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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

里山初冠雪の善光寺平、霧の川中島、松代城、長野えびす講煙火大会、新蕎麦(妻女山里山通信)

2017-11-25 | 歴史・地理・雑学
 11月20日の夜から21日朝にかけて善光寺平(長野盆地)周辺の里山にも雪が積もりました。初冬のこの時期が長野盆地の東西南北で最もその違いが分かるのです。やはり北部の山は積雪が多い。東山より西山の方が雪が多いのです。長い冬の訪れです。

 妻女山展望台から松代方面の眺め。中央奥に見えるはずの根子岳と四阿山は雪雲の中。仲間が菅平のスキー場へスキーのインストラクターをしに行っているかもしれません。日差しも出てきて、翌日は10度以上になったので消えました。尼厳山は、土豪東条氏の山城。真田幸隆に攻略されました。奇妙山は、拙書で名前の由来や歴史を詳しく書いていますが、これも山頂は古い山城です。

 千曲川の赤坂橋左岸からの鞍骨山(鞍骨城跡)。手前は上信越自動車道で、すぐ左に松代パーキングエリアがあります。中央の深いコルは、鞍骨城の防御のために窪んでいた尾根をさらに深く掘り下げたものの様で。昔は石段があったという話を聞いたことがあります。
 先日、BS-TBSで放送された「諸説あり#24 川中島の戦い』の撮影で、スタッフと歴史作家の三池先生をガイドしたのは、この山脈です。象山から登り、深山、鞍骨城跡、天城山、陣馬平、斎場山、妻女山と案内しました。放送日は急用ができて見られませんでしたが、後日DVDが送られてきました。非常に面白い番組でした。

 上のカットの鞍骨城跡から右(西)へ1キロちょっと行くと天城山(てしろやま)。山頂は円墳で、鞍骨城の支城の天城城跡です。右手前の山頂は天城山から妻女山へ伸びる尾根で、清野古墳があります。一番右の陣馬平は、第四次川中島合戦の際に、上杉謙信が七棟の陣城を建てたという広い台地です。妻女山里山デザイン・プロジェクトは、ここの貝母(ばいも・編笠百合)の保護活動をしています。4月の茶花で薬草ですが、かなり強い毒草です。百合根に似た球根を誤って食べると、死亡する場合もあります。美しいから家に植えたいと思って持ち帰るのは厳禁です。

 引きのカットです。上杉軍は、左の月夜柵から陣馬平、斎場山、妻女山(当時は赤坂山)、御陵願平から右の薬師山と手前の平地の斎場原にかけて広域に布陣したと伝わっています。千曲川の流れは、江戸時代の大洪水『戌の満水』の後で松代藩が大規模な瀬直しをして変えました。昔は堤防も無く好き勝手に流れ、千曲川の名前の通りグニャグニャに蛇行していました。赤坂橋のすぐ上流に、十二ケ瀬(十二河原)という地名がありますが、それだけ分流していたということです。猫ケ瀬、戌ケ瀬という地名もある様に渇水期には、猫や犬でも渡れるほどの浅い瀬もあったということです。

 妻女山展望台からの茶臼山。滋野御三家の望月氏の後裔の布施氏の山城です。信玄の茶臼山布陣は、江戸時代後期の創作だろうというのが定説です。左の有旅茶臼山は、右と同じくらいの高さがあり双耳峰でしたが、度々の地滑りで崩壊し山頂がなくなってしまいました。地滑り地域は、動物園や自然植物園、恐竜公園として市民に親しまれています。手前の街は篠ノ井。名前は、高句麗から来た豪族に篠井という性を下賜したことに由来します。手前の長芋畑もほぼ収穫が終わっています。
 妻女山展望台へは積雪が10センチぐらいならスタッドレスで登れますが、それ以上になるとスタックします。また、一度溶けて凍った場合はスタッドレスでも登れません。毎年JAFの世話になる車がいます。高速のトンネル前に止めて徒歩で登ってください。

(左)勤労感謝の日に用事で松代に行ったついでに松代城址に立ち寄りました。櫓台です。(中)櫓台から妻女山や鞍骨城を見たところ。霧に覆われています。(右)櫓台から妻女山。右の低いところです。晴れていれば電柱の向こうに謙信が本陣としたと伝わる斎場山(旧妻女山・斎場山古墳)が見えます。

(左)城内にある海津城址の石碑。大正10年といえば、まだ幕末や明治初期生まれの人がいた時代。松代藩の財政を破綻させた真田氏への反感も大きかったのでしょう。詳しくは、下の松代城の歴史その1その2をお読みください。(中)太鼓門から象山。奥の鞍骨山は霧の中。(右)お堀の水では鴨が泳いでいました。
真田十万国「松代城(海津城)」の歴史 その1(妻女山里山通信) その2

 江戸時代末期の松代城のイメージ図。外堀や三ヶ月堀などが残っていたら、いい観光名所になったでしょうね。花の丸御殿は放火で焼失しました。

 妻女山展望台から松代城方面の眺め。霧に巻かれていますが、実はこれは雨上がりの霧で、前夜の放射冷却で発生した川霧と山霧ではありません。川中島の戦いで発生した霧とはでき方が違います。川霧と山霧が合わさると10m先も見えなくなります。ホワイトアウトしてフォグランプも効きません。

 23日の夜は、長野のえびす講の煙火大会でした。厚着をして妻女山展望台へ撮影に行きました。先客が二人、あとから若者が二人、拙書のパンフを渡しました。音が遅れてくる遠花火は趣がありますが、寒い。1時間が限度でした。昨年同様に地味でした。アベノ糞ミクスのせいで不景気なんですね。この花火大会が終わると、善光寺平は長い本格的な冬に入ります。21日の早朝には赤坂橋の上で自損事故。積雪がなくても橋の上などは凍結しています。スタッドレスに履き替えていない人は早く! 
「しずかさや 外山の花火 水をとぶ」小林一茶
「大名の 花火そしるや 江戸の口」小林一茶
「音もなし 松の梢の 遠花火」正岡子規
「死にし人 別れし人や 遠花火」鈴木真砂女
「遠花火 人妻の手が わが肩に」寺山修司

