『日本の城郭 9(江戸城の半蔵門は、江戸時代も現代も正門?)』
『江戸時代大名は大手門から、明治以降国賓は皇居正門から』
『半蔵門は、吹上御苑内に両陛下のお住まいである御所がある事で、便利さで』
半蔵門については、いろいろな説が、先生方から出ていますが、江戸城の縄張り、特にお堀の水位差(半蔵堀と千鳥ヶ淵の水面・海抜16ⅿ、その他の江戸城の堀・水面・海抜4mと、堀の水面レベルの「差」が、なんと12mを見ると、板橋構造を造れず、やはり土橋の搦め手門であったと考えられます。
皇居正門、二重橋(にじゅうばし)は、東京都千代田区千代田の皇居内にある橋の通称で、正確には皇居正門から長和殿へ向かう途上、二重橋濠に架かる鉄橋のことで、本来の名称は正門鉄橋(せいもんてつばし)である。 ただし正門鉄橋と正門石橋の二つの総称としても用いられている。
現在の半蔵門、今はヒッソリとした、ただ住まいだが重要な使途が;
天皇陛下および内廷皇族(皇后、皇太子ご一家)は「半蔵門」が用いられるが、他の皇族は「乾門」を使用する。 このことが正門であることを裏付けると?
ウキペデイア情報から引用
江戸時代の半蔵門、当時は桝形門であり五街道唯一の甲州街道直結の正門か?
ウキペデイア情報から引用
普通、半蔵門は、江戸時代から現代までも『歴とした搦手門(大手門・正門ではない』と判断されていますが、『江戸城・皇居の半蔵門は、江戸時代も現代も正門だった』とする竹村公太郎氏の説があり、俄然調べてみたくなりました。
今回テーマの、サブタイトル『(江戸城の半蔵門は、江戸時代も現代も正門?)』については、ベストセラー『日本史の謎は「地形」で解ける』の中で、著者・竹村公太郎氏は、次のように説明してます。
① 東海道、中山道、奥州道、日光街道は、江戸城(現皇居)に直結しないが、唯一、甲州街道(都内に入ると新宿通り)だけが江戸城に直結していること。
② そして、この甲州街道(新宿通り)は尾根道であること。(街道の安全は最も大切な条件であり、どんなに雨が降っても浸水せず、頭上から敵が攻めてこないことという条件を甲州街道は満たしているとのこと。)
③ 江戸古地図では、甲州街道(地図の下部)から見る江戸城の「御城」という文字が正立していること。
ウエブ情報から引用
大手門や二重橋は半蔵門と正反対にある低平地で入江を埋め立てた危うい、土地であったこと。 さらに、新宿通りを挟んで、平河町の全日東京会館方面は傾斜して下っているし、半蔵門郵便局側にも傾斜している。 そして、江戸時代の麹町周辺は一番町、二番町という番町地名に見られるように、徳川幕府の親衛隊(旗本1番隊、2番隊、3番隊)の住宅地区であり、まさに江戸最高レベルの治安空間であった。
これでもまだ、半蔵門が正門か裏門かは判断はできない。 半蔵門についてのウエブ情報です。
半蔵門は城の西端に位置し、まっすぐ甲州街道(現・国道20号)に通じている。 大手門とは正反対の位置にある。 半蔵門の名称については、この門の警固を担当した徳川家の家来服部正成・父子の通称「半蔵」に由来するとする説が定説であり、服部家の部下(与力30騎、伊賀同心200名)がこの門外に組屋敷を構え、四谷へと通じる甲州街道(現在の国道20号)沿い一帯が旗本屋敷で固められていたことに由来するという。
これは、非常時に将軍を甲州街道から幕府の天領である甲府へと安全に避難させるためと言われている。 その意味では、半蔵門は江戸城の『搦手門(大手門とは反対の、城や砦の裏門)』にあたる。
従って、徳川幕府は、この半蔵門を江戸城の裏口として、いざという時の将軍の脱出口として縄張したように、一般的には、理解されるいる。 それに対して、『本当は、この堅固な土橋の半蔵門は「ここから城を出て戦い、守る。 攻められても、この土橋を守り抜く不退転の覚悟で縄張りされた正門」であるから』と、これが、竹村公太郎氏の説であると、自分は理解しました。
ここで土橋のウエブ情報です。
城に設けられる土橋は橋ではなく堤で、堀をめぐらす中で、出入りのための通路を細い土手として残したものである。城の設計では、堀の通行に木橋を設けるか土橋を設けるかの選択があった。土橋は戦闘中に攻撃側にも防御側にも破壊できない。直接的な攻防があれば土橋は守る側の不利に働くが、木橋では守る側が橋を落として封鎖することも容易で、長短がある。但この様な橋の構造をした時点で敵の進入路を直線的かつ限定的にするので、守る側にとっても長所はある。
時々、利用する国会図書館からJR有楽町駅までは、下り坂でもあり、のんびりと歩きます。 いつも気に懸かっていたのが『半蔵門』とその門に続く『土橋(城における土橋は橋ではなく堤)』の北側の、繰り返しになりますが、半蔵堀と千鳥ヶ淵の水面(海抜16ⅿ)、その他の江戸城の堀・水面(海抜4m)と水面レベルの『海抜差』が、なんと12mもあります。 半蔵掘りの『石垣ではなく、土塁の上に鉢巻き石垣』という設計(縄張り)であるため、堀の『海抜差』を水平にはできなかった。
これで解ったことは、板橋にするには、半蔵掘りを12ⅿ下げることが必要になるが、半蔵掘りは土塁であり、土木工事上無理があったので、土橋にしたということと判断しました。
ここで、大阪城との比較です。
大阪城も同じでした。 『大手門』と豊国神社に続く『南外堀の水面(海抜18ⅿ)、その他の大阪城の堀・水面(海抜10m)と水面レベルの『海抜差』が8mもあります。 従って、堅城大阪城の大手門は土橋でした。
江戸城は、尾根状の麹町台地の東端に、大坂城は、尾根状の上町台地の北端に、位置しており、この巨大な平山城の総掘りは堀水面段差(土橋の堤で区切る)を設ける縄張りで築城されている。
結論ですが、江戸城も大阪城も、『大手門か搦手門』には関係なく、土橋は堀の水面の『差』維持の堤防を兼ねた堤であり、土木工事上の理由で土橋になったと思ってます。
因みに、江戸時代の正門は、現在の大手門であり、現在の皇居の正門は二重橋で、この『通称二重橋』は正確には正門鉄橋のこと、江戸時代の木造橋時代に橋桁が上下二段に架けられていたことがこの名称の由来です。
半蔵門は、門内の吹上御苑内に両陛下のお住まいである御所がある事で、庶民的な解釈ですが、便利さで通用門として使われているのではないでしょうか。
(記事投稿日:2019/06/12、最終更新日:2023/03/30、#102 )
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