モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

象山--鞍骨城--天城山--斎場山--薬師山 縦走

2008-12-30 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 年末の好日、息子ふたりと鞍骨城をめぐる山々を縦走しました。まず、清野氏が清野の館及び鞍骨城の鬼門避けとして建立したともいわれる離山神社にお参りし(成人病完治祈願)、佐久間象山を奉る象山神社にもお参りして(学問成就祈願)、この縦走山行は始まりました。

 天気は、この年末年始最後の晴れという予想通り。象山を登り始めたら暑くて四阿で中のフリースを脱いで半袖ポロに着替えるほどでした。象山のテレビ局のアンテナ施設から急登が始まります。思ったよりも道筋はハッキリしていて助かりましたが、枯葉の上にうっすらと積もった雪で滑るので思いの外脚に負担がかかりました。とにかく急登続きです。

 急な尾根には、その昔、木を伐採して滑り降ろした沢がありました。鏡台山へ向かう戸神山脈の北端(今回の最高地点)への登りは、最後は四つん這いになるほどの急登ですが、尾根の道はバーズアイビューが見事で、吹き上げる寒風も気にならないほどでした。ここはお薦めです。

 途中、天城山でも見た柿の種が混じった熊の糞を発見。まだ冬眠していないのでしょうか。さらに鞍骨城への尾根では、樹木に真新しい熊の爪跡も。暖冬の影響でしょうか、熊鈴をつけることにしました。

 鞍骨城は、2006年の暮れにも天城山から登っていますが(MORI MORI KIDSをご覧ください)、やはり素晴らしいものです。本郭はもちろん、西側の五段の腰曲輪は高さ50m程で、それは見応えがあります。ここでお昼。タラコ、数の子と煮牛蒡、梅のおにぎりと大根の芥子漬け。デザートにはミカン。息子達は大根の芥子漬けとチョコレートを一緒に食べてミスマッチだけど美味しいとご満悦。

 帰りの天城山からは、人知れずある古墳を見学。と思ったらすぐ下でドーンッ!と鉄砲の音。狩猟を行っているようです。獲物と間違えて撃たれたらたまらないので、緊急用の笛を吹きながら下りました。その間も何度も射撃の音がしました。

 その後は斎場山古墳に寄り、御陵願平の凍った猪のプールを見学、土口将軍塚古墳から薬師山を経て麓に下りました。結構長いコースでしたが、パノラマや歴史の遺跡、自然など見所の多い充実した山行でした。

 このトレッキングは、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】の「鞍骨山」にアップしました。。バーズアイビューと鞍骨城の雄姿が圧巻です。ぜひご高覧ください。


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古代信濃の国の歴史の山から北アルプスの大パノラマ(妻女山里山通信)

2008-12-22 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 千曲市雨宮の「橋がかりの神事」として知られる雨宮坐日吉神社(あめのみやにいますひえじんじゃ)の祭事で有名な「斎場橋(浜名の橋)」から唐崎城、明聖霊神経由で天城山に登りました。「雨宮の御神事」は、国指定重要無形民俗文化財にも指定されている祭事で、3年に一度の4月29日に行われる春季大祭です。中でも「橋がかりの神事」は、獅子の頭をつけた若者4人を橋の欄干から逆さに吊るし、下を流れる沢山川(生仁川・万作川)に獅子の頭を川面に浸すという勇壮なものです。

 起源は不詳ですが、平安時代頃とされ「信濃奇勝録」には、この神社が、この地を治めていた雨宮摂津、清野山城守両家の鎮守だったことから、おそらくそのころから伝わる神事だと推定されています。また、室町時代の田楽風流の踊りと行列が伝承されているといわれています。往古は清野氏の屋敷があったとされる海津城内へ移動して踊った(「城踊り」)そうで、雨宮坐日吉神社の「朝踊り」、若宮社で「若宮踊り」を奉納後、周辺の寺々を巡り、清野の「倉やしき」、岩野土口などといった旧家で踊りを奉納していたと記されていますが、現在はここ一社だけの奉納となっています。また、「橋がかりの神事」は、往古には斎場橋より数町上流の「生仁橋」で行われていたという記述も残っています。