「遠花火 歓声もなく 温(ぬく)もなく」
「遠花火 記憶の底に 散る夜かな」
「君の名を 呟いてみる 遠花火」 林風
 色々な想いが交錯する遠花火です。

 信州では、祭りやイベントや運動会の合図に盛んに花火が打ち上げられます。これは東京から来た人には信じられないことなのですが、当の信州人は子供のころからそれが当たり前に思っているので、不思議には思いません。春秋にはあちこちで花火が打ち上がるのですが、地元の人はなんの合図か分かるのです。妻女山にも麓の小学校の校庭で打ち上げた花火の丸い殻がよく落ちているのですが、この「音花火」は非常に危険なんだそうです。
「花火情報館」の「花火の威力と危険度」に詳しく書かれています。火薬がたくさん詰まった花火が、こんなにたくさん一般商店で売られているのは、中国と日本ぐらいじゃないでしょうか。欧米ではあり得ないことです。武器が作れますからね。昔ノルウェーの友人を夏に訪れた時に花火を持っていったのですが、新年になる時でないとできないのよと言われた想い出。子供の花火だって実は危険なんです。手持ち花火の温度は1200~1500度だそうです。昔、よく花火を分解しましたが、絶対やってはいけないと言われていた意味が、これを読むとよく分かります。

 用事ついでに寄った東福寺の385号沿いの「安心 そば処」でBランチを。二八の新蕎麦に蒸鶏飯、煮物に天ぷら。蒸鶏飯は山葵醤油をかけて、天ぷらは抹茶塩でいただきます。念願の新蕎麦を食べることができました。最後に濃厚な蕎麦湯を飲んで満足でした。十割蕎麦や胡桃蕎麦もお勧めです。これからは辛味大根の絞り汁に信州味噌を溶いていただく「おしぼりうどん」の季節です。信州でも旧埴科と更科にしかない古い郷土料理です。あまもっくらといわれるその甘さと辛さは、一度食べたら病みつきになります。うどんや蕎麦を食べる原点ともいわれています。これを食べずしてうどん通を名乗るなかれ。冬の、村上義清の坂城町、千曲市の戸倉上山田温泉や、茶臼山動物園のある篠ノ井に来られたらぜひ召し上がってみてください。
おしぼりうどんのレシピ:オリジナルレシピ

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。


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小春日和の勘助宮と牛に引かれて善光寺参り(妻女山里山通信)

2017-11-20 | 歴史・地理・雑学
 所要で近くに行ったので、長男と善光寺に参拝しました。いつでも行けるという思いもあってか、帰郷してから一度も行っていませんでした。前の記事のK氏とメールのやり取りをしていて、彼が善光寺の起源について調べているというので、久しぶりに寄ってみようかなと思いました。
 実は長野県立歴史館で、調べ物をしていて、『信濃古代史考』大和岩雄著(大和書房)という厚い本を見つけました。非常に高度で専門的な内容で、「信濃と古代ヤマト王権」「信濃と渡来人」「信濃の神と神社」 の三つの視点から、現代の長野県人の原点である“古代の信濃”を俯瞰し、探求する。とありますが、前知識がないと全くちんぷんかんぷんだと思います。脇に歴史辞書を置いて、検索しながら読みますか。善光寺の起源についても触れられていたので、帰ってAmazonで中古本を注文しました。届くのが楽しみです。『信濃が語る古代氏族と天皇 善光寺と諏訪大社の謎』関裕二著(祥伝社新書)も。加えて『善光寺コード–––諏訪御柱の守護秘術』長尾 晃著(鳥影社)も。ただ古代史というのは、実証歴史主義で証明できる要素が少ないので、記紀の記述にしても完全に史実と思うのは危険ですが。

(左)南長野運動公園の南西の端にある勘助宮の石碑。山本勘助がこの辺りで戦死したと伝わる場所です。小春日和の温かい日でした。(中)昔は北小森集落の建御名方神(タケミナカタノカミ)を祀る諏訪社だったそうです。それを地元の人がいつしか勘助宮と呼ぶようになったとか。(右)勘助宮から南を見ると、上杉軍が布陣したという妻女山が見えます。手前左が赤坂山(現在の妻女山)、軽自動車の上の手前の山が斎場山(旧妻女山・本陣)、右へ薬師山(笹崎山)。中央奥の三角は天城山(てしろやま)。左奥は、武田別働隊が越えたという大嵐の峯。最期の勘助は、ここでどんな景色を見たのでしょうか。
『第四次川中島合戦』啄木鳥戦法の検証【妻女山里山通信】(勘助の発案といわれるが、当時軍師という職はなかった)

(左)参拝の前に、安茂里の19号沿いにある女性三人が切り盛りする「やばね食堂」へ。(中)私はA定食700円を。豚鶏スープの優しい味の醤油ラーメン。塩辛くはありません。無化調でしょう。半カレー付きですが、充分に一人前あります。小麦粉とカレー粉を炒めた様なこれも辛くはない優しい味。ポテトサラダ、ゴーヤの漬物、沢庵、鮭とデザートに熟れ熟れの柿。(右)息子の鍋焼きうどん700円。熱々で非常にボリュームがあります。これも優しい味。結局カレーはほとんど彼に食べてもらいました。一番高い定食が、ジンギスカン定食850円。安いのが目玉焼き定食400円。手作りの餃子やもつ煮も美味しそうです。

(左)店内は昭和レトロな感じ。小上がりもあります。(中)メニュー。半カレーであの量ですからカツカレー750円て相当なボリュームだと思います。(右)お店は高台にあり、鏡台山や五里ヶ峯や斎場山、妻女山も見えます。お勧めです。さて、午後は牛に引かれてではなく、車に乗せられて善光寺参り。

(左)善光寺事務局の横にひっそりとある地震塚。善光寺地震の慰霊碑。1847年5月8日(弘化4年3月24日)に発生した大地震で、犠牲者は死者総数8,600人強。善光寺御開帳の期間で、全国からの参拝者も犠牲になったと思われます。(中)仲見世通りから見る仁王門。寒いので、帰りに仁王門手前の左の店に女将さん手作りの甘酒200円とあったので飲みました。もちろん砂糖は無添加で麹のコクの有る甘さが美味でした。おやきも売っています。(右)山門方向。七五三の家族がたくさん参拝に来ていました。ホテルオークラ東京でやった息子達の七五三のお祝いが昨日の様に思えるのですが…。23日はえびす講の煙火大会です。

(左)非常に大きな山門。拝観料は500円ですが、<三堂拝観(本堂お戒壇巡り/史料館・山門・経蔵)大人1000円・高校生400円・小中学生100円>なので、こちらを利用されるといいと思います。(中)境内案内図。非常に広いのでもらうべきですね。(右)大勧進。この日は結婚式が行われていました。宝物館は一見の価値があります。

