モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

ピーカンの妻女山展望台へ。鹿島槍ヶ岳、爺ヶ岳、蓮華岳、針ノ木岳、白馬鑓ヶ岳、杓子岳、白馬岳、高妻山、飯縄山、根子岳、四阿山、高社山(妻女山里山通信)

2021-11-30 | アウトドア・ネイチャーフォト
 11月最後の日、朝カーテンを開けると北アルプスがくっきりと見えました。これは撮影に行くしかないと支度をして妻女山展望台に着いたのが10時半。お昼ごろになると稜線が雲で隠れてしまうのでギリギリの時間でした。気温は3度。今朝の最低気温は−3度と冷え込みました。慌てて出てきたので三脚を忘れてしまいましたが、手ブレ補正の抜群の機能を持つオリンパスですからなんとかなるでしょうと。

 鹿島槍ヶ岳(2,889m)。後立山連峰(飛騨山脈)の盟主といわれる名峰。山頂右(北側)の大きな谷は、平家の落人が隠れ住んだという「かくね里」。日本で4例目の氷河かもしれないと雪渓の調査がされましたが、2018年1月に、長野県初の氷河であると認定されました。かくね里の人々は、やがて大川沢を下り鹿島川の辺りに住み、それが今の鹿島集落とか。ただ、鹿島神社には807年(大同2年)には集落があった記述があるそうで、平家追討以前にすでに集落があったことになります。戦国時代の天文年間の大地震で鹿島槍が大崩壊し、麓が大被害を受けたため、地震の神様である鹿島神社を勧請したともいわれています。かくね里上部は、鹿島川最上流部の標高1800〜2200mにあり傾斜もきつく、雪崩や落石も多くとても人が住めるようなところではなさそうです。もし落人が住んでいたとしても、もっと下流の方かも知れません。

 その左(南)にそびえる爺ヶ岳(2,670m)。鹿島槍、五竜岳と共に仁科三山と呼ばれます。

 ずっと右にそびえる白馬三山。左から白馬鑓ヶ岳(2,903m)、杓子岳(2,812m)、白馬岳(2,932m)。明治時代に帝国陸軍陸地測量部が地図を作るために白馬村に訪れた時、この山々には確固たる山名がありませんでした。岳山(たけやま)とか西山とか適当に呼んでいたそうです。そんな馬鹿な話があるかと役人に怒られて、長老が命名。
 雪形の代かき馬からとって代馬岳、貝杓子に似ているので貝杓子岳、長いので貝を取って杓子岳、尖っているので槍ヶ岳、しかし槍ヶ岳、鹿島槍とあるので駄目だと言われて白馬鑓ヶ岳と命名。西山にいる山の主で天狗の尾根、身の程を知らぬ者が天狗に近づこうとして帰れなくなったので不帰ノ岳と適当に命名して今に至ります。代馬岳は、実際の地図では白馬岳となっていましたが、村人達は長い間その事実を知らなかったそうです。(出典:『北アルプス白馬ものがたり』石沢 清著)

 白馬鑓ヶ岳と杓子岳。手前の里山は、茶臼山の登山口にある信里小学校と農協。この向こうには、山布施などの古い集落が点在します。西山地区といい西山大豆や野沢菜、おやきなどが有名です。

 白馬岳の雄姿。北は栂海新道をたどり、大昔にユーラシア大陸と引き離された親不知で日本海へと落ち込みます。手前の里山は、地滑りで崩壊した茶臼山の南峰です。

 妻女山展望台から北を見るとまず目に入るのが、戸隠富士と呼ばれる高妻山(2,353m)。手前は戸隠山の連峰。

 右手前に大きな山塊の飯縄山(1,917m)。拙書でも詳しく紹介していますが、山頂付近には飯縄権現を祀る飯縄神社があります。北信五岳のひとつで、長野市民の山。都民ならたいてい高尾山に登る様に、長野市民ならたいてい一度は登る山です。ちなみに高尾山薬王院は飯縄大権現を祀っています。飯縄権現は、古くから戦勝の神として信仰され、上杉謙信や武田信玄が信仰していたことでも知られています。多くの場合、神が烏天狗という形であることから、古くは秦(羽田・畑・本田・本多)氏の様に徐福伝説や古代ユダヤとの関係も考えられます。

 東方には、根子岳(2,207m)と四阿山(2,354m)。両山ともコースはもちろん、歴史や自然を拙書で詳しく書いていますが、四阿山は真田の修験の山で、山頂には麓の山家神社の奥宮が二つあります。麓の神社には、真田幸隆が奉納した奥宮の漆塗りの扉が現存します。菅平は、ここのところ全国最低気温を記録しています。

 北東を見ると、これも拙書で紹介している地元でたかやしろと呼ばれる高社山(1351.5m)。その美しい佇まいから別名を高井富士といいます。この山を境にこちら側の南側と、向こうの北側では積雪がまったく異なります。木島平や飯山は、日本有数の豪雪地帯です。冬期は手前に雪庇ができるので要注意。実際踏み抜いて死亡事故も起きています。拙書では、美しい花をたくさん紹介しています。

 週末に作業をする予定の陣場平へ。甲高い鳴き声のヒヨドリがたくさんいました。他にはメジロなども。残り少ないクマノミズキの実をついばんでいるのでしょうか。冬に山仕事をしていると、虫を求めてルリビタキが寄ってきます。

 堂平大塚古墳横の友人のログハウスで休憩。蓮華岳(2,799 m)右奥は針ノ木岳(2,821)。針ノ木峠(2,536m)は、古くから信州と越中を結ぶ立山詣者、杣人、商人、釣り人などの重要な道でした。

 下って妻女山松代招魂社へ。戊辰戦争以降の戦没者を祀っています。瓦には六文銭が。戊辰戦争の会津戦争は、信州人同士の戦だったという歴史の悲劇です。上杉景勝の会津転封で、善光寺平の土豪達は家族家来が全て会津に移りました。加えて徳川家光の時代に、伊那高遠藩の保科正之が家光の腹違いの弟と判明し会津に転封。また信州人が行きました。この時、我が一族のものが同行し、後に豪商となって会津藩を支えました。会津は信州人が造った町ともいえるのです。また、妻女山麓にある会津比売(あいづひめ)神社の祭神である会津比売命と、福島の会津は古代において深い関係があるのです。ハイキングのガイドでは、そんなこともお話ししました。そして会津戦争で会津若松城をメリケン砲で攻撃し白虎隊殲滅に加わったのが松代藩でした。戦はいつの世も悲劇しか生みません。
「戊辰戦争」の戦没者を祀る妻女山松代招魂社と松代藩の戦没者名簿(妻女山里山通信)

 妻女山展望台(411m)。ここは川中島八景のひとつ。妻女山秋月に挙げられています。あと七つは、茶臼山暮雪、猫ケ瀬落雁、千曲川帰帆、八幡原夕照、勘助塚夜雨、典厩寺晩鐘、海津城晴嵐。またここは、信州サンセットポイント百選に選ばれており、美しい夕焼けが見られます。
 現在はここが妻女山と呼ばれていますが、正しくは赤坂山です。上杉謙信が本陣としたと伝わる妻女山は、ここより100mほど高い本名を斎場山という山で、山頂は古代科野国の古墳(円墳)です。Googleマップでは、陣場平と斎場山について、私が写真を投稿しコメントも記しています。ぜひご覧ください。

 冬野菜が美味しい季節になりました。やはり霜が降りたものは甘さが違います。今回はオイルサーディンと白菜とのらぼう菜のパスタを作りました。のらぼう菜は江戸時代の初めにオランダから入ってきた菜の花の原種で、東京の西多摩地方で食べられていた野菜です。私は若い頃にあきる野市の養沢川にフライフィッシングに通っていた時に知りました。帰郷してから息子に種を送ってもらい栽培を始めました。亡き父が非常に気に入り採種して集落に配ったので、今では皆作っています。春先にとう立ちを折って食べますが、苦味がなく和洋中華すべてに合うので人気の野菜です。これのボンゴレビアンコとかオイスターソース炒めなどは絶品です。

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせか、メッセージからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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初冬の陣場平へ。緑のセリバオウレン、クマノミズキの珊瑚色の実、信濃柿、ハチノスタケ。妻女山展望台(妻女山里山通信)

2021-11-26 | アウトドア・ネイチャーフォト
 あちこちから降雪の便りが届き始めました。白馬ではけっこうな積雪があったようです。来週は仲間を集めて山仕事をするので、その下調べも兼ねて妻女山山系に登りました。林道は枯葉が降り積もって非常に滑りやすくなっています。スタッドレスは雪には有効ですが、積もった枯葉にはまったく効きません。特に舗装路に積もった枯葉のカーブは慎重に。雪ではシャーベット状態、ミラーバーンにブラックアイスバーンは信州では普通にあります。最も怖いのは、春先の溶けて氷結した路面に薄雪の状態。どんなスタッドレスも全く効きません。
 それと、県外からスキーなどに来た車に見られますが、車の屋根に雪を積んだまま走ること。これは法律違反であり非常に危険です。後ろに落ちると後続車が事故る可能性があり、責任を問われます。また、ブレーキ時にフロントグラスに落ちて視界がまったくなくなり事故る可能性。絶対にやってはいけません。スタッドレスはもちろん、雪かきスコップ、窓の雪を落とすスクレーパー、融雪スプレー、−30度対応のウィンドウウォッシャー液は常備を。私は深雪や凍結の林道の急斜面を登るためのスパイクアタッチメント(スウェーデン製:麓の公道は走れません)も積んでいます。冬期のイノシシ狩りのハンターは、スタッドレスの上にチェーンを履いて登ってきます。

