第63代冷泉天皇が譲位した後ですが、第4皇子として生まれたのが敦道親王(アツミチシンノウ)(981~1007)です。
母は藤原兼家の娘超子なので、第67代三条天皇の同母弟になりますし、第65代花山天皇の異母弟でもあります。
敦道親王の最初の妃は、母超子の同母兄関白道隆(953~995)の三女でしたが、道隆の死後は別れています。
その後藤原忠平の五男師尹(モロタカ)の次男藤原済時(ナリトキ)(941~995)の娘(兄の三条天皇皇后娍子(セイシ)の妹)が、正妃になりました。
宇治陵はこの総拝所以外に36号の陵があるためか、宮内庁書陵部 桃山陵墓監区 宇治部事務所の小屋もあり、常駐されているようです。
同母兄である為尊親王(タメタカ)(977~1002)の死後約1年で、死んだ兄の恋人だった和泉式部と恋愛関係になったので、その正妃も怒って離婚されています。
やや軽薄な正確だったようですが、外祖父兼家には愛されたようで、若くして亡くなりましたが、その為かこの宇治陵に葬られ、制札最後から2番目に冷泉天皇皇子敦道親王墓と記されていました。
和泉式部との間に男の子を一人もうけていますが、こちらも恋多き女性和泉式部、他の父親(橘道貞(タチバナノミチサダ))との間の娘、とんちで勝ったこの歌の小式部内侍の方が有名ですね。