モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

ニホンカモシカは昔、群れを作っていたのでは・・ (妻女山里山通信)

2012-02-25 | アウトドア・ネイチャーフォト
 江戸時代後期に書かれた『遠山奇談』の記述で気になる箇所があります。
「始終山林森々たる所のみ通ひなれしに、こゝははれやかにてめをたのしみ、はからず時をうつすうち、羚羊多あつまり岩をくゞりて遊ぶていいとおもしろく見ゆる。」の「羚羊多あつまり」という場面。二、三頭では多く集まりとは普通書きません。そこで、ニホンカモシカは昔、群れを作っていたのではと想像してみました。

 江戸時代は、まだニホンオオカミが棲息していました。ニホンオオカミの主な獲物はニホンジカとされていますが、ニホンカモシカもその中に入っていたと思うのが自然でしょう。3~10頭で行動するニホンオオカミに対して単独行動ではあまりにも無防備です。多くの草食動物がそうであるように、ニホンカモシカも一定の集団を作っていたとしても不思議はありません。近縁のヤギが集団で行動するように。

 それが、明治時代になり高性能の銃が大量に出回る様になると、ニホンオオカミは病気の蔓延も手伝って一気に絶滅への道を辿ります。すると天敵がいなくなったニホンカモシカは、高性能の銃を持った人間に狙われるようになります。毛皮が高い値段で売れたからです。そのためオオカミに続いてカモシカも絶滅の一途を辿りました。群れを作れないほどに数が減少してしまったわけです。

 妻女山のニホンカモシカを見ていると、確かに採食歩行は単独でしますが、以外と親子や兄弟で一緒にいる時間があるということに気づいたのです。目撃されるのは、採食歩行の時が多いでしょうから単独での行動が目立つのですが、彼らが頻繁に集まる所を知っていると、逆にいつも一緒にいるように見えてしまいます。

 子供が2、3歳までは同じ塒(ねぐら)で寝起きし、早朝糞場で用をたすと別々に採食歩行に出かけます。反芻が終わると見通しのいい落葉松の林下など決まった場所で一緒に過ごし、午後はまた別々に採食歩行に出かけます。夕方近くになるとねぐらの近くに集まり一緒に過ごす。どうもそんなパターンが見えてきます。成熟したオスは単独でいるようですが、繁殖期はつがいになったメスと行動を共にします。

 それで、最初の『遠山奇談』の記述に戻るのですが、江戸時代以前は複数のメスとその子供達で集団を作っていたのではないかと。肉食動物に狙われる草食動物は、集団で行動していた方が、怪我や病気の個体、老体や子供を犠牲にすることにより健康な個体が生き残れる確率が増すわけですから。絶滅しかかったニホンカモシカですが、1955年に特別天然記念物に指定されてから徐々にその数が増えてきました。現在、かなり頭数が増した場所では、『遠山奇談』のような光景が見られるかもしれません。いや、そう簡単には変わらないでしょうかね。いずれにしても、人為的に激変されてしまった環境の中でも、ニホンカモシカはしぶとく生き延びてきた逞しい動物なんです。

◆『遠山奇談』については、以前の記事『遠山奇談』ニホンカモシカの強すぎる好奇心が徒になった件をご覧ください。







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ニホンカモシカを追跡していくと・・いやん!(妻女山里山通信)

2012-02-21 | アウトドア・ネイチャーフォト
 朝方はマイナス8度まで冷え込んだ長野市ですが、日中は気温は低いもののやや春めいた陽射しが眩しい日曜日でした。雪の残る陣場平から西面の堂平へ林道を登って行くと、右手から視線を感じました。見るとニホンカモシカのシロです。距離は15mぐらい。気をひきながら徐々に距離をつめるのですが、反転してゆっくりと立ち去りました。

 それでも走って逃げなかったので、しばらく付かず離れず付いて行くと突然立ち止まり、脚を開いて腰を落としました。ありゃおしっこかなと思いました。以前そのシーンに出会ったことがあるので。太い赤松の樹の陰から観察していると、お尻から黒い玉がぽろぽろとたくさん出てきました。ありゃりゃ大きい方でした。糞の形は俵型。野生の場合は全てこの形で、それ以外の形状は見た事がありません。それが健康な印なのでしょう。

 シロは私の気配に気づいて振り返ったのですが、用をたしている最中なので逃げる訳にもいかず、困った表情で見ていましたが、こちらがなにもしないと分かったのか、その後は終えるまで前を向いてきばっていました。普通ニホンカモシカは、早朝に寝床から出るとすぐ近くにある糞場で用をたしてから採食歩行に出るのですが、この日は朝は便秘だったのでしょうか(笑)。ずいぶんな量でした。冬は夏と違って水分の多い餌が少ないのも原因かもしれません。

 糞場は通常寝床の近くにあるのですが、テリトリーの中にも何カ所もあって、餌を食べながら糞もします。それは場所が決まっている所と、したくなったからしてしまった所があるような気がします。なぜかというと糞の量が違うのです。決まっている場所は何回もするので糞の量が多く、古い糞と新しいものが混じっています。場所は森の灌木林の中や大きな木の陰です。糞をするときは無防備になるからです。反芻する場所も同様。但し、ニホンジカのように歩きながら脱糞はしません。糞場からはよくキララタケやヒトヨタケが発生します。

 特に小用の場合、メスはお尻を低く落として、オスは割と高いままでします。そんなわけで、以前目撃した状況から、クロはオス、シロはメスと判断しているのですが、ニホンカモシカの場合オスメス共に角があるので見分けは困難です。この二頭は兄弟で、ニホンカモシカには大変珍しい双子か年子ではないかと思います。まもなくクロは秋の発情期になると他のメスを求めて別の尾根に遠征し、他のオスがシロに求愛に来るはずです。彼らの母親が大きなオスに追い掛けられているのを目撃しているので、この秋が楽しみです。