 妻女山里山デザイン・プロジェクトで貝母(編笠百合)の保護活動をしている陣場平。第四次川中島の戦いで、上杉謙信が七棟の陣小屋を建てたところと伝わる場所でもあります。完全に落葉すると樹間から海津城(松代城)が見えます。紅葉というより枯葉ですね。閑寂とした風景を突き破るように何か鳥の群れが樹冠で騒いでいたのですが、正体は分かりませんでした。冬の漂鳥や渡り鳥もそろそろ見られる頃です。
 毎年の4月の記事をご覧いただくと分かりますが、貝母が満開になると何百人もの方が花見に登って来ます。毎年メンバーで整備をして、球根を移植しているので群生地は少しずつですが広がっています。私が発見して保護活動をしていた頃と比べると数倍の面積になっています。来春を楽しみにしていてください。

 一角に我々が植えたセリバオウレンがあります。葉が緑色で艶艶しています。来春の3月中旬以降に花が咲きます。その頃に貝母が芽吹きます。ロゼットで冬越しする植物も散見されます。中央のクマノミズキもほとんど落葉しました。
可憐なセリバオウレン。北信濃の春を告げる花の群生地を探しに上杉謙信の山城がある髻山へ(妻女山里山通信):清楚で可憐です。動画も二本。

 足元にそのクマノミズキの実が落ちていました。これを見ると私が「森の珊瑚」という理由が分かると思います。一緒に落ちた実も、いずれ鳥や昆虫などに食べられてしまいます。

 信濃柿(豆柿)。渋柿ですが木になったまま甘い干し柿になります。雪が降る頃に落ちるとタヌキの大切な餌になるのです。雪の上にタヌキが歩き回った足跡があるので分かります。

 倒木にハチノスタケ。有毒ではありませんが食べられません。傘の裏が蜂の巣状です。数日前にかなり雨が降ったので、ムラサキシメジのシロにも行きましたが出ていませんでした。今年は結局2本採っただけ。例年なら100〜200本は採れます。フランスではピエブルーという高級キノコ。和風にも洋風にも合うとても美味しいキノコです。

 ヤマコウバシの木にからみつくミツバアケビ。冬になっても緑なので、ニホンカモシカの餌にもなります。ミツバアケビの実は大きく食用になります。
アケビのブルーチーズ入りミソバーグ:オリジナルレシピですが、東京のヌーベルキュイジーヌのレストランで食べたら3000円ぐらいしそうです。味噌風味にブルーチーズを合わせたところが、まさにミソです。ミソとブルーチーズのはんなりとしたコクのある香りが漂ってきて食欲をそそります。

 林道から陣場平への小道。オニグルミの木がたくさんあります。撮影機材や山仕事の道具を積んでここまで車で来ますが、オススメしません。林道が豪雨で激しくえぐれているので、車が傷つくか壊れます。私は何十回と登っているのでどこにタイヤを置けばいいか熟知しているのでなんとか登れるのです。

 その分岐から。左に登ると天城山(てしろやま)を経て鞍骨城跡のある鞍骨山へ約60分弱。右下に下ると5分弱で堂平大塚古墳。3つ前のブログで、その歴史や驚愕のエピソードを記しています。冬の日が作る樹木の影が美しい。

 堂平大塚古墳から西の眺め。篠山が見えます。山頂直下は、長野市の森林公園で車で行けて眺めもよく非常にいいところなのですが、人に出会ったことがありません。中腹にはウィーゴカントリークラブ、麓には長谷観音があります。麓に白く靄(もや)が見えます。気温は8度。

(左)堂平大塚古墳入り口の紅葉。(右)入り口の足元には紅葉の絨毯。

 長坂峠から北の眺め。落葉して千曲川や長野方面の山々も見えるようになりました。

 長坂峠のクヌギの黄葉。そのすぐ奥に斎場山(伝上杉謙信の本陣)がそびえます。日向と日陰では体感気温がまったく違います。冬を感じます。

 少し下って千曲川。対岸にAC長野パルセイロのホームスタジアムも見えます。

 妻女山駐車場から東の眺め。松代方面。左に大きな奇妙山。右奥に雲に隠れた根子岳と四阿山。畑では、降雨や降雪の前に剪定した枝や枯葉を燃やす作業があちこちで行われています。

 妻女山展望台から西方の眺め。茶臼山の右奥に神話の山、虫倉山。神城断層地震で山頂の4割が崩壊してしまいました。左奥には白馬三山が見えるのですが、ピーカンの日以外は雪雲がかかっていて見られません。白馬村では積雪もありました。五竜のスキー場はもう滑れる様です。在京の次男は胸を躍らせている様ですが、私はウィンタースポーツはやりません。子供の頃嫌というほどスキーやソリやスケートをしたせいでしょうか(笑)。小学校の頃は、冬は午前中は全て前の広い田んぼでスケート三昧でした。帰って友達と妻女山へスキーに。満月の夜は帰るのも忘れて滑りました。帰って怒られましたが。

 北方の眺め。飯縄山もやっと積雪がありました。冬の訪れは遅いのですが、12月から1月上旬は厳冬とか。気になるのは上雪が多いかもという予報。2014年の大豪雪を思い出します。あのときはブログでも記事にしていますが、本当に大変でした。今週末にはいよいよ長野市でも降雪がありそうです。どんな冬になるでしょう。

 妻女山里山デザイン・プロジェクトのメンバーと作った黒大豆が山のようにあります。とりあえずきな粉を作ったら馬鹿旨だったので、黒大豆100%のハンバーグを作ってみました。黒大豆を茹でて粒が残るくらいに潰し、玉葱のみじん切りを炒め、卵、パン粉、片栗粉を加えます。味付けはコンソメパウダー、ケイジャンスパイス、マジックソルト、コショウ。黒大豆の煮汁でご飯を炊きました。大豆ハンバーグ、これは予想以上に美味しいです。味付けを中華風、和風と変えてもいいでしょう。ヴィーガンではありませんが、これは癖になりそう。

 翌々日の日曜日の朝、斎場山に初冠雪がありました。標高513mなのでこの程度ですが、善光寺平を囲む800m以上の里山は真っ白です。日中は晴れたのでほとんど溶けましたが。あちこちのスキー場からはオープンの知らせが届いています。

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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3年ぶりに開催の「長野えびす講煙火大会」。「遠花火 人妻の手が わが肩に」寺山修司(妻女山里山通信)

2021-11-23 | 展覧会・イベント・コンサート
 3年ぶりに「長野えびす講煙火大会」が開催されました。コロナ対策で離れた4箇所で順番に打ち上げるとか。妻女山展望台には、県外からもカメラマンが訪れていました。花火には思い入れがありますが、撮影に関しては割とどうでもいい私。まあ写真は望遠ですが手持ちなのでそれなりです。45分と短い花火大会でした。しかし、3年ぶりの花火大会は、色々考えさせられるものがありました。私は遠花火が好きです。遠花火は記憶の底や深層心理を呼び起こします。

 花火の始まりは狼煙(のろし)だそうですが、花火大会を最初に見たのは、天正9年(1582年)4月にイエズス会が最初だとか、天正17年(1589年)7月の伊達正宗が最初だとかいわれていますが、戦国時代ですから庶民が楽しめるようなものではなかったでしょう。本格的に花火大会が行われる様になったのは、慶長18年(1613年)8月に明の商人によって持ち込まれた花火を見た徳川家康からだといいますから、平和になった江戸時代からということです。いわゆる打上花火は、1751年に開発されたとされているようです。それまでは、いわゆる大筒から火の粉が吹き出すような花火だったようです。長野は花火の生産地で、妻女山の山向こうにもあったそうですが、爆発して廃業したそうです。

 信州では、イベントや運動会の合図に盛んに花火が打ち上げられます。これは東京から来た人には信じられないことなのですが、当の信州人は子供のころからそれが当たり前と思っているので、不思議には思いません。ところで妻女山にも麓の小学校で打ち上げた花火の丸い殻がよく落ちているのですが、この「音花火」は非常に危険なんだそうです。「花火の威力と危険度」で検索を。火薬がたくさん詰まった花火が、こんなにたくさん一般商店で売られているのは、中国と日本ぐらいじゃないでしょうか。欧米ではあり得ないことです。武器が作れますから。子供の頃、よく花火を分解しましたが、絶対やってはいけないと言われていた意味が、これを読むとよく分かります。


「しずかさや 外山の花火 水をとぶ」小林一茶
 これは、一茶の草庵近くの野尻湖の花火の俳句でしょうか。
「大名の 花火そしるや 江戸の口」小林一茶
 江戸の庶民が大名の花火をけなす様子が笑えます。
「音もなし 松の梢の 遠花火」正岡子規
 本当に遠い花火は風向きによっては音がしません。花火の光でかすかに松葉が浮かび上がるのでしょうか。
「死にし人 別れし人や 遠花火」鈴木真砂女
 遠花火は、もう会えない人を思い出させます。昔はお盆の精霊のものでしたから。
「遠花火 人妻の手が わが肩に」寺山修司
 自分の夫と勘違いして。彼らしいいい句ですね。ちょっとドキドキします。

 私の駄作です。
「露草に 映して光る 遠花火」
 在京時代に調布の花火は国分寺崖線の上から家族で見ました。露草が香る夕立の後の花火。
「幼子の 瞳に映る 遠花火」
 小さかった息子達の瞳に花火が映っていました。懐かしくもう戻れない瞬間。
「遠花火 隠して匂う 夏木立」
 夕立の後は、草いきれや梢の葉の匂いに包まれます。ああ夏の匂いだなと。
「遠花火 歓声もなく 温(ぬく)もなく」
 ひとりで見る遠花火は声も温もりもありません。ただただ人生の侘びがあるのみ。
「遠花火 記憶の底に 散る夜かな」
 何度、遠花火を見たことでしょう。記憶の底に色々な記憶が蘇ります。
「君の名を 呟いてみる 遠花火」
 亡き妻と見た遠花火。
 林風

 この煙火大会が終わると、善光寺平にも本格的な冬がやってきます。風景が真っ白になる日もそう遠くはありません。

DAOKO × 米津玄師『打上花火』MV Short ver.


