『石工・穴太衆(あのうしゅう)が、城の石垣造りで時代に影響した』
―信長が焼き討ちした比叡山→安土城→石垣山一夜城等の石垣―
昔、広島県出身の先輩のお宅に伺ったことがありました。 その往復路の車窓から見る田圃の仕切り・畦道が高い低いに関係なく、石垣だったことに驚いたことがありました。 理由は、関東地方、特に自分の故郷、千葉県の東総地区の田圃の仕切りと畦道は、高さにはあまり関係なく、毎年田植え時期には、泥を積み上げ、漆喰のように塗り上げたものが多かった記憶があります。
比叡山焼き討ちは、1571年9月30日に、滋賀県の比叡山延暦寺で行われた戦い。 この戦いで織田信長は僧侶、学僧、上人、児童の3,000~5,000人の首を刎ねたと言われている。 またこの戦いはルイス・フロイスの書簡 にも記載されていると記録ある。
比叡山焼き討ち(山坊の後始末で石垣が崩せなかった、穴太衆の石工(いしく)の技術が、後の信長・秀吉の築城に影響)
ウキペデイアより引用
安土城大手道(大手門を入って、すぐの直線の大手道の風景、信長は『城を当てに』戦うことなど、微塵も考えなかったし、一説には天皇送迎のためか)
ウキペデイアより引用
安土城は六角氏の観音寺城を見本に総石垣で普請された城郭であり初めて石垣に天守の上がる城となった、ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となった。 そして普請を手がけたとの由緒を持つ石垣職人集団『穴太衆』はその後、全国的に城の石垣普請に携わり、石垣を使った城は全国に広がっていった、と言われている。
石垣山一夜城 南曲輪の石垣(石切り場は近くにあったようですが、それでも総石垣の総構えの城郭を、およそ80日間で完成した秀吉・官兵衛は凄い)
ウエブ情報より引用
城郭の本格的な総石垣積みは、関西よりも関東は大分遅れて始まりました。 それまでの関東の城郭は殆どが、土塁・空堀・堀等の構えの構造であったようです。 豊臣秀吉が1590年の小田原征伐の際に小田原城の西3㎞にある笠懸山の山頂に構築した石垣山一夜城は、石垣や櫓を備えた本格的な「近世城郭」であり、関東で最初に造られた総石垣の城であったとされる。 石垣山一夜城までは石垣の積み方としては、初期の『野面積み』が一般的でした。
外国人が日本の城郭に魅かれるのは、石垣の反りと直線、5重5層・5重6層の秀麗な天守閣と、その屋根の破風だそうです。 以前桜田門でお会いしたドイツ人旅行者・カメラマンがこの破風(切妻破風・入母屋破風・千鳥破風・唐破風)の種類まで精通していたことに驚かされたことがありました。
(20201009纏め #233)
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