藤原歓子(フジワラノカンシ・ヨシコ)(1021~1102)は藤原教通(ノリミチ)の3女で、母は藤原公任(キントウ)の長女ですので、同母姉には第69代後朱雀天皇の女御で、皇后には阻止されてなれませんでしたが准后になった生子(セイシ)(1014~1068)がいます。
写真は何回も出てきてる宇治陵総拝所
歓子は4歳にして母と死別していますが、1047年に第70代後冷泉天皇(1025~1068)(在位1045~1068)に入内し、皇子も産まれましたが、この皇子はすぐに亡くなっています。
1050年にはあとから入内した伯父頼通の娘寛子の方が先に立后されました。
総拝所前にある藤原家塋域碑は、道長が宇治木幡に建てた浄妙寺堂柱礎石です
歓子の同母姉生子は、立后を伯父頼通によって阻止されましたが、1068年に父教通が関白になったので、歓子も皇后になれました。
こうして後冷泉天皇には、章子内親王・寛子・歓子と3人の正妃が並び立つことに成りましたが、結局この3人には成人した皇子は産まれず、摂関政治の終焉を迎えることに成りました。
でも、3人の後冷泉天皇の正妃は、3人とも80・92・82歳と、当時としてはかなり長命でした。
制札左から6番目に後冷泉天皇皇后歓子宇治陵
皇后に成れた歓子ですが、その2日後にはもう後冷泉天皇は崩御しました。
そんなことには関係なく、以前から仏教に帰依していた歓子は、その後も念仏三昧の生活を送り、82歳の高齢で亡くなって、定子の鳥戸野陵で荼毘にふされた後、宇治陵に葬られたようです。
一条天皇皇后定子鳥戸野陵は、6人の皇后の火葬塚でもあります
返事
花水木さん:岡崎市にある寺だと思います。
徳川将軍14代のお位牌は有りますが、
15代将軍慶喜公のだけ無いと思いますが、
それがちょっと嬉しいような悲しいような気がするのは、
私の曾祖父の兄が、主君慶喜公に裏切られたような気がしてるからです。