 外国人も含め大勢の参拝客が訪れていました。冬にはオーストラリア人、春節の頃は中国人で溢れます。内部は撮影禁止です。健康の神様賓頭盧(びんずる)尊者の周りは人でいっぱい。閻魔大王の周りは閑散。お戒壇めぐりは何度もして極楽の錠前にも触っているので今回はパス。内部は真っ暗ですが、触れるコツは、右の壁を上下に大きくこすりながら進むことです。必ず触れます。前の人がガチャガチャ音を鳴らすとだいたいの場所の見当がつきます。お戒壇めぐりは東から入って北へ曲がり東へまがって南に戻る四角いコースですが、鍵は北の面にあり、それはある小部屋の鍵です。実は鍵の写真を見たことがあるのですが、小部屋の中に何があるのかは分かりません。御本尊でしょうか。
信州 善光寺 公式サイト ©善光寺

 大きな本堂ですが、実は奥行きがもの凄いのです。最後の写真で分かります。林業関係の息子が、これだけの太い材を何百本も集めるのは現代では不可能と言っていました(太柱は煩悩と同じ108本)。丸い柱を見ると木目がねじれているのが分かると思います。これはスパイラルグレインといって樹木の特性です。内側と外側が逆巻きになるものが多いのです。それで強度を増すわけです。正面の四角い柱はねじれていますが、これはその特性を活かしたものか、乾燥が足りなかったか、予測ミスか。私には分かりません。
 巨樹伐採が問題視されていますが難しい問題です。善光寺の回向柱を今探していますが、かなり困難だと思います。諏訪系神社の御柱も大木が沢山必要です。平城京平安京の時代には寺社建築で近隣の巨木が切り尽くされ、拙書にも記しましたが、江戸時代後期に書かれた『遠山奇談』では大火で炎上した東本願寺の再建のため信州中を歩いたことが綴られています。大木を育てるには世代を超えた育成が必要です。すぐに結果を求める現代人には最も苦手な事案かもしれませんが、それは必要なことだと思います。人は刹那にしか生きられないからこそ永遠を願う想いが必要なのです。それが次世代に繋がるのです。アマゾンのある部族は、ジャングルは子孫から預かったものとして大切にしたそうです。彼らを未開人などという資格は我々にはありません。
 本堂は間口23.89m、高さ25.82m、奥行き53.67mの規模を持つ江戸中期建築。敷地面積でいうと東大寺大仏殿、三十三間堂に次ぐ日本で3番目の大きさです。これだけ大きなお寺が、奈良や京都でなく信州にあるという事実が凄いと思います。
 実は江戸時代に、善光寺に五重塔を建てようという計画がありました。千曲市の森の岡地にある「岡地天満大自在神社」(岡地天満宮)には、幻の善光寺五重塔建立のための試作品とされる名工・立川和四郎富棟作の「惣金厨子」があります。また、正和2年(1313)3月に焼失した善光寺、金堂以下の諸堂再建工事の折、用材を伐採、「長さ十丈ばかりの材木が空中を飛翔して、その工事を助けた、という「飛柱の異」という言い伝えがあります。五重塔は結局、幕府の許可がおりずに幻となりました。これから建てられないものでしょうか。
 善光寺は、不思議な歴史をもった寺院です。諏訪社と深い関係があり、大祝の金刺氏とも。善光寺・本堂の最奥、内々陣には「守屋柱」という柱があります。「物部氏 守屋氏 善光寺」で検索すると色々出てきます。善光寺は、聖徳太子と蘇我氏により滅ぼされた物部守屋の鎮魂の寺という人もいます。ミシャグジ神、アラハバキとの関係は? 調べるほど謎が深まる古刹です。出雲系ともいわれる物部氏はどこから来たのか。後から入った大和系は。私は古代中国の呉と越に関係するのではと色々研究をしています。秦の始皇帝を結局は欺いた日本中にある古代ユダヤ人ともいわれる徐福伝説も考慮すべきと思います。世界史と日本史を分けて学んではいけないのです。
まぼろしの善光寺五重塔
佐久間象山大砲試射地から諏訪立川流山門の興正寺。象山の定宿だった伴月楼へ。象山神社と松代城(妻女山里山通信)
藤森照信氏の神長官守矢史料館・高過庵・空飛ぶ泥舟と、諏訪大社上社前宮と本宮へ(妻女山里山通信):善光寺の起源を調べると諏訪社は欠かせない。神長官守矢史料館は必見!

(左)ワインやジャムのサンクゼール: St.Cousair門前店。飯綱高原にはレストランも。その向こうは、七味唐辛子で有名な八幡屋礒五郎本店。亡父は生前、若い頃に先々代だと思うのですが、ご主人にわざわざ作り方を習いに行き、毎冬に薬研で七味唐辛子を作っていました。子供の頃に手伝ったことがあるのですが、くしゃみが止まらなくなって無理でした。(中)その右隣にある藤屋御本陳。昔は旅館だったのですが、現在は結婚式場やレストランなど。この三店はお勧めです。(右)帰りは武井神社に寄りました。以前木彫の保全作業をしました。そして息子の案内で、アウトドアショップの「NATURAL ANCHORS(ナチュラル アンカーズ)」へ。息子に店主の戸谷さんを紹介してもらい話をしました。拙書やブログの紹介も。分かりにくいところですが、レアなものが置いてある興味深いお店です。
NATURAL ANCHORSってどんなところ? 編集者・ライターの小久保よしのさんの非常にいいルポです。
妻女山の貝母が満開。ベニヤマザクラにクサボケも。善光寺三社の武井神社で保全作業(妻女山里山通信)

(左)そこから小径をたどって城山公園へ戻ります。途中の非常に古い橋。鉄板を巻いて補強してあります。脇の石碑には、城山懸社新道開設者 田島式左衛門の石碑が。明治廿年十一月十九日と。懸社とは、この上の横山城跡に鎮座する健御名方富命彦神別神社のことで、善光寺の守護神です。(中)萬佳亭の前を通って城山公民館への途中右手に、息子がとんでもないものを発見してしまいました。この塔の所有者は市に連絡してくださいって書いてあるのです。灯台でしょうか。そんなに古そうでもないし、明治か大正のものですかね。近所の古老で知っている人はいないのでしょうか。普通は銘板があるのにそれもないですし、不思議です。(右)城山小学校の上の道から善光寺。奥行きが非常に長いのが分かります。葛山の黄葉も盛りを過ぎました。翌日は長野市北部や里山の頂上には初雪が降りました。拙書でも紹介の冠着山(姨捨山)や聖山の山頂は真っ白です。
 今回久しぶりに長野の中心街を歩いたのですが、観光拠点としてそれなりに充実している善光寺界隈はともかく、それ以外が酷い。特に長野駅周辺は県庁所在地の駅前とは思えないほど酷い。古いビルばかり。他の県と比べると目を覆いたくなります。駅前にドンキではねえ。駅前のホテルも古いし施設や規模やサービスも国際的には通用しないレベルです。デパートもひとつしかないし。個々には素敵なお店やゲストハウスなどもあるのですが。再開発が進む松本にどんどん引き離されている感じ。街造りのコンセプトが全く見えませんね。どうするつもりなんでしょうか。同じ北陸新幹線の金沢駅と比べると凍りつきます。あちらは世界一美しい駅なんていわれてますが。今では私よりこの辺りを知る東京育ちの息子も苦笑いしていました。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。在京中は、エディトリアル・アートディレクターやデザイン・プロデューサーをしていた経験の集大成でもあります。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
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長野市新諏訪町にある諏訪神社の太々神楽(神楽屋台)(妻女山里山通信)

