バチカンの法王が亡くなり、世界各国から枢機卿が集う。
「コンクラーべ」と呼ばれる有名な法王を選出する会議のためだ。
そこで、この映画の中では、世界の枢機卿の誰もが密かに思っていることは、「神さま、どうか私が選ばれませんように」。
そう、これはハリウッド映画ではなく、長年イタリアのウッディ・アレンと言われてきたナンニ・モレッティの映画なのだ。
聖職者たちは権力に飢えた野心家でも、非の打ちどころがない聖人でもなく、迷いや脆さを抱えた至って人間的な顔を持つ。
選挙の結果選ばれたのは、誰もが期待していなかった控えめな枢機卿。
予期せぬ事態に、彼はパニックに陥る。
モレッティは「誰もがすでに知っていることを映画にしてもつまらない」と、汚職や幼児性愛など最近バチカンを揺らし続ける陰のトピックは一切扱わず、大役を前にして自分の信仰心に疑いを抱く聖職者を、ミシェル・ピッコリという名優を媒介にユーモラスに描く。
だが軽妙なユーモアの皮を一枚剥がすと、そこには曇りのない批評精神と、鋭い観察眼が潜んでいる。
そもそも神に仕える者がその御心(法王になるという宿命)を受け入れられず、逃げ出すこと自体が挑発的なストーリーと言えるだろう。
だがそれでも、映画は宗教やバチカンの構造それ自体を批判するというスタンスとは異なる。
監督の主眼はあくまで個々の人間に置かれ、偶像の下に隠れた人間性を掬い取り愛情をもって描き出すのだ。
若い頃に俳優を志したというメルビルが法王の「役柄」を演じられないということは、微笑ましい率直さを感じさせる。
「コンクラーべ」と呼ばれる有名な法王を選出する会議のためだ。
そこで、この映画の中では、世界の枢機卿の誰もが密かに思っていることは、「神さま、どうか私が選ばれませんように」。
そう、これはハリウッド映画ではなく、長年イタリアのウッディ・アレンと言われてきたナンニ・モレッティの映画なのだ。
聖職者たちは権力に飢えた野心家でも、非の打ちどころがない聖人でもなく、迷いや脆さを抱えた至って人間的な顔を持つ。
選挙の結果選ばれたのは、誰もが期待していなかった控えめな枢機卿。
予期せぬ事態に、彼はパニックに陥る。
モレッティは「誰もがすでに知っていることを映画にしてもつまらない」と、汚職や幼児性愛など最近バチカンを揺らし続ける陰のトピックは一切扱わず、大役を前にして自分の信仰心に疑いを抱く聖職者を、ミシェル・ピッコリという名優を媒介にユーモラスに描く。
だが軽妙なユーモアの皮を一枚剥がすと、そこには曇りのない批評精神と、鋭い観察眼が潜んでいる。
そもそも神に仕える者がその御心(法王になるという宿命)を受け入れられず、逃げ出すこと自体が挑発的なストーリーと言えるだろう。
だがそれでも、映画は宗教やバチカンの構造それ自体を批判するというスタンスとは異なる。
監督の主眼はあくまで個々の人間に置かれ、偶像の下に隠れた人間性を掬い取り愛情をもって描き出すのだ。
若い頃に俳優を志したというメルビルが法王の「役柄」を演じられないということは、微笑ましい率直さを感じさせる。