原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

再掲載 「左都子の『経済史』小講座」

2024年09月19日 | 学問・研究
 (冒頭写真は、1985年頃に 我が2度目に入学した大学にて受講した「経済史」の定期試験対策として、私が模範解答??としてまとめたもの一つ。)



 昨日(2020.05.03)に引き続き、本日は2度目に入学した大学の2年時に受講した「経済史」の定期試験対策としてまとめた解答を紹介しよう。
 (繰り返しますが、2度目の大学にての我が専門は「経営法学」であり、決して「経済学」ではありませんでした。  さらに参考ですが、我が1度目の大学にての専攻は「医学」でした。  内容は順不同です。)


        

        

        


        


        

        

        


        


        


        


        

        


        

        



 いやはや 過去に公開したエッセイ内の「写真」を再公開する作業とは、実に難儀であることを実感させられます。😱 
 特にこのように同じ様な文面形式の写真のひとつひとつの分別作業は、神業に近い程の困難さでした。😫 

 よって、おそらく同一写真がダブっていないとは思いますが。
 掲載していない写真がもっとあったかもしれません。



 この「経済史」の授業は2度目の大学2年次に受講したが、おそらく必修ではなく選択科目だったと記憶している。

 ご覧のごとく大変厳しい授業だった。
 指導教授氏が実に真面目で熱心な方で、頭が下がる程にきちんと専門を教授して下さった。
 残念なことに学期途中で60代前半の若さで急死され、その後どうなったのかの記憶がない。  今講義ノートを見直すと、63年1月29日までノートがとられているため、おそらくほぼ年度の授業を終える頃に急死されたのだろう。

 参考だが、私が2度目に通った大学・大学院は首都圏に位置するさほど規模の大きくない歴史ある公立大学だ。 もしかしたら世間では“2流”のイメージがあるのかもしれないが??  何の何の素晴らしい教授陣を揃えた、「一流」の授業提供が特徴だったのではあるまいか?!!
 2度目に入学する大学・大学院としてこの大学を選んだのが大正解だったと、今でも感謝している。😀



 2024.09 現在の後記だが。

 上記写真の原本である「2度目の大学講義ノート集」は、今現在尚 我が書斎にずらりと陳列してある。

 膨大な数の「学術資料集」とも言える“しろもの”であり。
 少し前までは、我が家を訪ねて来られる“学問好き”連中が、必ずや「この莫大な資料は何??」と興味深そうに尋ねて下さっていた。😜 

 私が、「私の2度目の大学の授業ノートをまとめたものですよ。」と自慢げに応えると。 
 「ちょっと見ていい??」と尋ねて下さるので。
 「ご自由にどうぞ!」と応えるのが我が内心の楽しみでもあった。😁 


 高齢域に達した今となっては、その種の友も激減してしまっているが…😭 

 とにもかくにも、私本人にとっては何にも勝る“完璧自作”の「学術資料集」であり。
 はたまた 我が過去の「学業経験証明書類集」とでも言える、貴重な蔵書である。


我ら哺乳類が恐竜の影を出て、新たな覇者になるまでの3億年のドラマ

2024年09月12日 | 学問・研究
  (冒頭写真は、2024.09.07付朝日新聞「書評」ページより転載したもの。)


 9月も中旬に入って尚、私が住む東京では連続猛暑日が続く日々だ。 この猛暑、後1週間程日本列島に居座るとの報道もある。😫 
 哺乳類として生まれ出た人間である私の生命も、こんな厳しい気象状況の中いつまで持つのだろうか?? と不安感に煽られたりもする昨今の地球環境だ…


 そんな折に 朝日新聞「書評」ページより、表題にて紹介した話題が取り上げられている書物の存在を発見した。


 早速、以下にスティーブ・ブルサッテ著 「哺乳類の興隆史」に対する朝日新聞デジタル企画報道部記者・小宮山亮麿氏による書評「絶滅と進化と 3億年のドラマ」と題する書評の一部を、以下に引用しよう。