2017-11-14 | 歴史・地理・雑学
 妻女山里山デザイン・プロジェクトのメンバーでもあり、寺社彫刻と宮彫師の研究家であるK氏から、長野市新諏訪町の諏訪神社にある、石川流の宮彫師 山嵜儀作(やまざきぎさく)が明治17年に作ったという神楽屋台が5年ぶりに公開され、その解説講演をするのですが来ませんかと連絡をもらいました。彼が本当に木彫が細かくて素晴らしいのですというので興味津々、長男を誘って出かけました。ところでこの新諏訪町なんですが、国土地理院の地図には諏の字にわざわざ「ず」とルビを振ってあるのです。本家の諏訪に配慮してのことなのでしょうか。

(左)想像以上に細かな木彫が散りばめられた総欅造りの見事な神楽です。(中)K氏の解説講演が始まりました。地区の人が大勢集まりました。彼を研究家への道へのきっかけを作った私も紹介していただきました。(右)手作りのパネルも非常に分かり易いものでした。

(左)各部分の木彫について、何が彫られているのか、また時代的な意味なども話してくれました。全ての意匠には込められた意味があるのです。少し難しくなりますが、後の構造主義に影響を与えたソシュール言語学でいうシニフィアン(意味するもの・記号表現)とシニフィエ(意味されるもの・記号内容)。昔の人も言語学などの知識はなくても、それを意識して表現する知恵や技術は持っていたのです。(中)右側面。とにかく造作の細かさと精緻さに驚かされます。まさに超絶技巧。(右)松に鶴。元は中国の「松鶴長春」の様ですが、夫婦の不老長春を願う目出度い図案です。

 左側面の木彫。上の勇ましい男の木彫は、「力神」といい古代中国の天と地を分けた神(盤古)に由来すると説明がありました。日本では天手力男神『古事記』や天手力雄神『日本書紀』というアメノタヂカラオ神のことでしょうね。天照大神を天岩戸から引きずり出した神です。神楽各部の名称は、手挟(たばさみ)虹梁(こうりょう)木鼻(きばな)蟇股(かえるまた)妻飾(つまかざり)懸魚(げぎょ)等、色々あって難しいのですが、興味のある方は調べてみるといいと思います。
 左右には「七難即滅、七福即生」の七福神が彫られています。大黒天(だいこくてん)、毘沙門天(びしゃもんてん)、恵比寿天(えびすてん)、寿老人(じゅろうじん)、福禄寿(ふくろくじゅ)、弁財天(べんざいてん)、布袋尊(ほていそん)ですね。

 右側面。三脚を持っていかなかったので少し手ブレしていますが、扉の周囲にも右には鷹、左には鶴があしらわれています。

(左)鬼板には諏訪大社の御神紋である梶葉紋が。諏訪大社上社の梶紋は「諏訪梶」といい、木の根に当たる部分が4本、これに対して下社の梶紋は「明神梶」といい、根に当たる部分が5本なのですが、庶家や氏子はこの様に根のないものを使用したということです。(中)四隅にある木鼻には獅子の木彫。口の中のみ丹塗(にぬり)で紅く彩色されています。(右)布袋尊の広げる巻物に明治十七年と記されています。K氏によると、明治十六年の九月に受注し制作を始めた様です。

(左)精緻な彫金があちこちに見られます。(中)彫金も非常に細かな細工です。私は彫金もかじったことがあるのですが、非常に難しいです。木彫もですが、失敗したらやり直しができないですから。今ならコンピューター制御のルーターでできますけどね。でも全て同じ様にはできないと思います。(右)制作費は50円だとか。明治16年に政府が決めた基準では、『1家3人で年収70円、4~5人で年収120円 … が中等、それ以上が上等、それ以下が下等と区分する。』とありますが、仏像を彫る仏師とは異なり、宮彫師は職人扱いだったため社会的地位も高くはなかった様です。

 スサノオノミコト(素戔嗚尊・須佐之男命)のヤマタノオロチ(八岐大蛇・八俣遠呂智)退治の木彫。生贄にされそうになっていた櫛名田比売(奇稲田姫・くしなだひめ)を助け、妻とします。大国主命はその後裔になります。垂木の先端にも細かな彫金のカバーがされています。
 この頃は、明治政府が天皇制を堅固なものにするため、廃仏毀釈をしたり、南方熊楠が猛反対した合祀令を発布したりしています。長野市では400のお堂が次々に廃止され、残ったのはわずか16でした。現在復活したものを入れても40だそうです。これは大規模な文化破壊で、多くの貴重な仏像や仏具などが破壊されたり海外へ流出しました。明治維新は、欧米の巨大な金融勢力が薩長の田舎侍を使って傀儡政権を作ったクーデターでした。興味のある方は、田布施システムで検索を。
【民俗学】岩野村の伊勢講と仏恩講(ぶっとんこう)。戌の満水と廃仏毀釈。明治政府の愚挙(妻女山里山通信):講の歴史と意味。
 信州『松代里めぐり 清野』発刊と戌の満水など千曲川洪水の歴史 (妻女山里山通信):洪水と大地震に翻弄された歴史。

 保存方法などの質問なども受けて4時過ぎにお開きになりました。K氏は、長野にあるこういう見事な神楽を集めて長野駅に展示したら、非常にいい観光の目玉になると思いますと言っていました。外国人観光客にも受けるでしょうね。もちろん湿度が一定に保たれた丈夫なケースが必要ですが。(左)長男が富士ノ塔山へ登って帰らない?と。この時間では無理だろうと言うと、ほとんど山頂まで車で行けるからというので連れて行ってもらいました。途中の小田切の国見のイチイの大木。相当古いと思います。この先から狭い林道に入りクネクネと登ります。(中)山頂直下にある四阿は、元小田切村立尋常小学校の玄関の一部を移転したものだそうです。(右)山頂への入り口にある「小田切八景」の碑。

