知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『権大僧正・作家・瀬戸内寂聴氏と、哲学者・古代史作家・梅原猛氏を悼む』「私のつき合った梅原さんは、一口で言えば純粋無垢なロマンチスト」

2021-11-12 06:53:28 | 読書

『権大僧正・作家・瀬戸内寂聴氏と、哲学者・古代史作家・梅原猛氏を悼む』

       『私のつき合った梅原さんは、一口で言えば純粋無垢なロマンチスト』

  『「女子大生・曲愛玲」「花芯」で文壇デビューした瀬戸内寂聴氏を偲ぶ』

ウキペデイアから引用

昔、有楽町の阪急ビルのオフィスフロアで勤務していたことがあり、当時近くのA新聞社に友人が務めておりました。 事件記者ドラマのテレビ番組全盛時代でしたので、憧れの事件記者が紹介してくれたのが『梅原猛著 隠された十字架 法隆寺論』でした。 

 

先日、日経の文化欄に、瀬戸内寂聴氏の『梅原猛さんを悼む 純粋無垢なロマンチスト』という記事が載っていました。 

 

梅原さんは、京都に住んでいた寂聴さんを突然訪ねて、当時評判になっていた『地獄の思想』という本を差し上げた(寂聴さんはすでに読んでいた)。 この時、梅原さんは言った『あなたの書く小説も地獄のようなものばかりでしょう。 我々はいい友達になれますよ』と。

 

寂聴さんは、こう言っています。 『私のつき合った梅原さんは、一口で言えば純粋無垢なロマンチストだった。 その上に稀有の天才性を持っていた』と。

 

このお二人は、

先ずは、お二人の印象深い作家遍歴をウエブ情報からです。

 

梅原猛氏は、

1972年、47歳で『隠された十字架 法隆寺論』を刊行、法隆寺に建立に関する独特の解釈。 『隠された十字架 法隆寺論』(1972)で展開。 法隆寺聖徳太子一族の霊を封じ込め鎮めるための寺院とする説。 その中から、大胆な仮説を刊行して毎日出版文化賞を受賞している。 

 

48歳で『水底の歌 柿本人麻呂論』を刊行された。 これらの作品で、自分を含む一般の方々にも読まれ始めた。 柿本人麻呂の生涯に関する新説。 『水底の歌』(1972 - 1973年)で展開。 

 

『柿本人麻呂は低い身分で若くして死去した』という近世以来の説に異を唱え、高い身分であり高齢になって刑死したとする説。 正史に残る人物、柿本猨を柿本人麻呂とする。 梅原説の信奉者の有名人には井沢元彦がいる(ただし『水底の歌』が成り立たないことは『猿丸幻視行』に書いてある)。

 

司馬遼太郎とは長年の交友があり、司馬の作品である『空海の風景』の正直な批評を出したが、彼を激怒させて以来、二人は犬猿の仲となる。 その後は和辻哲郎文化賞の選考委員を互いに務めた縁で仲が直り、司馬の死去に関しては、追悼文も書いている。

 

司馬氏夫人もこの作品『空海の風景には、こう言っていました。(司馬氏の激怒がわかる。)

本作は生前の司馬が最も気に入っていた作品で、サイン本を献本する際にも必ず本作を用いたほどであり、そのため冨士霊園の「文學者之墓」(日本文藝家協会会員の共同墓)にも本作を埋葬したという。

 

瀬戸内寂聴氏は、

1956年『痛い靴』を『文学者』に発表、同年『女子大生・曲愛玲』で新潮同園雑誌賞を受賞。その受賞第1作『花芯』で、ポルノ小説であるとの批判にさらされ、批評家より「子宮作家」とレッテルを貼られる。

 

1988年に出した『寂聴 般若心経』は1年で43万部を売るベストセラーとなる。1992年、一遍上人を描いた『花に問え』で谷崎潤一郎省を受賞した。『源氏物語』の現代日本語文法訳でも、その名を知られている

 

