( 帽子と蝶ネクタイ 植物採集する容器?を持って 笑顔の牧野富太郎博士 )
昨日は3.11東日本大震災の日から11年の祈念の日でした。未だ3.8万人の方が避難されているとの記事がありました。高齢になる程
故郷への想いは強くなります・・が ますます故郷へ戻るのが難しくなっています。 故郷と言えば ウクライナの人々も既に200万人が
故郷を後にして外国へ避難しています。こんな不条理なことがあるのか・・と思います。かつこれは人災です。その怒り 悲しみを
どこにぶつければ いいのでしょう・・??
牧野富太郎博士は22才で東京大学植物学教室へ出入りできるようになり 自由に書籍や資料、標本を見ることが出来るようになりました。
25才の時祖母が病死 翌年奥様になる壽衞(すえ)さんと暮らし始めました。植物学雑誌や日本植物志図篇の刊行を開始するなど順風満帆に
見えましたが 突然大学の教授から教室への出入りが禁止され 一時ロシアの先生を頼ってロシアへ行く気持ちになりましたが その先生も
亡くなり 研究の機会が失われ 失意におちました。
牧野博士は西洋から入ってきた植物学を学んで 日本の植物を正確に分類して 植物図鑑を作りあげようと考えていました。その為に
野山に出て 植物を採取し 標本作りから始めるのです。高知牧野植物園にも幾つか展示されていますが 当時の新聞に多くの草花が
挟み込まれています。家に置いたら底が抜けてしまいそうです。それでも引っ越しを数十回しているのですから 本や標本の移動だけ
でも大変です。
何故引っ越したか? 家賃が払えず 立ち退きを要求されたからです。貧しさは大きな困難でした。普通なら失意であきらめてしまう
ところを 博士の努力 功績に手を差しのべる人も現れ 多くの人々の援助もあり ため込んだ標本を預かって貰える有徳の士に助け
られて借金を返し 更に研究を進めていきました。関東大震災や戦争中も大変でした。標本と離れる疎開も拒みました。奥様も子供達を
抱えながら 商売をして家計を支えました。 戦後自宅に残された標本、資料を使い 又研究が再開されました・・。
ようやく見つけた土筆(つくし)。正しくは スギナの胞子茎(ほうしけい)。
もう 終わりかと思っていた水仙は 未だ未だ元気。
ひさし振りに ムスカリー。 私はふだん むすかりと書いていますが 正確にはカタカナだそうです。
野原にポツポツ。 別名グレープヒヤシンス。 そういうとヒヤシンスは滅多に見ません・・?
ヒメリュウキンカです。あまり見ませんが 姫立金花と書きます。 珍しいのをみると うれしい!
黄色が鮮やかです。
今尤も咲いている ホトケノザ。 紫蘇科(しそか) 5月末迄 咲きます。
群生して咲いていると 紫色がはっきり見えます。
白花タンポポ。 蝶がよく集まるのは タンポポの蜜が甘いからだそうです。
菜の花も春の代表的な花。 黄色が目立ちます。
次回はようやく白木蓮特集 !? 早咲きの桜の写真も集まって来ていて 迷っています・・?
牧野富太郎博士のサクラの絵。本当に正確に描かれています。
鏡川。 右の山辺りが 牧野植物園のある五台山です。