 暮れる善光寺平。ちょうど雲がかかった中央が鏡台山で、その一番手前が妻女山や斎場山、薬師山になります。いつもはあちら側から見ているので、新鮮な風景です。右は茶臼山。そのずっと奥は冠着山(姨捨山)。

 望遠で撮ってみました。左に雲がかかった鏡台山。一番手前が妻女山や斎場山、薬師山。中央奥は五里ヶ峯。その左奥に霞むのは蓼科山。ずっと右は美ヶ原。盆地に見える斜めの直線は北陸新幹線。街の明かりが灯り始めました。さむいです。

 右手を見ると茶臼山の尾根が南北に伸びています。茶臼山の自然植物園が見えます。その向こうに千曲川の流れが光っています。その奥は姨捨駅辺り。

(左)富士ノ塔の案内。一名を浅間山、国見山というそうです。(中)標高は998mなんですが、この様に2mの台が設置してあり、1000mと記してあります。う〜むちょっといじましいかな。山頂は滋野御三家の流れをくむ土豪小田切氏の砦だった様です。(右)詩吟「川中島懐古」。戸隠方面は雪雲の中でした。
 麓からの登山道は、南面の志奈埜市神社(しなのいちじんじゃ)手前の松ヶ丘小学校裏からがお勧めです。山頂までは2時間ぐらい。

 妻女山展望台から見た富士ノ塔山と善光寺平(川中島)。すっかり晩秋の風景です。この週末は、雪マークがつきました。慌ててスタッドレスに履き替えている人も多いでしょう。

K氏のブログです。
『北信濃寺社彫刻と宮彫師』―天賦の才でケヤキに命を吹き込んだ名人がいた―

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キノコ三昧の晩秋。ヒラタケ、ムキタケ、ムラサキシメジが大量に採れました(妻女山里山通信)

2017-11-11 | アウトドア・ネイチャーフォト
 この秋は天候がおかしくてキノコの出方が読めません。例年ならば9月の長雨で、10月は台風以外は秋晴れになるのですが。今年は9月が晴れの日が多く10月に長雨と台風が二つも来ました。そのため、9月に採れるウラベニホテイシメジやサクラシメジ、マイタケは一本も採れませんでした。10月は雨が多すぎて、時候坊(ジコボウ・ハナイグチ)もほとんど採れませんでした。ところが、11月に入って晴天が続くと続々とキノコが採れ始めました。

(左)コナラの倒木にヒラタケ。木の下と向こう側にも大きな株があります。半分ぐらい採りましたが、大袋がいっぱいになりました。このシロは他の山仲間も知っているので残しておいたのです。(中)ムキタケ。これもたくさん採れました。(右)今回のお目当てはこのムラサキシメジです。旨味成分が松茸より多く、お吸い物にすると非常に上品で美味です。味噌と油と合わせて信州の郷土料理おやきにしても超絶美味です。フランスではピエ・ブリューといって高級食材です。バターや生クリームともよく合います。コンソメ仕立てでも美味。とりあえず和風のキノコパスタにしましたが、美味しかったですね。

(左)雨で傘の紫色が少しあせています。雨に当たらなければもっと鮮やかな紫色をしています。(中)雨に当たらない傘の裏側は濃い色が残っています。(右)戻って友人のログハウスで昼食。穏やかな日で最高気温が21度もありました。汗ばむほどです。午前中に玉ねぎの苗を100本ほど植えたので山に登るのが遅くなってしまい、知っている全てのシロを回ることが出来ませんでした。それでも200本以上採れたと思います。この後処理が大変なんですが。私は現地でハサミで石づきを切り落としてきます。そうすると後処理が楽ですし、無駄に菌糸を持ち帰ることもありません。こんなことを書くと、え〜!妻女山はそんなにキノコが採れるの!行ってみようと思うかも知れませんが、広い山の中でシロを知らないと、まず1本も採れません。同定が確実にできないと毒キノコの場合もあり非常に危険です。図鑑では分かりません。

(左)帰路につきます。里山も晩秋の風景になりました。(中)ヤマモミジ。今秋は冷え込みが浅いので、モミジも紅葉にならず、黄葉ですね。寒さがないのでアントシアニン(ポリフェノール)が生成されないのです。(右)ダンコウバイの黄葉。これはいつも黄色です。

 妻女山松代招魂社に戻りました。現在は国土地理院の地図でここを妻女山と記していますが、本来は赤坂山であり、上杉謙信が本陣とした妻女山(本名は斎場山)ではありません。招魂社は、戊辰戦争以降の戦没者を祀った神社で、上杉謙信とは無関係です。

 後日回りきれなかったシロを巡りました。この日は風速4m。瞬間最大風速は10mを越えたでしょう。突然の落枝や倒木に要注意です。以前目の前に20m以上の落葉松が突然倒れてきたことがありました。(左)長坂峠のヌルデの紅葉。(中)これが本当の妻女山(さいじょざん)で本名は斎場山(さいじょうざん)です。『甲陽軍鑑』では西条山と誤記されそれが広まりました。拙書でも詳しく紹介しています。(右)斎場山の山頂は古代科野国の古墳(円墳)です。地元ではここに謙信が本陣を置いたと伝わり、謙信台ともいいます。斎場は、齋(いつき)なる場(ゆにわ)ということで、単に墳墓ではなく祭祀を行う神聖な場所という意味があります。

(左)なんか面白い看板が。(中)テープも。(右)こんな標識もあちこちに。何かなと思って調べると、11月11日(土)に、千曲市の「科野の里歴史公園」をスタートで、五里ヶ峰や鏡台山、鞍骨城や天城山、妻女山を走る「科野の国 ラウンドトレイル」という32キロのトレランの大会があるそうです。実は拙書も、四阿山のカルデラ一周コースや今回のコースも載っているので、トレランの人も買ってくれているのです。林道を走るのが好きなサイクリストも。拙書でも書いていますが、山はそれぞれが譲り合って色々な楽しみ方をすればいいと思います。

(左)私はコースを外れて40分ほど歩いて山の中へ。ムラサキシメジのシロに着きました。(中)枯葉が覆っていて所謂キノコ目がないと見えてきません。いい形のものを30本ほど採りました。(右)仲間とやっている椎茸の原木栽培。大量に採れました。干し椎茸にします。出始めのものを数えたら80本ほどありました。

