
葛城のソコビコの娘、石之日売命(イワノヒメノミコト・古事記)・磐之媛命(イワノヒメノミコト・書紀)は、仁徳天皇の大后として4人の子をもうけました。

4人の子は後に、17-1履中天皇・18≠P反正天皇・19≠P允恭天皇になりましたが、唯一次男の墨江之中津王(スミノエノナカツミコ)だけは兄弟間の主権争いの中、裏切った家臣に厠の中で鉾に刺されて死に、天皇になれませんでした。

兄弟で天皇になった例は以後もたくさんあって、最高は4兄弟姉妹が天皇になっていますが、いずれも異母兄弟姉妹の例が多く、同じ母親から3人も子供が天皇になった例はなく、3天皇の母親は磐之媛命が唯一です。

ただしこの磐之媛命は非常に嫉妬深い女性で、夫の仁徳天皇を苦しめたそうです。
特に、仁徳天皇の異母妹八田皇女(ヤタノヒメミコ)を宮中に入れた時には、自分より八田皇女の身分が高いこともあって、磐之媛命は激怒し山城(京都府田辺市)へ引きこもって帰らず、別居生活のまま亡くなったそうです。

夫の大きな仁徳天皇陵は大阪の堺市ですが、磐之媛命の陵は奈良市北部の神功皇后陵などがあって紹介した佐紀盾列古墳群(サキタテナミコフングン)の大きな前方後円墳が集まってる所と、夫婦の墓は離れています。

この磐之媛命の陵はヒシアゲ古墳と言われ、全長219ⅿの大きさですが(写真の3つの一番下)、その傍のコナベ・ウワナベ古墳はもっと大きいです。

実はこの二つの古墳もそれぞれ宇和奈辺陵墓参考地・小奈辺陵墓参考地で、大きなウワナベ古墳はよりによって恋敵だった八田皇女の墓と言われてるようですので、磐之媛命は死んでからもこの地で地団駄を踏んでいるのかもしれません。
返事
花水木さん1:大山古墳の石棺の話は、もひとつ解かっていません。
花水木さん2:天皇陵巡りの間に、他の楽しい話を入れることで、
お許しください。
最近面白い話が載ってないことを、作者が一番気にしていますがね。