 また、斎場橋は、雨宮の県司が斎場山へ詣でるために渡った橋として斎場橋と命名されたともいわれています。斎場山(さいじょうざん)は、古代科野の国の斎場(祭祀を行う神聖な場)であったといわれています。『信濃宝鑑』には、妻女山を、まことは斎場山というと記されています。

 斎場山については、明治15年の土口村村誌にこう記されています。
古跡【齋場山】[又作祭場山、古志作西條山誤、近俗作妻女山尤も非なり。岩野村、清野村、本村に分属す]の山脊より東に並び、峯頭の古塚[或云ふ是塚にあらず、祭壇中の大なるものにて、主として崇祭たる神の祭壇ならんと云ふ]に至り、又東に連なり、南の尾根上を登り又東に折れて折れて清野村分界に止む。凡四十八個の圓形塚如きもの有り、俗に旗塚と云ふ。又四十八塚と云ふ是上古縣主郡司の諸神をこう祭したる斎場祭壇にして、之を掘て或は祭器、古鏃(やじり)等を獲るものあれども、遠く之を望めば累々と相連なり、其かづ数えふ可く、相距る事整々として離れず。必ず一時に築く所にして、墳墓の漸次員を増たるものにあらざるなり。是齋場山の名ある所以なり。

 つまり、初めの文章は、「斎場山は、古代に祭祀が行われたところとして祭場山とも書くが、西條山(『甲陽軍鑑』)と書くのは誤りである。また、近世の俗名妻女山は、最も適当でない。否定されるべきものである。」ということです。妻女山という名は、江戸時代に松代藩の関するところにより創作された逸話に基づいて作られた俗名であり、それは、古代科野の国の齋(いつき)なる場として命名された斎場山にとって替われるものではないと断じているわけです。これは生萱村誌にも同様のことが記されています。しかし、歴史の流れの中で、この俗名、妻女山が西條山にとって替わり斎場山の新しい名称となり、さらに赤坂山へその名称が移動してしまったわけです。そして、本来の斎場山は、現在地形図においては名無しの状態のままなのです。自然地名は、大切な文化遺産ですから後世に正しく伝えていくことが必要です。

 天城山については、【手城山】高二百三十丈(696.9m、正しくは694.6m)、周囲未だ実測を経ず。村の南の方にあり。嶺上より界し、東は清野村、生萱村に分属し、西は本村に属し、南は生萱村に属す。山脈西は、南山に連なり北は妻女山に接す。樹木なし。登路一條、村の東の方字築地より上る。高十五丁二十五間(約1680m)険路なり。とあります。

 唐崎城からの尾根道は、尾根に乗ると急登も少なくなだらかな平坦部が続き、白樺の林などもあり快適でした。倉科尾根方面から害獣駆除の鉄砲の音が聞こえたため、少々緊張しましたが(間違って撃たれたら洒落になりません)、ほどなく止み山は静かさを取り戻しました。しかし、そのためか野生動物には遇えませんでした。彼らには受難の日だったようです。

 冬枯れの尾根からは常に後方に北アルプスの大パノラマが望め、嫌なことばかりの年の瀬ですが、そんな事も忘れさせてくれて爽快な気持ちになります。気温は凍える-2度からグングン上がり、斎場山に着く頃にはなんと12度になっていました。斎場山古墳の上で昼食にし、梅のおにぎりと数の子の醤油煮と煮牛蒡の手作りおにぎりを食べると睡魔が襲い、思わず10分ほど小鳥のさえずりを聞きながら古墳上で昼寝をしてしまいました。息子にメールすると、気持ちよさそうだねと返事が返ってきました。
ドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】にアップしました。北アルプスの大パノラマ写真が圧巻です。
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斎場山古墳巡りでニホンカモシカに再び遭遇(妻女山里山通信)

