藤原師輔(モロスケ)の三男兼家(929~990)は藤原道綱母(936?~995)との間に、当たり前ですが次男道綱(955~1020)をもうけています。
小倉百人一首では、右大将道綱母で、日本三大美人の一人です。
藤原兼家は正室としては、藤原中正(ナカマサ)の娘藤原時姫(トキヒメ)(~980)との間に、長男道隆(ミチタカ)(953~995)・三男道兼(ミチカネ)(961~995)・五男道長(966~1028)をもうけたほか、天皇に嫁いだ超子・詮子(センシ)(962~1002)も産まれています。
長男道隆に嫁いだ高階貴子(タカシナタカコ)(~996)は伊周(コレチカ)(974~1010)や一条天皇の皇后になった定子(テイシ)(977~1001)等三男四女を産み、息子伊周の役職をとって、小倉百人一首では儀同三司母と名乗って、右大将道綱母の次54番目にあがってます。
長い前振りになりましたが、この兼家と時姫の長女が超子(チョウシ・トオコ)(954?~982)です。
968年に第63代冷泉天皇(950~1011)(在位967~969)の後宮に入り女御になりましたが、子供が産まれたのは冷泉天皇が譲位してからです。
超子は3歳で死んだ内親王を産んだ後に、居貞親王(オキサダ)(976~1017)(後の三条天皇)を産み、その後も為尊親王(タメタカ)(977~1002)・敦道親王(アツミチ)(981~1007)を産みました。
30歳にならずして、徹夜の行事の明け方に、脇息に寄りかかったまま亡くなりました。
亡くなってからですが、息子居貞親王が第67代三条天皇になったので、制札9番目に三条天皇御母贈皇太后超子と書かれてる宇治陵に葬られています。
返事
花水木さん:五島弁で一番有名なのが
=みじょか=です。
整形顔がくずれはじめると、浮「ですね。
toitenlabeeさん:実は宇治陵の写真は
1年前の今頃です。
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