 以前、「冬のニホンカモシカは何を食べている」で書きましたが、尾行したところ、その時はヤマヤブソテツとリョウメンシダを食べていました。食料の少ない冬にはコケや地衣類、冬芽や針葉樹の葉なども食べます。スギとヒノキを枝打ちしておいたら、ヒノキの方を食べていました。冬でも緑の葉が残るミツバアケビも貴重な餌。春になると蕗の薹(ふきのとう)やカタクリなども食べます。薬草として作られた貝母(ばいも)の新芽も食べていました。タラノメの低いものも食べます。初冬に出たシイタケとヒラタケも食べますが、いずれも一種類を食べ尽くすということはせず、少しずつ齧って非常に多くの種類を食べる様です。単一の餌に頼らないことが、氷河期から生き延びて来た理由のひとつかもしれません。

 日の出とともに起きて寝床の近くの糞場で用をたし、採食歩行に出かけ、だいたい9時過ぎまで食べ歩いてから決まった場所で反芻をします。午後はまた採食歩行に出かけ、夕方寝床に戻るのですが、妻女山のクロとシロの場合、採食歩行は単独ですが、朝と昼と夕方は一緒にいることが多い様です。去年まではそこに母親もいたのですが、今年はまだ見ていません。子供達が大きくなったので奥へ移ったのか、亡くなってしまったのか・・。

 シロはその後、近くの木に眼下線でマーキングして、ゆっくりと森の奥へ消えてゆきました。あとひと月足らずで冬毛がゴソッと抜け落ちます。それは遅い信州にもやっと春が来る印です。







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天空の山城・鞍骨城跡。戦国時代の食事は白米5合に味噌(妻女山里山通信)

2012-02-15 | 歴史・地理・雑学
 山城といっても上杉謙信の春日山城のような居城ではなく、いわゆる詰めの城です。当然天守などはなく、小屋と防御のための柵や堀切などがあっただけでしょう。西側の尾根に幅4m、長さ70mぐらいのU字型の一段下がった帯状の狭長な郭があり、馬場跡ともいわれていますがどうなんでしょう。馬といっても木曽馬や道産子のような日本古来の小型の馬ですが。

 鞍骨城は、旧埴科郡の山城の中で最大のものです。本郭は、西辺20m、南辺17m、北辺9.7mの不整方形。西方に16×9mの脇郭、22×12mの副郭、さらにその西に幅9.4×長さ18mの大郭、その西に幅8m×長さ70mの狭長な郭があり、堀切を隔てて平坦部が続きます。本郭の南方に井戸の段郭があり、その下にまた井戸のある8.9m四方の郭があります。その南方に箕状の段郭が階段式に4つ連立しています。本郭の北東には土塁があり、外側は石積みになっています。南面に比べて北面は険しく傾斜が急です。このため南面が大手とされたようです。

 この城は、清野氏の要害であったことは間違いありませんが、永正年中(1504-1520)清野山城守勝照の築城説については明証がないようです。信濃の小領主であった清野氏は、村上義清の配下でしたが、天文22年(1553)8月、村上義清が上杉謙信を頼り逃れると、清野氏は、道寿軒と長子清秀が上杉方に、次子信清(清寿軒)は武田方にと、親子兄弟敵味方に分かれて戦いました。

 どちらが勝っても一族が生き延びるという苦肉の策でしょうか。たいてい長男と次男は仲が悪く骨肉の争いを繰り広げることが多かったなどという説もありますが・・。その後、清野氏は武田が滅びると豊臣秀吉による国替えで、上杉景勝の会津移封に伴い清野を去ったのです。信濃の小領主たちは、甲越どちらかにつくか、親子兄弟別れるかして、いずれにしても信州先方衆として真っ先に戦わなければならなかったということです。

 ところで、戦国時代の戦というのは、足軽や地家人などの領民を食べさせる公共事業のような側面もあったようです。上杉謙信が、冬は関東に攻め入って掠奪し、春に帰郷するというのが一番分かり易い例かもしれません。
 戦場の食事は。ひとり一日玄米5合で朝と夜、昼食はなし。出陣の時は白米になり味噌も普段の糠味噌から大豆味噌になったそうです。『訓蒙士業抄』には、「人数10人につき1日米1升、味噌2合、塩1合を用う。1人朝2合5勺、夕2合5勺、中食2合5勺、残り2合5勺は不時の食となすべし」と記されています。まさに腹が減っては戦はできぬというわけです。

 実際に戦が始まると自炊どころではないので、携行食が用いられました。米を蒸して日干しにした糒(ほしいい)。米粉、そば粉、豆粉、蜂蜜、酒などを練ってまるめた兵糧丸。生姜、山椒、酒を練り込んだ焼き味噌。梅干の肉だけを干して丸薬にした梅干丸。これらを携行して、沢の水などを飲みながら兵糧丸をかじったりして腹を満たしたわけです。また、山菜や野草、野生動物や蛙や川魚も需要な食料でした。山菜のモミジガサは、別名トウキチロウといいますが、秀吉の好物だったそうです。このように戦は、まさに食うための戦争という側面があったのです。ちょうど戦国時代が地球の寒冷期にあたり、飢饉が続いたということも関係していたのかもしれません。

★Youtubeスライドショー
【信州の里山】象山-鞍骨山-斎場山 Mt.Kurabone at Kiyono in Nagano
★フォト・レポート
「冬の鞍骨城跡」
「花と新緑の鞍骨城跡」
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『日本三代実録』貞観地震の記述:廿六日癸未,陸奧國地大震動,流光如晝隱映.頃之,人民呌呼,伏不能起.或屋仆壓死,或地裂埋殪.馬牛駭奔,或相昇踏.城埻倉庫,門櫓墻壁,頹落顛覆,不知其數.海口哮吼,聲似雷霆,驚濤涌潮,泝漲長.忽至城下,去海數十百里,浩浩不辨其涯涘.原野道路,惣為滄溟,乘船不遑,登山難及,溺死者千許.資產苗稼,殆無孑遺焉.

