知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『キリスト教徒とイスラム教徒の攻防は、スペインの要塞都市・ クエンカから』 『レコンキスタは、イベリア半島北部で始まり、南部のグラナダ で奪還が完了』

2023-08-07 22:52:25 | 歴史・世界・中世ー現代
『キリスト教徒とイスラム教徒の攻防は、スペインの要塞都市・
クエンカから』
レコンキスタは、イベリア半島北部で始まり、南部のグラナダ
で奪還が完了』

この表題に備えて予備情報です。

キリスト教は、ヨーロッパ生まれの巨大宗教で、レコンキスタ当時は、ヨーロッパ中がキリスト教の影響を受けまくっています。

イスラム教はアラビア半島で生まれた宗教で、610年に始まって以来、色んなイスラム教の国が生まれたり消えたり、他の地域に攻め込んだりしていました。

イベリア半島は、ヨーロッパの南西にある半島です。現在は、スペインとポルトガルがあります。レコンキスタの舞台となった場所です。

崖上の要塞都市グエンカ スペイン北東部

 ウエブ情報から引用

この『魔法にかけられた街』『空中都市』とロマンチックな異名を持つクエンカはその名の通り、まるで絵画を見ているような風景の街。 実際に遠くから見ると断崖絶壁にあるクエンカの街は宙に浮いているように見えるそうです。

スペイン東部のカスティーリャ=ラ・マンチャ州にあるクエンカは、9世紀にイスラム教徒によって、フカール川沿いの石灰岩の岩山の上に築かれた要塞が起源。 その後、12世紀にカスティーリャ王国のアルフォンソ8世がレコンキスタによってこの都市を奪還し、ここに王国の主要都市を建設しました。

1257年頃に建造されたクエンカ大聖堂

ウエブ情報から引用

20世紀にはファザードが再建されていますが、実はいまだ未完成のまま。

 
ファザード
 建築物の正面部分(デザイン)のことである。フランス語に由来し、英語のfaceと同根[要出典]。最も目に付く場所であり、町並みを形成するもので、設計上、重要視される。

スペインのクエンカにあるクエンカ大聖堂は、1196年から建設がはじまりましたが、現在も未完成のままで、20世紀初頭に再建されたファサードが美しい大聖堂です。 ここはスペイン唯一のノルマンディー・ゴシック様式の大聖堂で、アビラ大聖堂と共にスペイン最初のゴシック様式とされ、北側の交差廊などにはルネサンス様式の装飾も見られます。

聖堂内の周歩廊は二重となっており、三連窓やアロンソ・ベルゲーテによって彫刻が施されたプラテレスコ様式の扉などがあり、正面に向かって右側の博物館には祭壇画や絵画など貴重なコレクションも見ものです。 また、今ではクラシックコンサートも開催されています。

サクラダ・ファミリアのように建造が進んでいる様子もないので、クエンカ大聖堂がいつか完成する日が来るのかは謎のまま。 とはいえ、クエンカ大聖堂はスペイン最古のゴシック様式建造物のひとつで圧巻の美しさがあります。

城砦グラナダとアルハンブラ宮殿 スペイン南部中央

ウエブ情報から引用

今後の、スペインの中世史調査のために、イスラム教と、キリスト教と、レコンキスタとが理解できるウエブ情報の抜粋・引用です。

スペインは紀元前200年頃からローマ帝国の支配下になり、ローマの進んだ技術がスペインに伝わったことで数多くの建築物が建てられた。 スペインの代表的な都市は新しくできた街であるマドリードを除けば、ほとんどこのローマ時代に起源を持つか、あるいはそれ以前にあった町がこの時代に本格的に発展したものと言われている。

しかしローマ帝国が崩壊すると北ヨーロッパ系の西ゴート族がスペインに侵入し5世紀前半にはスペインを制圧。 スペインは西ゴート王国となり、ここまでがスペインにキリスト教文化が根付くまでの歴史。 こうしてローマ帝国とその後の西ゴート人による支配によってキリスト教の土壌がスペインに出来上がっていくことになる。 しかし、それも長くは続かない。

ここで、イスラム教徒が登場時は西暦711年。 北アフリカから押し寄せたイスラム教徒の軍勢が西ゴート勢を圧倒。 彼らは破竹の勢いで侵攻し、スペインを一気に北上していく。 その勢いはとどまることを知らず、西ゴート勢はピレネー山脈の辺りまで撤退することとなった。

