第17代履中天皇は黒比売命(クロヒメノミコト)との間に3人の子をもうけていますが、その長子の市辺之忍歯王(イチノベノオシハミコ)⦅書紀では市辺押磐皇子⦆は、本来なら次期天皇になっても良かったし、実際同じ世代で従弟の第20代安康天皇は、市辺押磐皇子に次の天皇を任せようともしていました。
しかし、安康天皇の弟だった雄略はこれを恨んで、市辺押磐皇子を滋賀県の蚊屋野(カヤノ)に狩に誘い、射殺した上に死骸を馬の飼い葉桶に入れて埋めたそうです。(その頃の滋賀県は、湖東も湖西も発展してたようです)
右
左
日本書紀では、この時雄略は押磐皇子の遺骸を抱いて悲しんでいた舎人も殺して、同じ穴に埋めてしまったそうです。
後日、天皇になった押磐皇子の子供が、なんとか遺骨を見つけましたが、皇子と舎人の遺骨の区別がつかないので、二つの似た墓を作ったそうで、この写真の通り左右に二つの土盛がある墓になっています。
ここ磐坂市邊押磐皇子墓は、滋賀県近江市市辺町の車がよく通る道のそばにある、確かに円墳二基でした。
15年ほど前に訪れた時には、この円墳に登れたような気がしていますが?
返事
花水木さん:この辺から奈良時代まで、
天皇家の婚姻関係はかなり血が濃くなってきて、
なんか判りにくくなってきますので、よろしくお願いいたします。