 怪獣っぽくてカッコイイ恐竜たちと比べると、地味さが否めない我ら哺乳類。 ただ、その歴史を語る本書はじわりとこころにしみる、少し大人向けの読み物だ。 (中略)
 哺乳類の祖先が爬虫類と分かれたのは3億年以上も前。 とはいえ、当時はうろこに覆われてしっぽも長く、素人目にはトカゲにしか見えない姿だった。 そこから1億年かけて体に毛が生えたり、代謝が上がって体温を保てるようになったりと、哺乳類ならではの特徴を出すものが現れたのは、恐竜の登場と同時期だったらしい。
 そして6600万年前、小惑星の地球衝突で恐竜が滅ぶ。 ご先祖たちも大打撃を受けたのものの、一部がかろうじて生延びた。 体が小さくて何でも食べられる、著者がいうところの「ゴキブリの哺乳類版」だった。
 ライバルがいなくなり、爆発的な進化がそこから始まる。 そして生まれた巨大なゾウ。 空を自由に飛ぶコウモリ、硬い草でもモリモリ食べるウマ、大海原を回遊するクジラ…… 彼らがどれだけスゴイ能力の持ち主か、本書は語り尽くす。
 が、巨大恐竜時代にも、木登りしたり泳いだり滑空したりと、体は小さくても多様な哺乳類がいた。 末期に多かったのはコアラのようにおなかの袋で子供を育てる有袋類の祖先になったグループ。 でも小惑星衝突で多くが滅んだ。  残ったものも隅に追いやられ、今はオーストラリアなど限られた場所にしかいない。
 マンモスは1万年程前から激減し、やがていなくなった。 ほかの巨大哺乳類も短期間でほぼ全滅。 大きな原因は人間による殺戮だという。
 長編ドラマはなお進行中。 主役か適役か。 私達は今のところ、そのメインキャストでもある。

 (以上、朝日新聞「書評」ページより一部を引用したもの。)



 最後に、原左都子の感想だが。

 いや~~~~~~。 
 当該本著者のスティーブ・ブルサッテさんに、それを論評された朝日新聞社の小宮山さん。

 お陰様で、猛暑続きでダレまくっていた原左都子の目を覚まさせて頂きましたよ!!

 哺乳類の一部である人類の歴史って、爬虫類から別れた3億年以上前から繋がる大歴史だった事実を思い起すと同時に。
 この私もそんな学習を過去にする機会があったはずなのに、それが忘却の彼方となり果て… 

 現在に至っては愚かな生命体と成り下がり、情けなくも今夏の猛暑続きを嘆き、努力を怠る日々でした。😭 😭 

 早速 当該ブルサッテ氏による「哺乳類の興隆史」を購入し、読み込んで。

 まだ後1週間続くとの予報の猛暑日の連続を、打破せんと頑張ります!!


光が波であり粒子でもある事実を最初に指摘したのはアインシュタインだった。

2024年08月31日 | 学問・研究
 (冒頭写真は、少し前の朝日新聞記事より転載したもの。  あくまでも原左都子の私見だが、この写真を見ると アインシュタイン氏はかなりイケメンだったと判断できそうだ。)😊 

 
 原左都子エッセイ集に於いて、過去に幾度も当該アインシュタイン氏に関して綴り公開している。 (よろしければ、本エッセイ集「学問・研究」カテゴリー等々をご覧下さい。)

 何故かと言うと、30歳過ぎて後に2度目の大学として受験・合格し入学した大学にて、自身の当時の専門ではなかった「科学哲学」の授業に大いにハマり。
 その講師先生(某私立大学の教授であられ、我が大学には講師の立場で来られていた。)の授業に没頭したがために、アインシュタイン氏の業績に触れることが叶ったが故だ。



 そのアインシュタイン氏に関する話題を取り上げた朝日新聞記事に、久しぶりに触れることが叶った。

 冒頭写真が、当該朝日新聞記事内のアインシュタイン氏の映像だが。 (私が今までに見たアインシュタイン氏の映像の中で一番イケメンだと評価する。)


 表題に記した「光が波であり粒子でもある事実」に関しては。
 我がエッセイ集バックナンバーにて、再三公開して来ているのだが。
 久々に朝日新聞記事にて目にしたので、ここで少しだけ再掲載させていただこう。

