( 中秋の名月 ! 雲が全くありません・・。 気温が下がってきました。 室内25℃です。)
片岡健吉の人生も波乱に富んでいます。 高知鏡川に近い上士の家に生まれ 板垣退助とは遊び仲間。
武士になる教育を受け 兵法、武士道の精神を学び 正しい 高潔な人間となるようしつけも受けた。
片岡は板垣と違い おとなしい無口な少年だった。卑怯な真似はしないが 意地っ張りでもあり けんかを
しても 決して降参はしなかった。ペリーが浦賀沖に来たのは片岡が11才の時 日本は混乱し 尊皇攘夷の
戦いが 全国に広まった。
片岡は20才で家督を継ぎ 結婚をした。一方相次いで家族を失ったが 人望のある青年に育っていった。
郡奉行 普請奉行など要職を委された。彼は穏健な勤王の志士で 戊辰戦争の時も過激な板垣の副長となり
土佐藩邸も600人の藩兵を送り出した。いわゆる「官軍」の先方隊で 朝敵征伐に向かった。新撰組率いた近藤勇
土方歳三などと対峙し 敗走させた。会津若松の争いは東征最後の戦いで 片岡は板垣の良き参謀として働いた。
鎖国は解かれ 文明開化の時代になった。彼は選ばれて海外視察に加わった。長い鎖国の遅れを取り戻す為
先進国の有様を見てくる必要があるとの新政府の判断で 大きい藩から2名ずつ選ばれた。早速チョンマゲを
切り落とし 着慣れない洋服を着て 明治4年横浜を出港 アメリカへ向かった。学校 病院 工場 教会など訪問
見学した。学ぶことが多かった 特に社会福祉の施設や盛んな慈善事業に感心した。日本には その頃そんなものは
少しも無かったから。 驚いたのは その事業を 主にキリスト教徒が やっていることだった。
当時アメリカは南北戦争が終わり 自由と独立の機運が高まっていた。片岡達は 生き生きとした 健康的なアメリカ
国民の生活ぶりを一月半かけて視察し イギリスに向かった。産業革命の真っ只中 イギリスはヴィクトリア女王の時代で
世界最大の国力を誇っていた。丁度その時期 同じ高知から馬場辰猪という青年が留学生としてロンドンに滞在 若い彼から
政治 宗教 経済 社会あらゆるものについて教えられた。 初めて西洋文明に目を開かされたと言ってもいい。
公徳心が溢れている。訪れた家庭でもそうだった。親しみのある 温かい空気が溢れていた。西洋社会の美しい風習の根底に
あるのが キリスト教精神だと 若い馬場辰猪からも教えられ 心を向けるようになった。 海外視察から帰る頃には
近代社会を目指す日本にも 西洋の優れた文明や風習を取り入れなくてはならない。 その土台のキリスト教も『 輸入 』
する必要があると考えるようになっていた。 (続く)
我が家の2代目のムウです。 もう7年半 私と同い年位の高齢者です。
家族に一番可愛いがられている存在です。 この写真は数年前のもの・・。
むう専用の固形の食事もありますが 水を飲まないので 野菜は必需 !
食事を願って 背伸びして待っています。
最近流行り ? の 土下座もします・・。 運動のひとつでしょうか ?
時々 外へ出してもらいます。 なぜなぜしてもらうのが 一番好きなようです。
カメラのひもを垂らすと 口に食えたりして 遊びます。
これはフンをするポーズ ? 手前のトイレを使わず よく怒られています・・。
やはり外が好きで 絨毯の上を飛び跳ねますが こんな風に 足に絡みついてくることも・・。)
写真の撮りようで 男らしい野生を感じさせる時もあります。 いたずらして 餌を外された時・・?
後ろ足で立ち上がることもしばしば。 これで何か芸をさせたい・・?
行儀のよい時もあります。時々 何か要求(餌が欲しい・・) があると後ろ足で板を蹴り 音を立てます。
目の周りが 白くなって 年を感じさせる時があります。
やはりこういう時が 一番好きなようです。