ぼーっと生きていたら、気が付かなかった作家・梅原猛氏の著書に出会えたのは、有楽町界隈の洒落たスナックでA新聞社事件記者と、ご一緒できたからと、今でも、感謝しております。

 

記者には、大きく分けて新聞記者、雑誌記者、放送記者と呼ばれる3種類の職種があり、さらに新聞社では、当時は次のように別れていたようです。

政治部記者・社会部記者・文化部記者・経済部記者・国際部記者

 

この梅原猛著『隠された十字架 法隆寺論』を紹介されたとき『隠された十字架』のタイトルと、あの時代の聖徳太子とキリスト教を関連付けたところに驚きました。 それ以来、梅原氏の著書『塔』をはじめ、いろいろ読み漁りました。 

 

驚いた理由ですが、当時、奈良県明日香村岡にある『酒船石』は、麓から標高差、約30mの丘の上にあり、両サイドは、欠かれて、30-40%が欠損している。 片側は京都の野村邸に現存しており、今でも、知られる松本清張氏の「説」の拝火教の儀式用を思い出したからでした。

 (記事投稿日:2019/02/10、最終更新日:2021/11/12、#071)

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『「尊王攘夷・水戸学の400年」と三島由紀夫氏のこと 其の一』 「幕末の理解には、ぜひ、読み切りたい本に巡り合い、目下奮闘中」

2021-10-09 23:08:39 | 読書

『「尊王攘夷・水戸学の400年」と三島由紀夫氏のこと 其の一』

「幕末の理解には、ぜひ、読み切りたい本に巡り合い、目下奮闘中」

「幕末の人物で自分は何回もその理解が変遷した人物・徳川慶喜?」

 

余生の読書計画の一覧に、余生では読み切れないほどの本がリストされています。 それでも、日経新聞の土曜版『読書欄』で毎週読みたい本に遭遇しますが、今回も表題の本を見つけました。 これも、いつもの習慣で、先ず、手に取って目次を通し読み、次に著者のプロフィールと代表的な著書を確認しました。

 

表題の本『尊王攘夷・水戸学の400年』の著者片山杜秀氏のプロフィール

1963年仙台市生まれ。 政治思想史研究者、音楽評論家。慶應義塾大学法学部教授。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程単位取得退学。 『音盤考現学』および『音盤博物誌』で吉田秀和賞、サントリー学芸賞を受賞。 『未完のファシズム』で司馬遼太郎賞受賞。 著書に、

近代日本の右翼思想

国の死に方

クラシックの核心

見果てぬ日本

鬼子の歌

ベートーヴェンを聴けば世界史がわかる

皇国史観』等、共著に『平成史』等がある。

上記の著書は全部『余生の読書計画』に追加しました。

冒頭から余談の挿入になりました。 半世紀も昔のことですが、香港の合弁会社に出向中に、たまたま某通信社の香港事務所で、三島由紀夫氏決起のニュースがテレタイプで実況放送のように刻々と入電してくる様子を拝見できました。

この経験もあり、三島由紀夫氏の著書は何冊か読みました。

 

 花ざかりの森

処女短編集『花ざかりの森』として刊行された。 16歳の時に執筆した作品。

 

 潮騒

10作目の長編小説。  三島の代表作の一つで、何度も映画化されるなど一般的にも人気の高い作品

 

憂国

原作、脚色、製作、監督、主演を務めた伝説のアート・ムービー。

 

豊饒の海

最後の長編小説。 夢と転生の物語で、『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』の四部作。

表題に戻ります。 この本『尊王攘夷・水戸学の400年』の『エピローグ 三島由紀夫の切腹』でした。 

まことに、三島由紀夫氏ほど切腹にこだわりぬいた人も珍しいと思います。 映画『憂国』は三島氏が自ら監督・主演して、本人が切腹の演技を披露し、もちろん小説だけでなく本人が刀で切り裂くがいがあるように腹筋を、スポーツジムのボディビルで鍛えることを怠らなかったと言われています。 

