( デユランタ 明治中期に渡来。本来秋には実がなる季節だが 南国のせいか・・、今もきれいです。)
片岡健吉が帰国した頃 彼にとってキリスト教は 立派な道徳であり 近代国家を目指す日本に必要な社会常識の範囲だった。
そんな彼がキリスト教に近づく この上もない機会が与えられた。国会開設建白書の事件で 約1年半 監獄生活 を強いられ
この間自分の人生について深く考えることが出来た。差し入れが許された書籍を乱読する中で キリスト教の入門書があった。
漢文で書かれていたが 彼は熟読した。心の中に新しい光が差し込んできた。34歳の頃である。神の存在を認めることが
出来たし 海外で多くの人々が祈っていたことも理解できた。しかしイエス・キリストが神性を持っている 神であることは
仲々理解出来なかった・・。
明治11年末 出獄して高知に戻った。もっとキリスト教について知りたいと思っていた頃 板垣に紹介されて 外国人宣教師が
高知に来ていた。当時板垣達が設立した 「立志社」 は定期の演説会を持っていたが その中に宣教師の伝道演説会も加えられた。
毎週数百人が集まった。片岡も熱心に聞いた。外国との関係で 日本でもようやくキリスト教の禁令が解かれ 表向きは宣教師の
伝道も自由になっていたが 事実は干渉や偏見も強かった。異国人の特異さや初めて聞く話に 高知の人々が簡単に受け入れた訳
でもなかった。しかし宣教師達は熱心で 会場での伝道の他に 鏡川の河原に出て 多くの人々に大声で話しかける路傍説教もした。
片岡はその熱心さにも感心した。
明治10年の西郷隆盛らが起こした新政府への反乱(西南戦争)が抑えられ 専制化していく薩長藩閥政治に抗して 言論によって
立憲政治を打ち立てる『 国会開設 憲法発布 』の戦いは板垣退助らを中心に全国的な広がりを示した。自由民権運動と呼ばれ
大いに世論を賑わした。片岡健吉も立志社の社長として 又高知県会の議長にも推されて積極的に活動した。当時の選挙は税金を
納める者だけの有産者に限られたものだったが 世論は多くの自由民権運動家を支持した。
国会開設はもはや世論になっていたので さすがの政府も 明治23年国会開設を公布し長い自由民権運動はようやく一つの実を結ぶ
ことになった。明治14年板垣ら全国の同志が集まって自由党を結成し 国民の間にも色々な憲法草案が作られた。全国遊説をして
いた矢先 明治15年有名な板垣退助暗殺未遂事件が起こる。『 板垣死すとも 自由は死せず。』この名言は全国に広がり 第二の
明治維新が 実現するかの状況になったが 政府は集会条例で政治結社の自由を奪い 新聞条例を出し 片岡健吉が社長もしていた
高知新聞も禁止、自由党の機関誌も禁止するなど 言論を圧迫し 政党の動きを押さえつけようとした。
高知の県令(知事)が自由主義を信奉する校長や教諭を皆クビにしてしまうなど暴挙もあった。愉快なのは片岡の次男が当時高知中学に
在学していたが 官憲のひどさに抗議して仲間40名と共に趣意書を出し 「退学」 」してしまったことである。立志社もやむを得ず
明治16年には自由党の確立という使命を果たして姿を消した。その自由党も後に解散となるが 後始末に上京していた片岡健吉に神の
導きがあった。彼が高知へ戻る船上でアメリカ人宣教師に出会い 親交をあたため これが翌年多くの立志社のメンバーが中心となり
『 高知教会 』 を立ち上げるきっかけとなる。 (この項続く。)
彼岸花(ヒガンバナ) 秋分を過ぎても まだあちこちで咲いています。
エノコログサ。 猫じゃらしとも言いますが 緑から金色になるのが 楽しみです。
アベリア。 日本名は難しいので省略。 6~11月頃まで咲きます。車道の脇などに見られます。
オキザリス とも かたばみと・・。 黄色い花もあります。クローバーのような葉です。
珍しく今頃咲いていました。本来は春の花。
サフランもどき。夏サフランそっくりに咲きます・・。 やはり南国のせいか・・?
アメジストセージ。ハーブの種類。 これは秋の花ですね。
千日紅。夏から秋に咲くので これからも見られます。群れで咲くのが一般的。
トレニアのピンク。多くは群れで咲かせています。
今が盛りの 玉すだれ。 やはり群れで咲く方が この花らしい・・?
ススキが目立つようになりました。
サルビア。サルビアの種類は多いです。 11月頃まで咲く園芸品種です。
中島町カトリック教会。 明治15年高知で最も古い教会。 建物は戦後のものです。