島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

56-1清和天皇

2020-03-01 | 天皇陵巡り
 
 49-11-29紅葉狩り4で水尾の天皇陵巡りのことを書いていますが、その時JR保津峡駅へ降り立った私は、そこから自治会バス(250円)に乗って、亀岡から愛宕山を抜けて京都に至る道(明智光秀も本能寺に向けて通り抜けた明智越え)の途中にある、柚の里水尾(ミズオ)を目指しました。
 
 終点水尾で自治会バスを降りて、そこから山道を、無数に実った柚や紅葉を愛でながら歩きました。
真夏の地獄のような淳和天皇陵よりはずっとましですが、下がってはまた登る山道は、まあしんどいと言えばしんどかったです。
 
 天皇陵に近づいた雰囲気になってきて、向こうに制札も見えてきました。
今回の訪問 第56代清和天皇(セイワ)(850~880)(在位858~876)の水尾山陵(ミズノオヤマノミササギ)(右京区嵯峨水尾)です、到着しました。
 
 中に鳥居は有りましたが、石垣と木扉もあるので、明治に治定されたのではなく、江戸時代に作られたようです。
 さて、今回の清和天皇ですが、父は第55代文徳天皇で母は女御藤原明子です。
母明子の父親は時の権力者藤原良房で、母親は嵯峨天皇の皇女で臣籍降下した源潔姫(キヨヒメ)ですので、清和天皇の両親は従兄妹同士の結婚です。
又明子は美人だったようで、72歳まで生きましたが、双極性障害(昔で言う躁うつ病)だった可能性も有ってか、皇太后→太皇太后まで行きましたし、藤原北家の大切な人ですのに、はっきりした墓も残っていません。
 
 文徳天皇の第4皇子として生まれた惟仁親王(コレヒトシンノウ)(今回の清和ですよ)ですが、第1皇子惟高親王(前回で紹介)を押しのけて、生後8ヵ月で皇太子となり、生きてるうちに早く外祖父に成りたかった藤原良房の強い引きで(父文徳暗殺説もあるぐらい)、第56代清和天皇になったのは9歳の時でした。
 
 もちろん9歳の子供に統治能力などはなく、良房など藤原北家が主導権を握り、866年には応天門の変によって伴善男(トモノヨシオ)を流罪とし、大伴氏一族を消滅させ、また仲間でもあった源信(ミナモトノマコト)や藤原良相(フジワラノヨシミ)の勢力もそいで、清和天皇は17歳になっていましたが、良房は太政大臣摂政に任じられるまでになりました。(平安前期摂関政治の成立)
 
 良房は兄の藤原長良(ナガラ)の息子基経(モトツネ)を養子にして北家の跡目を継がしています。
その基経の同母妹高子を、9歳年下の清和天皇に娶らせ、貞明親王(サダアキラシンノウ)(後の第57代陽成天皇)が産まれていますが、清和天皇は他にもたくさん(2~30人)の女御・更衣にたくさんの子供を産ませ、清和源氏の祖ともなっています。
 
 876年には譲位し、879年には出家して近畿巡幸の旅の後、ここ水尾で修行と隠棲をしてる途中に平安京で亡くなっていますので、火葬後遺骨はこの陵に埋葬されたそうです。
 水尾バス停まで戻りましたが、帰りの自治会バスはなく、4Kmの下りばかりのバス道を紅葉を観ながら歩いて、保津峡下りを見下ろせる橋の上のJR保津峡駅へ戻りました。

       返事
花水木さん:不要不急の外出を繰り返して、
    日本経済を牽引?しようと思ってます。
    今週も遠出した高速のSA、観光バスが少ないのか、空いてます。
     全くの私見ですが、
    Jリーグ・大相撲・オリンピックは中止でも困りませんが、
    プロ野球と競馬は続けてほしいです。
大雪男さん:その通りだと思います!
    なんか風邪の一種だと思うので、
    風邪は万病の元でもありますが、単なる風邪でもあります。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする