知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『世界の城郭・宮殿 028(「女王(国王)陛下のロンドン塔)』 『ローマ時代の「ロンドンの壁」の中に城塞を』

2022-11-05 23:22:18 | 城・城郭・城塞・宮殿

『世界の城郭・宮殿 028(「女王(国王)陛下のロンドン塔)』

『ローマ時代の「ロンドンの壁」の中に城塞を、城塞→城郭→宮殿

(ロンドン塔)に、流石英国の城郭・宮殿、侵略されたことなし』

正式名称「女王(国王)陛下のロンドン塔の宮殿および要塞Her (His) Majesty's Royal Palace and Fortress of the Tower of London)」』

 

何度も訪問した英国ロンドンですが、もし、この本・夏目漱石著の『倫敦塔 (小説)』を読んでいたら『元ジャパニーズビジネスマン』の自分も、時間を割いて(サボっても)ロンドン塔散策をしたことと、今頃、切歯扼腕しています。 

 

先ずは、ウキペディア情報から抜粋・引用

 

あらすじ

『「余」は、行くあてもなく倫敦をさまよったのち、倫敦塔を見物した。 これが留学中ただ1度の倫敦塔見物である。 塔内では大僧正クランマー、ワイアット、ローリーら囚人船で運ばれてきた古人たちを思い、また血塔では、叔父によって王位を追われ殺されたエドワード4世の二人の小児の幻影を見る。 そして白塔を出てボーシャン塔へ向かうと、奇妙な母子がいた。「余」はその女にジェーン・グレーを見る。 「余」は現実か幻想かわからなくなり、倫敦塔を出る。

 

背景

『漱石は1900年(明治33年)10月から1902年(明治35年)12月までの2年間、文部省留学生としてロンドンに留学した。 この折のロンドン塔見物を題材にしたものである。 作者自身が末尾にこの作品が想像であることを記している。 漱石によればロンドン塔は英国の歴史を煎じ詰めたものであるとしている。 この作品では、ロンドン塔において処刑・収容されたクランマー、ワイアット、ローリーや、エドワード4世の息子エドワード5世とリチャード、そして「9日間の女王」ジェーン・グレーなど、これらの人物を幻想的に描いている。 その点で同時期に発表された作品で、ユーモアと風刺にあふれた『吾吾輩は猫である』とは趣きが異なる。

 

またまた余談・脱線です。

『ロンドン橋落ちた』の歌詞でよく知られているロンドン橋(London Bridge)は、ロンドンの中心を流れるテムズ川に多数かかる橋の中でも、知名度が群を抜いて高い。 『London Bridge station』という駅もあるほど、ロンドンでは親しまれている歴史ある橋です。 しかし、その知名度とは裏腹に、世界中から来る多くの観光客が、より映える見た目の一大観光地『タワーブリッジ(Tower Bridge)』と間違えている。 『ロンドン橋落ちた』には怖い伝説もありますが、反対に『ロンドン橋落ちた』は、イギリスに古くからあるナーサリーライム(童謡)。マザー・グースの中でも代表的なもので、現在では世界中で知られている。

 

ロンドン塔とタワーブリッジ

ロンドン塔は、イギリスの首都ロンドンを流れるテムズ川岸、イースト・エンドに築かれた中世の城塞。 タワーブリッジ(そばのテムズ川にかかる両開きの跳ね橋のことで英国重要建造物に指定されています(世界遺産ではない)。

ウキペディア情報から引用

 

ロンドン塔(The Tower of London、宮殿・城郭より塔を強調

ウキペディア情報から引用

 

ロンドン塔・千年の要塞は、歴史は古く、ローマ時代から

ロンドン塔( Tower of London)は、イギリスの首都ロンドンを流れるテムズ川岸、イースト・エンドに築かれた中世の城塞。 正式には「女王(国王)陛下のロンドン塔の宮殿および要塞(Her (His) Majesty's Royal Palace and Fortress of the Tower of London)」と呼ばれ、現在も儀礼的な武器などの保管庫、礼拝所などとして使用されている。 ロンドンにおいては単に「塔(the Tower)」と称した場合はこの場所を指す。 世界最大級のカット・ダイヤモンド『カリナン』はここで保管されている。