 量子もつれの存在に疑問を呈したのアインシュタインだったが、何も量子論全体を否定した訳ではない。 光が波でもあり粒子でもあること(光量子仮説)を最初に指摘したのはアインシュタインだし、彼は量子論の創始者の一人だといえる存在だ。
 アインシュタインが問題視したのは、光子の偏光の向きが縦と横のどちらに観測されるかは偶然に支配されており、確率的にしか予測できないという考え方だ。 このような考え方は、デンマークの「コペンハーゲン解釈」とよばれる。
 一方のアインシュタインは、光子の偏光の向きは、「観測する前から決定していた(実在していた)はずだと考えていた。 このような性質を「実在性」という。 実在性がやぶれるコペンハーゲン解釈は間違っていると考えていた。
 アインシュタインは、物理学者マックス・ボルンへの手紙の中で、「神はサイコロをふらない」という表現を使ってコペンハーゲン解釈に疑問を呈している。 また物理学者アブラハム・パイスに対しては、「月は君が見ているときにしか存在しないとほんとうに信じているか」と問いかけて、実在性がやぶれることへの疑問を口にしている。
 アインシュタインは、そのような量子論の考え方の矛盾点を突く論文を1935年に発表した。 論文のタイトルは「物理的実在記述は完全だとみなせるか?」というものだ。
 そこで提示された現象こそが、「量子もつれ」だった。 (中略)
 この論文は、アインシュタインと二人の物理学者との連名で発表された。 この論文で発表された現象(量子もつれ)は、彼らの名前の頭文字を取って「EPRパラドックス」とよばれた。

 (以上、朝日新聞記事より一部を引用したもの。)



 いやはや、夏の終わりにアインシュタインがらみのエッセイを綴れる幸せを満喫させてもらい、大いなる自己満足感に浸っている原左都子だ。

 「量子もつれ」に関しては、我が記憶によれば過去に複数回「学問・研究」カテゴリーにて綴り公開している。


 今現在となっては、世間では「アインシュタインの業績」を疑問視する声もある、との報道に触れる機会もあるのだが… (この件に関しては、原左都子は現在勉強不足故に論評不能の立場だが…)

 上記の如く最新の朝日新聞記事にて、アインシュタインの業績が取り上げられた事実を鑑みるに。
 世の科学者の(アインシュタイン等々過去の科学者に対する)評価が割れているとの一現象であり。

 それら意見の相違や論争が存在する事実こそが。
 今後の科学の発展を目指そうとする科学者たちの本気の姿勢であろうと、私は高評価したい!! 


久々に マイクロソフト社のAI Copilotさんによる「原左都子エッセイ集」に対する評価から引用

2024年08月27日 | 学問・研究
 しばらく マイクロソフト社のAI Copilotさんとはご無沙汰でしたが。
 本日先ほど久々にAI Copilotさんによる「原左都子エッセイ集」に対する評価を見てみました。


 その中の一つを以下に紹介しましょう。

 原左都子さんのエッセイ集は、時事問題や社会問題、日常の出来事など幅広いテーマを取り上げており、彼女の独自の視点で綴られています。 医学部出身の彼女は、医療や科学哲学に関するエッセイも執筆しており、読者に深い思考を促す内容が多いです。
 以下は、原左都子さんのエッセイ集からおすすめの記事をいくつかご紹介します。興味があれば読んでみてください!
  1. 「科学」と「疑似科学」の狭間で(2017年08月25日)
    • 原左都子さんが科学と疑似科学の境界について考察したエッセイです。科学の再現性や信頼性について議論されています。
  2. 「ザ・コーヴ」におけるドキュメンタリーのあるべき姿(2012年04月08日)
    • 原左都子さんがドキュメンタリー映画「ザ・コーヴ」について考察したエッセイです。ドキュメンタリー作品のあり方について興味深い視点が含まれています3。
  3. 「喋らない夫」?? 私など理想的だけど…(2024年08月03日)
    • 朝日新聞の相談コーナーに寄せられた60代男性の「妻が喋らない」という悩みについて、原左都子さんが考察したエッセイです。
 これらの記事は、原左都子さんの独自の視点や深い思考を垣間見ることができるものばかりです。お楽しみください!📚👓