 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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あんずの里、森の古刹をめぐる小春日よりの週末。観龍寺、禅透院、興正寺、岡地天満宮(妻女山里山通信)

2021-11-21 | 歴史・地理・雑学
 小春日よりの週末、あんずの里、千曲市森の古刹巡りをしました。来週は天気が崩れ初雪もあるかもしれません。この冬はラニーニャが発生しているので厳冬になるそうですが、晩秋は暖かい日が続きました。それも最後になりそうです。この地は、近くに森将軍塚古墳がある様に、古代科野国の頃から、縄文弥生の頃から人びとの暮らしが営まれてきたところです。

 まず、観龍寺へ。坂上田村麿が東征の際の草創で、川中島合戦の時には、山陰に隠れるようにあったため武田の戦火を免れたという古刹、信濃三十三番札所第六番「洗渕山観龍寺」。本尊は、藤原初期のものといわれる榧(かや)の一木造り十一面千手観音菩薩座像。今年の4月1日のあんずが満開の記事では茅葺きでしたが、銅葺きに改修されました。ここには母方の祖先の絵師の絵が奉納されています。ここから大峯山への登山ルートは拙書で紹介しています。

 本堂の天井には、地元の人達の書や絵が奉納されています。レベルの差はありますが、子供が描いた絵もあって微笑ましい。

 寺の駐車場からあんずの里の眺め。ここからの満開のあんずは毎年撮影します。拙書の大峯山のページにも掲載しています。やや右手に見える巨木はケヤキです。千曲市が舞台の映画『ペルセポネーの泪』にも登場します。主演は渡部秀、剛力彩芽。観に行くつもりです。
信州のあんずの里が満開です。桜も満開。こんなことは初めての杏源郷(妻女山里山通信)2021年4月1日の記事です。杏源郷

 山際の周遊道路を右回りで上平展望台へ。遠くに見えるのは茶臼山。くっきりと晴れていれば北アルプスも見えるのですが。

 神龍山禅透院へ。曹洞宗佐久郡前山村貞祥寺末派で、弘治元年(1555)創建。境内には在来種のあんずの木があり、満開のときはそれは見事です。森は松代藩の領地だったので、その庇護のもとにありました。

 本堂の裏手にある銀杏の大木。美しく黄葉しています。銀杏はたくさん食べると体に悪いので数粒を。

 鐘楼の横にあるサンシュユ(山茱萸)の真っ赤な実。やや固くて酸味があります。滋養、強壮薬として、寝汗、頻尿、インポテンツ、脚気などに用いるそうです。これで薬種を作るといいかもです。

 あんずの黄葉。暖かいので、まだ緑色の葉もあります。

 母方の祖母の菩提寺の大城山興正寺へ。興正寺は、浄土宗西京大谷知恩院の末派で、創立年は不詳。

 鐘楼手前の五葉松。母の実家にも見事な五葉松があり、その昔に1000万円で譲ってくれという人がいたとか。もちろん売りませんでしたが。その子供が我が家の庭にも植えてあるのですが、なにせ充分に手入れもしていないもので…。時間を作って剪定や姿造りをしようとは思うのですが。

 興正寺といえば山門の子持ち龍。天才・立川和四郎富昌の作。一見の価値があります。和四郎富昌は八幡の武水別神社の再建中でした。そこで、森出身の弟子・宮尾八百重を案内役に住職、世話人、名主らが建築現場に赴き建築を依頼。引き受けた富昌は三月頃から、父富棟が寛政二年(1789)に建築した善光寺大勧進の表御門形式を参考に絵図面を制作。四月には八百重の家に投宿し近くの薬師山に登って酒宴を催し、満開の杏花を愛でたといわれています。夜は篝火の下で鼓を鳴らし謡曲の「鞍馬天狗」を吟じ、見事な龍を描き上げ、村人や近郷近在の話題をさらい、村では日本一の宮大工が来たと喜んだそうです。左右にある波の彫刻は、葛飾北斎の影響を受けたものともいわれていますが見事です。

 彼の木彫は、京都御所の建春門の「蟇股(かえるまた)の龍」、遠州の「秋葉神社」、諏訪の「諏訪大社下社拝殿」、善光寺大勧進御用門「江梁の龍」、松代町西条の白鳥神社の「神馬」などがあります。また、千曲市市屋代の須々岐水神社にも富昌の作があります。生き生きとした龍の親子に見惚れます。

 山門の脇にある枝垂れ桜。満開のカットは毎年このアングルで必ず撮影します。しかし、毎回少しずつ違うのです。あんずや桜が満開の記事は、毎年4月のアーカーイブをご覧ください。

 次に薬師山の展望台へ。ここからのカットも拙書には載せています。右奥の煙が立つ辺りは、山の上の方まであんず畑があり、絶好の撮影ポイントです。70年頃は、多くが藁葺き屋根でした。あんずも在来種が多く、現在の満開の風景とは趣がまったく異なるものでした。

 左に目を向けると、先日登った鞍骨城跡のある鞍骨山。高圧鉄塔から右が城内となります。

 最後に訪れたのは、岡地天満宮。この神社には、菅原道真の木像と、法華経妙荘蔵王品一基が所蔵されていますが、菅丞相書『法華経並びに親作木像記』によると、どちらも菅原道真自作・真筆のものと伝えられています。岡地に安置されるようになった経緯は非常に複雑です。もともとの所有者は、江戸城を築城した太田道灌(「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞ哀しき」の逸話で有名)が足利学校で学んだ折りにもらい受けたとされています。ただし、道真公からどういう経緯を辿って足利学校に所蔵されるようになったかは不明です。
 第四次川中島合戦の折に、ここ岡地には観音堂の大伽藍があったそうですが、戦火のために焼失したと縁起には記されています。その後、湯島天満宮に納めようとしたのですが、不慮の変があり果たせず、徳川家康の手に渡り、三代将軍家光へ、さらに幕府の官医であった土岐長庵の手に渡ります。土岐長庵は松代藩の真田家と懇意だったようで、真田家の菩提寺の松代長国寺(曹洞宗)に遺贈されました。更にその後しばらくは、松代の長国寺にあったとあり、長国寺十七世千丈寛厳和尚が千曲市森の岡地に華厳寺を開いて隠住したとき(1785年)に森の岡地に天満宮を造って安置したのが始まりということです。

 幻の善光寺五重塔建立のための試作品とされる名工・立川和四郎富棟作の「惣金厨子」。富棟(富昌の父)の名声を世に広めたのは、1781年(安永10年)建立の諏訪大社秋宮です。またここ岡地には、正和2年(1313)3月に焼失した善光寺、金堂以下の諸堂再建工事の折、用材を伐採、「長さ十丈ばかり材木が空中を飛翔して、その工事を助けた、という「飛柱の異」という言い伝えがあります。

 かの高名な歴史研究家、米山一政氏が驚嘆したという平安末期-鎌倉初期の作といわれる一刀彫の像「天部」(右)と「如意輪観音」(左)。【参考文献:「岡地探訪 乙路の県 天満大自在天神とその周辺」発行:岡地天満宮 H19.4.1】

 アオツヅラフジ(青葛藤)の青い実。鎮痛,利水作用があり,関節の水腫や疼痛などに用いる落葉つる性木本です。薬になるということは有毒でもあるということです。このつるは籠を編むのに最適な様で、妻女山にご婦人たちが探しに来たこともありました。
「駿河の海 おしへに生(お)ふる 浜つづら 汝(いまし)を頼み 母に違(たが)ひぬ」東歌
(駿河の海に生えている浜つづらのように、長くいつまでもそなたを頼りにしていて母と仲違いしてしまった)


 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせか、メッセージからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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古代科野国の堂平大塚古墳から林道倉科坂線へ。男装の麗人・川島芳子。紅い部分月食(妻女山里山通信)

2021-11-19 | 歴史・地理・雑学
 妻女山駐車場近くの、仲間とやっている椎茸栽培のホダ木が劣化して来たので、使えなくなったホダ木をどけて整理をしました。その後、カメラ機材と山仕事の道具を積んで登り、陣場平へ。ログハウスで休憩の後下山し、久しぶりに林道倉科坂線を歩いてみました。