「貞観11年5月26日、陸奥国(東北地方)で大地震。流光、昼のごとく隠映。人々は泣き叫び、倒れて起き上がれず。ある者は家屋が倒壊して圧死、ある者は裂けた地面に埋もれた。牛馬は驚いて走り出し、足を踏み外した。城郭倉庫など建物の倒壊は数知れず。海は吠え、雷のようだった。長大な驚くべき波が湧き起こり、怒濤のごとく城下に至った。海から数十百里離れた所まで、その果てしなく広大な範囲が波に襲われた。原野も道路もまったく分からなくなった。船に乗って逃げる暇もなく、山に逃げるのも難しかった。溺死者は千人ばかり。資産も苗もほとんど何一つ残らなかった。」

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対米従属に警鐘を鳴らし、日米軍事同盟の相対化と自主防衛の強化を説いてきた孫崎 享さんのツイートまとめ

2012-02-12 | 歴史・地理・雑学
@magosaki_ukeru 東京都千代田区
日本の元外交官、元防衛大学校教授、作家。著書:『日本の国境問題ー尖閣・竹島・北方領土』『日本人のための戦略的思考入門』『情報と外交』『『日米同盟の正体』、『日本外交 現場からの証言』(第2回山本七平賞受賞)、今、東アジアの安全保障執筆中。(Wikipedia)


【安保騒動】
 これから書くことは頭の体操です。「頭の体操」の嫌な人は最初から読まないで下さい。
 事実1:我々は鳩山氏が「普天間を最低でも県外」と言った時に、米国が日本の政治家、官僚、マスコミと一緒になって、これを阻止し、政権を潰しに回ったことを知っている(疑念のある人はウィキリークス等見て下さい)。
 事実2:独裁者を打倒する時など米国はしばしばデモを利用する。例えばイランのシャーを倒す時には人権侵害でデモを誘導していった。イランで人権侵害のデモに参加した人は、シャーを倒す目的で米国がデモを支援していることは知らない。
 事実3:岸は「旧安保は余りにも米国に一方的に有利なものである。形式として連合国の占領は終わったけれども、これに代わって米軍が日本の全土を占領している状態である」という認識を持っている。
 事実4:1957年4月19日の参議院内閣委員会で「安保条約、行政協定は全面的に改定すべき時代にきてる」と答えてる。マッカーサー大使に「駐留米軍の最大の撤退、米軍による緊急使用のために用意されている施設付きの多くの米軍基地を日本に返還すること」を提案。

 ここから考えましょう。鳩山首相の普天間ですら引きずり降ろしを計ったのです。「駐留米軍の最大の撤退」を述べる岸を降ろす工作をするのは自然ではないだろうか。その時デモを利用するということはないだろうか。勿論デモ参加者は悪人岸を引きずり降ろすことは正義とみている。Wikipedia「田中清玄、60年1月号『文藝春秋』に「全学連指導者諸君に訴える」を発表。全学連書記長島成郎が田中からの資金カンパ依頼。
 後、中曾根平和研究所に行く小島弘、東原吉伸、篠原浩一郎も。」全学連の唐牛健太郎らはのちに田中の企業に就職。田中清玄は反岸。」安保騒動後、反安保の中心であった朝日新聞では反安保論調を書きまくった部長クラスは続々地方に飛ばされる。左派文化人も以降沈黙。
 自民党内で岸を揺さぶったのは従米の池田勇人グループ。岸から池田の交代は米国にとって喜ばしいこと。反安保条約の論陣を張った人々、その後ほとんど、その後論陣を張らない、はれなくなつ現象をどう評価するか。戦後米国が独裁者を倒す有力武器がデモ。日本に適用は充分可能。

 岸・池田:反応(孫崎先生、それは初耳でした。普通は、清和会の元祖の岸のほうが、宏池会の元祖の池田よりも従米でCIAの手下と思ってしまいますので)非常に重要な点を含んでいます。”岸でも”米軍撤退と行政協定(米軍への権利を規定)を米国に要求したという事実を一般国民に持たせない必要があったのです。米国に基地をおいてもいいですよといったのは誰かご存じですか。
 吉田茂の代役、池田勇人蔵相(当時)です。1950年4月池田蔵相は宮沢喜一秘書官を連れて占領下の日本の閣僚として初めて訪米。目的は「アメリカの財政経済事情の視察」。同時に一行は吉田首相から「講和についての瀬踏みをしてくる」という密命。五月二日、池田蔵相とドッジを陸軍省のオフィスを訪問。ここで池田首相は次のように発言。 “自分は吉田総理大臣からの伝言として、次のことをお伝えしたい。『日本政府はできるだけ早い機会に講和条約締結を希望する。

 このような講和条約ができても、米国の軍隊を日本に駐留させる必要があるであろうが、もし米国側からそのような希望を申し出にくいならば、日本側からそれをオファするような持ち出し方を研究してもよろしい』吉田・池田ラインの米国追随を薄める世論操作があったのです。今につながるから安保騒動が何であったか。相当書きました。
 問題点の一つは岸退陣後、新聞はピタリと安保条約批判停止。騒動は本当に「安保条約批判」の動きか、或いは「岸打倒」の動きか。その際は左派と米国のつながり見る必要。終戦直後から関係あり。1945年10月11日マッカーサーと幣原首相の初会見時総司令部側から労働運動の助長を指示。労働組合法が1945年12月議会で可決。占領司令部は労働運動を奨励。1946年12月には組合数は1万7千,組合員数は484万名。

 CIA元長官コルビー「秘密チャネルによる直接的な政治的、準軍事的援助によって“干渉”することは数世紀間国家関係の特徴。各国は自衛のために武力を行使する道徳的権利を持ち、その目的に必要な程度の武力行使は許されている。軍事的干渉が許されるなら、それ以下の形での干渉は正当化される。伊の民主勢力がソ連の支援する転覆運動に対抗できるように、民主勢力に支援を与えるのは道徳的活動CIAは自由労働運動の強化、競争的な協同組合の結成、各種の文化的、市民的、政治的団体の援助にも、多くの努力。マスコミも期待。
 これらの作戦で根本的に重要なことは秘密維持。米国政府が支援しているとの証拠がでては絶対にいけない。金、助言等、援助は第三者経由。資金は実際には外部者経由。公認の米国公務員が渡したことは一回もない。」 どうでしょう。安保騒動時、左派の活動費が急に増大したことはなかったか。何故今これを論議しているか。米軍基地縮小を提言した政治家がどうなったかを見極める必要。そうでなければ日本が「前原」「野田」で溢れてしまう。