(左)紫式部かな。鮮やかです。もっと実がたくさん成る小紫は麓近くにあります。(中)つる植物の赤い実。初めて見ました。なんでしょう。で、調べたらすぐに分かりました。ツルウメモドキでした。(右)羽つきの羽根の様なクサギ(臭木)の実。枝や葉をちぎるとピーナッツバターの様な香りがします。花は白粉の粉臭い匂いです。

 後日、買い物のついでに茶臼山へ。篠ノ井の市街地から車を15分ほど走らせて15分ほど登ると、茶臼山のアルプス展望台。もちろん拙書にも載せています。こんな風に気軽にこんな絶景を見に来られるのが信州のいいところ。左に白馬三山。右手前に虫倉山。

 白馬三山の勇姿。左から白馬鑓ヶ岳、杓子岳、白馬岳。手前は、旧中条村(現長野市)や信州新町とか。ああ新蕎麦が食べたいな。信州新町の道の駅へ行こうかな。いや近くに「安心 そば処」という旨い店がありました。来週行きましょう。とろろご飯と天ぷら、サラダがついたAランチがお勧めです。十割蕎麦もいいのですが、私は二八蕎麦で。美味しくたくさん食べたいなら松代の象山神社近くの「娑羅樹庵」がお勧め。検索を。

 拙書でも詳しく紹介している神話の山、虫倉山。神城断層地震で山頂が4割も崩壊してしまいました。さるすべりコースは現在も登山禁止です。山頂にはクラックが入り、いつ崩壊してもおかしくない危険な状態です。手前は旧七二会村(現長野市)です。道路が見えますが、七二会から中条を抜けて小川村まで行けます。風光明媚な道路で、サイクリストやトレランの方にお勧めです。

 北アルプス展望台から。里山の原風景が広がります。ここで走ってきた青年と出会いました。11日の大会に出るのかなと思ったら、もっととんでもない大会の試走と分かりました。12月2日(土)から3日(日)にかけて行われる「ツールド・NAGANO」。長野市を囲む8エリアの里山をまわる。最小距離25km〜最大距離130kmのフリースタイルのトレラン&マラニックだそうです。制限時間は32時間。いやはや。トレランは知っていましたが、マラニックって何?と思ったらマラソンとピクニックを合わせた造語だそうです。なるほど。来週は猛烈な寒気がやってきて東北や長野県の北部山沿いは雪とか。スタッドレスに替えて正解だったかな。晩秋から初冬の匂いに変わりつつある信州です。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。


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日本のギアナ高地、米子大瀑布へ。薄雪を踏んで幻のソブ池へ(妻女山里山通信)

2017-11-07 | アウトドア・ネイチャーフォト
 三連休の最後は、須坂市の奥深く、根子岳、四阿山、浦倉山が形成する大カルデラの最北部にある米子大瀑布へ向かいました。天気は曇から晴れの予報でしたが、前日が雨で山は雪かなと思っていたのですが、実際その通りでした。仲間を幻のソブ池に案内したのですが、予想以上に感激してくれました。
 米子鉱山の起源は古く、江戸初期ともいわれています。日本三大不動尊の一つ米子不動尊(瀧澤山家原院如来寺→米子瀧山威徳院不動寺)は、奈良時代に行基により開山された古刹といわれています。また、奇妙滝のある奇妙山は仏教用語の「帰命」が転訛して奇妙となったもので、木食信仰遺跡があることからも、深山でありながら人の出入りはかなりあったと考えられます。そう思って調べると、8世紀の「続日本紀(しょくにほんぎ)」に、当時信濃国から朝廷へ石硫黄の献上があったことが記されていると分かりました。これは米子鉱山のことと推察されます。

(左)9時15分、駐車場から出発。気温は2度。(中)まず米子鉱山跡地へ30分ほどかけて登ります。(右)社宅があった所に着きました。向こうは分教場と校庭があった場所。

(左・中)樹状地衣類のコナアカミゴケ(粉赤実苔)でしょうか。地衣類は、大部分は子のう菌に属する菌類なんですが、光合成ができないため菌糸で作られた構造の内部に藻類が共生し、藻類が光合成で作り出す合成産物によって生活しています。両者の間には高度な共生関係が成立しているのです。(右)左、権現滝と右に不動滝。拙書でも詳しく紹介しています。滝の上部は冠雪しています。

 権現滝は男滝、不動滝は女滝と呼ばれ、合わせて夫婦滝と呼ばれます。不動滝の右にある黒滝は、冬になると氷結し日本でも有数のクライマーが、アイスクライミングに訪れます。この景色は、大河ドラマ『真田丸』でも使われて有名になったので、訪れる人も増えたでしょう。この日も団体が来ていました。ただ、この滝の上に登って根子岳まで行けることを知っている人は少ないと思います。拙書ではこのカルデラを一周するコースも載せています。約23キロ、10時間かかりますが、健脚であれば夏場なら日帰りで周れます。

 鉱山跡地の台地からの米子大瀑布。人工的な台地と大自然のコントラストが奇妙です。ここには最盛期なんと1500人もの人が暮らしていたのです。精錬所はもちろん。学校や校庭や保育園、大浴場もありました。鉱山の人達は毎日、大瀑布の音がずっと聞こえるこんな風景の中で暮らしていたのですね。滝の轟音と精錬所の音と、子供たちの歓声や歌声。どんな日常だったのでしょう。

 そのまま油絵になりそうな色合いと構図です。錦秋も最高でしたが、この冬枯れの風景も非常に趣があります。

 鉱山跡地の南には幻想的な大黒沢。これからこの沢を詰めて左の山へ登ります。右へ登ると滝の上部を経て根子岳や四阿山方面へ。拙書では詳しくその道程を紹介しています。

(左)渓流を渡ります。二人ほど根子岳に向けて先行した様です。(中)一度に一人しか渡れない橋。揺らすなと書いてあります。(右)浦倉山へは登山道崩落のため通り抜け出来ませんと表示が。しかし、ソブ池分岐までは大丈夫だろうと行くことに。氷柱(つらら)。

(左)イワカガミでしょうか。大きな群生地がありました。初夏はそれは見事な花畑になるでしょう。(中)標高を上げるに連れて雪模様。(右)昔の坑道入口。登っていく途中の笹薮には、坑道入口の穴がある場所もあり、立入禁止になっています。

(左)鉱山の中心部があった台地を見下ろせる場所。遠く須坂市街地も見えます。(中)標識もないある場所から浦倉山への登山道を離れてソブ池への道へ。笹があって非常に歩きにくい道です。仲間が駄目だ帰ると言わないか心配しました(笑)。(右)あの落葉松林の向こうまで行きます。距離は短いのですが大変なんです。私も再び訪れるとは思っていませんでした。

