知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『風化させてはいけないこと 1(苦海浄土-わが水俣病 2)』 『映画が、今も終わらぬ水俣病の現場で庶民に迫り民主主義を問う』

2021-12-07 09:17:59 | 読書

『風化させてはいけないこと 1(苦海浄土-わが水俣病 2)』

『映画が、今も終わらぬ水俣病の現場で庶民に迫り民主主義を問う』

『悲惨な公害災害を風化させやすい風土を一人一人が変える意識を』

ウエブ情報から引用

このテーマについて備忘録を作っていましたところに、先日(20211204)の日経新聞文化欄に紹介されていました。 そのタイトルが『庶民に迫り民主主義を問う』でした。 見出し『ドキュメンタリーの第一人者、原一男監督が水俣をとった。 未認定患者の裁判闘争、高齢化する患者たち。 19070年代に水俣連作を撮った土本典昭に続く『中継ぎ投手』を自任する原は今も終わらぬ水俣病の現場で、庶民に迫り民主主義を問う。』 

『20年かけた6時間余の大作『水俣病曼荼羅』は2004年の水俣病関西訴訟の最高裁判決から始まる。 従来の認定基準を否定する根拠となった浴野成生熊本大教授らの医学的知見、対応の鈍い行政、その後も続く裁判。 一方で日々を生きる患者たちの結婚や恋など、その素顔と葛藤ににせまる。 土本が水俣連作を撮った昭和の時代は権力との闘いが広く支持を得ていた。』とありました。

風化させないために、水俣病(公害・災害)を以前、備忘録に残しましたものを、一部再掲載しました。 ご覧のお方はご放念ください。

水俣病患者たちに共通な症状は『初めに、手足の先がシビレ、ものが握れぬ、歩けない、歩こうとすれば、ツッコケル、ものが言えない、言おうとすれば、一言ずつ長く引っぱる、甘えるような言い方になる、舌も痺れ、味もせず、吞み込めない。 目が見えなくなる。 聞こえない。 手足がふるえ、全身痙攣をおこして大の男、2,3人がかりでも押さえ切れない人も出くる。 食事も排泄も自分でできないという得意で悲惨な有様であった』

取材状況が解かるあとがきを、先に読むのも読書方法のコツかも知れません。 あとがきから、死につつある患者の悲痛な声。 

『銭は一銭もいらん。 そのかわり、会社のえらか衆の上から順々に水銀母液を飲んでもらおう。 ・・・。 そのあと順々全員に、全員に死んでもらう。 奥さん方々にも飲んでもらう。 そのあと順々に死んでもらう。』  これ以上の凄まじい発言はありません。

余談です。 

  • 本には、生涯忘れられない場面が、表現がある。 浅田次郎著『蒼穹の昴』のなかにある『自ら浄身(去勢)して、その後の自ら治療する』という場面。 
  • 映画には、最後まで見ようと何回トライしても、悲し過ぎて、それができない『火垂るの墓』(野坂昭如原作)などがあります。

後期高齢者になると、物事にそれほど驚かな。なりますが、石牟礼道子氏著1969年1月28日、第1刷発行のこの本『苦海浄土-わが水俣病』は凄かった。  乱読の自分は、10冊前後を並行読みしますので、どうしても、数頁から数十頁を間欠的に読むインターバルリーディング(勝手に名付けた)に、いつも、結果的にはその間欠読みなってしまいます。

この本は読み始めて、すぐに、凄まじい内容で、一気に読めそうもないので、意図的にインターバルリーディングで読みました。

横道から戻ります。 先ずは、ウェブ情報から;

『苦海浄土-わが水俣病』1950~60年代の日本の公害問題を知る上での原点ともいうべき本であるとともに、そこに込められた深い問いやメッセージの普遍性から「20世紀の世界文学」という評価も受けている名著です。

1969年に出版された『苦海浄土-わが水俣病』は、翌70年の第一回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれるも、石牟礼道子(いしむれ・みちこ)氏は受賞を辞退しました。その理由は公表されていません。

 

これも、ウェブ情報です。 それから、5年後には;

『複合汚染』は有吉佐和子の長編小説。 1974年から1975年まで朝日新聞に連載され、連載中から大きな反響を呼び、連載終了前の単行本上巻・下巻とあわせてベストセラーとなった。 現在でも環境問題を考える上でしばしば言及されるロングセラーとなっており、レイチエル・カーソン『沈黙の春』の「日本版」にも例えられる。

 

『苦海浄土-わが水俣病』前半の中のキーワード

❶胎児性水俣病

誕生日が来ても、2年目が来ても、歩くことおろか、這うことも、しゃべることも、箸を握ることも出来なかった。 4~5年たっても良くならず、村道の奥の家々で寝転がされたまま、肉親や、猫や、舟虫の気配を全身で感じながら暮らしてきた。 これ地獄絵です。

 

➋患者番号16号

さて、この水俣病の患者の一人に、山中九平少年がいます。 少年16歳は、迎えに来る専用バスで検診に行くことをガンとして拒んでいた。 父親を早く失くした少年は、この少年の発病の一年後に発病した姉と、二人は、母親57歳と一緒に生活している。  この少年は、立ち振る舞いが不自由で、胡坐でラジオを抱えて、ひねもす野球・相撲を聴いている。

周囲の患者が楽しみにする、唯一、仲間と交流のできる検診を、唯一人、頑なに拒む、強い意志はどこから来るのでしょうか。

少年は、将来背負う『さらに進行する水俣病』を知る術もなく、周囲の患者たちの背負った、『水俣病末期症状』もまだ知らず今の苦しみを形に変えて世の中に反抗しているのでしょうか。 これ無残です。

 

❸魚好きの猫達は

船の墓場と化した港に浮上した死魚や生魚を食べた猫は『月の浦の猫は舞うて死ぬ』と噂されるようになった。 又『猫たちが、くりくり舞うかと思うと、酒に酔うたごつしてチドリ足で舞うとです。舞うのがきつくなると、地面ば鼻の先でこすって、鼻の先がちょろりと剥けよった』   猫は無実で、人間の『業』を想います。

 

❹回避できない風評

この水俣病の調査をする二つの研究機関が、原因は『水俣湾で獲れる魚介類に含まれる有機水銀が有力』と中間発表した後の、水俣鮮魚小売組合の声明『水俣の漁民が獲った魚は絶対売らない』と。 さらに小売店は『当店の魚は、遠洋ものばかりです』と張り紙を出したら、逆に恐れて、お客が寄り付かなくなった。 

 

❺奇病の発生と発表

漁民はいう、『今考えて、本当に残念に思うのは、原因も分からんじゃったせいもあるが、正式には昭和31年4月に奇病の発表があったわけですが、こうなるまで、患者も漁民も4年もほったらかしじゃったことですよ。  実質的な発生は昭和28年暮れですから』、この困難な、因果関係の立証が難しく、さらに暫定の対策は打てない、地方町村の企業誘致の難しさ。

この汚染公害の問題は、工業化・経済発展最優先の中で避けられなかったのでしょうか。 それでもこの公害の問題は、遅きに失した対策が実現されていますが、これは地球上のいろんなところで起こる局部的事象です。  

地球規模の現在の温暖化は、海水温を上昇させ、『異常深層海流』と異常気象の原因となっており、対策はさらに大変です。 超巨大スケールの対策『地球を冷やす術』がありませんので・・・。

(記事投稿日;2021/12/07、#437)


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