【日米の歴史】
 米国が日本の指導者を取り替える時に如何なる選択があったか。易しい順から並べてみる。
1:閣内有力者を外すよう圧力をかけ政権瓦解、細川政権時の武村官房長官を外す圧力(この模様は小池百合子さんが記載)。
2:特定政策の強要を行うと共に、党内有力者に反対運動をさせる。
日米の歴史2:アフガンへの派遣で福田康夫首相(ウィキリークス内情暴露)。
3:主要政策で反対派動員、マスコミ動員で実施出来なくし瓦解させるー普天間問題での鳩山由紀夫内閣。
4:特定政策成就で花道引退の筋道を作る。マスコミ・反対派―鳩山一郎のソ連との共同声明。
5:検察に汚職等を追わせ 日米の歴史3:失墜―芦田内閣の招電事件、田中角栄のロッキード事件。
6:党内抗争、検察利用が出来ない時―まさに岸の時、大衆闘争(日本では稀。しかし世界的にみると米国が利用してきた独裁政権を倒す時にしばしば利用)。吉田茂、池田勇人、小泉純一郎等従米を徹底し、要望を実施なら長期政権。


【新聞と従米】
 日本大手新聞の最大の問題は政治問題で米国に操られてること。読売は当然、朝日も。具体例。安保闘争。6月17日極めて異例な七社共同宣言(読売、朝日等)。「暴力を排し議会主義を守れ」「民主主義は言論をもって争われるべき。その理由のいかんを問わず暴力を用いて事を運ばんとする事は、断じて許されるべきではない」当時、安保騒動に関与した人は一様にこの七社共同宣言で流れ変わったと発言。

 では、この七社共同宣言は新聞社独自で書いたか。米国の圧力か。朝日新聞の主筆、笠信太郎がこの宣言を書く中心。笠信太郎①1943年10月スイス、その地に滞在中の情報機関OSS(CIAの前身)の欧州総局長であったアレン・ダレス(安保騒動時のCIA長官)と協力。戦後は1948年2月帰社。同年5月論説委員、同年12月東京本社論説主幹。当時占領下。米国が冷戦後、日本を「共産主義に対する防波堤」にしようと言う時に朝日新聞社で活躍開始。米国との関係が密接でなければ、このポストにつけない。

 米側書籍「マッカーサー(大使)は日本の新聞の主筆達に対し、米大統領訪日に対する妨害は共産主義の勝利と見なすと警告」「友好的、CIA支配下にある報道機関に、安保反対者を批判させ、米国との結び付きの重要性を強調させた」「「三大新聞では政治報道陣の異動により池田や安全保障条約に対する批判が姿を消した」。日本の大手新聞の従米は奧が深いのです。朝日新聞は一見リベラル装いながら、重要局面で従米ですから、読売新聞より時に深刻な被害を日本に与える。


【新聞と米国操作】
読売、朝日しばしば米国に操作されているのでないかとの疑念。歴史的に顕著に出たのが、何と安保条約反対運動の最中。60年安保闘争盛り上がる中、6月17日極めて異例な七社共同宣言(読売、朝日等)が出ます。「暴力を排し議会主義を守れ」という表題の下、「民主主義は言論をもって争われるべきである。その理由のいかんを問わず暴力を用いて事を運ばんとすることは、断じて許されるべきではない」。
 これで運動の流れ一変。この七社共同宣言は新聞社独自で書いたか。米国の圧力があったか。
 記述は朝日新聞主筆、笠信太郎が中心。笠信太郎①1943年スイスへ移動。その地に滞在中の米情報機関OSS欧州局長のアレン・ダレスと協力。ダレスは安保騒動時のCIA長官。②戦後1948年2月に帰社。同年5月論説委員、同年12月東京本社論説主幹、 米国が冷戦後、日本を「共産主義に対する防波堤」にしようと言う時に朝日新聞社で活躍開始。
 当時占領下。米国との関係が密接でなければ、このポストにつけない。
 そして安保時。米学者記述「マッカーサー大使は日本の新聞の主筆達に、大統領訪日妨害は共産主義にとっての勝利であると見なすと警告」「友好的なCIAの支配下にある報道機関に、安保反対者を批判させ米国との結び付きの重要性を強調させた」「三大新聞では政治報道陣の異動により池田や安全保障条約に対する批判が姿を消した」戦後の最も重要な政治的な動きの中で、大新聞は米国に操作された。そしてその後の人事まで影響した。米国に操作される体質は今日まで継続しているのです。


【TPP】
 予想される条項の内、最も問題は投資家・国家訴訟制度(ISD)。この条項は極めて重要。しかし、経産省等は隠して政治家等に説明しない。だから野田首相も知らず、国会で質問されて紛糾したもの。国家(例えば日本)の規制で、投資家(米国企業)の販売チャンスが減少したら訴えられる制度。

 例えば米国牛肉を売る。環境問題で制限したとしよう。販売チャンス減少させたと訴訟。この際、環境等の規制が公益上必要か否かの視点はほとんどない。この制度、米国の自由貿易協定で入っているが、一方的に米国企業が勝訴。これがTPPに入る。日本の公益配慮の法律、米国企業には適用除外と言うこと。この条項米韓FTAにある。今国民騒ぐ。事前説明無し。日本と同じ。
 9日付朝鮮日報「韓米FTA:「政権を握ったら廃棄」「韓米自由貿易協定(FTA)再交渉を求める野党・民主統合党と統合進歩党は8日、再交渉が実現しない場合、FTAの廃棄に向けて行動を起こすという内容の書簡を米国大使館に提出。議員96人が連名の書簡は、オバマ大統領、下院議長宛。投資家・国家訴訟制度(ISD)、(協定内容の見直しを認めない)ラチェット規定等10項目についてFTAの発効前に再交渉に応じるよう求めた。」TPP推進の新聞はISD沈黙。国民無知。