 紅葉が燃える堂平大塚古墳。円墳で直径は約16m。高さは約4.8m。横穴式の石室で、開口部は西向き。7世紀前半~中葉の古墳といわれています。中はかなり広く、高さは2.3mあり充分に立って入れます。1966年位までこの横には家があり、山仲間の故Kさんが家族で住んでいました。年中温度が一定なので、古墳の中を貯蔵庫として使っていたそうです。堂平という名称から、古くはここに何かお堂があったと思われます。
 彼の家族が住む前の戦前には、乃木希典の軍の軍曹だった山岸義十郎氏が住んでいたと父から聞きました、大正天皇が皇太子のときに清野小学校から白馬に乗って来訪し、彼は軍服を着てサーベルを下げて迎えたと、青年学校時代に同行した亡父が言っていました。
 Kさんから、戦後に男装の麗人、川島芳子(清朝の皇族・第10代粛親王善耆の第十四王女)、本名は愛新覺羅顯㺭(あいしんかくら けんし)がどこから聞いたのか、ここに住みたいと打診して来たと驚きの話を聞きました。それは断ったそうですが。銃殺刑になった説、50年代に死亡説、1978年死亡説とミステリアスな人生を送った女性です。戦争の悲劇は庶民だけではない例。戦争で莫大な富と利権を得るたった1%の輩が戦争を起こす。
「妻女山 有名人訪問年表」政治的、軍事的に利用された稀有な里山(妻女山里山通信):これほど政治的、軍事的に利用されてきた里山もないでしょう。ぜひご覧ください。

 古墳の前の落葉松。微風でもチリチリと散ってきます。林道や登山道は枯れ葉の絨毯。カラカラに乾くともの凄く滑ります。ご注意を。この敷地内には、勅命、正一位と書かれた古い石碑があります。別の面には、天宮大穴郷堂平とも記されています。まがい物でなければ、勅命、正一位はもの凄い記述です。天宮大穴郷は、現在の雨宮。大穴郷は、古墳がたくさんあった時代のこの地の呼名です。

 陣場平分岐の柏の葉。子供の頃は、祖母が旧暦の端午の節句に柏餅を作ってくれました。そのために妻女山へ柏の葉を摘みに来たものです。記憶の底に残るあの素朴な柏餅の味は忘れません。小豆は大納言ではなく、今や希少な少納言です。味は全く違います。入手はほぼ困難と思います。私が作ったものが少量あるだけです。できれば栽培したいのですが。

 長坂峠から右奥に天城山(てしろやま)。山頂は堂平大塚古墳より古い円墳です。峠のススキが光っています。クヌギ、カシワ、コナラ、エノキ、ヤマザクラ、コムラサキ、シナノガキ、ケヤキ、ヌルデ、ヤマコウバシ、ガマズミなどの色々な紅葉黄葉が山を彩ります。

 左からカシワ、コナラ、クヌギの枯れ葉。

 妻女山駐車場まで下って、左の林道倉科坂線を歩きます。松代方面の眺め。右手前に象山。ぞの奥に皆神山。左に尼厳山と右に大きな奇妙山。右奥に根子岳と四阿山。雪がないですね。スキーシーズンは2周間ぐらい遅れそうです。ただ、ラニーニャが発生しているので冬の到来は遅めですが、寒くなりそうです。2014年の豪雪の様にならなければいいのですが。あの年も1月まで降雪が少なく暖かくこのまま春になるのかなと思っていたら2月に豪雪。

 ダンコウバイの花芽がもうできています。3月に真っ先に黄色い花を咲かせます。そうはいっても触るとカチカチに固いのです。冬の寒さから守るためです。

 ノコンギクの種。寒風が吹く度に散っていきます。

 前の記事で紹介したヌルデ(白膠木)の紅葉。枝に葉柄があるのですぐ分かります。ウルシの仲間なので、人によっては触れるとかぶれることもあります。

 ヤマコウバシ。クスノキ科クロモジ属なので、枝を折るといい香りがします。これで箸や爪楊枝を作るといいかもしれません。太陽が好きなので日当たりの良い西側の斜面に多く見られます。冬になっても枯れ葉を落としません。新葉が出るまでこのままなので、真冬でも目立ちます。落ちないので、受験のお守りにも使われます。

 左下が象山。そこから続く尾根。左は越山。右は深山。右(西)へたどると鞍骨山。南へたどると鏡台山です。

 戻って椎茸栽培の森へ。ホダ木を処分したのでスカスカです。来春に1000駒打ち込む予定です。その翌年にまた1000駒。
 
(左)14個ほど椎茸が出ていました。12月初めの妻女山里山デザイン・プロジェクトの納会で食べようと思います。(右)その椎茸と天然のムキタケ、ベーコンと多摩の伝統野菜ののらぼう菜の和風パスタ。のらぼう菜は、在京時代に五日市の養沢へフライフィッシングに通っていた時に出会い、美味しいのでずっと後に息子に調布市農協で種を買ってもらい。父が育ててこれは美味しいと集落中に種を配ったのです。江戸時代初期に入ったセイヨウアブラナの原種に近いもので、春のとう立ちを食べます。苦味がなく甘く美味しく、和洋中華なんにでも合うので重宝しています。これとアサリのボンゴレビアンコは最高です。

 翌日は陣場平の整備。折れた太い枝や落枝の処理。来春、貝母が満開になるとたくさんの人が訪れます。危険がない様に今の時期に整備をします。昼の休憩はログハウスへ。古墳の裏に咲くヤマツツジ。狂い咲きではなく、毎年初夏と小春日よりの晩秋に咲くのです。来週は氷雨と初雪もあるかもしれません。これが見納めでしょう。

 妻女山展望台からの白馬三山。来週は、手前に見える茶臼山も白くなるかもしれません。信州の長い冬が始まります。

 部分月食の紅い月と星。縄文や弥生の古代の人びとにとっては、神の降臨かはたまた災いの予兆か。140年ぶりの紅い月がもたらすもの。

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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天城山林道を歩き古代科野国に想いを馳せる。燃える秋の松代城へ。真田十万石の盛衰(妻女山里山通信)

2021-11-14 | 歴史・地理・雑学
 穏やかな小春日和の週末。妻女山奥の天城山(てしろやま)林道を終点まで歩きました。そこから天城山への登山道を芝山まで登り、ムラサキシメジのシロが近くにあることを思い出し下りてみましたが皆無。雨が降らないので今年の収穫は先の2本で終わりかもしれません。下山後は松代城へ。

 天城山西方の尾根から。手前は、森将軍塚古墳の上にそびえる有明山。左へ尾根をたどると五里ヶ峯。拙書でも載せていますが、トレランの人達がよく走るコースです。右奥は三峯山。左に三角の風越山。これらも拙書に掲載。
 
(左)アベマキ(棈)。ブナ科コナラ属の落葉高木で、樹皮のコルク質が分厚いため、コルククヌギ、ワタクヌギともいいます。独特な樹皮の割れ方です。(右)葉は細長くクヌギと似ています。コナラは先の方が幅広でミズナラと似ています。

 陣場平に戻ります。向こうに見える山の尾根のすぐ下に歩いた林道が通っています。往復3キロぐらいですが、石だらけの道なので結構疲れます。お昼はログハウスへ。鮭マヨおにぎりを二つ作ってきました。北アルプスや眼下に流れる青い千曲川を見ながらまったりと。

(左)長坂峠でルリタテハ(瑠璃立羽)が日向ぼっこ。成虫で越冬します。春にはヒオドシチョウと共に現れます。(右)鮮やかなヌルデ(白膠木)の紅葉。葉に虫コブができます。外はフェルト状で柔らかく、中は空洞。アブラムシがたくさんいます。 タンニンの含有量が多く、乾燥品を五倍子といい、染め物では空五倍子色(うつふしいろ)とよばれる伝統色として用いられます。古くはお歯黒などにも使われました。
「足柄の 吾を可鶏山の かづの木の 吾をかつさねも かづさかずとも」(詠人知らず) 万葉集:カヅノキ(可頭乃木)=ヌルデ

 長坂峠から見る斎場山。鞍骨城から松本から来訪の二人が。薬師山へ行くというので拙書の地図を見せて解説。なんでも鞍骨城には20人ぐらいがいたとか。人気の山です。妻女山展望台に下ると東京と大阪から来た3人の男性が。展望台から見える川中島の戦いの史跡を説明しました。その後、私は松代城へ。

 松代城の太鼓門にかかる橋から望む斎場山(旧妻女山)。ここから見ると斎場山が陣場平と妻女山(旧赤坂山)への尾根上にある様に見えますが、実は400m西(向こう)にあります。

 城の櫓台から見る斎場山。上杉謙信が最初本陣としたのは斎場山で、現妻女山ではありません。山頂は古代科野国の古墳(円墳)で、円形で平らです。上杉軍は、この山のあちこちや麓に布陣したと伝わっています。篠山は、長野市の森林公園があり、ウィーゴカントリークラブの南側から山道を登って、山頂近くまで車で登れます。

 雲ひとつ無い青空に建つ太鼓門。ドウダンツツジの紅葉が鮮やかです。県内外からたくさんの観光客が訪れていました。新蕎麦を食べるなら、千曲川対岸の安心(あんじん)か、八幡原の横綱をおすすめします。

 お堀越しに見る左に、真田幸隆に攻略された東条氏の尼巌城跡のある尼巌山(あまかざりやま)、右に東山城跡(清滝城跡)のある奇妙山。両山とも拙書に掲載していますが、登っても非常に楽しい山です。お堀では鴨が泳いでいました。

 松代城跡の復元図(江戸時代末期)。歩いていける距離に新御殿(真田邸)や文武学校、真田宝物館、象山神社などがあります。真田宝物館では、「企画展 むかしの松代をのぞいてみよう! 」を、2022年1月17日(月)まで開催中です。