 森のなかにひっそりと佇むソブ池(野猿田池)に到着。水は強酸性で硫黄味があり飲料には適しません。そのため魚や両生類も一切見当たりません。お風呂のお湯にはなるでしょう。飲料には浦野沢の水を使用していた様です。透明度が高く美しい池です。人や動物の気配を一切感じない音もない静寂の中に沈殿する池。ただ周囲にはニホンカモシカの足跡があったので、彼らは飲用するのでしょうか。
 俗名のソブ池ですが、ソブというのは、以前「みすずかる信濃」と「高師小僧(たかしこぞう)」の関係を調べていたときに知った「赤渋(アカシブ・アカソブ・アカソボ・アカシボ)」のことではないかと思ったのです。米子鉱山の産出物は、石硫黄、蝋石、ダイアスポア(藤石)などの他に褐鉄鋼も産出していました。四阿山系の川では、渓流の水が金気が強くて飲めないものがありますし、鉱毒水は現在も米子川に流れ込んで汚染を続けています。
「ソブ池」とは、褐鉄鋼により底が赤く染まった「赤渋池」のことではと思ったのです。金気水は飲料水にはなりません。さらに調べると、そもそも「赤渋」というのはアイヌ語で、水の箱(底が岩盤の池)を意味する「ワァカウォプ」が転訛したものという説がありました。確認のために須坂市に問い合わせたことがありますが、やはり「ソブ池」の水は強酸性で飲めないとのこと。飲料水はウラノ沢からひいていたということです。さらに地名を調べるとカルデラ内は池ノ平といい、「ソブ池」のある場所の小字名は野猿田(やえんだ)ということが分かりました。「ソブ池」は「野猿田池」ともいうらしいのです。「ソブ池」は俗称で、「野猿田池」が本来の池名なのでしょう。自然地名には日本人の歩んだ足跡を知る手がかりが隠されているのですね。

(左)拙書には載せていますが、標識もなく、私の様な案内人がいないとまず来ることはできないでしょう。皆感激していました。(中)戻ります。泥濘状態の場所や湿地帯もあります。(右)分岐からの入り口はこんなです。まず普通は入りませんね。入る時に「こりゃあ駄目だ」と言われましたが無理もありません。私が少し入って確かめて大丈夫だと言って連れて行きましたが、普通は撤退すると思います。

(左)晩秋と初冬が混在する風景。(中)地衣類のハナゴケの一種だろうと思います。(右)大きいのでオオバヤシャブシ(夜叉五倍子、カバノキ科ハンノキ属)の球果でしょうか。同行のK氏がこれを採取して染め物に使うと集めていました。色止めに塩と、媒染剤はミョウバンを使います。私は武蔵野美術大学の造形学部工芸工業デザイン学科テキスタイル専攻だったので、染色の知識はありますが、草木染めはなかなか奥が深いのです(そちら方面には行かずエディトリアル・アートディレクターになりましたが)。

(左)日が差してきて雪も溶け始めました。下りは滑って転倒しない様に注意が必要です。(中)途中で見つけた神社の様な遺構。小さな社があった様です。山の神を祀っていたのでしょうか。(右)手水鉢。奉納と書かれていますが、中央の文様がもうひとつはっきり分かりません。

(左)落葉松の枯れ葉が光る登山道を戻ります。(中)鉱山跡の台地にある山の神。(右)四阿に戻って昼餉。私は天然ハタケシメジの卵焼きと自家製柿酢の酢ゴボウを。A氏のウィンナーの炒め物や、N氏のアヒージョにラーメン。アヒージョは仲間内でブームなのですが、鰯、ワカサギ、甘エビ、貝柱、エリンギと盛りだくさん。自家製パンも。ナッツにチーズと、いつも多すぎるのが悩みのタネですが、今回も美味しゅうございました。

(左)気がつけば晴れて四阿山が見えました。右には根子岳も。(中・右)記念撮影。

(左)帰りは米子大瀑布へ。石硫黄の交じる岩石。鉱山跡なら硫黄の原石が拾えますが有毒なので絶対に持ち帰ってはいけません。(中)米子不動尊。拙書でも記していますが、上杉謙信の念持仏でした。(右)太刀がいくつも奉納されています。

 まず不動滝へ。この季節としては異例なほど水量が多かったですね。いつもは枯れている右の黒滝も流れ落ちていました。轟音がもの凄く、風も巻き起こっています。真夏に訪れると、この滝に打たれて修行する人の姿も見られます。

(左)最後は権現滝へ。落葉しているので全貌が見られました。(中)帰路に就き、お風呂に入って、慰労会は屋代の「智屋」へ。(右)こんなレトロな看板が飾ってあります。色々なよもやま話を肴に呑み、最後は「正田食堂」でラーメンと餃子とビールで締めて帰路に就きましたとさ。長く素晴らしい1日でした。

錦秋の米子大瀑布へ。幻のソブ池探索も(妻女山里山通信)2015年、錦秋の米子大瀑布。

米子大瀑布の動画です。専用のビデオカメラではないので、クオリティはそれなりですが、雰囲気は感じていただけるかと。
米子大瀑布 2017.11.5


米子大瀑布 不動滝 2017.11.5


米子大瀑布の上にある幻のソブ池(野猿田池)2017.11.5


【信州の山】四阿山カルデラ一周 2010 Mt.Azumaya from The Yonako falls in Nagano

:米子大瀑布から滝上に登り根子岳へ。四阿山に登り、長い尾根を浦倉山へ。一部不明瞭な道を下り戻る23キロのロングコース。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
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中尾山ハイキング2017 里山のリンゴ畑と史跡めぐり(妻女山里山通信)

2017-11-04 | 歴史・地理・雑学
 毎年行われている中尾山ハイキングですが、今年は趣向を変えて茶臼山登山ではなく、中腹の古刹や古墳をめぐる歴史ハイキングとなりました。今回も私はインストラクターをしました。長雨だったり台風が二度も来たりと不安定な天候が続きましたが、当日は雲一つない晴天に恵まれました。

(左)妻女山展望台から。正面がこれから向かう茶臼山と中尾山です。駐車場にキノコ狩りの車が入っていましたが、まず採れないと思います。(中)コースの概要や注意点などを聞いて、インストラクターの挨拶。私が軽い動的ストレッチを皆さんとしてから出発です。(右)まず向かったのは嘉元元年(1303)広阿大喜和尚の創立と伝わる浄土宗の亀見山光林寺。阿弥陀如来像は武田信玄が寄進したと伝えられています。