三島氏が、切腹直前に完結させたライフワークである長編小説『豊饒の海』四部作の第二部『奔馬』では、主人公の右翼青年が、財界の巨頭を殺害した後、相模湾に面した崖で切腹して果てる。 四部作で切腹を際立たせたいのなら、第四部の結びに切腹場面を置いてよいように思うけれど、『豊饒の海』は切腹して屍になっても、『七生報国』の楠公精神のように、際限なく生まれ変わってまた現れるという、壮大な物語なのだから切腹は、フィナーレではなく真ん中にあるのが美しいと。

三島氏は、どうしてそこまで切腹という観念かつ行為に支配されてしまったのか。 三島氏は『大東亜戦争』で死に後れた人だ。 先に逝った者たちの後を早く追わねばとの脅迫観念を有していたに違いない。 でも、それは切腹でなければならぬわけではあるまい。が

いろいろ想像・推測はできますが、いろいろな先哲・先生方々の考えを調べて、整理をしようと思っています。

(記事投稿日:2021/10/09、最終更新日:2021/10/11、#402)

『「尊王攘夷・水戸学の400年」と三島由紀夫氏のこと 其の二』に続く

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『風化させてはいけないこと 1(苦海浄土-わが水俣病 3)』『210922日経の春秋から、写真家ユージン・スミスのモノクロ「智子の入浴」』

2021-09-23 22:49:25 | 読書

『風化させてはいけないこと 1(苦海浄土-わが水俣病 3)』

「現在でも環境問題を考える上でしばしば言及されるロングセラーとなっており、レイチェル・カーソン『沈黙の春』の「日本版」にも例えられる」

『210922日経の春秋から、写真家ユージン・スミスのモノクロ「智子の入浴」

ウエブ情報から引用

表題の「智子の入浴」の写真、、ウェブでは見つけましたが、ブログに載せるなどとてもできません。 ウェブ情報ですが、『Atsuhiko.Sano氏のはてなブログ』の情報から 抜粋・引用させていただきました。

 

『大学の講義の最初に、環境ビジネスを考える上で最も重要なビジネスの功罪という視点から、公害問題の典型例、これで全てが語れるようなものをと考えた。 かなり悩んだ上で、ユージン・スミスの著名な写真である「智子の入浴」を選んだ。 最初に、あの写真を見たのは何年前だろう。 まだ、環境問題に関わる前だったと思う。

水俣病のことを本で読んで関心を持った時に、出会った一枚の絵である。 10代半ばの水俣病の智子さんが母と一緒に入浴している写真である。 まだ若くこれからなのに、自分ひとりで入浴もできない、その子を大切にいつくしみながら入浴させる母親の優しい横顔。 忘れることができない写真であった。

今回、この写真を学生に紹介しようと考えて、いくつかの新しいことが分かった。 まず、最初に、この写真がもうほとんど入手困難になっているということが分かった。 それは、次のようなことらしい、ユージン・スミス夫人が、智子の関係者と面談した折、「智子さんの写真は、多くの人たちに
水俣病の本質を理解するのに役立ったでしょ。 そろそろ家族に返してもらえないか」と相談を受けたことが原因らしい。

そこで夫人は、この写真の著作権を全て御家族にお渡ししたということらしい。
だから、最近出版された
水俣病の写真集等にも掲載されていないとのことであった。 もうひとつ、これは、小生が知らなかっただけであるが、大変な衝撃を受ける事実がわかった。 写真家のユージン・スミスさんは、既に他界されている。

そのことは知っていたが、その原因が、水俣病の集団交渉を写真撮影しているときに、関係者から暴行を受け、その傷がもとでの死亡であったということ。
しかも、スミスさんは、写真をとることを重視し、大きな騒動にしたくないとの理由から、傷害事件としての訴えを一切しなかったということ。 これはショックであった。
 彼の写真がなければ、これほどまでに水俣病の悲劇が世界に知ることとはならなかったであろうことを考えると、非常に感慨深いものがある。』と、ありました。

 