2008-12-13 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 信州の冬とは思えないうららかな土曜日、妻女山から旧山道を登り陣場平へ。途中、9日についで再びニホンカモシカに遭遇しました。しかも今回は大小二頭でした。そのうちの一頭は見覚えのある個体。小さい方はまだ角が生えてなく子供のようでした。おそらく母子なのでしょう。

 旧山道を登って行き、鳥の巣箱の掛かった唐松林にさしかかった時です。前回と同じように視線を感じ、その方向を見ると樹間からじっとこちらを見つめるニホンカモシカがいました。しかもよく見るとその後方には少し小さなもう一頭がいます。瞬間的に親子連れだと思いました。前回と同じように話しかけましたが、一頭の時より緊張した面もちなので、不用意に近づかないようにし、彼らがよく見える針葉樹林の上に出ました。

 二頭は写真のように少し距離を開けて立っています。大きな方がこちらを見ながらも盛んに小さい方を気にしています。ニホンカモシカは、攻撃的な動物ではありませんが、それでも子連れの場合は不用意に接近すると子供を守るために襲ってくる場合もあります。今回は、必要以上に接近せず遠くから観察することにしました。何度出合ってもニホンカモシカとの遭遇は楽しいものです。

 子供の方は、人間が珍しいのかジッと見ていましたが、母親の方が緊張をほぐすかのように耳の後ろを掻いた後、子を促すように歩き出し、やがて二頭は下方に走り去ってしまいました。ニホンカモシカの繁殖期は晩秋に始まり、約7ヵ月の妊娠期間を経て、春から初夏の頃に出産します。一度に産まれてくる子の数は1頭で2~3年は母親と一緒にいるようです。

 その後、子供の頃の記憶を頼りに堂平古墳を探して蟹沢(がんざわ)へ下りましたが見つからず土口の里まで下りてしまいました。そこで二人の地元の人に情報を得て蟹沢の別の沢から登り直し、やっと古墳に辿り着きました。なんとそこは行きに迂回した個人の山小屋の敷地の中でした。

 その後は斎場山古墳に登り、そこで川中島を眺めながら小春日和の日溜まりで小鳥のさえずりを聞きながらのんびりと昼食。充分な休息の後は、大きな猪の水浴び場を見学。そして国指定史蹟になった土口将軍塚古墳を訪れました。途中では、山里の柿を大量に食べたと思われる月の輪熊の糞も発見しました。

 このトレッキングを、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】にアップしました。古墳はもちろん熊の糞、ヌルデの実、ヤマヤブソテツにパノラマ写真等々。ご高覧ください。

 ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、特殊な技法で作るパノラマ写真など。
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妻女山で上杉の亡霊ではなく山の主に遭遇(妻女山里山通信)

2008-12-09 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 東京に暮らす息子達へ野菜を送った帰りに妻女山のわが家の山の様子を見に行きました。さすがにキノコはもうないだろうとは思いましたが、不法投棄がないかの確認などです。山はほとんど落葉して見晴らしが利きます。林道は落葉松の落ち葉でバーントシェンナーの彩り。

 妻女山の駐車場に愛車フォレスターを置き、わが家の山へと向かいました。間伐材で積み上げた垣根を越え斜面を少し登ったところで何かの気配を感じて目を上げると、目の前に黒い動物が。熊かと一瞬緊張しましたが、すぐにニホンカモシカと分かりました。12mほど先の落葉松の倒木の向こうに立って微動だにしません。

 幸いデジカメを首から提げていたので静かにスイッチをオン。相手の緊張を解こうと話しかけました。「こんにちは。いい天気だね(曇りでした)。どこから来たの?」
 彼女(ニホンカモシカは雄雌共に角がありますが、雰囲気から雌かなと)は片方の耳をぴくぴくさせて聞いているようです。私は話しかけながらゆっくりと少しずつ近づいていきました。

