『東洋のドーバー「屏風ヶ浦」の「通蓮洞」は、江戸時代に海底へ』
『名画「スタンド・バイ・ミー」の冒険物語の世界」が、ここ通蓮洞探検』
東洋の『ドーバーばばぁ』と英国の『セブン・シスターズ』の紹介の前に、ほんの少しアカデミックなところを比較してみました
東洋のドーバー ドーバーの
『屏風ヶ浦』 『セブン・シスターズ』
岩石の種類 砂と砂岩 石灰岩
色 茶色 白色
高さ 30-60ⅿ 50-150ⅿ
浸食速度 年間約50-70㎝ 年間約10㎝
浸食抑制 消波ブロック・遊歩道 なし
所謂、地球の表面積の約70%は海で、海洋の平均水深は約3,700ⅿ、陸地の平均標高は約840ⅿですので、遠い将来には『本当の「水の惑星」』になります。 平均標高と平均水深などどうやって計算したのか考えると、また、近いうちに『国会図書館の地図部』にお世話になりそうです。
先ずは、折角ですので欧州の本物のドーバーを紹介します。 ユニークな、エピソードは、日本の『ドーバーばばぁ』です。 2010年9月17日午前6時45分、イギリスのドーバー海岸から第一泳者が泳ぎ出した。 1時間ずつ、6人が、交代で泳ぎ、1人でもリタイヤすればその時点で挑戦は終了。 12時間後には太陽は沈んだが、暗闇の中を進む。 フランス側の海岸にゴールしたのは午後9時4分、14時間22分かかった。
遠泳と言えば、九十九里海岸の飯岡育ちですので、海峡でも、湾でも、見れば、知れば、横断したくなりますが、成功したのは、香港の浅水湾(Clear Water Bay)から深水湾(Deep Water Bay)への遠泳ぐらいで、後はすべて、①エントリーできず(香港のビクトリア・ハーバー横断、東京湾の一部の横断)または、②強制中断(房州大原港から大東岬へ遠泳)でした。
さて、このドーバー海峡の英国側の海岸にある崖を、さすが紳士のお国柄、『セブン・シスターズ』と名付け、それも『夕暮れのセブン・シスターズ』と呼び、称えた。
『セブン・シスターズ』ウエブ情報(セブンシスターズの画像)から引用
「屛風ヶ浦」([写真]左端に刑部岬の飯岡灯台)、から銚子市までの海岸線に、長さ約10㎞、高さ35ⅿ-60mの白い断崖絶壁が、英国のドーバー海峡の崖に似ているので、『東洋のドーバー』と呼ばれている。
ウキペディアから引用
千葉日報からの抜粋
屏風ヶ浦は、下総台地が波浪や風雨によって削られてできた海食崖。 自然侵食によって年間50㎝~1mベースで崖面が削られ、九十九里浜の砂を供給していたとされる。 1960年代に構築が始まった、崖際の消波ブロック・遊歩道で浸食は抑えられているが、反面、九十九里浜への砂の供給は減り九十九里浜は後退し深くなって来ている。 今でも所有者のわかる土地が海の底にあると言われ、鎌倉時代の海岸線は現在より数キロメートル先だったという。
何と、数世紀の間に、数十メートルの高さ、幅十キロメート崖が、数キロメートル後退した。 国会図書館『地図部』のお邪魔常連の自分としては、この屏風ヶ浦の浸食履歴と『昔の海岸線』は今後の調査課題です。 昔、遠浅の九十九里浜は大潮時にはかなり沖まで潮が引いたことを覚えています。 後退する九十九里浜の海岸からいろいろ、考えさせられます。
2011年3月11日の東北地方三陸沖地震の飯岡津波の被害が、『入り江もなく遠浅』の飯岡海岸で、大きかったのは、津波の第一波が九十九里の西端の大東岬で反射し、その反射波(というより、むしろ海岸流が正しい、土地の人々が津波は西からも来たといった)と第三波(東から来た)が飯岡港沖でぶつかり合成波になり、波高7.6ⅿにもなった。 一般に、津波の合成波は,岸とは平行になりますが、飯岡の場合は、ほぼ直角でした。この合成波は、幅が狭く、合成部分が盛り上がり、飯岡津波の被害は下永井地区の狭い範囲に集中した。