表題の『210922日経の春秋から、写真家ユージン・スミスのモノクロ「智子の入浴」』に戻ります。 石牟礼道子著『苦海浄土-わが水俣病』という本は、普通の神経の持ち主は、相当の覚悟で読み始めいと読み切れませんが、多くの方々にお読み頂けたらと祈念しております。 ここで、日経新聞の春秋の情報の抜粋・引用です。

 

『ユージン・スミスという米国生まれの写真家をご存じだろうか。 妻とともに熊本県水俣市に移り住み、公害病の実相を世界に伝えるモノクロの写真集を1975年に出版した。 発病したわが子を抱きかかえ、入浴させる親の姿を広角レンズで切り取った一枚が胸に迫る。

 

写真集の巻頭に、「過去の誤りをもって、未来に絶望しない人々に捧げる」との一文がある。 第二次世界大戦の激戦地にも赴いたカメラマンの人生観が凝縮されている。 彼の生涯を描いた映画「MINAMATA-みなまたー」があす、公開される。 主役を演じるのはハリウッドを代表する俳優ジョニー・デップである。 

 

話題作の公開に先立ち、いくつかのミニシアターが、公害病の記録映画を上映している。 土本典昭監督の「水俣一揆 一生を問う人びと」などだ。 この作品のもう一人の主役は、患者らと直接対面し、補償交渉を重ねた原因企業チッソの当時の島田賢一社長だ。 「社長さん、あんたそれでも人間か」との問いに言葉を失う。

 

「島田氏を含め、すべての死者たちへの鎮魂の思いは深い」。 石牟礼道子さんの、「苦海浄土 全三部」の一節だ。 個人としては十分に補償したいが、国家財政の問題になるだろう。 病床で葛藤する島田氏の口述筆記も本書に収めた。 公害病の公式確認から65年。 今も患者認定の訴訟が続く。 新作の公開を機に事実を学びたい。』

 

繰り返しになりますが、石牟礼道子著『苦海浄土-わが水俣病』という本は、普通の神経の持ち主は、相当の覚悟で読み始めないと読み切れませんが、多くの人々、政府・行政・マスコミ・マスメディアの皆様にはお読み頂き、さらには、発信して頂けたらと祈念しております。

   (20210923纏め、#395)

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『チャイニーズ・タイプライター 1(漢字と技術の近代史)』 ―そこにアルファベットはないー

2021-09-15 09:16:08 | 読書

チャイニーズ・タイプライター 1(漢字と技術の近代史)』

              『そこにアルファベットはない』

ウェブ情報から引用

 

先ず、この本、A5版・390頁の冒頭の謝辞に、7ページにわたって、数百人に御礼を申し上げております。 本のタイトルは『チャイニーズ・タイプライター(漢字と技術の近代史)』ですが、とにかく、この本の内容と取材範囲の広さと、奥深さに驚きます。 以前から表意文字と表音文字、漢字とアルファベットの違い、それぞれの発生とその後の進歩には何か不思議なものを感じていました。

 

半世紀も前のことですが、香港に赴任直後に、中国の漢字の簡体文字に初めて接したときに、これでも表意文字かと驚きました。 日本語には『平仮名・片仮名・漢字(国字・本字・正字・異体字・俗字・略字・古字等)・ローマ字』等々とあり、優れた文字で詩歌・文学には『ぴったり』と、再認識した記憶があります。

 

また、余談ですが、文章の伝達能力で面白い記事を読んだことがあります。 『算数の問題を英文、日本文、中国文で表現すると、問題の文章の長さは、英文―日本文―中国文の順になるそうです。 スペイン語、ドイツ語、フランス語等は英語よりもう少し長いようです。 その上に、おまけがついていました。 わかりやすい順は、日本文―中国文―英語の順序と言われていました。

 

この本は、ウェブ情報で、このように紹介されています。

『中国語タイプライターを作ろうとした人びとの知的・技術的葛藤と格闘を、西洋、中国、日本を舞台にダイナミックに辿る圧巻の文化史。 製品開発やその宣伝を跡づける興味深い図版多数収載。

