『三本柱の鳥居・三柱鳥居(みはしらとりい)のルーツはペルシャ?』
『「木嶋坐天照御魂神社の三柱鳥居」が日本唯一といわれるが!』
京都・太秦天神川『木嶋坐天照御魂神社』の、三柱鳥居(みはしらとりい)は日本でもここにしかない珍しい3本柱の鳥居と言われています。 『日本唯一の三柱鳥居』は中国における景教(中国に伝来したネストリウス派キリスト教)の遺物ともされる謎の多い鳥居です。 『木嶋坐天照御魂神社は「このしまにますあまてるみたまじんじゃ」と読み、通称「木嶋神社」と呼ばれています。』
『日本唯一の三柱鳥居』と言われる木嶋神社の三柱鳥居以外は、本来の三柱鳥居とは、少し異なるようです。
木嶋神社の鳥居
木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)-石造りの三柱鳥居が境内の「元糺の池」の中に建てられている。 現在のものは1831年に再建されたものだが、「北斎漫画」十一集「三才鳥居」に描かれているものは木造。
ウキペデイア情報から引用
ウキペデイア情報から引用
三柱鳥居(みはしらとりい)は、鳥居を3基組み合わせたものをいう。 正三角形平面に組み合わされ、隣り合う鳥居同士が柱を共有するため柱は3本である。笠木は井桁状に組まれ、貫は柱を貫かない。神明鳥居を組み合わせたものや、木嶋神社の例のように、笠木に曲線を施したものを組み合わせたものが見られる。 撤去されて現存しないもの、類似したものを含めて12基ですが。
全国の三柱鳥居と呼ばれてはいるが、本来の三柱鳥居とは少し異なる。
- 東京都墨田区向島三囲神社の石造りの三柱鳥居に囲まれるように井戸が設けられている。『三角石鳥居、三井邸より移す、原形は京都・太秦 木島神社にある。』と説明されている。 三井家では、三囲神社を江戸における守護社と定めた事が理由である。
- 岐阜県大和町山麓にある三柱鳥居は、標高1000メートルほどの場所にあるが、鳥居がある場所に神社はない。 近隣の林業関係者が山の神への感謝として建立したもので特定の宗派的なシンボルではない。
- 京都市南禅寺、臨済宗南禅寺派大本山である大寧軒の庭に三柱鳥居がある。この三柱鳥居は木嶋神社のものを模したものであるという。
- 山梨県富士吉田市不二阿祖大神宮の三柱鳥居、離れた海岸と路上に。
- 長崎県対馬市豊玉町和多都美神社(わたつみじんじゃ)には、社殿横と境内の池に二つの三柱鳥居がある。
- 東京都新宿区成子天神社境内の手漕ぎポンプが乗っている井戸を覆うように三柱鳥居がある。
- 岐阜県武儀郡徳積三柱鳥居、中部電力の三岐幹線の鉄塔建設とそれに伴う送電線が鳥居の上空付近を横切って建設されたため、三柱鳥居の神域が汚され、本来の聖地でなくなったと言うことで、撤去された(その場に埋められた)ため現存しない。
- 徳島県名西群神山町の金属製の三柱鳥居は、神山スキーランドホテルの近くにある。
- 徳島県徳島市の船蓋比売神社の高さ1m弱の3柱の自然石にテーブル状の石板が載っており、鳥居というよりはドルメンのよう、三柱鳥居の原形のようにも見えるのが。
- 長崎県長崎市の鎮西大社諏訪神社の摂社である「蛭子社(ひるこしゃ)」前にかつて三柱鳥居があったが、今は現存しない。
『日本唯一の三柱鳥居』と言われる木嶋神社の鳥居の、『中国における景教(中国に伝来したネストリウス派キリスト教)の遺物ともされる謎の多い鳥居』という情報に、興味津々、課題が残りました。 今後の勉強にための、ウエブ情報からの抜粋・引用です。
『世に三柱鳥居は多数あれどそのほとんどは最近になって建立されたものである。 古代にまで遡れるものといえば、わずかにひとつ。 京都府太秦(うずまさ)にある木嶋坐天照御魂(このしまにいますあまてるみたま)神社、通称、蚕(かいこ)の社の境内にある三柱鳥居だけである。 ちなみに、三井家は蚕の社の氏子で、三囲神社の三柱鳥居も、太秦の三柱鳥居をモデルに造られている。
