
第72代白河天皇の第1皇子は夭折、第2皇子は法親王に、賢子との間の第3皇子が善仁親王(タルヒトシンノウ)です。
白河天皇の皇太子は異母弟実仁親王(サネヒト)(1071~1085)で、2歳にして立太子してますが15才で没しました。
すると白河天皇は8歳の善仁親王を立太子させ、即日自分は譲位して善仁親王を即位させて、第73代堀河天皇(ホリカワ)(1079~1107)(在位1086~1107)がうまれました。
写真の堀河天皇陵、山の上に第66代一条天皇と一緒に葬られています

これは白河天皇の父後三条天皇の遺言で、立太子の約束をされていたもう一人の異母弟輔仁親王(スケヒト)(1073~1119)を立てるのではなく、自分の直系に依る皇位継承を望んだからでした。
その為、堀河天皇即位後も皇子が産まれるまでの17年間は皇太子を置かずに、幼い堀河天皇に代わって父白河上皇が政治を執る院政が開始されました。
一条天皇と同じ陵と言っても、それぞれの陵名は違っていました

堀河天皇は准母に前回の媞子内親王を迎え、中宮としては1091年に叔母にあたる30歳まじかで19歳も年上の篤子内親王(トクシ)(1060~1114)が入内しています。
最後に入内し女御になった、はとこの藤原苡子(イシ)(1076~1103)との間に第74代鳥羽天皇が産まれています。
写真は、御陵の正面です

8歳で天皇に成った堀河天皇ですので、在位期間は20年以上と長く、長ずるに従い政務に励むようになり、賢王と言われるようにもなりましたが、父白河上皇の院政体制が強化されてくると、父上皇との対立を避けて風流の道を歩むようになりました。
御陵の前からの眺めは最高です

堀河天皇在位期間の初めには、1087年後三年の役が、なんかあまり気持ち良くない結末で終息していますし、1099年康和荘園整理令(コウワノショウエンセイリレイ)も発令しています。(荘園制度と言うのも、私ははっきり理解はしていませんが)
陵印も一条天皇と共通です

堀河天皇の発病から崩御に至る約1ヶ月を、お傍にいた公家の日記から読み取ることが出来るそうで、堀河天皇は暖かい人柄だったようです。
火葬塚は北区等持院東町にあって、嵐電北野白梅町からすぐの線路沿いの見落としそうな、この狭い参道の脇から入っていきます。

垣根越しの正面から見ると、入り口に比べ塚自体は住宅には囲まれていますが広くありました。
御陵は龍安寺の裏山の高い所で、一条天皇陵と共有している後圓教寺陵(ノチノエンキョウジノミササギ)(右京区竜安寺朱山)です。
返事
花水木さん:京都の水道水は琵琶湖のたまり水、
美味しくありませんので、他所の水道水のうまさにびっくりすることはありました。
でも、どんな技術か知りませんが、
最近の京都水道水は美味しくなったと思っています。
単に私の舌が年とっただけかもしれませんが。