 

著者について

トーマス・S・マラニー
スタンフォード大学歴史学部教授。専攻は中国史。ジョン・ホプキンス大学で修士号、コロンビア大学で博士号を取得。 著書に、Coming to Terms with the Nation: Ethnic Classification in Modern China(University of California Press, 2010)などがある。

 

本書の主軸をなすのは、西洋のラテン・アルファベットを基にして作られた「近代」の象徴としてのタイプライターと、中国語との間にある距離感である。 その隔たりゆえに中国語そのものに「問題」があるとみなされ、それを克服するための「パズル」が形作られることになる。 常に西洋の「本物」のタイプライターを意識しつつ、この「パズル」を解こうとしていく人々の群像を描いていくなかで、漢字についての発想の転換や戦時中の日中関係、入力や予測変換といった現在につながる技術の起源に至るまで、さまざまな話題が展開されている。タイプライターというモノを起点としつつ、それの単なる発明史をはるかに超える射程を持った本であり、関心や専門を問わず広く読まれるべき一冊である。

目次

謝辞
序論そこにアルファベットはない
第1章近代との不適合
第2章中国語のパズル化
第3章ラディカル・マシン
第4章キーのないタイプライターをどう呼ぶか?
第5章漢字圏の支配
第6章QWERTYは死せり!QWERTY万歳!
第7章タイピングの反乱
結論中国語コンピューターの歴史と入力の時代へ』

 

半世紀前・当時は文章の通信手段は、テレックス(テキストデータ)からファックス(イメージデータ)に変わる転換時期でした。

 

  • 『テレックス』は、『電話回線を使い、タイプした文字を信号化して相手に送るシステムのこと』。 テキストデータ(アルファベット)の文章が有利.

 

  • 『ファックス』は、『電話回線を使い、画像を信号化して相手に送るシステムのこと』。 テキストデータもイメージデータも大差はありません。

 

ここで、ファックスの便利さが分かった時に、やはり一番の心配は、表音文字のアルファベット圏も、表意文字の漢字圏でも『イメージデータ』の電送回線容量の問題があると思っていました。

 

当時は、日本は表意文字と表音文字の混合ですが、中国と一部の漢字圏は表意文字だけでした。 通信理論・技術と機器の発達が、この『表意文字の漢字圏での「イメージデータ」の電送回線容量の問題』全くハンデキャップにならなかったことを、現在の中国が証明しています。

 

この事実がむしろ中国にはプラスであり、日本にはマイナスであったのか、ここ数十年の中国の進歩と発展と、日本の実態をこの本、『チャイニーズ・タイプライター 1(漢字と技術の近代史)―そこにアルファベットはないー』で、勉強していきたいと思っています。

 

先ずは、冒頭のこの文章から、

『中華人民共和国の目を見張るほどの台頭において、2008年のオリンピックの開会式は、一つの活気を成すものとなった。 この国の過去20年間の及ぶ経済の実績、そしておそらくは科学や医学、技術の進歩については、中国通であれば既によく知られたことであった。

 

しかし、21世紀における中国の強さと自信を全面的に世界に見せつけたというのは、これまでになかったことだ。 8月8日は、類まれなる劇場であった。 オリンピック史上最長となった聖火リレー(18万5000マイル=13万7000キロメートル)129日間のクライマックスとなるこの式典には、約1万5000人の演者が動員され3億ドル(およそ330億円)の制作予算を誇った。 この開会の見世物だけに。 もしも大会のすべてと、北京などの都市での大規模なインフラ整備を含めるならば財政支出の総計は4400億ドル(およそ48.4兆円)に上る。』

今回の東京オリンピックの開会式では、国・地域名の50音順で入場行進が行われた。 前回の1964年のオリンピックではアルファベット順だったが、本書の序には2008年の北京オリンピックでは前代未聞の漢字の画数順で入場行進が行われたと記されている。IOCではホスト国で使われているアルファベット順という規定がある。 仮名は厳密にいえばアルファベットではないが、表音文字ではある。ところが中国の漢字は表語文字でアルファベット的な語順はないので、各国・各地域の漢字表記を画数順に並べるという異例の入場行進となったのである。

