『司馬遼太郎氏の「街道をゆく 肥薩のみち」(歴史・地理・人の考察)1』
『1971年、作者47歳の時に「週刊朝日」に読み切りに連載を開始、1996年2月の逝去により、43冊目の「濃尾参州記」を最後に絶筆』
『自分には、同氏の小説は「空海の風景』と「峠」が最高。紀行文集「街道をゆく」は、これから読んで残り少ない余生の中で「何ができるか」考えたい』
1984年刊の街道をゆく22巻「南蛮のみち I」で第16回日本文学大賞を受賞。 1994年刊の「台湾紀行」では、台湾問題に対し直截的な意見を述べた。 当時の総統李登輝(司馬作品の愛読者でもある)とも対談し、李が総統就任後初めて台湾の本土化政策に言及した際、司馬は両岸問題に対する中国の姿勢を批判した。 のちに対談の内容が明らかになると、中国及び台湾、日本、アメリカで大きな波紋を巻き起こしたことがありました。
今回は、NHKBS『肥薩のみち』、旅の時期は1972/03/22~03/24の再放送を見ました。 強烈な印象を受けたのは『古代大和朝廷の時代より「熊襲(くまそ)」と「隼人(はやと)」という独立性の高いふたつの民が暮らしていたと記録に残る「肥後」と「薩摩」』という1節でした。 なんと、『この「熊襲(くまそ)」は、邪馬台国の卑弥呼の記録がある「魏志倭人伝」のも載っています』ので、早く、宮崎・熊本の旅を実現したいと思っています。
ウエブ情報から引用
このふたつの地は、江戸から幕末、そして明治にかけて対照的な歴史をたどる。 『江戸時代、島津氏のもと独自の気風を養い、明治維新、西南戦争へと突き進んでいった「薩摩」と、それを抑え込む働きを与えられた「肥後」』、この因縁に歴史は凄い、の感を強くしました。
さらに剣について、印象深かったのは『示現流』でした。沖縄空手のルーツは比較的理解しやすかったのですが、薩摩の『示現流』の由来、
『流祖の東郷重位は、元々はタイ捨流を学んでいたが、京都で善吉和尚より天真正自顕流を相伝し、両流派の利点を創意工夫した上で新流派「示現流」を立てた。 技術・系譜的には天真正自顕流の流れにあり、型ではタイ捨流を仮想敵としている。』
タイ捨流
『タイ捨流の「タイ」という言葉には、「体・待・対・太」などの複数の漢字が当てはまる。 「タイ」と仮名で書くのは、「体」とすれば体を捨てるにとどまり、「待」とすれば待つ、を捨てるにとどまり、「対」とすれば対峙を捨てるにとどまり、「太」とすれば自性に至る…といったそれぞれの意味が含まれるからである。 漢字では意味が限定されてしまうが、仮名で表すことで何れの意味にも通じることができる。 「タイ捨」とは、これらのすべての雑念を捨て去るという事、ひとつひとつの言葉にとらわれない自由自在の剣法を意味する。』
『示現流』の特徴は、『一の太刀を疑わず』または『二の太刀要らず』と云われ、髪の毛一本でも早く打ち下ろせ(『雲耀』うんよう)と教えられる。 初太刀から勝負の全てを掛けて斬りつける『先手必勝』の鋭い斬撃が特徴である。 新選組の近藤勇は『薩摩武士の初太刀は避けろ』と言っていたそうです。 但し一般のイメージとは異なり、初太刀からの連続技も伝えられており、初太刀を外された場合に対応する技法も伝授されている。
稽古には柞(ゆす)の木の枝を適当な長さに切り、時間をかけて充分乾燥させた物を木刀として用い、立木に向かって気合と共に左右激しく斬撃する「立木打ち」など、実戦を主眼に置いた稽古をひたすら反復する事に特徴。 達人ともなれば、立木に打ち下ろすとき煙が出る。
司馬遼太郎も見られた示現流の稽古
片膝を地下手に着くと同時の、凄まじい一撃
ウエブ情報から引用
掛け声は「エイ」であるが、あまりに激しいため「キィエーイ」という叫び声にも似たものとなる。 この掛け声は分派である薬丸自顕流にも受け継がれている。 しかしこの各派共通の反復練習と猿叫は意味を知らぬ者に否定的に見られることもあり、幕末期の薩摩藩主・島津斉彬が薬丸自顕流の稽古を見た際に、「気違い剣術だ」と蔑んだと云われている。 掛け声が「チェスト」とされることもあるが、これは剣豪小説で広まった創作。
やはり『示現流』は奥が深く、これからも、未来永劫の継続に期待して『示現流』の勉強をしていきたいと思いました。
(記事投稿日:2024/03/11、#734)
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