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LA、ハリウッド、映画ビジネスと、孤高の映画作家マリックの世界とはちょっと異色と思えるモチーフをのみこんだ「聖杯たちの騎士」はいっそう真摯に魂の深奥をみつめる快作となっている。
起承転結もショットらしいショットもないままに進行していく映画。
そこにはあたり前の台詞の代わりに人々の胸に渦巻く祈りにも似た内声が浮遊し、どこまでも続く夢にも似た滑空的映像の連鎖が物語を紡ぐ。
パーソナルに魂の救いを希求する瞑想の時空。
その圧倒的な迫力は、余計な身構えを解き、ただただ映像と音とに開かれた人体にこそなだれ込む。
分析を始める前に空に地に水に光に映る声を聴き、ガラスとコンクリートに囲まれた都市の暮しにふと紛れ込む抒情の一瞬に目をみはる。
そんなまじりけのない映像と音の体験をマリックの映画は差し出してみせるのだ。
タロットカードにちなんだ章立てで展開される新作は、美酒に酔い眠りに落ちて父王に託された使命を忘れた王子の、めざすべき宝を求める旅、探究の寓話を冒頭のナレーションで掲げると、原題にある騎士の聖杯伝説でも、はたまた要所要所に流れるグリークの調べで知られるペール・ギュントの遍歴でもみつめられた高みをめざす人の魂の巡礼の行路を、現代ハリウッドの脚本家のそれへと照射する。
人という自然と、人という文明の対峙。
海、砂漠、荒野の美と虚栄のマーケット、ハリウッドの狂宴の寂寞を突き合わせる。
そうして神を睨みつつ、見つめられる父と子、兄と弟、男と女の愛と憎しみ。
マリックという名前なしでも普遍の題がマリックのスタイルに包まれていっそう輝かしく駆ける。
やがて「他者の目に宿る光こそが求めるべき"真珠”」との言葉が導き出される時、観客は自らの目の中に輝く映画のことを思う。
「始めよう」のひとことで終わる映画はきっと、それぞれの人生の旅の扉を新たに押し開いてもいる筈。