 檜の木陰でシャッターを切り、また話しかけながら近づきます。最終的には6、7mになったでしょうか。これ以上近づくと限界エリアを越えそうなので立ち止まり、話しかけながら写真を撮りました。やがて緊張からか緊張が解けたからか、横を向いたり足で耳の後ろをかいたりしました。近くのまだ緑の木の葉を食べたりもしました。

 そんな風にして7、8分経った頃、ゆっくりと後ろを向いて歩き始めました。私もゆっくりと付いて行きました。すると足音に気が付いて歩みを止め、ゆっくりと振り向きます。なんで付いてくるのと言いたげに。しばらくするとまた歩き出し、付いていくと振り返り、おなじことを3、4度繰り返すと林道に下りました。

 林道の上から呼び止めると、振り返ってくれました。彼女は林道の壁に生えている草をはんだ後に、ゆっくりと植林の森へ消えていきました。その間約10分のことでした。森には、また何もなかったような静寂が戻りました。私は、なんだか彼女と会話が出来たような嬉しい気分になり、高揚した気分を抱えて山を下りました。

 天然記念物のニホンカモシカは、牛科です。低山から高山の森林に棲息し、通常は単独で生活する森の孤高の生き物です。昔は、妻女山では見られませんでしたが、現在は普通に見られるようになりました。牛科のためか好奇心が強いようで、遭遇しても逃げずにこちらをじっと観察していることがままあります。

 ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、特殊な技法で作るパノラマ写真など。
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茶臼山と斎場山(旧妻女山)を背景に冬野菜の収穫(妻女山里山通信)

2008-12-08 | 歴史・地理・雑学
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 全くおかしな陽気です。霜は降り始めましたが、最高気温は10度以上。冬の信州では異常な高温です。そんな中、茶臼山と斎場山(妻女山)をバックに冬野菜の収穫をしました。しかし、白菜に青虫はいるし、なんと蛭までついていました。干してある豆には何百匹という小さなカメムシが穴をあけて侵入。羽虫の羽化も見られます。こんなことは初めての現象です。

 収穫したのは、青大根(中国大根の江都青長)、地大根、煮大根、白菜、長葱、野沢菜などです。300本余りの大根を引き抜きましたが、これは腰に堪えました。青大根と地大根は、埴科更級名物「おしぼりうどん」に使います。作り方は、私のオリジナルレシピ集のMORI MORI RECIPE(モリモリ レシピ)の日本料理の「おしぼりうどん」をご覧ください。うどん通、麺通なら一度は食べてみなければならない逸品です。

 第四次川中島合戦に武田信玄が最初に布陣したという言い伝えの茶臼山が写真の山ですが、本当は左のちょっと低い山が有旅茶臼山で、伝説の山なのです。しかし、大正10年の山崩れで崩壊し、双耳峰だった茶臼山はご覧の通り南峰が崩壊してしまいました。異説には、布陣したのはこの茶臼山ではなく、その下の川柳将軍塚(前方後円墳)のある石川茶臼山ではないかというのもあるのです。

 江戸時代に描かれた狩野文庫の河中島古戰場圖には、川中島合戦の伝説が描かれています。妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」の榎田良長の『川中島謙信陳捕ノ圖 一鋪 寫本 』(かわなかじま けんしん じんとり の ず)には、妻女山の布陣図が詳細に描かれていますが、別の絵図には茶臼山の布陣図も描かれています。これを見ると、江戸時代の人が想像した物語としての第四次川中島合戦の全貌がよく分かります。