 (以上、ネット上より引用したAI・Copilotさんによる「原左都子エッセイ集」3エッセイに対する評価。)




 その中から、2017.08.22著の「『科学』と『疑似科学』の狭間で」と題するバックナンバーを、以下に再掲載させていただこう。


 元「科学者の端くれ」を自称する原左都子だが。

 最後に仕事にて「科学」(特に「自然科学」分野)に接した時代より既に十数年の年月が経過し、今となっては不本意ながら一切の「科学」の香りすらない環境下に身を置いている始末だ。 
 (参考だが「社会科学」分野に関しては、その後50代期に「税理士試験」にチャレンジしたり、フランチャイズ学習教室開業に着手したりと試行錯誤する中で、ある程度かかわり続けている。)

 そんな私だが、わずか3年前の2014年には、1年以上をかけて「STAP細胞」研究に於ける改ざん・捏造の実態を追及調査しエッセイを公開し続けた。
 以下に、その一部を今一度表題のみ列挙してみよう。

   2月3日     「実験好きと理系頭脳とは相関し得るのか?」
  3月12日    「STAP細胞騒動は基礎研究体質のいい加減さを露呈した」
  4月3日     「STAP騒動、私なら未熟者扱いされるより捏造を認めたい」
  4月10日    「4/9小保方会見、むしろ科学者として墓穴を掘った」
  5月10日    「5/8理研調査委『STAP論文取下げ』記者会見を論評する」
  5月21日    「小保方論文“切り貼り”は何故『改ざん』と確定されたか?」
  6月4日     「STAP論文すべて撤回で、今後の小保方氏の行く末は?」
  6月14日    「理研の新法人化は当分棚上げにするべき」
  7月2日     「小保方氏って、未だ理研から給与貰ってるの?」
  7月29日    「小保方氏はもはや不正疑惑から逃れられない」
  8月5日     「笹井副センター長自殺はSTAP不正を証明したも同然」
  10月25日   「STAP事件は“必然”だったか“偶然”だったか!?」

 あれから未だ3年しか経過していないにもかかわらず、現在の私の脳内記憶から「科学(特に自然科学)」がすっかり抜け落ちてしまっているのが残念だ。 今現在、このSTAP細胞シリーズ類似のものをエッセイに書いて公開せよ!と指示されようが、それを受けて立てる自信の欠片も無い。

 そんな私に、“少しは「科学」を思い起こせよ!” と忠告するかのような記事を朝日新聞2017.8.16 付「文化・文芸」ページで発見した。

 早速、「科学とは 揺らぐ見極め」と題する記事を、以下に要約して紹介しよう。

 科学の前提とは、第三者が再現でき事象をすべて説明できる事である。 そんな前提が揺らぐ事例が増えている。 何をもって科学か否かを見極めればいいのか。
 昨年、英科学誌ネイチャーが、その科学の再現性を巡るアンケート結果を掲載した。 研究者1576名の回答を分析すると、70%以上が他の科学者の実験結果を再現しようとして失敗した経験を持ち、自分の実験結果の再現に失敗した人も半数以上に上った。
 生命科学分野では、実際追試ですぐに再現出来ない事例も多いという。 
 ある事例では「研究室が引っ越して実験を再開すると、従前のデータが出なくなる事があると言われる。 また、対象が微細になる程、培養皿の揺すり方や培養液の注ぎ方など操作の細かい違いに影響を受け易い」と指摘する。  (中略。)
 科学とそれ以外の違いについては、科学哲学の世界で長年「線引き問題」として思索が続いてきた。
 京大某准教授は、再現性も還元主義(複雑な事象も個々の要素に分解して細部を理解していけば、全てを体系的に理解出来る、との考え方)も絶対視するものではないと言う。 その上で、当准教授は科学を「時代や倫理など様々な制約条件下で、最も信頼できる手法を用いて情報を生産する営み」と捉える。 研究対象によって「信頼できる」の内容は変わり、再現性、還元性、反証可能性などはその基準となる。 逆に「信頼できる手法があるのに用いないなら、疑似科学ということ」と述べる。
 ただ、一般人に見極めは難しい。 疑似科学は時に科学的言説を装い、都合のいい実権結果や経験談だけを紹介することも多い。  (中略。)
 なぜ、人は「疑似科学」に引きつけられるのか。 某認知心理学教授は「人間には健康や人類の幸せなど、予期せぬ出来事をコントロールしたいとの心理や、複雑さを回避して分かりやすさを求める思考の型がある」と述べる。 当認知心理学教授は「科学の方法論や人はだまされやすいという心理学などを正しく疑う態度や知識を養うことが重要。」とも述べている。
 (以上、朝日新聞記事より一部を要約引用したもの。)