 

ロンドン塔の歴史

1066にイングランドを征服したウィリアム征服王が1078年にロンドンを外敵から守るために堅固な要塞の建設を命じ、約20年で現在のホワイト・タワーが完成した。 その後、リチャード1世が城壁の周囲の濠の建設を始め、ヘンリー3世が完成させた。

 

以降、王朝が変遷してからも国王が居住する宮殿として1625年まで使われ、その間、14〜19世紀にかけては造幣所や天文台も兼ね、1640年までは銀行、13世紀から1834年までは王立動物園でもあった。 ロンドン塔に最後に居住した王はジェームス1世とされる。 1282年からは、身分の高い政治犯を収監、処刑する監獄としても使用されはじめ、14世紀以降は、政敵や反逆者を処刑する死刑場となり、城塞や王宮としてよりこれらの方で有名となった。

 

およそ900年の歴史を持つロンドン塔は、現在に至るまで、要塞、王宮、武器庫、監獄、処刑場、造幣所、銀行、動物園、兵舎、宝物庫などさまざまな利用のされ方をしてきました。 現在も王室の宝物庫として、王冠や500カラット以上で世界最大級のダイヤモンド「アフリカの星」などが保管されています。

 

ロンドン塔は血塗られた波乱万丈の歴史で有名ですが、城郭としても、もっと勉強したいと思いました。

(記事投稿日:2022/11/05、#594)

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『アーマードバトル、中世の騎士になりきり戦う、人は今でも競う』―剣道が正規授業科目に、身長180㎝、体重90㎏の古武士風の先生に狙われー

2022-11-05 06:56:24 | 格闘技

『アーマードバトル、中世の騎士になりきり戦う、人は今でも競う』

『剣道が正規授業科目に、身長180㎝、体重90㎏の古武士風の先生に狙われ』

 

 子供のころに、チャンバラを体験して、高校では剣道が正規科目にありましたので、この剣道の授業の先生(身長180㎝、体重90㎏の古武士を彷彿させる偉丈夫の大先輩)には、徹底的に、ご指導を頂き、授業時間50分の間に、数十回の『小手攻め』をされ、そのあとの製図の時間に『カラス口で墨入れ』ができないほど手が震えていた経験があります。 さらに、この凄い先生から、いつも、ご指名頂いて、面を外して『組打ち』や、時にはフル装備で、砕石(玉砂利ではない)敷きのグラウンドで、もちろん素足で『野試合』それも集団戦までやるという。 貴重な体験をさせて頂きました。

 先日(20200219)の日経の文化欄の載っていました『アーマードバトル』に興味を惹かれました。 この記事を書いた方は現在、東京・目白で中世ヨーロッパ武術を学べるスクール『キャッスル・ティンタジェル』の代表を務めているジェイ・ノイズ氏です。 以下はその抜粋です。 

 『アーマードバトル』で使う武器は主に5種類。❶片手剣と楯、➋両手剣(ロングソード)、❸槍、❹ポールアーム(長柄・棹状武器)❺ダガー(短剣)。

 武器を思いきり振れるのが、アーマードバトルの大きな魅力。 頑丈な鎧をまとっているからこそで、他の多くの武術ではこうはいかない。 ゲーム用の鎧でさえ、標準的なもので、一式25㎏以上。


 ウエブ情報(甲冑格闘技アーマードバトル世界大会の画像)から引用

 

 アーマードバトル (Armored Battle) とは、かつて14〜15世紀に実在した鎧を、デザインや材質など、可能な限り史実に忠実に再現し、ギャンベゾンの上にこれを装備して戦う新しいスポーツである。

 ギャンベゾン(gambeson、aketon、padded jack、arming doublet)とは、パッド入り防御ジャケットである。プレートアーマーや鎧と共に着て擦れや衝撃を吸収したり、分けて着用したりする。キルティング(英語版)と呼ばれる縫製技術で製造される。

