
第103代後土御門天皇(1442~1500)の第1皇子で、母は庭田朝子(1437~1492)の勝仁親王(カツヒトシンノウ)は、父後土御門の死後践祚(センソ)して第104代後柏原天皇(ゴカシワバラ)(1464~1526)(在位1500~1526)に成りました。

応仁の乱(1467~1477)の荒廃した世にあって、父後土御門の葬式も死後43日後にやっと行われたぐらいですから、後柏原天皇の即位の礼を行う余裕はなかったようです。
1502年に第11代足利将軍義澄(ヨシズミ)(1481~1511)が即位の費用を出すと言った時も、管領の細川政元(マサモト)(1466~1507)が「大がかりな即位礼などなくても、実質が大事」と、反対したので延期になりました。
第10代足利義稙(ヨシタネ)(1466~1523)が再任されて再び将軍職に就いたので、その義稙や本願寺からの献金で、22年後にやっと後柏原天皇の即位礼は行われたそうです。

典侍勸修寺藤子(カジュウジフジコ)(1464~1535)との間の第2皇子知仁親王(トモヒト)が、後の第105代後奈良天皇(1497~1557)になっていますし、それ以外にも他の妃を含めて計6人の皇子と2人の皇女がいます。
写真は深草北陵

26年の治世の間、天皇の周りを固める公卿らも戦火を逃れて諸国に去っており、財政難でもありましたが、後柏原天皇は伊勢神宮に平安を祈り、痘瘡の流行時には般若心経を諸寺に納めたり、それなりの努力もされましたし、詩歌を好み、「後柏原天皇宸記(シンキ)」という日記も書かれていました。
崩御後は今は深草北陵(フカクサノキタノミササギ)になってる深草法華堂に葬られました。
陵の横に廻っても、塀の内部がどうなってるか見えませんでした
返事
Toitennさん:陵墓の管理費、無駄なものと言えばそうですが、
宮内庁職員になって、世の流れとは別に、
せっせと陵墓の聡怩ナ過ごす人生も、
素晴らしいし、羨ましいとも思いますが・・・。
私が居なくなって寂しいのではなく、
退屈だったんですか!
まあそれはToitennさん流の、誉め言葉と思ってますよ。