島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

109-1明正天皇

2022-08-24 | 天皇陵巡り

 ブログを本格的に始めて15年、投稿間隔が1週間空くことはなかったと思いますが、8月になってからはコロナ鬱なのか投稿する意欲が低下し、濃厚接触者で家に引きこもりが多く、そもそもブログのネタが枯渇してることもあって、久しぶりの投稿になります。

 久しぶりの投稿がまた月輪陵ですので、怒られないよう景気づけにスイーツ写真を入れました。

これに騙されて読んでください。イタリアンのランチのデザートについたババロア?とプリンです。

 「コッホン!」 第108代後水尾天皇(1596~1680)(在位1611~1629)と徳川2代将軍秀忠の娘徳川和子(マサコ)(1607~1678)との間の最初の子であり、幼称は女一宮と呼ばれていた娘は、7歳の時に興子内親王(オキコナイシンノウ)の宣下を受けました。

そして父後水尾天皇が徳川幕府からの制限や圧力、特に1627年の紫衣事件(シエジケン)の判定の不満から突然譲位し、興子内親王が第109代明正天皇(メイショウ)(1623~1696)(在位1629~1643)として即位しました。

 女帝の出現は奈良時代に重祚した第48代称徳天皇(718~770)(在位764~770)以来800年以上ぶりでしたが、7歳の明正天皇は自ら政治にかかわることもなく、15年の在位期間中はずっと父後水尾上皇が院政を敷きました。

  泉涌寺奥の月輪陵正面写真

 徳川将軍や幕閣は、先帝の突然の譲位と院政下の女帝に、いくら外祖父に秀忠が成れたからと言っても、当惑したようです。

 異母弟が11歳に達したので、予定通り明正天皇は譲位し、この弟が第110代後光明天皇(1633~1654)(在位1943~1654)になり、明正自身は生涯独身のまま54年間を仙洞御所で過ごして、74歳で亡くなり月輪陵(ツキノワノミササギ)(東山区今熊野泉山町)に葬られました。

 奈良時代の二人とも女帝である第43代元明天皇・第44代元正天皇親子から一字ずつ取って明正天皇と追号されています。

 月輪陵制札の三番目にその名があります。

コメント (4)
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