前回でも報告した第34代舒明天皇の父34≠Q押坂彦人大兄皇子のもう一人の息子茅渟王(チヌノオウキミ)が、少しだけ蘇我家の血が入った29≠S吉備姫王(キビヒメノオウキミ)と結婚して産まれたのが宝皇女(タカラノヒメミコ)(594?~661)です。
宝皇女は高向王(タカムコノオウキミ)と結婚して漢皇子(アヤノミコ)という息子をもうけていましたが、何故か別れて?、おじにあたる舒明天皇の皇后になり、葛城皇子(カズラキノミコ)・間人皇女(ハシヒトノヒメミコ)・大海人皇子(オオアマノミコ)を産みました。
夫である第34代舒明天皇が亡くなった時、その次の天皇は、夫の舒明と法堤郎女(ホホテノイラツメ)との子で蘇我蝦夷の甥になる古人大兄皇子か、舒明と自分との間の16歳と少し若いですが葛城皇子(中大兄皇子と書いた方がよく分かりますね)か、まだあきらめきれない山背大兄王か、と混乱しました。
「ややこしい時は女帝にしよう」ではないですが、皇后であった宝皇女が次の天皇ということで、第35代皇極天皇(コウギョク)となりました(在位642~645)、50歳近くで即位した女性天皇です。
高校3年生の春に同級生と見学に行った思い出の飛鳥板蓋宮(アスカイタブキノミヤ)跡の写真です(私にとっては好きな娘が参加するから行っただけなのですが)。
この地で即位した女帝でしたが、雨乞いの祈とうに成功するなど、次第に地位を確保はしていきました。
在位中の643年には、蘇我入鹿が山背大兄王を討って聖徳太子一族を滅ぼしましたが、なんと言っても大化の改新虫五匹と記臆した(なんで645年の憶え方が虫五匹か知りませんが)、今で言う乙巳の変(イッシノヘン)が起こりました。
息子の中大兄皇子が中心になって藤原鎌足達と板蓋宮で蘇我入鹿を殺したと教えられてきた大化の改新(乙巳の変)、今は皇極天皇やその弟後の孝徳天皇の方がこのクーデターにより深く関与していたとの説があります。
まさかと思いますが、皇極天皇が入鹿の愛人説や、前夫高向王との子漢皇子が後の天武天皇ではないかとの説もあるようです。
乙巳の変後、生前に天皇を辞める譲位をした日本で初の天皇になりました。
陵印は後の斉明天皇とだけ彫ってあり、皇極天皇とは彫ってありませんでした。