新書(3月16日発売。講談社現代新書)
メインタイトル: 『不愉快な現実』
サブタイトル:中国の大国化、米国の戦略転換
オビのメインキャッチコピー:問題を直視できないこの国の瀬戸際

オビのリード:東アジアのパワーバランスの激変で、孤立化が進行している。何故『不愉快な現実』か。明治以来150年以上中国はある時は、軍事的に、ある時は経済的に、しかし常に日本の下だった。しかしその中国はGDPで日本の上へいった。
それだけではない。世界で世論調査をすれば、英、仏、独、露では世論の過半数が「中国は超大国として米国を抜く」と判断する時代に入った。米国もイスラエルも「中国が抜く」が「抜けない」を上回った。日本だけが「抜けない」。日本だけが正しくて、世界が間違っているか。日本だけが間違っているか。残念ながら日本だけが間違っているのです。日本の人が目を瞑っていても中国は米国を追い抜くのです。データで示します。その時、米国はどう反応するか。
米国にとって「東アジアで最も重要な国はどこか」の世論調査をうれば、過去ずーっと日本。しかし昨年は米国の大衆は中国を日本より重要と判断しはじめた。米国の指導者層は世論に先行し中国。日本人は「米国は日本を最も重要視している」と判断している。もうそういう時代は終わった。「米国に追随すれば日本は繁栄し平和」の時代は終わりに近づいてる。
簡単な質問。米国が重要度の低い国の為に「重要度の高い国と戦う?」。戦わない。「核の傘」はない。尖閣諸島の紛争時、米軍は戦うか。戦いません。軍事的に戦えない。これが現実。「不愉快な現実」です。
日本の国民は「問題を直視できない」。逃げたい。そして皆、必死になって「中国駄目」「中国けしからん」という本を読んで安心している。そこにこの本は「不愉快な現実」をつきつけます。そして対応策を考えます。本来は画期的な本です。あえて、直視しようとする読者がどれ位いるか?。私の国民への問です。

※読み易い様に文章をまとめ、句読点や誤打を修正してあります。

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北信濃・埴科の妻女山周辺の里山に咲く3月4月の花。節分草ほか(妻女山里山通信)

2012-02-10 | アウトドア・ネイチャーフォト
 ツイッターでは既に紹介しましたが、スライドショー、【信州の里山】春の花 Spring Flowers in Shinsyu です。3月4月の妻女山山系とその周辺の里山に咲く花たちです。見所は、信州の北限といわれるセツブンソウ(節分草)でしょうか。 早春に咲き、2、3ヵ月でその年の生活サイクルを終え消えてしまう植物は、スプリング・エフェメラル(Spring Ephemeral、春の妖精、春のはかない命)と呼ばれます。カタクリやセツブンソウは、その代表的な植物です。

 直径2センチ程度の小さな山野草ですが、北国らしい灰色を帯びた薄紫色と黄色い蜜線が白い花びらに映えてなんとも儚く可憐で美しい花です。白い花びらと書きましたが、実はこれは萼片で、二股に分かれた黄色い蜜線のついたものが、退化した花びらなのです。節分のころに咲くのでセツブンソウといいますが、東京では1月に、ここ信州では3月下旬に咲きます。

 セツブンソウの種は、黄色い蜜と一緒にアリが巣に運んで発芽するアリ散布植物で、日本には200種類以上あります。種にはエライオソームというアリの食物となる物質がついていて、アリは種ごとそれを巣に運びます。それが種まきとなるわけです。アリが絶滅したら絶えてしまう植物がたくさんあるのです。(絶滅危惧植物II類)

 昔は雑木林に入って草刈りをしたので、明るい林床にセツブンソウがたくさん咲いたのだとか。カタクリも同様、人の暮らしと密接な関係にある植物だったのです。ですから、自生地の環境が破壊されると真っ先に消える植物です。春の柔らかな陽射しに透けるのも素敵ですが、突然のなごり雪に埋もれたセツブンソウもいいものです。
 トップの写真は、艶やかなショウジョウバカマ。

【信州の里山】春の花 Spring Flowers in Shinsyu


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古代科野国を探る。出速雄命と皆神山(妻女山里山通信)

2012-02-05 | 歴史・地理・雑学
 前回會津比賣命の父、出速雄命に触れたので、出速雄命と皆神山について書いてみようと思います。

 皆神山山頂にある皆神神社は、大国主命の子で諏訪大社の祭神・健御名方命(たけみなかたのみこと)の子・出速雄命(いずはやおのみこと)が祭神で、熊野出速雄神社ともいいます。(本殿は室町時代のもので長野県指定県宝)本来は出速雄神社で、熊野は後でついたものです。
 出速雄神は、貞観二年(860)二月に信濃国従五位下の位を授かっており、斎場山(旧妻女山)の麓にある會津比賣神社の祭神・會津比賣命(あいづひめのみこと)が御子といわれています。會津比賣神は、貞観八年六月に妹の草奈井比売命と共に従四位下を授かっています。
 その後、出速雄神は、貞観十四年(872年)四月に従五位上に、元慶二年(878年)二月に正五位下を授くとなっています。『日本三代實錄』

