞在時間が長いのも分かります。
 須坂市福島(ふくじま)の巨大な幟旗の支柱に飾る木彫の搬入を手伝ったのですが、これは本当に見事なものです。福島の方々も来訪していたのでお話しましたが、本当に喜んでおられました。
 今回の展示を企画した友人の宮堀研究家のKさんが作ってくれた拙書のコーナーです(中・右)。来訪者が多くパンフレットがなくなるといけないので補充しました。思ったよりも減っていました。諏訪立川流の写真が3点載っています。ご覧になって下さい。
 展示物などの写真や説明は、ぜひ会場に訪れてゆっくりと観て下さい。おそらく週末はかなりの人出になると思われます。行きたいけど無理という方は、彼のサイトを御覧ください。非常に充実しています。
―天賦の才でケヤキに命を吹き込んだ名人がいた― 北信濃寺社彫刻と宮彫師

 1時間ほど鑑賞や撮影をした後、JA篠ノ井のこまくさで昼食のパンを買って茶臼山へ。アルプス展望台でゆるゆると昼食。左に見えるのが山布施の集落で、布施神社には山嵜儀作の木彫があります。今回の展示会には展示されていないので、再び撮影に行くことにしました。布施神社については下記の記事を御覧ください。
山布施の布施神社と諏訪立川流木彫。須立の城探訪。陣馬平のカモシカの親子(妻女山里山通信)

 茶臼山のアルプス展望台から虫倉山と色づき始めた棚田(左)。ツリフネソウ(中)。長野市篠ノ井山布施の布施神社(右)。石柱には布施ではなく布制と書かれていますが、これは明治の廃仏毀釈の際に、布施は仏教のお布施につながると明治政府が変えさせたものの様で、本当に馬鹿げた話です。布施神社に戻すべきでしょう。英仏やユダヤ金融の傀儡となって明治維新という名のクーデターを起こした長州の田布施システムは、それこそ嘘の塊なのです。歴史上でも大化の改新や南北朝などとともに最も歴史が改竄捏造された時代といえます。詳細は田布施システムで検索を。

 布施神社とご神木の見事な欅。過ぎゆく夏を惜しむような蝉の声が響いています。台風一過で蒸し暑い日でした。物凄い数のアキアカネが舞って秋を告げていました。

 象と獅子。雨ざらしで風化していますが、いい味を出しています。このじぶたれた具合が私は大好きです。

 儀作は実物の象やライオンを見たことは、おそらくないでしょう。しかし、この迫力。想像力と創造力の賜物です。そして、将来どういう風に割れ目が入るかも全て計算して木取りをしていることが分かります。木を知り尽くしているのでしょうね。感服します。

 逆に当時、動物園があって実際に観察できたらどういう木彫を作ったのだろうとも思います。風雪によって顕になった木目が誠に美しい。これこそ侘び寂びの世界です。

 笑う象? こういう様式美がどういう経緯で生まれたのか、非常に気になります。

 布施神社前から見る茶臼山(左)。善光寺平から見る景色とは左右が逆になります。
 布施神社の右手の道を15分ほど登ると須立の城址へ(中)。上の須立の城探訪を御覧ください。布施氏については、下記の記事を御覧ください。
大彦命と布施氏の布制(布施)神社詣でと茶臼山ラッセル(妻女山里山通信)
茶臼山の茶臼ケ城、修那羅城、篠ノ城探索。布施氏の山城は想像以上に大規模でした(妻女山里山通信)
 須立の城築城の主といわれる布施八郎直頼終焉の地(右)。ここは落葉期に取材に訪れたいと思います。

 帰りに茶臼山動物園の近くから撮影した善光寺平。名産のリンゴが鈴生りです。中央奥に根子岳と四阿山。手前右に妻女山と斎場山。眼下は篠ノ井の市街地と奥は真田十万石の松代。

川中島合戦の上杉謙信にまつわる妻女山と斎場山、陣馬平への行き方」『真田丸』で訪問者が激増中。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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