守平親王(モリヒラシンノウ)は第62代村上天皇(926~967)の第5皇子として生まれましたが、母安子(アンシ)(927~964)は藤原忠平次男の師輔(モロスケ)(909~960)の長女だったので、第4皇子で異母兄為平親王(タメヒラ)(952~1010)を越えて、同母兄第63代冷泉天皇の皇太子に成りました。
陵は福王寺の五叉路を父村上天皇陵へ登って行く途中の、住宅街に突然現れます。
為平親王の舅になった源高明(ミナモトノタカアキラ)に実権が移るのを阻止すべく、藤原北家が引き起こした陰謀安和の変(969年)で、高明は失脚しました。
その半年後に冷泉天皇は譲位し、11歳の守平親王が即位し第64代円融天皇(エンユウ)(959~991)(在位969~984)となり、母安子はもう死んでいたので同母姉資子内親王(シシ)(955~1015)が母替わりとなりました(准三后)。
幼い天皇の為、大伯父で太政大臣の藤原実頼(サネヨリ)(900~970)が摂政になっていますが、やはり天皇との血のつながりが薄いために、揚名関白(ヨウメイ)(名ばかりの関白)でした。
実頼死後は、外祖父師輔の長男藤原伊尹(コレタダ)(924~972)(母安子の同母兄)が摂政関白となりましたが、わずか1年ぐらいで亡くなり、謙徳公を送られています。
長男伊尹死後は、伊尹の同母弟の次男兼通(カネミチ)(925~977)が摂政関白になりましたが、3男の同母弟兼家(カネイエ)(929~990)と激しい争いを繰り返し、死んでも弟兼家に関白職を譲り渡したくなかった兼通は、円融天皇自身の兼家嫌いもありましたが、伯父実頼の次男頼忠(ヨリタダ)(924~989)に関白職を譲っています。
こうした藤原北家内の権力争いに迄Mされた円融天皇は、20歳ころになってやっと手腕を発揮しようと思う間もなく、復権して来た兼家の辣腕の前ではどうすることも出来ず、唯一の息子懐仁親王(ヤスヒト)(980~1011)の立太子を条件に、24歳で同母兄第63代冷泉天皇の息子で甥になる師貞親王(モロサダ)に譲位し、太上天皇と成りました。
円融天皇は藤原家から媓子(コウシ)・遵子(ジュンシ)を中宮に入れていますが、唯一の子懐仁親王を産んだのはあまり好きでなかった兼家の娘詮子(センシ)でした。
仁和寺の山の上の宇多天皇陵に行った後に、そのまま山をぐるっと回って、今度は龍安寺の上の山にある円融天皇火葬塚を巡りました。
山道の途中、我が家の方向の向こうに比叡山を眺めます。
太上天皇になってからは気が楽になったのか、985年正月には「子の日の遊び」を開催、平兼盛・
清原元輔・
源重之・
大中臣能信などが参列してます。
また、この会に招待されなかった曾禰好忠も貧しい恰好で参加し、追い出されたという話も残っています。
円融天皇の後村上陵(ノチノムラカミノミササギ)(右京区宇多野福王寺町)はまあ普通の陵でしたが、円融天皇火葬塚(右京区竜安寺朱山)は龍安寺の裏山の上にありますが、きれいに整備された立派な円丘でした。
このまま龍安寺の方に降りて行くと、一条天皇陵など六つも陵が集まっていて、いっぺんに廻れました。
返事
toitenlabeeさん:近所の息子の家には、
アベノマスクだけはもう来たそうです。
子供のいる家には早く来るそうですよ、知らんけど。
和さん:負の連鎖でしょうね、
安倍さんの言葉は、ますます空虚に聞こえますね。
じょんのびかあさんさん:そうです、
ちょっと他府県ですが大飯のウミンピアです。
今週から仕事もとに戻りだして、老体疲れてます。
静岡県はこれからだとか・・・
今回の内容も、読めない名前ばかり。
子をことは読まないのですね。
伊尹でこれただ・・とは。
親戚に安子とかいてやすこと読む方います。
関係なかったですね。
失礼しました。