 出速雄命の父、健御名方命は、大国主命の子ですから出雲系。出速雄の出は、出雲の出。出雲=伊豆毛(日本書紀)=伊都・伊豆志=伊豆。イヅ=厳で、斎み清めること。『古事記』のみに記されている伊邪那岐命の禊(みそぎ)によって生まれた神々のひとり、伊豆能売(いづのめ)神が元でしょうか。伊豆能売を祀る神社は現存しないため「埋没神」ともいわれています。
 会津とは、崇神天皇10年9月9日、崇神天皇の伯父大彦命(おおひこのみこと)を北陸道へ、その子武淳川別命(たけぬなかわ わけのみこと)を東海道へ遣わせた。日本海側を進んだ大彦命は越後から東に折れ、太平洋側を進んだ武淳川別命は南奥から西に折れた。二人の出会った所を相津(會津、会津)という。『日本書紀』
 相津と想定される会津坂下町青津。能登南部からの移住者を想定される弥生時代終末期の男壇遺跡・宮東遺跡があり、亀ヶ森古墳等がある。(会津学研究会サイトより引用)
 この会津と、会津比売命の関係やいかに・・。なぜ父出速雄命は娘に会津比売とつけたのでしょうか。

 皆神山の小丸山古墳が出速雄命の、斎場山古墳が會津比賣命の墳墓ではないかという説があるのです。しかし、古墳様式から推察される年代、及び発掘調査から、古墳は5世紀のものといわれているので、両命の墓ではないかもしれない。あるとすれば、もっと古い年代の前方後円墳などではないでしょうか。古墳の推定年代は、かなり曖昧だと思いますが・・。

 小丸山古墳は、ずっと下って飛鳥時代の第三十四代舒明天皇(在位:629-641)の皇子・古人大兄命(ふるひとおおえのみこと)の墳墓ともいわれており、大化の改新に至る皇位継承争いの末に吉野を逃れてこの地に落ち延び、皆神山を開いたという里俗伝もあります。

 そうなると、積石塚古墳群と同様に古墳時代後期のものということになります。実際は吉野で殺害されたといわれていますが。小丸山古墳の側には、古人大兄命の子の墓といわれる大輪王墳墓があります。古人大兄命は、大化の改新の首謀者?である中大兄皇子(後の天智天皇)の異母兄です。古墳の築造年代とも合致するのでありえない話ではないということになります。ま、火の無い所に煙りはたたない程度の話ですが・・。

 ちなみに皆神神社の祭神は、伊邪那岐尊(いざなきのみこと)、伊邪那美尊(いざなみのみこと)、出速雄命、熊野速玉男命(くまのはやたまおのみこと)、予母都事解之男命(よもつことさかのおみこと)、(配祀神)舒明天皇(じょめいてんのう)、古人大兄命で、まさに皆神様です。熊野信仰は、中世以降に流行り付加されたものです。修験地は主に近くの尼巌山と奇妙山(帰命山・仏師岳)の岩山や岩窟だったと思われます。

 皆神山については、以前も記しましたが、標高659メートルの30~35万年前にできた安山岩質の溶岩ドームです。そして、1965年(昭和40 年)8月3日から約5年半もの間続いた、世界的にも稀な長期間にわたる松代群発地震の震源地のほぼ中心でした。有感地震は6万2826回、あまりに長期に渡ったためノイローゼになる住民も出たほどです。幸い死者は出ませんでしたが、怪我人や家屋の倒壊はありました。近所の古民家の屋根瓦が全て落ちたり、土塀が倒れたりしました。震度5の時に太い梁が抜けて白い部分が見え、あと5センチずれたら家が壊れるという状況がありました。

 私も目撃しましたが、地震時の宏観現象として皆神山や妻女山などの発光現象があり、大きな話題になりました。このような目撃例は安政の大地震など古くから目撃例があり、岩盤の崩壊による放電が原因のようで特に珍しいことではないようです。また、この群発地震で山は1m高くなったということです。

 皆神山付近には低重力域があり、地下には、縦800m、横1500m、高さ200mのマグマ溜りが起源と考えられる空洞があって、地下に巨大な貯水池があると推定されています。皆神山溶岩は150m程度の厚さがあることが確認されていて、その下に湖水堆積物が見つかっています。また、山頂には川の跡の河床礫が見られます。

 つまり溶岩がまだ地上に出る前は、ここは池や川があったということです。地蔵峠から流れ出る蛭川と藤沢川が、現在山のある一帯で合流していたのでしょう。山頂に泉があるのも豊富な地下水脈があるからと理解できます。皆神山を形成した溶岩は極めて粘性が強く噴火したり流れ出したりせずに、そのままプリン状に固まったと考えられています。ピラミッドではありません。

 ノイローゼ患者が出るほど長期に渡った松代群発地震は、最終的に大量の深層地下水湧出という事態になり、火山性群発地震という当初の想定が、水噴火群発地震であったとの考えに変わりました。しかし、最新の学説では地殻の継続的な変形による応力速度の上昇によって説明できることが分かったということです。その群発地震を多感な時期に経験しているため、私は地震に対する備えに人一倍気を使います。

★フォトレポート【清滝から奇妙山へ、まるで修験者のような厳しい山登りの顛末】をご覧ください。

★Youtubeスライドショー
【信州の里山】真夏の尼巌山 Mt.Amakazari at Higashijo in Nagano岩頭からのバーズアイビューが素晴しい。


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上杉謙信も庇護した妻女山(斎場山)の祭神、会津比売命について。古代科野国とは(妻女山里山通信)

2012-02-01 | 歴史・地理・雑学
 上杉謙信の布陣した山として妻女山(旧赤坂山、旧妻女山は斎場山のこと)を訪れる人は多いのですが、薬師山トンネルの陰にひっそりと佇む会津比売神社を訪れる人は稀です。里俗伝によると、古来は山上(斎場山西の御陵願平か)にあったが川中島合戦の折に上杉謙信が庇護していたため、武田信玄によって焼かれてしまい、武田滅亡の跡に現在の山陰にひっそりと再建された、ということです。

 この会津比売神社の祭神、会津比売命(會津比賣命)ですが、このところ貞観地震で有名になってしまった『日本三代実録』貞観8(866)年6月甲戌朔条(最初の行)の記述に、「授信濃國-無位-會津比賣神 從四位下」と出てきます。官位のない会津比売命に従四位下の位を授けますよということです。かなり高い位を授かっています。

