島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

107-1後陽成天皇

2022-06-16 | 天皇陵巡り

 第106代正親町天皇の皇子誠仁親王(サネヒト)(106-2で紹介した陽光太上天皇です)の第1王子で、母は勧修寺晴子(カジュウジハルコ)の和仁(カズヒト)、後には周仁(カタヒト)が今回の主人公です。

 

 本来なら天皇になる父が亡くなっていたので、祖父正親町天皇が譲位した後に、16歳の孫にあたる和仁親王が第107代後陽成天皇(ゴヨウゼイ)(1571~1617)(在位1586~1611)になりました。

  何度も飽きるほど紹介してる深草北陵(フカクサノキタノミササギ)(伏見区深草坊町)

 女御藤原前子(サキコ)(1575~1630)との間に5男7女と多くの子をもうけ、そのうちの政仁親王(コトヒト)が後に第108代後水尾天皇(ゴミズノオ)となりました。

 また典侍藤原(中山)親子(チカコ)との間に第1皇子と第2皇子をもうけた他にも、全部で9人の妃から13男12女が産まれています。

  4年前に訪れてブログにも書いた写真の奈良県長谷寺の仁王門に揚がってる扁額は、後陽成天皇の宸筆です。

 後陽成天皇在位中には、1588年の室町幕府滅亡や秀吉による天皇の聚楽第行幸が行われ、秀吉政権の権威付けとして利用された感はありますが、朝廷は優遇されました。

 秀吉の朝鮮出兵によって、後陽成天皇を明の皇帝にたてる構想もあったようです。

 週に2回JR奈良線の車中から、深草北陵の横顔をこんな感じに見ていますが、いよいよ今回でこの陵ともおさらばです。

 しかし、後陽成天皇の在位後半は、徳川家康政権時代になり、1603年に家康を征夷大将軍に任命しましたが、宮中内の密通事件の処理や譲位の時期などで家康と対立しました。

結局、第3皇子政仁親王(コトヒト)に譲位し上皇になった後、47歳で崩御し、火葬されて(その後の天皇は400年間、昭和天皇まですべてが土葬です)深草北陵に葬られました。

  制札の最後12番目に名前が挙がってます。 

               返事

和さん:「眉山」映画もありましたね。観てませんが。

    隣のビルから丸見えのトイレでした。

花水木さん:目は大きくパッチリで、体はふくよかが良いですね。

    と言っても、今は女性なら皆好きですが、これもセクハラかなあ。

 

コメント (4)
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