 大学が冬休みに入ったからでしょうか、今日も妻女山(赤坂山)には、ライダーが何人か訪れて、展望台から川中島を眺めていました。戦国の想いに浸っていたのでしょうか。展望台の絵図を注意深く見ると気付くと思うのですが、展望台の位置は赤坂と書かれ、妻女山はもう少し西に書かれています。展望台からやや南西に目を向けて見上げる丸い頂が、戦国時代の斎場山(本来の妻女山)なのです。斎場山は、古代科野の国の斎場(祭祀を行う神聖な場)であったといわれており、山頂には円墳があります。伝説では、そこに陣幕を張り、楯を敷き床几を置いて本陣としたと云われています。また、謙信自ら鼓を打ったと云われている場所です。

 謙信は、斎場山を中心として西は薬師山(笹崎山)、東は赤坂山(妻女山)、南は陣場平、麓は斎場原に兵を置いたと伝わっています。その様を想像するには、斎場山北の千曲川の堤防上から眺めることをお薦めします。また直江兼続は、赤坂山(妻女山)から鞍骨城まで兵を並べて北条氏を威嚇したと伝わっています。これは、松代(海津)城の魯台から眺めるのが一番いいでしょう。冬の北信濃に訪れたらぜひお試しください。
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これこそが本当の川中島の霧!(妻女山里山通信)

2008-12-03 | 歴史・地理・雑学
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 11月5日にも紹介しましたが、今朝の霧はまさに川中島の霧でした。早朝は、30m先の隣家が全く見えないほどホワイトアウトした純白の世界。これでは写真にならないので、8時近くまで霧が晴れ始めるのを待ちました。斎場山(本当の妻女山)や妻女山(昔は赤坂山)は、シルエットで浮かんでました。

 上杉謙信と武田信玄が激戦を繰り広げたといわれる第四次川中島合戦は、1561(永禄4)年9月10日とされていますが、現行歴にすると10月28日とか。戦国時代は寒冷化の時代だったため、現在よりも早い季節にこのような濃霧が発生したのでしょう。このものすごい濃霧は、フォグランプも効かないため、車の運転には細心の注意が必要です。深夜にこのような中、高速道路を走ったことがありますが、ホワイトアウトして天地もよく分からないような状況で非常に怖かったことを覚えています。

 天気が曇りですと、昼過ぎまで霧が晴れないこともあるのですが、今日は快晴で9時過ぎには霧は完全に消えて無くなり、遠くの山が淡い青鼠色にもやっていました。永禄4年の時はどうだったのでしょうか。第一級史料が無いために、史実かどうかもはっきりしない第四次川中島合戦ですが、その激戦は里人の記憶には深く刻まれていたのか、数多くの伝説が地元には残っています。その多くは江戸時代の人によって創作されたものでしょうが、中にはやはり事実なのかと思われるような具体的な地名を含んだ詳細な記述も見られます。

 『甲陽軍鑑』は、小幡景憲によって武田四名臣・春日(香坂)虎綱(高坂昌信)著書の原本を編集、完成させたと伝えられていますが、戦国時代の文章によく見られるように宛字が多く、斎場山も同音異字の西條山という表記で流布してしまいました。その上、江戸時代に妻女山と改名され、明治以降は本来の斎場山古墳のある頂から支山にすぎない戊辰戦争の松代招魂社のある赤坂山へと名称が移動し定着してしまいました。

 西條山は、一般的には西條氏の山城・西條城(竹山城)のあった象山(正しくは臥象山)か、西條村の最高峰・高遠山を指すようですが(狩野文庫の河中島古戰場圖にあり)、明治の生萱村誌には、高遠山から狼煙山を西条山というと記されています。(狼煙山は本来舞鶴山、高テキ山ともいう)。いずれにしても妻女山とは全く別の山です。では、本当は西條山に謙信が布陣したのではという推理も成り立つのですが、象山はあまりにも海津城に近すぎ、また斎場山山系のように大きくなく後背の山が険しすぎて、麓を使ったとしてもとても大群が布陣できる地形ではありません。また、地元にもそのような伝説は全く残っていません。これは単に同じ表記の山が近くにあったということでしょう。

