島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

123-2大正天皇皇后節子

2023-07-28 | 天皇陵巡り

 公爵九条道孝の4女九条節子(クジョウサダコ)(1884~1951)は、里子に出されていたこともあってかたくましく育ち、「九条の黒姫様」と呼ばれるほどでした。

  写真は、夫大正天皇の多摩陵の東に並んで一回り小さい多摩東陵(タマノヒガシノミササギ)(東京都八王子市長房町)正面です

 皇太子嘉仁親王(ヨシヒト)は健康面に不安が有り、一夫一婦制導入も有って、妃としては、その頃の色黒イコール容姿端麗ではないとのマイナス面よりは、まず健康であることが第1条件になり、1900年節子は満15歳で5歳年上の嘉仁親王と婚約しました。

  陵は同じく上円下方です

 すぐに産まれた裕仁親王(ヒロヒト)(昭和天皇)(1901~1989)に続いて、秩父宮雍仁親王(チチブノミヤヤスヒト)(1902~1953)・高松宮宣仁親王(タカマツノミヤノブヒト)(1905~1987)・三笠宮崇仁親王(ミカサノミヤタカヒト)(1915~2016)と、4人の男の子に恵まれています。

  貞明皇后多摩東陵とあります

 1912年嘉仁親王が皇位継承し第123代大正天皇(1879~1926)となったので、節子は皇后となり、大正天皇崩御後は皇太后となって、以後亡くなるまでの26年間をほぼ黒色の服で過ごされました。

死後大正天皇陵の隣多摩東陵に葬られ、貞明皇后と追号されました。

 大喪の儀は昭和26年に行われましたが、平凡な3歳の私にはその葬儀の記憶は全くありません。

  制札は4人の天皇皇后が併記されていますが、月輪陵のようにこのままここにどんどん天皇皇后陵が作られていくのですかね。


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4 コメント

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Unknown (Toitenlabee)
2023-07-28 22:30:46
どういうきまりで、どこに、作られていくんですか?

庶民は、墓じまいの はかない人生が増えていますが。
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Toitenlaさんへ (島の医者になって)
2023-07-29 13:55:34
 庶民には分かりませんが,平成と令和の天皇皇后はこの多摩に入れる余地はありそう。
 500年後ぐらいに,天皇陵がどうなってらか,観てみたいです。
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Unknown (花水木)
2023-07-30 14:40:56
体の弱い天皇に、色黒の健康優良児のお嫁さん、結果、4人の男子。
昭和天皇もあの年代の方にしては、長命でしたね。

大正天皇の巷の噂話として、子供の頃聞いた事があります。
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花水木さんへ (島の医者になって)
2023-07-30 16:34:04
 貞明皇后はせっかく4人男の子を生んだのに、昭和天皇以外には男子の孫が生まれなかったのが、惜しいです。
 子供の頃は、天皇制なんか全く興味ありませんでした。
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