( 高知に自由民権記念館があります。その展示物から 紹介します。 明治第二の改革とあります。)
彼が受洗したのは 43歳の頃で 洋行でキリスト教を知って以来十数年 結構手間取ったとも言える。 慎重な性格で
信仰を持った後で 双心あってはならないと考え 分かるまで宣教師に質問し 話し合い 聖書を読んだ。ノックス宣教師
から洗礼を受けた後は 『 主君に命を捧げる武士のように 忠実な神の僕となった。 安息日を守る為 日曜日は一切の仕事を
休んだ。 宗教談義の他は面会お断り ! という看板を出していた・・ 』 とも伝えている。
高知において 自由民権運動とキリスト教が相互に関連し 共に発展を遂げたことはある意味 奇跡と言える。明治中期
宣教師が各地を訪問し 又自由民権運動も全国に広がったが 高知のように 人口3万に満たない地方都市で 次々と教会が
設立され 又キリスト教の女学校も設立された。今回触れていないが 高知教会に続いて 2年後に土佐教会も設立された。
板垣退助が推進したキリスト教の高知への導入は 専制的な薩長藩閥政治に対抗する為に フランス革命の天賦人権説に
基づく自由民権運動を高知で起こしたが キリスト教の根底にある自由 平等 民主主義的なキリスト教精神に共鳴し
日本に紹介することの意義を彼は認めたようだ。 土佐教会創立に関わった アッキンソン宣教師も最初 板垣退助を
訪ねて キリスト教伝道を始めた。板垣自身は受洗しなかったが その影響力の大きさで キリスト教伝道が整えられた。
自由 人権を求め闘う立志社のメンバーが 福音と祈りを通して 命の救いに目覚め 多くキリスト教徒になったこと
又 熱心に福音宣教に励んだことも 当然だったといえる。
彼の人となりについては 『 体重20貫あり 堂々としていたが 身なりを構わず 質素で 古びた洋服にわらじばき・・という
感じで 誰にも言葉が丁寧 腰が低く 謙遜な人だった。 日曜は必ず教会の礼拝に出席 どうしても所用ある時は 朝早く教会へ。
この時は羽織袴で 聖書を読み 祈りました。高知教会の長老でありながら 教会の玄関番 入り口の草履を並べたり 初めての人々を
あいそよく 丁寧に案内 こまごまとしたことまで熱心にやった。』 『 高知教会の玄関で信者になった ・・。』 という人も
いたほどで 周りの人々に大きな感化を与えた。 明治天皇に 『 片岡は人望があるなー 』 と言わしめたほどだ。
明治22年欽定憲法が発布され 再び投獄されていた片岡健吉も大赦令で出獄 第一回総選挙で衆議院議員に当選 帝国議会では板垣を
総裁とする立憲自由党が130人を擁する与党になった。 明治31年片岡は衆議院議長就任 在職4年 公平無私 思慮深く 誠実な
議事進行で 4度も議長に選ばれた。 議事進行の前に黙祷 自分が信者であることを隠さない 日本のキリスト教会の誇りといえる
人物となりました。
最後に片岡健吉は信仰の証しとして 『 私が信者になってから 色々な境遇にあい 幾多の困難に出会ったが その都度その困難を
切り抜けて 現在こんなに元気に活動し 激務に励んでおられるのも 全く私の信じるイエス様の御恵みにて 日夜深く感謝している。
見ることも出来ない神と共に歩み 共に起臥し 神の助けにより 自分の本分を守っていけるのも 過去 儒教によって生きていた
時に比べて 遙かに優って 力のあることを証明出来る。 』 と述べた。 (この項 終わり)
片岡健吉の貴重な写真です。 受洗前後でしょうか 地味な和服姿です。
戊辰戦争の頃 京都での土佐藩士。 右端が片岡健吉。まだ当然ながら チョンマゲ姿。
明治4年 海外視察 サンフランシスコでの写真。右端が片岡健吉。皆さん洋服姿・・。
彼岸花 ? 狐のカミソリ ? 夏水仙 ? 季節的には彼岸花ですが・・?
正統派の彼岸花 ? はこんな感じですが・・。
あまりにきれいなので もう一枚・・!
カンナ・・ ですね。
牡丹臭木(ぼたんくさぎ)。 もう季節は過ぎようとしています・・。
以前不明だった・・。 猩々草 ( しょうじょうそう ) ユーフォルビアとも言います。真ん中が花。
花に近い葉が オレンジ(赤)色に変わる。葉っぱの形もおもしろい。
紫紺野牡丹(しこんのぼたん)。 こんなに多く咲いているのは珍しい・・
この花も 何時が花期か分かりません・・。 半年は咲いています。 エンゼル・トランペット。
お城当番をしていた時 珍しく観光グループに出会いました。
インドネシアとヴェトナムの青年男女。高知で働いています。