 松代パーキングエリアから見る鞍骨山(鞍骨城跡)。ハイカーはもちろん、全国の山城マニアも大勢訪れる人気の里山です。深山から南へ、御姫山、大嵐山(杉山)、三滝山、鏡台山と戸神山脈が続きます。

 鞍骨城跡を望遠レンズで。本郭は、緑が生い茂ると展望がほぼなくなりますが、二つの展望岩からは景色が望めます。北面なので逆光で真っ暗ですが、北面南面共に、尾根を除いて崖の様な急斜面なので攻めにくい山城だったと思います。拙書では、妻女山コース、薬師山コース、唐崎山コース、鷲尾山コース、象山コースの5つを載せています。

 松代PAからの白馬三山。右奥の虫倉山までが松代藩の領地です。虫倉山は拙書でも詳しく紹介している神話の山ですが、2014年の神城断層地震で山頂が4割も崩壊してしまいました。

真田十万国「松代城(海津城)」の歴史 その1(妻女山里山通信):始まりからかなり詳細に記しています。
真田十万国「松代城(海津城)」の歴史 その2(妻女山里山通信)

松代藩の祖 真田信之の御霊屋と墓所のある長国寺へ。真田宝物館へも(妻女山里山通信):左甚五郎

虫倉山。神城断層地震で崩壊した山頂へ。無常と360度の大展望と。登山情報(妻女山里山通信):山頂崩壊の状況が分かります。

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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大量のムキタケ採取。イノシシのヌタ場、斎場山、会津比売神社、森将軍塚古墳。古代科野の国(妻女山里山通信)

2021-11-11 | 歴史・地理・雑学
 9日に予報より多くの雨が降りました。先週、大量のムキタケを採りましたが、小さなものはすべて残してきました。それが採り時だろうと登りました。登り始めは10度でしたが、下山時は16度。麓は18度になったようです。ただ風は強めで、枯れ葉が舞っていました。長野市は、高原の紅葉が終わり里山の紅葉が真っ盛りです。運転していても周り中の美しい紅葉が気になってよそ見運転をしないよう注意しています。

 やっとムキタケの群生する倒木へ。大きくなっています。雨を含んで粘るものもあります。なるべくゴミを持ち帰りたくないので、ハサミで切り取っていきます。熊の心配は季節柄ありませんが、ニホンカモシカの通り道なので、時々周囲を見ます。視線を感じて見上げると、そこにニホンカモシカということもありました。ニホンカモシカは襲ったりしません。ただ非常に好奇心が強いので凝視されます。

 大きな株です。クヌギの枯れ葉が舞い落ちています。針のような落葉松の枯れ葉が意外と面倒なのですが、すべて取り除きます。帰ってからの処理が簡単になります。

 両方ともムキタケなのです。これだけ色が違いますが同種です。オリーブグリーンのものもあります。有毒のツキヨタケが似ているのですが、標高1000m以上のキノコなので、ここでは心配無用です。ムキタケに特徴的な濃い味はありませんが、そのため和洋中華色々な料理に使えます。ヌメリもあるので煮込み料理や鍋に最適です。

 ヒラタケもまだありますが、これは縁が焦げ茶色で老菌に近いので、小さなものを採取しました。醤油バター炒めとかベーコンとパスタとかグラタンとかにも。小さなキノコバエが見えますが、彼らがもたらす線虫で白いコブが傘の裏にできることがあります。無毒ですが、気になるなら爪で削ぎ落とすと簡単に取れます。今回は、40センチのボウルがいっぱいになるぐらい採れました。毎日キノコ三昧です。来月の妻女山里山デザイン・プロジェクトの納会に持っていって振る舞います。今回は、煮込みうどん、豚足と地大根の五香粉中華煮、鶏と春菊、薩摩芋のクリームシチュー、モツ煮込みなどにムキタケを使いました。どれも馬鹿旨でした。

 傾斜が40〜45度の急斜面。ここを登らないと帰れないというと普通採取は諦めるでしょうね。迷ったら確実に遭難しますし。今年は倒木が多いです。里山保全は手間隙かかりますが、やらないとあっという間に荒廃します。何百年もの間、人が手を入れて維持してきたのが里山です。その重要さを満開の貝母を紹介する時にも必ずお話しています。

 やっと陣場平に戻りました。我々が保護活動をしている貝母(編笠百合)は、消えています。来年の3月に雪の下から芽を出します。満開になるのは4月の15日前後。誰もが感激する満開の様子は、毎年の4月のアーカーイブから記事をご覧ください。日本の里山でこれだけの群生地が見られるのはここだけです。帰化植物の除去や、落枝や倒木の処理、球根の移植作業などを妻女山里山デザイン・プロジェクトのメンバーとしています。開花期にはガイドもします。コロナで中止状態ですが、以前は合同ハイキングのインタープリターもしました。

 堂平大塚古墳のあるログハウスへ。落葉松の黄葉の向こうに聖山。聖湖は、全国的に有名なへらぶな釣りのメッカです。

 北アルプスの仁科三山も。左に爺ヶ岳、右に鹿島槍ヶ岳。淹れてきたコーヒーでしばしまったりと休憩です。

 小紫の実。有毒ではないのですが、鳥はあまり食べませんね。人が食べても美味しくはありません。綺麗なので生花に使うといいですね。

 今は亡き山仲間のKさんが植えたイロハモミジも見事に色づきました。紅葉は逆光で撮ると映えますね。

 ログハウスの日溜まりにはたくさんのアキアカネが舞っていました。あちこちの池で産卵シーンが見られますが、我が家の雨の水たまりに産卵するのは可愛そうです。数日で干上がってしまいますから。教えてあげる術はありません。

(左)コバノガマズミの紅葉。ガマズミの真っ赤な実は、ルビー色の抗酸化作用のある綺麗なお酒ができるのですが、今年も作りそこなってしまいました。(右)クヌギの落ち葉の中にダンコウバイの黄色い落ち葉。

 斎場山(旧妻女山)へ。山頂は古代科野国の古墳です。五竜眼塚古墳の記述もありますが、山名から斎場山古墳と呼ぶべきでしょう。五竜眼は、この後出てきますが、この西方にある平地の名称です。

 古墳の最上部。円墳で山頂は丸く平らです。川中島の戦いの時に、最初に上杉謙信が本陣とした場所として伝わっています。盾を敷き、陣幕で囲み、鼓を叩いて舞を舞ったという伝説があります。武田軍が全軍を海津城に入れた後は、後述の陣場平に七棟の陣城を建てて本陣としたと伝わっています。甲陽軍鑑の編者、小幡景憲がその絵を描いています。東北大学の狩野文庫に収蔵されています。当ブログでは、許可を得て掲載しています。川中島の戦いでブログ内検索して下さい。

 巨大なイノシシのヌタ場。冬の猟期に追われたイノシシが、氷を割ってここで火照った体を冷やすこともあります。倒木の穴をイノシシが鼻で掘ってここまで大きくしたのです。

(左)イノシシが泥をこすりつけた木。これをたどっていくと彼らの塒(ねぐら)にたどり着くかも。(右)御陵願平。転訛して五竜眼平とも。よく見ると二段になっています。里俗伝では、往古ここに会津比売神社があったとか。上杉謙信が庇護していたために、武田信玄に焼かれ、その後麓に隠れるように再建されたとか。現在は、上信越自動車道の薬師山トンネルの松代側の入り口の裏にひっそりと鎮座します。祭神の会津比売命(あいづひめのみこと)は、大国主命のひ孫で、夫は崇神天皇に初代科野國造に任命された神武天皇の後裔といわれる武五百建命(たけいおたつのみこと)といわれています。

 その会津比売命を祀る会津比売神社。諏訪社系の神社なんですが、御柱はありません。全国でたった一社という非常に珍しい神社です。会津は福島の会津と関係があります。
 崇神天皇10年9月9日、崇神天皇の伯父大彦命(おおひこのみこと)を北陸道へ、その子武淳川別命(たけぬなかわ わけのみこと)を東海道へ遣わせた。日本海側を進んだ大彦命は越後から東に折れ、太平洋側を進んだ武淳川別命は南奥から西に折れた。二人の出会った所を相津(會津、会津)という。『日本書紀』
 相津と想定される会津坂下町青津。能登南部からの移住者を想定される弥生時代終末期の男壇遺跡・宮東遺跡があり、亀ヶ森古墳等がある。(会津学研究会サイトより引用)
 この会津と、会津比売命の関係やいかに・・。大彦命は東征の後で、長野市篠ノ井の茶臼山動物園の下の長者窪という所に住み、薨去したと伝えられています。彼の功績を讃えて父出速雄命は娘に会津比売とつけたのではないでしょうか。

 上杉謙信の布陣した山として妻女山(旧赤坂山、旧妻女山は斎場山のこと)を訪れる人は多いのですが、薬師山トンネルの陰にひっそりと佇む会津比売神社を訪れる人は稀です。春秋の祭には神楽が奉納されます。

 この会津比売神社の祭神、会津比売命(會津比賣命)ですが、東北の大震災以降、知られるようになった貞観地震の記述がある『日本三代実録』貞観8(866)年6月甲戌朔条(最初の行)に、「授信濃國-無位-會津比賣神 從四位下」と出てきます。官位のない会津比売命に従四位下の位を授けますよということです。かなり高い位を授かっています。

