( 若い頃の牧野富太郎博士。 高知の自由民権運動の影響もあり 弁士として活動した時代もありました。)
今日は3月9日 サンキューの日だそうです。 だので ? いつもブログを見て下さっている皆さんに感謝して スタートです。。
前回のトップにあった蝶ネクタイに丸いメガネ。 外へ出るときは大きな鞄を下げて・・。 なんだかうれしそうな牧野富太郎博士。
彼が植物採集にいくつ行く時は いつも 立派な帽子と蝶ネクタイをしていました。植物への尊敬の気持ちのあらわれで 大好きな植物に
会えるのが嬉しくてたまらない・・。 自分は草木の精かもしれない・・と言う程でした。
生涯集めた標本は40万点。調べて分類し、名前を付けた植物が1500種類。 多くの本の出版や研究雑誌に関わり、『 牧野日本植物図鑑 』
を残しました。 その為には お金をどんどん使い。 裕福だった実家の店を潰してしまいます。 多くの子供がいました。妻や家族は
借金取りに追われる貧乏な暮らし。しかし、どんなに苦労しても、家族を巻き込んでも 富太郎は絶対に植物への愛と学問だけは ?
手放さなかったのです。
物心がつく前から富太郎は山野の草花が好きでした。祖母が店の事で忙しく、独りの時間がたっぷりあったせいかもしれません。
博士の子供の頃は まだ学校制度はありませんでした。寺子屋に通っていろはを習い その後 佐川の領主が開いた塾に移りました。
『 侍だけが学ぶ時代はもう終わったんだ。 世の中が開けてきたから、僕のような町人でも いくらでも学問をしていいんだ。』
塾では 中国の学問のほか。 アメリカ、ヨーロッパの教科書を翻訳して英語、地理、物理、天文なども教えていました。 富太郎は
10歳でしたが、 全てが面白く、中でも物理の本と 世界の地理や 自然の本が お気に入りでした。
13歳の時に。 小学校が出来ましたが 彼は2年通ってつまらなくなって止めてしまいました。 ただ、授業で使われた博物図だけは
とても面白く、心に深く残ったと、後に言っています。 彼は山野を歩き回って 色んな草木を手に取り、詳しく観察したり 時には
口に入れたり 気になる物は持ち帰って 観察しながら絵を描きました。 しっかり見ると描きたくなり、描いていると、もっと見たく
なる・・、 この繰り返しで 観察する目を育てたのでしょう。
西洋には分類学という学問がありました。多くの植物をその特徴でグループに分けるとその世界全体が分かります。しかし大変な仕事です。
余程沢山の実物を集めて、細かいところまで観察する必要があります。『 いつか必ず日本の植物の全てを明らかにする。それができたら
植物の世界を皆で共有できる。だから出来るだけ沢山の植物を集めて 観察して新種を発見 名前のない植物に名前を付け、世界中に発表
するんだ・・! 』 その情熱は 生涯衰えることはありませんでした。
彼は店を継ぐのをやめ おばあさんに頼み込んで 東京に出ました。彼は自分自身にこう約束をしました。『 忍耐を要す 精密を要す
山野に足を運ぶ労を厭わず・・』など。 東京大学植物学教室に出入り 植物誌 というデータベースの制作に取りかかります。
(続く)
梅はそろそろ 最盛期を過ぎつつあります。 追っかけて 早咲きの桜が満開を迎えています。
梅は香りがあり それだけで 春の雰囲気を感じることが出来ます。
家庭においても育てられている梅を多く見ることが出来ます。
桜とは違った枝の張り方で 観賞になるせいでしょうか・・?
野生 ? の梅も多く見られます。花が一杯ついて それも仲々見事です。
幾つか紹介しました。 梅は桜同様 多くの人々に愛されて来た樹木だと思います。
もうこの梅の時期が過ぎていくのは 残念ですが 又来年を期待したいと思います。
地域によっては これからが見頃のところもあるでしょうね・・。
よくみていると 虫がいつも来ています。 この共生関係が 生態系ですね。