本書は、近代における西洋のラテン・アルファベットによる情報技術のグローバル化にあって、アルファベットを持たない中国の文字体系がどのような位置付けにあるのかを、タイプライターをモデルにしてつづっていく言語技術文化史である。

アルファベットは26文字、それに数字やその他の記号を合わせてもタイプライターのキーの数は40~50あれば事足りる。ところが漢字の数は何万とあり、使用頻度の高い文字に絞っても2000はある。これをキーボードに組み込むとなればとてつもなく巨大なキーボードが必要となる……。 そこから中国語タイプライターは不可能の代名詞となってしまう。 さらには、アルファベットを持たない中国語は進化論的に「不適格」であり、こんな効率の悪いものは不要だという
漢字廃止論が内外から出てくる。

要するにラテン・アルファベットが主導する情報技術(モールス信号、速記、タイプライター、ワードプロセッサー、光学文字認識、デジタルタイポグラフィー等々)の「普遍性」にとって、中国語の文字体系は無視・度外視すべきものとされていたのだ。

本書は、この圧倒的な四面楚歌(そか)状態の中でさまざまな試行錯誤の末、中国語タイプライターが完成する経緯を丁寧に跡づけていく。そこには和文タイプライターも深く関与しており、ローマ字入力を当たり前としている日本人にも考えさせるところ大である。

 

ここまで読んで、この本の『タフさ』が分かりかけてきました。 じっくりと腰を据えて、『この超情報化時代の表意文字と表音文字、漢字とアルファベットの違い、それぞれの発生とその後の進歩と、今、そこにある実態「英語と、その他外国語をどん欲に、カタカナで取り込み、進化続ける日本語の凄さと複雑さ」を、この本をテキストに』勉強したいと思っています。

 (記事投稿日:2021/09/15、#382)

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『同郷・同世代の旧飯岡町出身の女流詩人 高橋順子氏のこと 2』 ―古里・飯岡のことを、いつも話題にされる詩人・エッセイスト―

2021-08-15 18:12:15 | 読書

   『同郷・同世代の旧飯岡町出身の女流詩人 高橋順子氏のこと 2』

『古里・飯岡のことを、いつも話題にされる詩人・エッセイスト』

先ずは、高橋順子氏のプロフィールです。 

経歴

千葉県飯岡町(現旭市)生まれ。東京大学文学部フランス文学科卒業。青土社などの出版社に勤務。1998~2004年、法政大学日本文学科非常勤講師。

1993年10月、作家車谷長吉と結婚。2005年、車谷、新藤涼子と世界一周の船旅をする。2008年2~5月、車谷と四国八十八ヶ所を巡礼する。

受賞歴

  • 1987年 『花まいらせず』で現代詩女流賞
  • 1990年 『幸福な葉っぱ』で現代詩花椿賞
  • 1997年 『時の雨』で読売文学賞
  • 2000年 『貧乏な椅子』で丸山豊記念現代詩賞
  • 2014年 『海へ』で藤村記念歴程賞、三好達治賞
  • 2018年 『夫・車谷長吉』で講談社エッセイ賞

先日(20210814)の日経新聞文化欄に、高橋順子氏のエッセイが、タイトルは『津波が生んだ文学賞』でした。 このエッセイを読んで初めて知ったのは『元禄大地震(17031231)、関東地方を襲った巨大地震、震源は相模トラフ沿いの、房総半島南端の千葉県の野島崎付近で、M7.9-8.5と推定』でした。 大地震や大津波の災害記憶は風化しやすいことがよく分かりました。

 

エッセイの抜粋・引用です。

『千葉県の九十九里浜に面した飯岡町(現旭市)が私の古里である。 弓なりの海岸線をもつが、それは海風が強くて、中心部がへこんだせいとかいう。 近隣には湿地帯が多かったことが地名で分かるが、それも風が強くて水は川となって流れることが出来なかったのだという説がある。』

