覚法法親王(カクホウホッシンノウ)(1092~1153)は第72代白河天皇(1053~1129)第4皇子で、母は中宮賢子(1057~1084)のひとまわり以上離れた同母妹源師子(ミナモトノシシ・モロコ)(1070~1148)です。
前回の第2皇子異母兄の覚行法親王も出家していますが、この頃から次期天皇に成る人以外の皇子は、権力争いをしないようにするためか、門跡を継ぐという天皇家自身の仏門への帰依のためか、出家して法親王になる人が増えています。
Go Toトラベル利用で高野山の宿坊に泊まったことは報告していますが、その泊まった宿坊は金剛峯寺横の総持院で、この裏山に墓があるので、到着後すぐに訪れました。
宿坊裏から、写真の山道を少しだけ登ります
すぐに到着しました。
きれいに整備されてる、四角形の墓で、ぐるっと1周出来ました。
白河上皇の皇子として産まれた覚法法親王は、異母兄覚行法親王の下で出家し、覚行に続いて仁和寺第4世門跡になっています。
真言宗のお坊さんなので、ここ高野山に葬られたようです。
覚法法親王の母師子は、なかなかおもしろい人生を過ごしています。
死んだ同母姉賢子を愛していた白河上皇の目にとまり(姉妹なので似てたのでしょうね)、寵愛を受けて産まれたのが今回の覚法法親王なのですが、女好きの白河上皇はすぐに師子のことは忘れてしまったようです。
ところが16代目の藤原北家氏長者忠実(タダザネ)(1078~1162)がまだ10代の頃に、8歳年上の師子に一目ぼれしてしまい、白河天皇から師子を譲り受けています。
師子は忠実との間に17代目藤原北家氏長者忠通(1097~1164)などを産んでいます。
その後、白河上皇がお傍に置いていた藤原璋子(後の待賢門院です)を、忠通の嫁にするように忠実に求めた時は、忠実は璋子の素行が悪いと思い、息子の嫁にせよと言う白河上皇の申し込みを拒否したので、上皇の不興を買っています。
自分は白河上皇のお古を貰っても、親子二代にわたって息子にも上皇のお古かもしれない嫁を貰いたくなかったのかもしれません。(師子がこれをどう思っていたのかは知りませんが)
死ぬ6年前から師子は仁和寺に住んで、結局ここで今回の息子寛法法親王の世話を受けて、心安らかに天寿(79歳)を全うしたそうです。
師子が亡くなってから、夫忠実と息子忠通が対立する保元の乱(1156年)が起こったので、これを見なかっただけでも幸せでしたね。
返事
花水木さん:宝くじは選べません。
ロト6や競馬は、当たらない方を選びがちですが、
一応自分の意思が入るので、この方が宝くじより楽しいですよ。
世間は新型コロナを過剰に心配する人と、
気楽な人とに別れていますが、
私はあえて危険をおかそうとは思いませんが、
気楽な方に入りますかね。