島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

57-1陽成天皇

2020-03-16 | 天皇陵巡り
 
 父第56代清和天皇(18歳)、母藤原高子(27歳)の第1皇子として生まれた貞明親王(サダアキラシンノウ)は、3カ月足らずで父清和天皇の皇太子となりました。
 9歳で天皇に成った父清和天皇は、27歳の若さでもう譲位し、以後4年の余生を山中の仏道修行に捧げましたので、まだ9歳だったこの第1皇子貞明親王が即位し、第57代陽成天皇(ヨウゼイ)(868~949)(在位876~884)になり、母高子の同母兄であり伯父でもある藤原基経が摂政に就きました。
 
 同母兄基経の権力保持の道具には成りたくなかった母高子と、兄のいうことを聞かないわがままな同母妹高子を許せなかった、やや病的な感じもする基経との間には、徐々に決定的な溝が出来たようです。
 
 陽成天皇は「病気の為に譲位したい」、と言ったかどうかあやしいですが、16歳にして譲位しました(させられました)。
そして次の天皇には、陽成の同母弟貞保親王(サダヤス)の名があがりましたが、それでは又妹高子が国母としていばってしまうし、基経の娘との間の陽成の異母弟である清和天皇第7皇子貞辰親王(サダトキ)では、あまりにも基経にとって露骨すぎるとの思いから、かなり皇統を戻したような光孝天皇が選ばれました。(基経の独断)
 
 譲位の理由が健康と言うことでしたが、陽成天皇は82歳という長命で、光孝・宇多・醍醐・朱雀・村上と続く歴代天皇の治世の間上皇歴65年を続けました。
 最後に出家してすぐに崩御し、この吉田山の裏の神楽岡東陵(カグラガオカノヒガシノミササギ)(左京区浄土寺)に葬られています。
 
 宮中内の乱暴な事件にも絡んだり、宮中で馬を乗りまわすなど、若気の至りのような事件を起こしていることも、譲位の原因になったかもしれませんが、小倉百人一首13番に
   筑波嶺の 峯よりおつる みなの川
      恋ぞつもりて 淵となりぬる
というような優しい歌も作っていますし、陽成の皇子元良親王(モトヨシ)の歌も小倉百人一首の中にあるので、噂されるよりずっと優しかった可能性大です。
 
 文徳ー清和ー陽成と続いた皇統が途切れたので、母高子さんの密通疑惑と同様、滅びた人にはより厳しい説話が残っているというのが世の常かもしれません。
昔々、第25代武烈天皇の皇統が途切れたので、武烈の悪行が日本書紀にまできっちり書かれているのと同じかもです。
 
 陽成天皇、平たく言えば、幼くして社長に担ぎあげられ、自分の母親の兄でもある大番頭と母の仲が悪くなったので、これから社長業をしっかりやろうと思っていた矢先に、社長を辞めさせられ、次期社長はなんと万年窓際の平課長で自分の祖父の弟が成り、以後は5代の社長時代を外野から見続けていた。
と言う、不幸と言えば不幸なんですが、でものんびりストレスなく好きな歌や恋をしながら長生きしたので、幸せな人生だったかもしれません。

     返事
花水木さん:私が感染したら、
    バイト先5~6カ所にかなり迷惑をかけると思うので、
    大丈夫でも今は罹りたくないですが、
    早く感染した人も嫌がられない状況にはなってほしいです。
大雪男さん:今までは混んでいたら、
    うっとおしいと思ってましたが、
    こうどこも空いてくると、心配です。

コメント (2)
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