これによってスペインのほとんどがイスラム教勢力によって制圧され、ここからスペインはイスラム教徒の国へと姿を変えていくことになった。 イスラム教徒は、なぜこんなに簡単にスペインを手に入れてしまうほど、強かったのだろうか。

イスラム教は西暦610年頃、ムハンマドが神の啓示を受けたことによって始まった宗教で、ムハンマドが亡くなった西暦632年の後も、彼の教団は爆発的な勢いでアラブ地域や西アジア、さらには北アフリカ地域にも広がっていった。 そして680年頃にはシリアのダマスカスを首都としたウマイヤ朝という王朝まで成立する。 これがイスラム帝国のはじまり。 つまりイスラム教という宗教が単なる宗教教団という枠を超えて、国家そのものになっていったのだ。 

スペインへの進撃はイスラム帝国がさらに領土を拡張していこうという流れの中から生まれてきたもので、アラブからエジプトに入り、ひたすら西へ進みモロッコへ。 モロッコからスペインは海峡を隔てて目と鼻の先だ。 そしてイスラム帝国の強みは、違う民族同士でも、イスラムという信仰の絆によって協力が可能だった。

北アフリカからスペインに進軍していくときも、どんどん仲間が増えていく。
たとえ民族や言語が違ったとしても、イスラム教徒でさえあれば同盟は成立する。 内紛ばかりしていた西ゴート人では一枚岩のイスラム帝国軍になす術もなかったことだろう。(同じ一神教のキリスト教徒とは異なるようです。)

イスラム教徒の土地となったスペインは、他のヨーロッパ世界とは異なった独自の世界を構築していくことになる。 特に8世紀後半以降からスペイン南部のアンダルシア地方でイスラム文化は花開き、特にコルドバは当時世界に誇るほどの大都市となっていった。

その繁栄ぶりがいかに大きなものであるかというと、10世紀当時の全盛期ではコルドバ市内に600のモスク、300の公衆浴場、50の病院、17の高等教育施設、そして何十万冊もの蔵書を持つ20の図書館が存在していた。

当時のヨーロッパではコンスタンチノーブル(現イスタンブール)を除けば人口3万人以上の街はほとんどなく、ましてや上に挙げた公共施設などほぼ存在していなかったというありさまだったという。 ヨーロッパ暗黒時代とスペインイスラム世界の繁栄ぶりの差はここに極まったと言えるだろう。

レコンキスタ、
とは再征服、国土回復戦争という意味。 つまり、ピレネー山脈まで押し出されたキリスト教徒がイスラム教徒に奪われた土地を再び取り返していく戦いをレコンキスタと呼んだ。 始まりは722年、711年にイスラム軍が侵略してキリスト教徒がピレネー山脈まで追い出されたすぐ後。

実は割と早くに戦いの火蓋は切って落とされていたのだったが、国土奪還は遅々として進まなかったのが実情。しかし、西暦1002年、ついに膠着状態が破られる。 スペインをまとめていたコルドバの最後の王が亡くなり、イスラムの領土は多数の小国に分裂していったこと。 スペイン全土は小国同士で覇権を争う戦国時代に突入。

これが転機となりキリスト教徒勢が一気に攻勢をかける。 そして1085年についにトレドを奪還。 その後もレコンキスタは続き、1248年までにはスペインに残るイスラム教の国はグラナダを残すのみになった。

上納金をスペインキリスト教国の王に納めることでなんとか生きながらえていたグラナダ王国であったが1492年、ついにこの国も陥落。 これでレコンキスタは完了し、スペインはキリスト教国たるカスティーリャ王国によって統一されることになった。

ここからスペインはキリスト教全盛の時代へと入っていき、1517年ルターによって始められた宗教改革に対しては、反宗教改革の中心地として大きな役割を果たしていくことになる。 スペインはローマカトリックと密接なつながりを持った国だ。

もともと古代ローマ帝国の支配下だった影響やレコンキスタを支えたのもローマカトリックの流れ、だからこそルターが宗教改革を始めた時も、ローマカトリックを擁護しプロテスタントに反対する立場を表明した。 それほどスペインはローマに匹敵するほど熱烈なカトリック信仰を持つ国。

スペインはイスラム文化が花開いた国でもあり、カトリック文化が花開いた国でもある。 どちらも歴史上最高峰の文化遺産を、残してくれている。
スペインがヨーロッパでも独特な文化を持っているのも、イスラム教徒の支配とキリスト教徒によるレコンキスタによる影響がものすごく大きい。

スペインの歴史に、ますます興味津々です。
(記事投稿日:2023/08/07、#678)
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