少々過去に戻りますが、第80代高倉天皇は平清盛の娘徳子との間に第1皇子第81代安徳天皇をもうけていますが、坊門殖子(ショクシ)との間に第4皇子第82代後鳥羽天皇ももうけていましたね。
そして同じく、殖子との間に高倉天皇第2皇子として産まれたのが守貞親王(モリサダシンノウ)(1179~1223)です。
写真は仲恭天皇陵と、その途中にある崇徳天皇皇后聖子陵への参道入り口です
1183年7月の平家都落ちに伴い、安徳天皇の皇太子という形で同行し、壇ノ浦で平家が滅亡し、異母兄安徳天皇も入水し亡くなりましたが、守貞親王は救出されて京都に戻っています。
しかし戻った都では、もう同母弟の第82代後鳥羽天皇が即位していました。
写真では分かり難いですが、聖子の月輪南陵の手前右手に、それらしきものが見えてきました
その後は、守貞親王は次期天皇に推されたこともありましたが、現実は土御門・順徳と後鳥羽系が皇位を継いでいったので、1212年には出家して行助入道親王(ギョウジョニュウドウシンノウ)と名乗りました。
写真の如く、後高倉院の鵺塚(ヌエツカ)陵墓参考地出土遺物埋納所(伏見区深草本寺山町)の碑が立つ、四角形の山だけです
その後1221年に起こった承久の乱で、鎌倉幕府は後鳥羽系の皇族を処分したので、世俗に在る男子皇族は行助入道親王の三男茂仁王(ユタヒトオウ)のみとなったので、この茂仁王に白羽の矢が立ち第86代後堀河天皇(1212~1234)(在位1221~1232)になったのです。
横には後高倉院の娘で甥の四条天皇の准母になった尊称皇后利子内親王の秘塚(ヒメツカ)陵墓参考地からの出土遺物が埋められています
10歳の三男が天皇に成ったので、守貞親王(行助入道親王)は治天の君として太上天皇号を贈られ、院政を敷きました。
二つ並んだ埋納所の上の生け垣は、もう月輪南陵です
しかしながらわずか2年で亡くなった守貞親王は、後高倉院として北白河に葬られたようです。
葬られたと言われる鵺塚が元々あったのが、写真の平安神宮大鳥居と平安神宮の間にあったようで、明治27年に御陵伝説地に治定されていました。
しかし戦後すぐで宮内庁の力も弱かったのか、昭和30年にここを岡崎グランド(主に野球場)にする為に、なんと言うことか立ち退きにあったようです。
それでここ九条陵の空き地に出土遺物(どんなものなんでしょうね)は埋納され、陵墓参考地も外されたようです。
返事
大雪男さん:4月末現在の私のセ・リーグ順位予想
阪神➡広島➡ヤクルト➡巨人➡中日➡横浜
無理がありますかねえ