 その理由なんですが、会津比売は、諏訪大社の祭神、建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)の子、出速雄命(いずはやおのみこと・伊豆早雄)の子といわれているからなのです。しかも、神武天皇の子、神八井耳命(かむやいみみのみこと)の子孫といわれる、大和王権より初代科野(信濃)国造に任ぜられた武五百建命(たけいおたつのみこと)[古事記]の室(妻)といわれているからなのです。

■科野国造 武五百建命と妻 会津比売命の家系図(諸説あり)
 神武天皇--神八井耳命--武宇都彦命--武速前命--敷桁彦命--武五百建命--健稲背
           大国主命--建御名方富命--出速雄命--会津比売命(出速姫神)


 つまり、出雲系の出速雄命一族は、娘の会津比売命が、天皇系(大和系)の科野国造 武五百建命と結婚したことにより、官位を授与され、後に諏訪に戻って大祝(おおほうり)家となったわけです。貞観年間に、無位となっていた出速雄命、会津比売命の官位授与を申請したのは、当時の埴科郡の大領であった金刺舎人正長といわれています。金刺氏は諏訪系統の流れで、貞観4年(862)に、埴科郡大領外従7位金刺舎人正長とあります。『日本三代実録』[信濃史料]
 無位にあった自分の先祖の復権をすべく申請したということでしょう。古代科野国は、出雲系と大和系が結ばれてできたといえるのです。

 会津比売神社はいわゆる式外社(しきげしゃ・『延喜式』神名帳に記載の無い神社)ですが、「国史現在社」です。「国史現在社」とは、式外社ですが、『六国史』にその名前が見られる神社のことを、特に国史現在社(国史見在社とも)と呼びます(広義には式内社であるものも含む)。『六国史』とは、『日本書紀』、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』をいいます。

 会津比売神社御由緒で、その夫と伝わる建五百建命の前方後円墳、森将軍塚古墳です。科学的に証明はできませんが、埋葬されているのは初代科野国の大王といわれています。崇神天皇の三世紀後半ごろ、神武天皇の子・神八井耳命(かむやいみみのみこと)の孫・建五百建命(たけいおたけのみこと)が科野国造(しなのくにのみやつこ・しなのこくぞう)に定め賜わりました。そこで森将軍塚古墳の埋葬者が、建五百建命ではないかといわれているのです。古墳の築造は、4世紀代といわれています。
 建五百建命の祖先は神武天皇ですから大和系。會津比賣命の祖先は大国主命ですから出雲系。この二人が結ばれ古代科野国の祖となったということです。これに関しては、信濃の古墳研究の第一人者であった元長野県考古学会長・故藤森栄一氏が、【信濃豪族の系譜】という文章を書いています。
 森将軍塚古墳へは、麓の千曲市の科野の里ふれあい公園からシャトルバスが出ていますが、徒歩でも20分ぐらいで登れます。また公園内には古墳館がありおすすめです。駐車場を挟んで反対側には、長野県立歴史博物館があり、現在は「全盛期の縄文土器」を展示中。非常に面白いレベルの高い展示です。

「全盛期の縄文土器」ー圧倒する褶曲文ー 長野県立歴史館:尽きない縄文の魅力(妻女山里山通信):11月23日まで開催中!

古代科野国の初代大王の墓といわれる森将軍塚古墳の歴史検証(妻女山里山通信)

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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久しぶりにハロープロダクション(ハロプロ)の特集です。モーニング娘。'21、Juice=Juice、アンジュルム、つばきファクトリー、宮本佳林(妻女山里山通信)

2021-11-09 | BABYMETAL・LOVEBITES・ジャズ・宮本佳林・クラシック
 久しぶりにハロープロダクション(ハロプロ)の特集です。

Juice=Juice『プラスティック・ラブ』(Juice=Juice [Plastic Love]) Promotion Edit

 世界でも人気の80年代シティーポップ。竹内まりやのカバーをJuice=Juiceが。胸熱。

モーニング娘。'21『Teenage Solution』Promotion Edit

 さすがのハロプロの筆頭グループ。再生回数も凄いが歌もパフォーマンスも凄い。やはり、つんくの曲はいいね。時代に敏感だし先も見ていて凄い。

【Juice=Juice】プラトニック・プラネット - One Cut Ver. -【Remaster】

 宮本佳林が抜けても、安泰だねと思う反面寂しさも。

Juice=Juice「SEXY SEXY」(2021春)

 現ハロプロ随一の実力グループの本領発揮。

Juice=Juice/つばき「AS FOR ONE DAY」アンジュルム/BEYOOOOONDS「Are you Happy?」

 ハロプロの幅の広さと実力が非常によく分かる。

アンジュルム/Juice=Juice 「意識高い乙女のジレンマ」

 卒業する金澤朋子を見てしまう。彼女の個性的な歌声は、宮本佳林の透明な声とともにJuice=Juiceの宝だった。この二グループは、水と油のようで、実は見事に乳化する。

宮本佳林『どうして僕らにはやる気がないのか(2021)』Promotion Edit

 素晴らしい歌唱力。素晴らしいMV。ファーストシングル注文しました。いい歌です。彼女の魅力が詰まっている。

壊れない愛がほしいの/夏焼雅・宮本佳林(M-line Special 2021)

 この二人ですからね。安心して聴けます。

2021 DOWN TOWN/Juice=Juice

 山下達郎の名曲。EPOがカバーした「オレたちひょうきん族」のテーマとして覚えている人が多いかな。このサイトでは見られないので、YouTubeでぜひ観てください。

有澤一華・入江里咲・江端妃咲『Magic of Love (J=J 2015Ver.)』

 伸びしろあるニューフェイスなので、暖かく見守って行きましょう。まだ声帯も大人のそれではないですから。


 妻女山から見る松代方面の眺め。里山もすっかり錦秋。そこここに燃える秋が見られます。県外からの観光客も増えました。

 妻女山の欅の紅葉。ダンコウバイの黄葉が輝いています。落葉松の黄葉は始まったばかり。火曜日にかなり降雨があったので、今週末のキノコが楽しみです。

農産物直売所マップ | おいしい信州ふーどキャンペーン :信州にいらしたら農産物直売所へぜひ訪れてください。野菜山菜キノコ果物に郷土料理も。道の駅も要チェックです。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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小春日和の週末は、鞍骨城跡のある鞍骨山へ登山道整備しながらトレッキング(妻女山里山通信)

2021-11-07 | 歴史・地理・雑学
 小春日和の週末。久しぶりに鞍骨山へトレッキング。手鋸(てのこ)と剪定バサミを持って、登山道整備をしながら登りました。名古屋から来訪の山城マニアの男性と、二組のご夫婦と邂逅。一組は貝母を案内した方達で拙書の読者でした。全国から山城マニアや歴女が訪れる里山です。もちろん拙書でも載せています。

 鞍骨山山頂。鞍骨城跡の本郭からの眺め。中央に松代城。手前は文武学校のある松代小学校。右奥には母校の松代中学校。校章は結び雁金です。卒業生には、モーニング娘。21の羽賀朱音ちゃんとか世界的アコーディオニストのcobaさんとかいます。奥の崖が見える里山には、金井山城跡があります。

(左)出発は妻女山の駐車場から右の林道へ。撮影機材に山仕事の道具もあるので陣場平までは車で。途中林道整備をしながら。(右)陣場平入り口。左に鉄の看板があり、小道を50mほど行くと陣場平です。現在は私が主宰する妻女山里山デザイン・プロジェクトの仲間が、里山で日本ではここだけと思われる貝母(編笠百合)の群生地の保護活動をしています。右下に300mほど下ると堂平大塚古墳。私有地ですが古墳の見学はできます。ログハウスがあるので持ち主がおられたら了解を得てください。ここからは徒歩で鞍骨山を目指します。

(左)少し登ると林道から別れて左へ登山道。以前はMさんが立てた標識があったのですが、腐ってなくなってしまいました。山中の標識や看板は、防腐剤を塗らないとだめです。また、熊が壊すので油性のラッカー塗装はだめです。理由は拙書の「猫にマタタビ、月の輪熊に石油」というコラムに書いてあります。(右)少し急登をこなすと、登山道は尾根から外れて右へ。斜面はダンコウバイの黄葉で輝いています。まっすぐ尾根を登ると清野古墳が二基あります。

(左)ダンコウバイの道を登るとほどなく天城山(てしろやま)と巻道の分岐。左の巻道を行きます。天城山は、手城山と書きました。山頂には古墳があり天城城跡でもあります。(右)天城山からの道を合わせてしばらく進むと二本松峠。右が倉科で清野坂、左が清野で倉科坂といいます。昔、名主をした先祖の娘二人が両村に嫁ぎ、この峠を越えて行き来していたそうです。自動車も鉄道もない頃は、皆山を越えていたのです。

(左)二本松峠から暗い杉林を登ると明るい広葉樹林に。(右)太い赤松の倒木。これは手鋸では切れません。左に巻道ができていました。

 駒止と呼ばれる深い空堀。戦国時代の馬は、木曽馬の様な山道が得意な馬だったので、越えられたかも?