 妻女山(さいじょざん)は、本来は斎場山(さいじょうざん)といい、古代科野の国の斎場(祭祀を行う神聖な場)であったといわれています。『信濃宝鑑』には、妻女山を、まことは斎場山というと記されています。麓の会津比売神社は、「祭神会津比売の命は信濃の国の初代国造建五百建命の后なり。東面の妻女山の地名はこの妻女より出でしものなり。」と會津比賣神社御由緒に記されています。また、『日本三代実録』貞觀八年六月には、授信濃國 無位 會津比賣神 並從四位下と記されています。

 妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。
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戸隠連峰朝夕冬景色(妻女山里山通信)

2008-12-01 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 1561(永禄4)年、上杉謙信と武田信玄による第四次川中島合戦の舞台、岩野十二河原越しに望む戸隠連峰の朝と夕方の風景です。まるで戸隠の雄姿を見せるためのように手前の山が、そこの部分だけ低くなり、一服の絵のように見えます。右の葛飾北斎の描いた富士山に似た形の山は高妻山です。鷺の群が高く千曲川の上を飛んでいきました。

 「アメリカ被れの神無き個人(利己)主義者達」によって、美しかった日本の文化も伝統も葬り去られた現在ですが、ここ千曲川の堤防から望む風景は、一瞬昔のままのような錯覚を覚えるほどです。しかし、「みんな違っていい」という孤立と拒絶が蔓延する風潮は、この風景の中にも確実に潜んでいるのです。

 永禄4年の9月09日、信玄は軍議を開き山本勘助献策の呉の将軍・孫武による兵法書『孫子』より半進半対の術(啄木鳥戦法)を取り入れ、高坂昌信を主将とする別働隊を西条の入より戸神山脈に向かわせ、斎場山の背後を攻撃させようと目論みます。信玄は8000の兵と八幡原へ、本陣を構えまたと伝わっています。
 9月10日、上杉政虎は、海津城の炊飯の煙の多さで夜襲を察知、主力を率いて深夜に斎場山(妻女山)を下山。濃霧の中を雨宮の渡を渡り、川中島に出ました。そこで、武田軍と遭遇。きびすを返し武田軍に襲いかかりました。この時の妻女山は、円墳のある斎場山のことで現在の妻女山は、赤坂山あるいは単に赤坂と呼ばれていました。

 戦場となった川中島には、戦争目当ての武器商人や娼婦も集まり、奴隷市場まで開かれたといいます。乱取りの際には、火を放ち、略奪し、女子供を誘拐して売り飛ばしたと記されています。この美しい風景からは、そんな悲惨な過去の光景は想像することもできませんが、惨劇は確かにあったのです。善光寺大地震、戌の満水と悲劇は続きましたが、その度に先人達は雑草のように萌えあがりこの信濃の国を作り上げてきたのです。アルプス(飛騨山脈)や戸隠連峰は、その全てを見てきたに違い有りません。
 
 斎場山(本当の妻女山)や赤坂山(現在の妻女山)の麓は、現在長芋を掘る作業が最盛期を迎えています。この妻女山麓の長芋は、火山灰土のものに比べて味が濃いのでファンが多いのです。特に冬越しの長芋の旨さは特筆ものです。とろろはもちろんですが、薩摩揚げや長芋100パーセントのお好み焼きにすると最高です。卵にチーズやベーコンを入れたパンケーキも美味。長芋料理は、MORI MORI RECIPE(モリモリ レシピ)をご覧ください。

 川中島合戦と古代科野の国の重要な史蹟としての斎場山については、私の研究ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をご覧ください。

 赤坂山(妻女山)から鞍骨山(鞍掛山)へのトレッキング・フォトドキュメントは、「鞍骨城トレッキングルポ」をご覧ください。上杉景勝と直江兼続が見たかも知れない壮大な風景がご覧いただけます。
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