 その理由なんですが、会津比売は、諏訪大社の祭神、建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)の子、出速雄命(いずはやおのみこと・伊豆早雄)の子といわれているからなのです。しかも、神武天皇の子、神八井耳命(かむやいみみのみこと)の子孫といわれる、大和王権より初代科野(信濃)国造に任ぜられた武五百建命(たけいおたつのみこと)[古事記]の室(妻)といわれているからなのです。

■科野国造 武五百建命と妻 会津比売命の家系図(諸説あり)
神武天皇--神八井耳命--武宇都彦命--武速前命--敷桁彦命--武五百建命--健稲背
          大国主命--建御名方富命--出速雄命--会津比売命(出速姫神)


 つまり、出雲系の出速雄命一族は、娘の会津比売命が、天皇系(大和系)の科野国造 武五百建命と結婚したことにより、官位を授与され、諏訪に戻って大祝(おおほうり)家となったわけです。貞観年間に、無位となっていた出速雄命、会津比売命の官位授与を申請したのは、当時の埴科郡の大領であった金刺舎人正長といわれています。金刺氏は諏訪系統の流れで、貞観4年(862)に、埴科郡大領外従7位金刺舎人正長とあります。『日本三代実録』[信濃史料]
 無位にあった自分の先祖の復権をすべく申請したということでしょう。古代科野国は、大和系と出雲系が結ばれてできたともいえるのです。いすれも古代の中国から渡ってきた人々です。縄文人と融合し新たな日本民族が生まれたわけです。現在の日本人には縄文系の血は14%しか流れていないということも最近の研究で分かりました。ダイナミックな流入と文化の混交があったと考えられます。春秋戦国時代に破れて相次いで渡来したという呉と越。秦の始皇帝を騙して渡来したという除福初め3000人の人々は、ユダヤ系ともいわれています。白狐に跨る烏天狗の飯綱権現が正にそれであるという説もあります。飯縄権現は高尾山の祭神でもあります。徐福伝説は全国各地にあります。秦の始皇帝の反撃を恐れて全国に散らばったのかも知れません。

 会津比売神社はいわゆる式外社(しきげしゃ・『延喜式』神名帳に記載の無い神社)ですが、「国史現在社」です。「国史現在社」とは、式外社ですが、『六国史』にその名前が見られる神社のことを、特に国史現在社(国史見在社とも)と呼びます(広義には式内社であるものも含む)。『六国史』とは、『日本書紀』、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』。

 『延喜式』神名帳の選定には政治色が強く反映されているそうですが、『延喜式』が平安中期に編纂されるずっと前に無位だったということは、それ以前に国府の埴科からの移動や仏教伝来による神格の低下、諏訪系統の勢力が衰えたなどの理由があったのかもしれません。
 『松代町史』には、出速雄命の女會津比賣命、ふたりは埴科郡の産土神と書かれていますが、女という記述は誤解を招く記述で、御子、あるいは子と書くべきだったでしょう。御女ならば妃ということになりますが、そうではないようです。

 会津比売は、斎場山(旧妻女山)古墳(円墳)や、同じ斎場山脈にある土口将軍塚古墳(前方後円墳)とも深い関係がありそうです。また、会津比売命は、大物主(倭大物主櫛甕魂命)の子供・会地比古命の娘、会知速比売ともいわれています。大物主は、『出雲国造神賀詞』では大物主櫛甕玉といい、大穴持(大国主神)の和魂(にきみたま)であるということですから同一人物。ま、これも諸説あるようです。

 会津比売命こと出速姫命を伊自波夜比命とし、天村雲命の妻とする説もありますが、『日本三代実録』には、「貞観14年 (872年)伊良比(いらひめ)に従五位下を授く 」とあるので、会津比売命と伊自波夜比命は、別人と考えた方がよさそうです。天村雲命は、阿俾良依姫命を妻としたという記述もあるそうです。[旧事紀]

 上杉謙信が、会津比売神社を庇護したのは、土豪の清野氏が産土神として手厚く祀っていたからでしょう。『會津比賣神社御由緒』には、土口将軍塚古墳が会津比売命の墳墓と書かれていますが、森将軍塚古墳が夫の武五百建命の墳墓とすれば、そこに埋葬されたと考えるのが妥当ではないでしょうか。森将軍塚古墳には、本来の大きな石室以外に数多くの埋葬がされています。土口将軍塚古墳は、倉科将軍塚古墳などと同様に、代々の科野国の王の墓と考えた方が合理的であるように思えます。むしろ、斎場山山頂にある斎場山古墳がだれのものか気になるところです。時代的には、5世紀といわれていますが、土口将軍塚古墳(前方後円墳)より高い所にあること、更に高い天城山にも清野古墳や坂山古墳があることなどを考えると、科野国造の最後の墓かもしれません。

 尚、この斎場山古墳の西には大小七つの俗に旗塚といわれる古塚があるのですが、発掘では古墳ではないそうです。私は大化の改新の薄葬令以降の県司、郡司の墳墓ではないかと見ているのですが、どうも考古学者の研究対象にはなっていないようです。7世紀頃なら、埴科郡大領金刺舎人正長一族の墳墓である可能性もあるのではないでしょうか。同じものは斎場山南の天城山北尾根や茶臼山南峯、森将軍塚南の有明山や久保峰にも見られます。

 真ん中の写真の「40年前に泉があった場所」の上部には、積石塚古墳が三基あったと叔父から聞いています。戦前か戦中でしょうか、学校で見学に来たことがあるそうです。現在は壊されて原形をとどめませんが、その石と思われるものが散乱しています。この谷の上にある陣場平には積石塚古墳が一基あり、その西の堂平というところには、積石塚古墳群があります。おそらく大室の古墳群の様に、妻女山山系にも渡来人の古墳群があったと思われるのです。ただ、養蚕のための桑畑の開墾で、ほとんどが消滅してしまいました。5-6世紀のものといわれています。会津比売命の夫である武五百建命の森将軍塚古墳が4世紀中頃から末のものといわれていますから、それより後です。百済から来た渡来人が、故郷を偲んで北向きの谷や尾根の台地に積石塚古墳を作ったのでしょうか。学者の中には、積石塚古墳は高句麗様式であるという人がいます。ツングース系の騎馬民族です。4世紀中頃からこの辺りの古墳からは馬具が出てきます。多くの騎馬民族が渡来したのかもしれません。積石塚古墳は全国的には1%ですが、この信州では25%にもなるそうです。牧のつく地名が多いのも関係があるやもしれません。