この三柱鳥居は元礼(もとただす)の池という水の中に立っているのだが、三角形の中心に石積みがしてあり、そこに幣帛(へいはく)が1本建てられている。ここに祀られている神の名は天之御中主神。そう、元初の唯一神なのである。
神社の由来書等には記されていないが、三柱鳥居の中心に天之御中主神が祀られているならば、それを囲む三本柱が意味するのは造化三神にはかならない。大神教会の西野氏が見抜いたように、太秦の三柱鳥居もまた、造化三神のはたらきを象徴した鳥居だと見て間違いないだろう。
しかし、その三柱鳥居に関する案内板を見ると、なんとそこにはこう書かれている。
「一説には、景教(けいきょう)(キリスト教の一派ネストル教、1250年前に日本に伝わる)の遺物ではないかと云う」 またしてもキリスト教である。 景教とは東アジアに伝来したキリスト教のことで、主にネストリウス派と考えられている。 今日、カトリックやギリシア正教、そしてプロテスタントをはじめとするキリスト教の正統派は、アタナシウス派と呼ばれる流れに属しており、彼らからすればネストリウス派は異端。 451年のカルケドン公会議において、その教義が否認された一派である。 以後、アタナシウス派が地中海やヨーロッパ地方に広がっていくのに対して、ネストリウス派はシリアを拠点として、シルクロードを経由してアジア全域に伝播していくことになる。
中国に伝来したのは、記録によれば635年。これを記念して「大秦(たいしん)景教流行中国碑」が造られている。 日本は、このころ飛鳥時代。 盛んに中国と交流を深め、遣隋使や遣唐使が派遣されていく。 特に、唐の都である長安(ちょうあん)には景教の教会「大秦寺(たいしんじ)」があった。 空海など、日本からの留学生が景教の存在を知っていたのは、ほぼ間違いない。 彼らが大陸の進んだ宗教として景教の教典や教義を日本に持って帰った可能性は大きい。
しかも、興味深いことに、景教、すなわちキリスト教の発祥の地が「大秦」と表記されている。 大秦とは、古代ローマ帝国を指す言葉である。 ひるがえって、三柱鳥居が建っている土地の名前は「太秦」という。「大」と「太」、ともに同じょうな、意味を持つこともさることながら、古文献には太秦を大秦と記したものも少なくない。
さらに、太秦にある広隆寺は別名「太秦寺(うずまさでら)」と呼ばれる。 太秦が大秦と表記されるなら、太秦寺は大秦寺に等しい。 中国の大秦寺は景教の教会ゆえ、広隆寺もまた景教の教会だった可能性が高い。 この事実に初めて気づいたのは、江戸時代の儒学者「太田錦城(おおたきんじょう)」である。彼は随筆集『梧窓漫筆拾遺』の中で、太秦と大秦は同義と指摘。広隆寺は天教(キリスト教)の教会であると主張した。 広隆寺を建立するように指示したのは聖徳太子である。 彼は6~7世紀に活躍した人物で、遣隋使からの情報を一手に握る立場にいた。
籠神社の極秘伝によれば、神道の唯一神信仰が隠されたのは、記紀が編纂される8世紀である。 言い換えれば、8世紀以前の神道には唯一神信仰が存在した。その神道を仕切るのは天皇であり、その一族である。 聖徳太子は、まさにその中心人物だった。となれば、神道の原点に景教、すなわちキリスト教が関与していた可能性は十分あるのだ。』
聖徳太子とキリスト教・景教のこと、この度の表題『「木嶋坐天照御魂神社の三柱鳥居」が日本唯一といわれるが!』をきっかけに勉強していきたいと思いました。
(記事投稿日:2022/08/26、#566)
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