屏風ヶ浦 南端に位置する刑部岬灯台、奥は飯岡漁港、上にへこんだ飯岡海岸』

ウエブ情報から引用

『利根川でもって東北地方とは分断されているが、べえべえ言葉や漁師言葉と言われる私たちの町の方言には、東京・下町言葉の類似とともに東北弁の濁りがある。 東北と地続きだったことの証しである。 

「ヒ」とフランスの人々は発音せず「イ」と発音するというが、下町でも私たちの町でも「ヒ」と言えず「シ」と発音した。 「エ」と「イ」も混乱している。 小学校の校長先生は「しょくんしつさいって、んぴつとってきて」と言っていた。

10年前の東日本大震災で飯岡も被災し、旭市では14人が犠牲になった。 「この浜に津波は来ねえ」と漁師までもが言っていたために、津波を見に行って命を落とした夫婦もいた。』

 

津波を見に行って命を落とした夫婦のこと、後で知ったのですが、中学時代の友人のお兄さん夫婦でした。 今回の飯岡津波については、ずぶ素人の自分が、いろいろ調べた結果です。

『2011年3月11日の東北地方三陸沖地震の飯岡津波の被害が、「入り江もなく遠浅」の飯岡海岸で、大きかったのは、津波の第一波が九十九里の西端の大東岬で反射し、その反射波(というより、むしろ海岸流が正しい、土地の人々が津波は西からも来たといった)と第三波(東から来た)が飯岡港沖でぶつかり合成波になり、波高7.6ⅿにもなった。 一般に、津波の合成波は,岸とは平行になりますが、飯岡の場合は、ほぼ直角でした。この合成波は、幅が狭く、合成部分が盛り上がり、飯岡津波の被害は下永井地区の狭い範囲に集中した。

地震津波の合成波が飯岡津波のケースのように起こることは「稀有」のことと、いまだに信じています。飯岡津波の合成波再発がないことを祈っています。』

 

エッセイの抜粋・引用戻ります。

『神社や寺に伝わる古文書には、元禄年間に大津波があって、70人以上の犠牲者がこの浜から出たことが記されていた。 それが今に伝わっていなかったことに地域のNPO法人「光と風」の人たちは衝撃を受けた。 耳で聞く方言だけなく、目で見る言葉にも親しむ風土にしなければと壮大で必死な夢が語られたのだった。』とありました。

 

今回の飯岡津波は、東からと西からの津波の合成波が、波高7.6ⅿでしたが、元禄大津波は西からのもので、波高5-6ⅿであったようです。 この元禄地震について調べてみました。

元禄地震

元禄地震は、元禄16年(1703年)12月31日、関東地方を襲った巨大地震。

震源は相模トラフ沿いの、房総半島南端の千葉県の野島崎付近にあたる。M7.9-8.5と推定,元禄大地震と呼ばれる。 大正12年(1923年)に起きた関東大震災と類似のタイプの海溝型地震である上に、震源分布図も類似することから相模トラフ巨大地震と考えられている。 

ただし、地殻変動は大正関東地震よりも大きいものであった。 大規模な地盤変動を伴い、震源地にあたる南房総では海底平面が隆起して段丘を形成した元禄段丘が分布し、野島岬は沖合の小島から地続きの岬に変貌したという。

江戸時代中期の元禄から宝永年間は巨大地震、噴火が続発した時期であり、本地震の4年後の宝永4年(1707年)にM8.4-8.6と推定される宝永地震、および宝永大噴火も発生している。

旧飯岡町(現旭市)の死者は三ヶ所の浜(下永井浜、飯岡浜、平松行内浜)で70余人と記録がある。

 

『天災は忘れたころにやってくる』を肝に銘じて、相模トラフ巨大地震や首都圏直下型地震に備えたいと思います。

(記事投稿日:2021/08/15、最終更新日:2022/02/11、#372)

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