(左)孫杓子。マンネンタケ科のキノコ。漢方薬。(右)高圧鉄塔。これが目印になります。

 すぐ先に二条の空堀。先の空堀からは左へ林道倉科坂線へ下る登山道があります。この空堀から先が城内となります。

(左)正面に小高い尾根が続き、両側下に幅4mほどの削平地が続きます。倒木で行けないので右へ。(右)馬場跡ともいわれる削平地。馬場跡?どうでしょう。駒止もあって馬が来られないはずですが。ここで友人のフランス人のトレジャーハンターが、宋銭と秤のおもりを発掘しています。彼は市場があったのではというのですが、まさかこんな山の奥にね。駐在する兵士の小屋があったのではと私は思うのですが。

(左)第5の郭から。左手に回って上へ。矢印とトラロープがあります。(右)こんな急斜面を登ります。石を崩さない様に。

 広い第4の郭。ここは右手に回ります。帰郷して2009年春にこの登山道を整備した時は、ノイバラ、エビガライチゴ、ヤマガシュウが生い茂って登山道を完全に塞いでいて、除去しなければ鞍骨山へは登れませんでした。何度も通って登山道整備をしました。その後、千曲市の緑を守る会や倉科のMさんなどが整備をしてくれて、誰もが登れる山になりました。

 そこから見上げる本郭。上に第3の郭。

 右に回って斜めに登ります。見上げると本郭の石垣が見えます。登る道は不明瞭で細くかなり危険です。半端ない山城だと分かります。

 本郭下の第3の郭には四角い窪地が。来る度にここは何だったのだろうと思います。井戸ではないですね。厠でしょうか。敵が襲ってきた時には、まず石を投げて糞尿をぶちまけたと史料にもありますし。

(左)その上の第2の郭は、犬走りの様な細長い郭です。(右)本郭下の石積み。割とよく残っていますが、松代群発地震で崩れたり欅の根で壊されたりしています。坂城の村上義清の葛尾城跡の様に、城跡を傷めない様に鉄の階段とか木道が整備されるといいのですが。古墳とか山城の保存や保全は非常に難しいと思いますが重要なことだと思います。

 鞍骨城跡本郭。標高798mの鞍骨山山頂。鞍骨城は、旧埴科郡の山城の中で最大。本郭は、西辺20m、南辺17m、北辺9.7mの不整方形。西方に脇郭と副郭、さらにその西に大郭と狭長な郭があり、堀切を隔てて平坦部が続きます。本郭の北東には土塁があり、外側は石積みになっています。南面に比べて北面は険しく傾斜が急です。このため南面が大手とされたようです。この城は、清野氏の要害であったことは間違いありませんが、永正年中(1504-1520)清野山城守勝照の築城説については明証がありません。

 清野村誌によると、「村の北の方、字中沖にあり。往古本村領主清野氏数代之に居す。年月不詳。清野某海津に移り、該地に倉庫を建つ。此時より禽の倉屋敷と称す(現在の松代城の場所)。天文、弘治中、清野山城守武田氏に敗られ、越後に逃走するに及び武田氏の有となり、天正十年三月武田勝頼滅び、織田信長の臣森長可の有となり、六月信長弑せされ長可西上するに至り、七月上杉景勝の所有となり、某幕下清野左衛門尉宗頼、該地に移り居住すと言う。管窺武鑑に七月四郡(埴科・更級・水内・高井)上杉景勝の有となり、清野左衛門尉を、猿ケ馬場の隣地、竜王城に移とあり。一時此処に居せしか不詳。後真田氏領分の時に至り寛永中焼亡す。後真田氏の臣高久某此域に居住し、邸地に天満宮を観請す。弘化二乙己四月村民清野氏の碑を建つ。」と記されています。

 信濃の小領主であった清野氏は、村上義清の配下でしたが、天文22年(1553)8月、村上義清が上杉謙信を頼り逃れると、清野氏は、道寿軒と長子清秀が上杉方に、次子信清(清寿軒)は武田方にと、親子兄弟敵味方に分かれて戦いました。どちらが勝っても一族が生き延びるという苦肉の策。その後、武田が滅びると上杉の会津移封に伴って清野を去ったのです。信濃の小領主たちは、甲越どちらかにつくか、親子兄弟別れるかして、いずれにしても信州先方衆として真っ先に戦わなければならなかったのです。

 武田氏滅亡後、鞍骨城は『景勝一代略記』によると、 1582(天正10年)7月に上杉景勝が「清野鞍掛山の麓、赤坂(現妻女山)と云所に御馬を立てられ…、鞍掛山へ御上がり云々」との記録があり、景勝と北条氏政が川中島四郡支配を争った際に、上杉方がこの一帯に陣取った様子が記されています。そういう経緯から、今の鞍骨城は、景勝時代の姿ではないかともいわれています。そんな城跡を500年前の石垣かと思って触れると、色々な事を思います。なぜ人は戦ばかりするのだろうとか…。いずれにせよ山城マニア、戦国マニア必見の山城です。


 鞍骨城跡は、12月から4月上旬の落葉期と芽吹き前以外はあまり眺望がありません。そこで拙書でも紹介していますが、本郭から東へ20mぐらい行った先に二箇所展望岩があります。手前の展望岩から北東の眺め。眼下に出発点の妻女山(旧赤坂山411m)が見えます。その向こうに千曲川。川中島が広がります。正面の尖った山は、別名戸隠富士と呼ばれる高妻山。右は長野市民の山、飯縄山。

 次の展望岩からは眼下に松代城跡。手前には松代藩の文武学校がある松代小学校。バーチャルで火縄銃や大砲が撃てます。真田宝物館、真田邸、象山神社、象山記念館がいずれも徒歩で行ける範囲にありオススメです。

 望遠レンズで長野市街を撮影。左に善光寺の表参道と山門、国宝の本堂が見えます。これは今まで知りませんでした。肉眼では見えないので、清野氏も上杉景勝も知らなかったでしょう。プロカメラマンも唸るOLYMPUSの望遠レンズの凄さを再確認。しかも、これ三脚でなく手持ちなんです。驚異的です。「私がOLYMPUSを使い続ける理由。たかが写真されど写真(妻女山里山通信)」をご覧ください。

 妻女山展望台の真下にある赤坂橋対岸から撮影した鞍骨山(鞍掛山)。右へ妻女山と矢印がありますが、まず二本松峠、天城山(てしろやま)、陣場平(謙信陣城跡・貝母群生地)、長坂峠(斎場山への分岐)、妻女山と続きます。展望岩東のコルは、自然の地形を更に掘ったものの様です。昔は石段があったと聞きました。空堀二つの下には水の平という窪地があり、水場だったといわれています。現在は熊やイノシシのヌタ場になっています。(2017年11月撮影)

象山から鞍骨山、天城山から斎場山、土口将軍塚古墳から薬師山へのトレッキングルポ
離山の麓から鞍骨山を望む(象山から鞍骨山、天城山、斎場山、妻女山までの大パノラマ)

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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森の貴婦人ムラサキシメジ。採らずに我慢のキノコ狩り。亡き友人が植えたイロハモミジの鮮やかな紅葉(妻女山里山通信)

2021-11-05 | アウトドア・ネイチャーフォト
 用事を済ませて妻女山へ。前日はキノコ狩りをする気もなく温泉へ行く途中でジャージでキノコ狩りしてしまったので大量の引っ付き虫に好かれてしまいました。今日は完全武装で。妻女山の駐車場へ行くと既に4台の車が。天気もいいので鞍骨山へ向かったのでしょうか。まとまった雨がないので、地面から出るキノコは皆無です。

 眼下に上信越自動車道と松代パーキングエリア。上りと下りは歩いて行き来ができます。また国道403号からも利用できます。とろろご飯とか鬼かけ蕎麦とかリーズナブルで美味しい郷土料理がいただけます。雨が降っていないので千曲川の青が鮮やかです。

 数年ぶりに急斜面の獣道を歩いてみました。実はこのずっと上に林道があるのですが、それができる前は、ここが山道だったのです。しかし、人が歩かなくなると道は崩れ消滅します。現在はニホンカモシカが歩くだけ。途中に何箇所か糞場がありました。気を抜くと滑落必至な獣道です。体幹が鍛えられます。しかし、山はカラカラでキノコはなし。

 ダンコウバイの鮮やかな黄葉。Sさんに邂逅。80過ぎなんですが、山登りを欠かしません。妻女山里山デザイン・プロジェクトの活動のお手伝いもしてくれます。

 彼と別れて下っていくと右下の斜面に大きなキノコを発見。なんだろう?と下りてみました。最初はシロシメジかと思いました。しかし、採取して傘の裏を見ると、なんと森の貴婦人ムラサキシメジ(紫占地)。乾燥しているので白っぽくなってしまったのです。水に浸すと鮮やかな紫色になります。二つ採れました。美味しいだけでなく、カリウム、リン、マグネシウム、ナトリウム、カルシウムなどが含まれる栄養食品です。
 フランスでは、ピエ・ブルーといって高級キノコ。和風はもちろんバターやクリームとも相性のいい非常に美味しいキノコです。亡き父は、匂い松茸味しめじと言ってなといい、ムラサキシメジの吸い物が何より大好きでした。油味噌と和えておやきも美味です。今回は煮込みうどんにします。

 前日行ったムキタケとヒラタケの倒木へ藪を越えて向かいました。採らずに残してきた小さなムキタケです。

 採りたくなりますが我慢です。山はカラカラでキノコ狩りの人はいませんし、ここは藪のはるか奥なので、私以外は入らない場所です。

 ヒラタケもあります。雨が降らないとなかなか大きくなりませんが、朝に霧に包まれるのでその水分が命の源です。

 大きなヒラタケは、傘の裏に白いブツブツができます。ナミトモナガキノコバエが運ぶ線虫の一種によって生じるもので中に見えないほど小さな線虫がいますが、食べるのに問題はありません。いやなら爪でしごけば簡単に取れます。

