『野球界の怪物探しは続く 4(この記事では敬称略)愛称「平成の怪物」松坂大輔』
『高卒一年目から3年連続最多勝、西武入団後の8年間で108勝、最多勝3度、最優秀防御率2度、最多奪三振4度、「やはり怪物」』
『甲子園時代の成績
- 3年生時の春は5勝0敗、奪三振43、防御率0.80
- 3年生時の夏は6勝0敗、奪三振54、防御率1.17
- 3年生時の夏決勝戦は史上2人目のノーヒットノーランを達成
- 新チーム発足以降の公式戦は44連勝無敗、自身は33勝0敗で27完投
とまさに「平成の怪物」!』
野球界の怪物探しで再確認できたこと、
❶時代・年齢を問わず、野球界にはオールラウンダー(複数の競技で能力を発揮する選手。 一つの競技でポジションを問わない選手。)が多いことです。
野球が『投げる・打つ・走る、且つ団体競技でありながら、投手対打者という一騎打ち的個人競技要素も入ります。 因って、昔の陸上競技経験者がしみじみと野球は凄いと感心している傘寿+3です。 『のっけ』から脱線で恐縮です。 自分は中学時代には、ハイジャンパーでした。 少しは中距離400m走も得意(記録は60秒フラット)でしたが、200ⅿは30秒、100ⅿは15秒と酷いもので、陸上部員としては、短距離失格で顧問の先生には、いつも怒られていました。
野球部員は凄い実感するのは! 中学校時代の運動部対抗リレー(200ⅿX4)では野球部はバトン代わりにバット、テニス部はラケット、卓球部もラケット等でした。 2又は3走の自分の所為でいつも、走るのが本職の陸上競技部が野球部に負けました。 野球部員にはオールラウンダーが多かったのです。
❷米国の『MLBの殿堂入り』と『日本のプロ野球の名球会入り』の条件が微妙に異なりますが、どちらでも怪物というだけではなかなか、それぞれの殿堂にも、名球会にも入れないようです。
『野球界の怪物探し』との関連もありますが、この詳細比較は次回にします。
先ずは、ウエブ情報の松坂大輔の抜粋のエピソードから、
5歳から小学3年生までは、地元東京都江東区の福住剣友会で剣道を、当時暴れん坊だった松坂を家族は強制的に入会させた。(後の野球教室では、「球を速くするにはどうすればいいですか?」という質問には「剣道をすると背筋と手首が鍛えられて良いよ」と答えている。)
横浜高校時代は、「サボリのマツ」と言われるほどの練習嫌いであったが、2年生時の夏の神奈川大会準決勝の対横浜商業高校戦において自身の暴投によるサヨナラ負けを喫して以降奮起して猛練習、3年生時に球速150km/h超を記録し、切れ味鋭いスライダーを武器に超高校級の投手として「平成の怪物」として注目を集めた。 甲子園で春夏通じて球速150 km/hを超えたのは松坂が初めてである。
高校時代の最後の夏となった第80回全国高校野球大会では、
- PL学園高校に延長17回という長丁場の試合に250球を投げ完投勝利。
- 翌日の準決勝、明徳義塾戦でも1イニングに登板し、逆転劇を呼び込む。
- 決勝の京都成章戦で史上2人目となる決勝戦でノーヒットノーランを達成。
圧倒的な活躍で春・夏連覇を達成した。 この決勝戦は後に所属するボストン・レッドソックスのスカウトが観戦していた。
甲子園での11勝を含む公式戦では44連勝、松坂投手自身は37試合に登板し、33勝0敗の恐るべき成績を残しました。 278回を投げて防御率1.13、11完封を含む27完投、奪三振324はまさに「平成の怪物」のなせる業ですね。
同年のドラフト会議で西武ライオンズから1位指名を受けて入団。 プロ入り後は西武やボストン・レッドソックスなどで活躍した。
入団時の一年目の凄いエピソードを一つ、日本ハム・阪神時代に活躍した片岡篤史の松坂との初対決です。
ウエブ情報から引用
1999年4月7日、西武のルーキー松坂との初対決で空振り三振を喫した日本ハムの片岡。 片岡は、当時を次のように振り返る。 「甲子園を春夏連覇した松坂のデビュー戦ということで、お客さん、報道陣の数も多かったですね。球場(東京ドーム)全体が異様な空気に包まれていました」 対戦前は「どんな投手なのか」という興味はあったものの、それでも相手は高校を卒業したばかりの投手。片岡自身も含め、日本ハムのベンチには「負けるわけがないという雰囲気だった」という。