 会津比売命と福島県の会津の関係ですが、『日本書紀』では、崇神天皇10年9月9条で、『大彦命を北陸道へ、子の武淳川別命(たけぬなかわわけのみこと)を東海へ、吉備津彦命(きびつひこのみこと)を西道へ、丹波道主命(たんばにおみちぬしのみこと)を丹波へ派遣したとしされています。いわゆる四道将軍のひとりです。
『古事記』には、崇神天皇が伯父の大彦命を北陸道(越国・高志国)へ、その子武淳川別命を東海道へ遣わせたとあります。日本海側を進んだ大彦命は越後から東に折れ、太平洋側を進んだ武淳川別命は南奥から西に折れ、二人の出会った所を相津(会津)というとあります。 その後、社伝によると、大彦命は五明の布制神社後背(西)の瀬原田の長者窪に居を構えそこで薨去(こうきょ)した(亡くなった)といいます。その功績を讃えて、出速雄命が娘に会津比売と名付けたとは考えられないでしょうか。また、茶臼山の東西南北にある布施神社の祭神は大彦命ですが、布施氏は望月氏の後裔で(滋野系図)、望月氏の祖先は大彦命であるという言い伝えもあるようです。滋野氏、望月氏、海野氏、禰津氏(以上で滋野御三家)、真田氏、布施氏、平林氏、小田切氏などは縁戚関係がある信濃の豪族集団です。

 この貞観地震があった『日本三代実録』の記述を見ると、官位授与の記述に混じって「地震」の文字がたくさんあることに驚かされます。とても平安な時代ではなかったようです。東日本大震災の平成も然り。全く平穏でない両時代共に、平安、平成と平の文字がつくのは、奇妙な偶然です。

 会津へは、後年秀吉の国替えにより上杉景勝の家臣だった川中島の土豪が家族家来を連れて会津に移住しました。その後、江戸時代には伊那の高遠藩の保科正之が徳川家光の腹違いの弟と判明し、会津に転封されています。その際には我が一族の祖先も家来として同行し、後に豪商となった林正光は会津藩を支えたということです。会津は信州人が作った街ともいえるのです。皮肉なことに戊辰戦争で会津若松城をメリケン砲で破壊したのは、松代藩でした。現在の横浜の元を作ったのも松代藩です。

■歴史は繰り返す:864年:富士山噴火/868年:播磨国地震(阪神)/869年:貞観地震M9・貞観津波(東北)/871年:鳥海山噴火/874年:開聞岳噴火/878年:相模武蔵地震(関東)M 7.4/887年:仁和地震(東海南海地震)M9(M=推定)

斎場山古墳巡りフォトルポ

■貞観地震と仁和地震と会津比売神社
•貞観元年(859年)河内・和泉両国の陶窯用の薪山争い起こる。饒益神宝を鋳造する。
貞観2年(860年)出速雄神に従五位下〔延喜元年(901年)の日本三代実録〕
•貞観3年(861年)4月7日、直方隕石が落下。落下の目撃がある世界最古の隕石。
貞観4年(862)埴科郡大領外従七位金刺舎人正長。廿日戊子 信濃國埴科郡大領-外從七位上-金刺舍人-正長(日本三代実録)
貞観5年(863)信濃国諏訪郡の人右近衛将監正六位上金刺舎人貞長、姓を大朝臣と賜わる。これ神八井耳命の苗裔(びょうえい)也。
•貞観6年(864年)富士山噴火(貞観大噴火)
•貞観8年(866年)閏3月10日、内裏朝堂院の正門・応天門が放火によって炎上、これを巧みに利用して伴氏・源氏の追い落としに成功した藤原良房は、同年8月19日、天皇の外祖父であることを理由に人臣初の摂政に任命された。応天門の変。
貞観8年(866年)に會津比売神に従四位下
•貞観10年(868年)7月8日、播磨国で地震。日本三代実録によれば官舎、諸寺堂塔ことごとく頽倒の記述。前年から引き続き、毎月のように地震があったことも見受けられる。
•貞観11年(869年)格12巻が完成。貞観地震とそれに伴う貞観津波が発生。貞観の韓寇。
•貞観12年(870年)貞観永宝が鋳造される。
•貞観13年(871年)式20巻が完成。貞観格式の完成。鳥海山噴火。
★貞観14年(872年)出速雄神に従五位上
•貞観16年(874年)開聞岳噴火。
•元慶2年(878年)相模・武蔵地震(現在の関東地方における地震)伊勢原断層の活動によるM 7.4の大地震
元慶2年(878年)出速雄神に正五位下
•仁和3年(887年)8月22日(8月26日)に仁和地震(南海地震、M 8.0~8.5。東海・東南海との連動説も有り)。
 八ヶ岳が突然水蒸気爆発をおこし崩壊。千曲川・相木川を堰き止めて“大海(南牧湖)”や“小海湖”を造った。天狗岳と硫黄岳の東側斜面が大きく崩れた跡が今でも見られる。
•仁和4年(888年)決壊し、善光寺平までその被害は及んだ。
•寛弘8年8月3日(1011年9月3日)に再決壊。下流域に再び災厄を撒き散らして完全に消滅した。
 長さ3kmに達した「小海」は、古地図等からその後600年以上、江戸時代初期まで残っていたことが確認できるが、いつどうやって消滅したのか判っていない。江戸後期の戌の満水で消滅した可能性もある。
•延喜元年(901年)の日本三代実録。会津比売神社は式外社となる。

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明治の暁を見ることなく散った男達! 妻女山松代招魂社(妻女山里山通信)
:戊辰戦争の会津戦争は信州人同士の戦だったという歴史的悲劇

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