地震津波の合成波が飯岡津波のケースのように起こることは『稀有』のことと、いまだに信じています。飯岡津波の合成波再発がないことを祈っています。
屏風ヶ浦の旭市飯岡と銚子市の境に位置する潮見川の西側に通蓮洞『挿絵と解説』があります。
ウエブ情報の抜粋です。この風景は、多分江戸時代のものです。
[挿絵(ウエブ情報の通蓮洞の画像から引用)と解説]
銚子と飯岡の境に洞穴が出来て、下の海水が見えるので通蓮洞と呼びました。絵の中央付近に人が洞を見ている姿が描かれています。 旅人は、屏風を立てたような関東ローム層の崖と洞穴・絶景の眺望に旅の疲れを癒したことでしょう。 しかし、地元民は怒濤押し寄せる浸食は、「延命姫の怒りだ」と伝説物語に加筆をしたりします。 やがて穴は広がり陸地と離れ島ができます。
この島は、ハイスピードの海岸後退で、既に存在しません。 故郷の飯岡に、こんな伝説がありました。 通蓮洞に関わる悲恋物語『ウエブ情報』です。
陰陽師の安倍清明と夫婦になった長者の娘の延命姫は醜い顔の痣のために清明に嫌われ、逃げられてしまいます。 後を追った延命姫が通蓮洞のところに行ってみると、そこには清明の衣類と草鞋が残されていました。 絶望した姫は清明をしたって海に身を投げてしまいました。 然し清明は死んでおらず、姫を騙したという『悲しい物語』です。
安倍清明が飯岡に住んだという記録もなく、多分、当時、日本に大勢いた陰陽師達の作り話と言ってしまえば、それまでですが、『観光案内』では、こうも言っています。 『美男の安倍清明が長者の家に滞在した時に、長者の娘がこの美男に一目ぼれし、『逆夜這い』をかけ、翌朝に『酷い顔の痣』がばれて、清明が逃げ出した。』
この時代、『逆夜這い』など無かったと思いましたが、否、平安時代からありました南方伝来の風習で、特に、西日本で広範囲にあった『妻問い婚』です。
さて、最後にローカル且つ昔の話です。 千葉県旭市と旧飯岡町の間にあった旧三川村の子供たちにとって、ずっと後で公開された、かの有名な名画『スタンド・バイ・ミー』のほろ苦い子供達の冒険物語のような世界が、この『通蓮洞探検』でした。
[写真2] ウエブ情報(通蓮洞の画像)から引用
通蓮洞探検の最終ターゲットの『崖の上の洞窟』
この写真、崖の途中の洞窟・穴を一部の人達は、通蓮洞の跡といわれますが、記録・伝説・昔話によれば、これでは無さそうです。
『通蓮洞探検』は、旧飯岡町刑部岬直下から通蓮洞(正確には通蓮洞跡)まで約3kmを、35-60mの垂直の崖に沿って干潮時に現れる数メートル幅の砂浜を徒歩行で通蓮洞まで行き、縄梯子で『崖の上の洞窟』経由で屏風ヶ浦の台地に出て三川村に戻るものでした。
ガキ大将(自分・小学校6年)が、低学年生数人を引き連れて、当時『消波ブロック・遊歩道』もない、崖際には、崩れ落ちた青壁の塊が斜めに積みあがっており、その海側に干潮時に現れた数メートル幅の砂浜を急ぎますが、通蓮洞に到着したころには『潮が上げ始めてきて』その恐怖で、餓鬼どもが泣きだし往生し、脱兎のごとく崖際のもと来た崖下ルートを逃げ帰って記憶があります。 結局、通蓮洞の崖の洞窟ルートは登れませんでした。 今でも『あの時の恐ろしさ』を、自分も仲間も、夢に見ます。
(記事投稿日:2020/04/20、最終更新日:2024/11/24、#156)
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