島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

58-光孝天皇

2020-03-21 | 天皇陵巡り
 
 陽成天皇が譲位したのは(させられたのは)まだ16歳の時です。
時の権力者基経は、陽成の同母弟貞保親王(サダヤス)を次期天皇にすると、また妹高子が国母になるので嫌がったようですし、自分の娘佳珠子(カズコ)が産んだ陽成の異母弟貞辰親王(サダトキ)(7歳)を擁立するのは、いかにも我田引水見え見えなので嫌がったのか。
 
 第53代淳和天皇皇子で承和の変(842年)で一度は廃太子されて、その後出家して大覚寺を開創した、恒貞親王(ツネサダ)(昨年12月21日ブログ参照)に白羽の矢を立てました。
基経の祖父にあたる冬嗣に廃太子されてるので意地もあったのか、もう60歳で出家してることもあったのか、恒貞親王は基経の要請は固辞しました。
 
 そこで基経が選んだのは、第54代仁明天皇第3皇子時康親王(トキヤスシンノウ)(この時55歳)です。
時康親王の母沢子(タクシ・サワコ)(1月29日ブログ参照)と、基経の母乙春(オトハル)は姉妹であったことや、時康親王があまり政治に関心が無いようで、自分が政務を独占できるとの思いが、基経が選んだ理由と言われています。
 
 こうして時康親王は即位して、第58代光孝天皇(コウコウ)(830~887)(在位884~887)と成りました。
最近になって第125代平成天皇(今の上皇)の55歳、今回の第126代今上天皇(令和天皇)の59歳の即位で抜かれるまでは、桓武天皇の父第49代光仁天皇の60歳に次いで2番目の高齢即位であった光孝天皇ですが、あっという間に高齢即位4番目に落ちました。
 
 こうしてせっかく藤原北家からの娘が産んだ文徳・清和・陽成と続いた皇統は、藤原北家の長者基経自身によって途切れてしまいました。
 光孝天皇と基経との関係は良好で、光孝自身も自分の子を全て(40人以上いました)臣籍降下させて、その次は基経の家系からの天皇に戻せるようにも計らっていました。
しかし最後、再び基経の意向で、自分の子で臣籍降下もしていた源定省(ミナモトノサダミ)を親王に復活させてもらい、喜んでその日に亡くなりました。
 嵐電御室駅を降りてすぐ、写真の仁和寺二王門に至る道の途中にある後田邑陵(ノチノタムラノミササギ)(右京区宇多野)に葬られています。
 
 この光孝天皇のように、皇統が移動する時は、天武系から天智系に戻った時の第49代光仁天皇、今回の第58代光孝天皇、そして江戸時代に別の皇統に別れた第119代光格天皇と、なるべくしてなった天皇ではない天皇の名に「光」が付いてることに気づきましたが、何故なのか?
 
 光孝天皇陵、実はこの後田邑陵と仁和寺をはさんで反対側、700ⅿほど離れた山側の仁和寺裏手にある御室陵墓参考地(右京区御室大内)の方が、真陵ではないかと言われています。
 
 丁度仁和寺の裏に建つ京都府立聾学校の北側に、なんとかこの御室陵墓参考地への入り口を見つけました。
場所的にも雰囲気的にも、こちらの方が正しい陵の気はしてます。

     返事
花水木さん:私はストレスに弱いです。
     世界のニュースを見てると、心配ですが、
    日本のニュースを見てると、
    なんかたいしたこともなく終わりそうな気もしてます。
大雪男さん:3連休中の世間は、
    京都・滋賀・大阪・兵庫・徳島ですが、
    桜も咲きだして、車も混みだして、
    人も出はじめてる気はしてますが、
    プロ野球がまだなのは寂しい限りです。
    (その分気は楽ですが)

コメント
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