 しかし、騎士たちが戦闘の練習としておこなった試合形式のゲームは その当時から 突きの禁止 刃のついていない武器などを使っており まさしく今のスポーツであった。 すでに当時においてでさえ、その試合ゲーム専用の甲冑やヘルムも使用されていた 
アーマードバトルはこの中世の戦闘練習試合スポーツを 現代に再現しているともいえる。 ただし、中世当時と異なるのは、安全基準を満たせば日本や中国などの甲冑、武器も認められる 

 日本国内で行われるバトルには、ポールウェポン、ロングソード、ソードといった競技用のツールを使用するが、これらには、日本の法律とリーグの安全規格にのっとり、素材や重量、エッジの丸みなど、厳格な規準が課せられている。 IMCF主催で国際大会も開催されている。 試合は個人戦(Duel:デュエル)と団体戦(Melee:メーレー)に分けて行われる。 

 この鎧一式、25㎏以上は、アングロサクソン系男子の平均身長178㎝、体重84㎏(女子164㎝、70㎏)の、馬上の騎士には、それほどの負担ではなかったでしょうが、マットの上では大変です。 実戦での鎧一式はもっと、ずっと重かったことでしょう。 さらに大きいのは北欧人で、平均身長182㎝、体重88㎏(女子、168㎝、72㎏)です。 
 実戦での西洋の鎧一式の重さは、30㎏から50㎏とあり、馬上から落ちたら戦えなかったようです。 モンゴルの軽騎兵に欧州の馬上の騎士たちが、コテンパンにされたのは、想像できます。 

 さて、日本の戦国時代の男子の平均身長155㎝、体重52㎏(女子143㎝、44㎏)、当時の甲冑一式(大刀、小刀、槍、兜、面具、袖、籠手、胴、草摺、佩楯、脛当)の重さは、およそ30㎏です。 本能寺で、弟と一緒に討ち死にした森蘭丸成利の甲冑一式(刀槍除く)が、実物、実測で、およそ24㎏です。

 因みに、当時の足軽の甲冑・武具一式で、7kg-10kg程だったでしょうから、日本の多くの城、平城・平山城・山城の空堀でも、結構タフであったと思われます。 特に、『障子堀』などは有効であったと思われます。 

『障子堀』の著名なものは;
 山中城,三島市、 
 小田原城、小田原市、
 河村城、足柄上郡山北町
 下田城、下田市等、
 大阪城(豊臣時代の三の丸)等、日本には、十数ヶ所も存在する。

 どこにも、チャンバラが好きなままに、育って今にいたっている方がいたので安心しました。 ジェイ・ノイズ氏は、 1996年に来日し、日本の基地に同じ仲間がいたし、スポーツ経験のない方が、初めて鎧一式25㎏を着て、ファンタジーへの興味で入ったが、その時はとにかく疲れたそうです。 この頃から、中世の剣術書が出版されるようになり、それを参考に基地の中で『チャンバラ遊び』をするようになり、そうしている内に、実際に使われた技術追い求めた。

 英国、イタリア、ドイツ、様々な国や時代の剣術書を買いあさった。 そこで日常的に練習・研究のできる場所が欲しくなり、さらに日本人にも「アーマードバトル』広めたく、2008年、メジロに道場『ティンタジェル』立ち上げた。

 『ティンタジェル』立ち上げ後、間もなくは、テクニックばかり指導していたが、その後の世界戦へ日本チームで参加して、技術に加え身体能力が重要な要素とわかり、今はフィジカルトレーニングに重きを置いているとのことです。 
中世を舞台にしたアニメやゲームにも関わっているが、リアルな戦いとドラマチックな戦いは別モノと承知していると。 

『アーマードバトル』も『剣術から剣道』、『柔術から柔道』のように『○○〇騎士道』になるよう期待しています。

 この方、最後に纏めていました。 『スクール創設』以来12年になるが、まだ分からないことだらけ。 日々発見の連続である。 いつかは馬に乗っての戦いもやってみたいものだ』と。 
馬が大好きな自分も『馬上チャンバラ』万歳と言いたいのですが『英国王立動物虐待防止協会(RSPCA)から、大反対されそうです。
                         (20200427纏め #159)

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