(左)天保年間の建立とされる薬医門。(中)5本爪一本角の珍しい龍の木彫。江戸後期の大隅流や諏訪立川流の完成されたものと比べると造形がやはり甘いですが、時代を考えるとやはり最高レベルのものだと思います。しかし、宮彫りは神社にあるものと思っていましたが、寺院にもあるんですね。唐彫りというそうです。(右)樹齢300年を越えるといわれる枝垂れ桜。春に是非。

 本堂の木彫。左右2m80cmあるという真ん中の大きな鳳凰像が圧倒的。両側にある獅子と貘の彫り物は、どこか諏訪立川流を思わせるのですが、再建が文政年間(1818〜1830)とあるので、諏訪立川流が全盛期を迎える前の時代のものですね。左の貘は象の場合もあるのですが、見分け方は両者とも鼻は長いのですが、象は大きな耳が垂れています。貘は毛が荒ぶっています。山布施にある布施神社の象は、山嵜儀作(やまざきぎさく)のものですが、それは立派なものです。

(左)経蔵の中の輪蔵。「龍王蔵」と書かれた倉の中にあり、今回特別に開示していただきました。高さ5m。非常に立派なものです。(中)経典類が収められています。現在は壊れていて回すことはできませんが、修復を考えておられるそうです。(右)ここからリンゴ畑の道を歩いて岡田観音へと向かいます。正面に茶臼山、左手前に修那羅山。いずれも布施氏の山城です。

(左)真っ赤なリンゴが美味しそう。1日一個のリンゴは医者いらずといいます。(中)常光寺。別名岡田観音。信濃二十一番札所です。驚いたことにこれは個人の所有なんです。元々は、中山道木曽路の入口である、本山宿の小沢山常光寺だったそうですが廃寺に。(右)観音像。明治政府の愚挙である廃仏毀釈で一時紛失した観音像を岡沢彦治郎が見つけ買い戻したそうです。廃仏毀釈の際に、長野市には400のお堂がありましたが、残ったのはわずか16。現在再建されたのはたった40。偽物の天皇を神格化するために行われた廃仏毀釈はそれほど酷い文化破壊だったわけです。その凄まじさと戦った民衆の話は下記の記事をお読みください。
岩野村の伊勢講と仏恩講(ぶっとんこう)。戌の満水と廃仏毀釈。明治政府の愚挙(妻女山里山通信)

(左)曹洞宗の雪厳山玄峰院。今回のハイライトとも言っていいでしょう。この地を治めた布施氏の菩提寺です。正安年間(1299~1302)に、布施冠者頼直によって創建され、大興山長禅寺と称したと伝わっています。(中)飲酒して入るべからず。(右}紅葉を映す池。この向こうは段差があり、善光寺地震でできたものともいわれています。茶臼山の山沿いに活断層があります。

 まるで京都の古刹の様な趣です。微風で滲む池に映る紅葉が儚げで美しい。

(左)山門。本来は三門といい三解脱門(さんげだつもん)とも呼びます(三門は空門・無相門・無願門の三境地を経て仏国土に至る門)。これは寺院の多くが山林にあり山号を持つからといわれています。(中)山門の形式には色々あるそうで、これは…歴史会の方に聞いたのですが失念しました。(右)魚籃(ぎょらん)観世音菩薩。この地には行基作という仏像が数多く残るのですが、その時代に行基が東国に来たという記述はありません。しかし、弟子の伴 国道(ともの くにみち)を鎮東按察使として陸奥・出羽の東国へ赴任させている〔天長5年(828年)頃か〕のです。それが伝承として残っているのかも知れません。

(左)獅子の木彫。これも諏訪立川流の匂いを感じますが、友人の宮堀研究家に聞いてみましょう。(中)鐘楼。柱が内側に傾いています。何気ないですが、建築技法としてはかなり高度なものです。これは建築の構造計算の専門家である次男に聞いてみましょう。(右)寛政6年(1794)に諸堂全てを焼失し、弘化4年の震災にも遭い、嘉永6年(1853)十八世僧仁応が再建したそうですが、これは元禄12年に布施氏の末裔が再建した旨が書かれている石碑。その前に何があったのかは不明です。もう少し調べてみたいと思います。

(左)玄峰院の紅葉。(中)次に伊勢社へ。元々は400mほど下にあったそうです。千曲川流域には伊勢社や伊勢宮が各地にありますが、皆水難避け、洪水避けの神様として祀られています。ここもそうだった様ですが、元の場所が度々水害に遭いここに移された様です。(右)そこから植物園・恐竜公園の方へ。オオムラサキの保護地。私も仲間と妻女山山系でオオムラサキの保護活動をしています。

 リンゴ畑と川中島(善光寺平)。左に根子岳と四阿山。中央手前は妻女山と斎場山。右奥は鏡台山。あちこちで剪定したえだや草木を燃やす煙が立ち上っています。気温は20度を越えたでしょうか。暑さを感じるほどの穏やかな晩秋の1日です。

(左)宴ノ城跡。といってもリンゴ畑なんですが。(中)新田横穴式古墳。古墳時代の後期のもので、リユースができるのです。この古墳は覆われていた土が取り除かれていますね。同じ形式の古墳は、土口の堂平大塚古墳で見られます。(右)交流会の会場でお昼です。美味しいきのこ汁や長野牛乳が配られました。出発時にはシナノゴールドも。

(左)篠ノ井歴史の会と私のミニ講演がありました。川辺書林の方がいらして拙書の販売もありました。ゆるゆると時は過ぎて行きます。(中)全行程は10キロぐらいあったのですが、こんな可愛いちびっこも歩き通しました。お昼の後大きなリンゴにかぶりついていました。頼もしい。うちの息子たちも保育園時代に飯縄山にも登りましたが、幼児の登山には気をつけないといけないことがあります。これは絶対に守ってください。
「キッズ・トレッキング」のアドバイス。(信州妻女山里山通信)
(右)食後は歌の時間。今回ハンドベルをたくさん配って皆で演奏するというイベントがありました。私もひとつ渡されましたが、これは面白い。動画もアップしたのでご覧ください。


(左・中)これは前日に取材した篠ノ井駅近くの鼻顔稲荷です。一説には、布施氏の居館がここにあったといわれているのです。(右)篠ノ井駅西口のロータリーにある第一次川中島合戦の布施の戦いの石碑。これは地元でも意外に知らない人が多いのです。布施氏に関しては、このブログの右上の検索に「布施氏」と入れて、ウェブではなくプルダウンして、このブログ内でを選ぶと当該記事がズラッと出てきます。

中尾山ハイキング 2017


『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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