しかし、初回の松坂の投球を見て、その意識が変わった。 「立ち上がりの投球を見て、『これは、ただの高卒ルーキーの投手ではない』と感じました。スライダーは、近鉄で長くクローザーを務めていた赤堀(元之)と同じくらいすごかったですし、西口(文也)や石井(貴)ら当時の西武にいたエース級の投手たちと遜色がないほどの完成度でした。あと、デビュー当時はまだ線が細かったですけど、体の強さも感じましたね」
しかし、初回の松坂の投球を見て、その意識が変わった。 「立ち上がりの投球を見て、『これは、ただの高卒ルーキーの投手ではない』と感じました。スライダーは、近鉄で長くクローザーを務めていた赤堀(元之)と同じくらいすごかったですし、西口(文也)や石井(貴)ら当時の西武にいたエース級の投手たちと遜色がないほどの完成度でした。あと、デビュー当時はまだ線が細かったですけど、体の強さも感じましたね」
片岡と松坂の初対戦は、初回二死、走者なしの場面。カウント2-2から松坂が投じたインハイへの155kmの直球を片岡が豪快にフルスイングするも、バッ走るのがトは空を切った。
『この三振尻もちの、次の打席で片岡は二塁打で二塁に進出も、この後の二人の打者を三振できり取る間、二塁走者の片岡を一切気にせず、振り向きもしなかったそうです。』 この片岡のコメント『凄い投手だと思った。』
を何かの機会に知りました。
「当時、自分は調子がよくて、伊良部(秀輝)の球でも空振りしない自信がありましたし、四球を取ることにも自信がありました(1998年・2000年の四球数はリーグ最多)。普段であれば、あのコースは見逃していると思うんですが、直球が来た時にストライクと思って振りにいきました。あんなふうに足から崩れるような空振りは、現役時代を通じてあまりしたことがないんですけどね。
当時の東京ドームはスピードガンで球速が出にくくて、伊良部でも150kmが計測されることは稀でした。そんな中での155kmですから。『可愛い顔をした兄ちゃんが、こんなにエグい球を投げるのか』と(笑)。松坂はメジャー時代もすごい球を投げていましたが、日本のマウンドで投げた球の中では、最高の球だったんじゃないかと思いますね」
勢いづいた松坂は、デビュー戦で8回2失点と好投し、プロ初登板・初勝利を挙げた。以降もイチローをはじめとした球界を代表する打者たちと名勝負を演じるなど、長らく西武、日本球界のエースとして君臨し続けた。片岡は言う。
「イチローと松坂の対戦は野球界を盛り上げましたし、僕らも松坂と対戦する時は気持ちの入り方が違いました。特に自分は、あのように豪快な空振り三振を喫していたので、余計に気持ちが入っていましたよ」
衝撃のデビュー戦から積み上げた白星は、日米通算170勝。その過程には、2011年のトミー・ジョン手術をはじめ、度重なるケガがあった。「170勝が多いのか少ないのかはわかりませんが、ケガがなければ200勝以上勝てたと思います。近年は佐々木(朗希)にしても、奥川(恭伸)にしても、"高卒投手の1年目は体作り"という傾向があります。仮に松坂がそのようなステップを踏んでいたら、もっとすごい成績を残していたでしょうね」
最後に、引退を決断した松坂に対しての思いを聞くと、片岡はこう答えた。「苦しかっただろうな......と思いますね。高校時代もプロ入り後も、あれだけの多くの球数を投げ、加えてメジャーや国際大会の舞台でも投げ続けてきました。そうとう肩や肘を酷使してきた投手ですから。引退後はゆっくり休んで、体をいたわってほしいです」
日本代表ではWBCで2度優勝している。 アテネオリンピックの銅メダリスト。 21世紀初の沢村栄治賞受賞者。 ゴールデングラブ賞をパ・リーグ投手最多記録となる7回受賞。
投手として西鉄ライオンズでは2度のリーグ優勝、1度の日本シリーズ優勝に貢献。 ボストン・レッドソックスでは1度の地区優勝、1度のリーグ優勝、1度のワールドシリーズ優勝に貢献した。
MLBメディアでは「Dice-K」と呼ばれた、
ウエブ情報から引用
日本代表では第1回WBCと第2回WBCでエースとして貢献している。
(記事投稿日:2024/11/29、#973)
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