 今回の収穫。手前の二つがムラサキシメジです。ムラサキシメジやシモフリシメジ、天然のエノキタケはこれからが里山ではシーズンですが。まとまった雨が降らないと出ません。ムラサキシメジはこれから道の駅で買えるかもしれません。選び方は、茶色の部分がないもの。そこは枯れ葉が張り付いていたところで、枯れ葉の香りが付いています。それがいいと言う人もいます。お好きな方を。紫色が鮮やかなものがいいですね。

 山歩きに疲れて、休憩のためにログハウスへ。今は亡き山仲間の友人Kさんが植えたイロハモミジが紅葉していました。この山を愛した彼を偲びながらのティータイム。蜂蜜を入れたチャイが最近のお気に入り。

 妻女山里山デザイン・プロジェクトで保護活動をしている貝母の群生地がある陣場平の入り口。オニグルミと信濃柿(豆柿)の木があります。

 下って松代藩が建立した妻女山松代招魂社。戊辰戦争以降の戦没者を祀っています。瓦には六文銭が。現在はここが妻女山と呼ばれていますが、正しくは赤坂山です。上杉謙信が本陣としたと伝わる妻女山は、ここより100mほど高い本名を斎場山といい、山頂は古代科野国の古墳(円墳)です。Googleマップでは、陣場平と斎場山について、私が写真を投稿しコメントも記しています。ぜひご覧ください。

 招魂社裏手のソメイヨシノか山桜の幹にナツヅタが絡みついて紅葉しています。フユヅタ(アイビー)は紅葉しません。

 妻女山展望台の裏にある四阿から見る色づき始めた茶臼山。茶臼山動物園では双子のレッサーパンダが生まれて大人気の様です。白馬三山は雲の中。手前の畑では長芋の収穫が行われています。とろろ100%のお好み焼きを作ろうと思います。

 映えない写真ですが、信州ハムの豚足を大根、ムキタケ、ヒラタケ、クリタケ、ハナイグチと中華煮に。上湯スープの素、牡蠣ソース、本味醂(あれば紹興酒)、醤油、五香粉、ニンニク、生姜でコトコト煮込みました。天然キノコは中華にも合うのです。横浜中華街でも味わうことができない、天然キノコの極上の旨味がつまった料理です。豚足はコラーゲンたっぷりで、ビタミンDやビタミンB12なども豊富に含まれています。
 ガラス鍋ですが、VISIONの鍋です。もう30年以上使っていると思います。中が見えるのと、火を止めてもしばらくグツグツ煮えているほど保温性が高いのです。非常に気に入っています。

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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カラカラの里山でキノコ狩り。急遽前回の山へ。ハウチワカエデの燃える紅葉。ヒラタケとムキタケ大量ゲット(妻女山里山通信)

2021-11-01 | アウトドア・ネイチャーフォト
 標高1300mの里山へキノコ狩り。そのために期日前投票を済ませたのですから。ところが山は乾ききっていて毒キノコさえありません。

 まるで箱庭の様な三峯山の風景。左はスキー場のゲレンデ。正面はスライダー。小さな子がいる家族にはピッタリ。昔、息子達を連れて遊びに来ました。キノコ狩りの山へは、ここからかなり走ります。

 やはりまとまった降雨がないために森は乾いています。確かに地面は朝霧で湿ってはいるのですが、この程度ではキノコは出ません。やっと南側の斜面でチャナメツムタケ2本を見つけました。あとはクリタケが少々。とてもキノコ狩りにはならないので、前回の山へ行くことにしました。ここから麓に下りて10キロ以上あります。採れなければ、キノコ狩りが紅葉狩りの山岳ドライブになってしまいます。

 前回とは少し離れた場所へ。やっと日がさし始めました。倒木や立ち枯れの木が多い森です。気温は8度。

 クリタケ発見。前回の場所ほど密集していないのであちこちを探しました。

 栗茸一家。雨が降らないので成長が遅い様です。結局今回は、150本ほど採れました。まずまずです。

 近くに猛毒のニガクリタケ。死亡例もあります。クリタケ採取の時は、必ず噛んで見ること。クリタケは無味、ニガクリタケは本当に嫌な苦味があります。

 30分ぐらいあちこち歩き回って、檜林を抜けて登山道へ。ひとつ谷を越えなければなりません。

 オオモミジ(大紅葉)の黄葉。イロハモミジから自然発生した変種だそうですが、葉が大きいために黄葉が見栄えします。赤くなる個体もあるようです。

 日に透けるオオモミジ。家族でよく登った東京と神奈川の境にある小仏城山の茶店では、楓の葉を天ぷらにして出していました。東京近郊の里山には、高尾山や陣馬山、御岳山の様に茶店があるところがあり、それぞれ名物の料理があり、そこに立ち寄るのも楽しみでした。

 トチノキも色づき始めました。山梨県小菅村南の牛ノ寝通りには、樹齢800年、樹高30mを超すトチノキの巨樹が何本もあり、家族と何度も見に行きました。
牛ノ寝通り(山沢)・大トチ/大マテイ山・誰も知らない幻の大トチ/鶴寝山・大ブナ(巨樹特集)
大マテイ山-鶴寝山(山梨県の牛ノ寝通りへ大トチを見に行った紅葉狩りのルポです。紅葉が見事です)


 イタドリも色づいています。右上の向こうの赤い実は?

 ヒヨドリジョウゴ(鵯上戸)です。ナス科ナス属の多年生植物。 熟した果実にヒヨドリが群がって食べる様子が、酒に酔った人達が騒ぐ様子に似ているというのが名前の由来なんですが、全草にステロイド系アルカロイドのソラニンを含んでおり、誤食すると嘔吐や下痢、呼吸困難などの症状を引き起こし、大量に摂取した場合は昏睡状態に陥り死亡することもあります。というわけで、ヒヨドリは食べないと思っていましたが、食べている写真がアップされていました。少量なら大丈夫なのでしょうか。

 ハウチワカエデ(羽団扇楓・葉団扇楓)が鮮やかに燃えています。まさに燃える秋ですね。日本の楓の中では葉が大きな方なので、紅葉は非常に映えます。別名は、メイゲツカエデ(名月楓)。

 ダンコウバイ(檀香梅)の黄葉。クスノキ科クロモジ属の落葉小木。材には香りがあり、クロモジと同様に爪楊枝や木工で使用されます。 春一番に黄色い小花を咲かせます。切っても株立が旺盛で、放っておくと森が真っ暗になってしまいます。妻女山では、適宜除伐をしています。

 山を下りる途中の眺め。遠くに戸隠連峰が見えます。日が当たると暖かいのですが、日陰は一気に冷え込みます。

 今回は、チャナメツムタケとクリタケを使って、鶏皮と大根の中華煮を作りました。鶏皮はごま油でニンニク生姜と炒めて。味付けは五香粉(ウーシャンフェン)と上湯スープの素、醤油、本味醂です。五香粉は、陳皮、シナモン、花椒、フェンネル、八角、クローブをミックスした中華のスパイスで、これを使うと誰でも本格的な中華料理ができます。普通にスーパーで買えます。今回のは業務スーパーで買い求めたもの。

 ここ数日、朝の冷え込みで朝霧に包まれるようになりました。川中島の戦いで有名な川中島の霧です。霧は川霧と山霧がありますが、冷え込んだ朝は川霧が大量に発生し、堤防から溢れて里を包み、山まで押し寄せます。これは数年前の写真ですが、本当に濃い霧に包まれると一切の視界がなくなるため、写真も真っ白になってしまいます。在京時代に信州へ、ホワイト・アウトした高速道路を真夜中に走ったことがありますが、フォグランプも効かず本当に恐怖でした。この時期に深夜や早朝に信州へ来る時は、要注意です。
 写っているバイクは、30年以上前に買ったイタリアはビアンキのクロモリフレームのマウンテンバイクです。サドルやペダル、タイヤなどは交換してあります。かなりヘタってはいますが、ポタリングぐらいなら充分に乗れます。

 文化の日、温泉へ行こうと外出。ところが、カラカラに乾いた里山ですが一箇所だけどうにも気になる場所がありました。急遽駆けつけました。温泉へ行くためにジャージだったので大量の引っ付き虫に襲われながら根本が直径60センチぐらいのコナラの倒木へ。勘は大当たり。ヒラタケとムキタケがびっしりとついていました。ボウルは40センチぐらいあるのですが、ヒラタケもムキタケも大きいのでかなりのボリュームです。ヒラタケはレバニラ炒めに入れます。ムキタケは豚足と中華煮に。たくさん採れたので小分けして冷凍しました。妻女山里山デザイン・プロジェクトの納会に持っていこうと思います。寄せ鍋にジンギスカンにとアイデアは膨らみます。カッチュッコとかブイヤベースとか洋風もいいですね。小さなムキタケはすべて残してきたので、何日か後には同じぐらいの量のムキタケが採れるでしょう。倒木が本当に枯れて土に戻る長い間に、多大な恵みを与えてくれるのです。キノコは食物繊維が豊富で、ビタミンDやビタミンBのビタミン類、カリウムやリン等のミネラル類の他、免疫力を高めるβグルカンが含まれていたりと有益な食材です。本当にありがたい森の恵みです。

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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