第33代推古天皇は皇太子であった聖徳太子に先立たれ、次の皇太子に誰も立てませんでしたので、推古天皇没後次の天皇争いは混乱しました。
勢力を伸ばしていた蘇我一族にとっては、蘇我家の血が濃い聖徳太子の息子山背大兄王(ヤマシロノオオエノミコ)の方が、蘇我家の血が全く入ってない第30代敏達天皇の孫田村皇子(タムラノミコ)より良かったと思います。
しかし、蘇我一族内での主導権争いや、蘇我馬子の娘 法堤郎媛(ホテイノイラツメ)と田村皇子との間に古人大兄皇子(フルヒトノオオエノミコ)が産まれていたこともあって、蘇我蝦夷(エミシ)は田村皇子を推したようです。
第30代敏達天皇が30≠Q廣姫に産ました押坂彦人大兄皇子(オシサカヒコヒトオオエノミコ)と、同じく菟名子(ウナコ)に産ました糠手姫皇女(アラテヒメノヒメミコ)の、異母兄妹の結婚に依って産まれた田村皇子は、飛鳥岡本宮(アスカオカモトノミヤ)に即位し第34代舒明天皇(ジョメイ)(593~641)(在位629~641)になりました。
前述したように、舒明天皇は法堤郎女との間に古人大兄皇子をもうけていましたが、皇后になったのは宝皇女(タカラノヒメミコ)(後の皇極・斉明天皇)で、その間には葛城皇子(カズラキノミコ)(後の天智天皇)・間人皇女(ハシヒトノヒメミコ)(後の孝徳天皇皇后)・大海皇子(オオアマノミコ)(後の天武天皇)のそうそうたる二男一女ができました。
こうして王統は蘇我家から離れて(宝皇女は女系ですが少し蘇我の血が入っていますが)、敏達・舒明系に収斂され、このまま現在の天皇家に繋がっていきます。
舒明天皇の時代、歴史的には630年遣隋使の経験もある犬上御田鍬(イヌガミノミタスキ)をして第1回遣唐使が始まりました。
49歳で亡くなった舒明天皇の押坂内陵(オサカノウチノミササギ)(奈良県桜井市)には、近鉄桜井駅から奈良らしい道を走って自転車で行きましたが、この陵には息子舒明よりはるかに長生きした母の糠手姫皇女も合葬されてるので、制札には敏達天皇皇子押坂彦人大兄皇子妃糠手姫皇女押坂墓(オサカノハカ)とも書いてありました。
正式名段ノ塚古墳(ダンノツカコフン)はわが国初と思われる八角墳であり、その後の天皇陵には八角墳が見られるようになりました。
横の道を少し上ると、第29代欽明天皇の娘で29≠Rで紹介した大伴皇女の墓や、万葉歌人の鏡女王の墓もありました。
いいとこです!
返事
花水木さん:花水木さんはもうちょっと頑張って下さいよ、
孫の世話は体力入りますし、
私への追悼コメントも入れなければなりませんよ。
元商家の嫁さんさん:オリンピックとサッカーはあまり興味湧きませんが、
ラグビーは楽しみにしています。
小浜は昼しか行かないので、病院前の寿司屋の地元評はどうですか?
美山の新座さんは覚えておきます。
それはそうと、今気づきましたが、
元が付いてる!なんで元が付いてるんですか?