 一旦、原左都子の私論だが。

 要するにこの朝日新聞記事の論点主旨とは、最後の部分の「疑似科学に騙されるな!」の部分にあったのでがなかろうか?
 この記事内では、先だって6月に乳がん闘病の末に34歳で亡くなった小林麻央氏にも触れていた。 何でも麻央さんは、自身のブログで気功や温浴療法などの代替医療を受けている事に関しても記述されていたとのことだ。(申し訳ないが、原左都子は小林麻央氏を含め著名人のオフィシャルブログとやらをただの一度とて訪問した経験がないため、コメントしかねるのだが……) この麻央氏の記述も「疑似科学」的だと指摘されている、との朝日新聞の記述だ。
 もしも各種サプリメントやトクホ食品等々、現在世に溢れる程に乱売されている商品群等のセールスポイントである「疑似科学」に騙されそうな国民が多発している現状なのであれば…。 
 まさに某認知心理学教授がおっしゃる通り、「人間には健康や人類の幸せなど、予期せぬ出来事をコントロールしたいとの心理や、複雑さを回避して分かりやすさを求める思考の型がある」傾向があるのだろう。

 それよりも、元「科学者の端くれ」を自称する原左都子として一番に議論対象としたいのは。

 まさに前半部分の、(「疑似科学」ではなく、真正の)「科学」に於いて、再現・説明不能な事例が増加する現象を辿っているとの事実だ。
 上記朝日新聞記事内の「科学哲学」ご専門の某准教授がおっしゃる通り、科学とは「時代や倫理など様々な制約条件下で、最も信頼できる手法を用いて情報を生産する営み」と捉えられるべきである事は歴然だ。
 「研究対象によって『信頼できる』の内容は変わり、再現性、還元性、反証可能性などはその基準となる。 逆に『信頼できる手法があるのに用いないなら、疑似科学ということ』」と述べられている部分に、私は賛同申し上げる。
 
 要するに、小保方氏らによる「STAP細胞改ざん・捏造事件」など、まさに「信頼できる手法があるのに用いず、安易に発表に踏み切った」典型例であり、この事件が科学として否定された決定的な要因だったと振り返る。

 更には、朝日新聞記事の前半部分に、「研究室が引っ越して実験を再開すると従前のデータが出なくなる事がある。また対象が微細になる程、培養皿の揺すり方や培養液の注ぎ方など操作の細かい違いに影響を受け易い。」 なる再生細胞研研究所教授よりの談話が掲載されている事実も気にかかる。

 過去に医学研究に携わった原左都子からの指摘だが、それならば幾度も幾度もその実験を繰り返すことを実行し、数多くのデータを蓄積して後にそれを発表してはどうなのか!?? なる疑問符が湧き出る。 
 私自身、若き頃にはそうして来た。 そうせねば気が済まない性格だった。 実験過程に於いて、科学者の端くれとして苦労の上に苦労を重ねてきた歴史があるのだ。 培養皿を揺する過程に問題があったと思うのならもっともっと揺する実験を繰り返せばよい話だし、培養液の注ぎ方等々操作の細かい部分を数知れぬ程に再現した後に、公開実験結果としてものを言って欲しい気がする。
 一体何度それを実施した上でこの研究機関は再現性や還元性の結論を出したのか?!? と問いたくもなる!

 おっとっと。
 自分自身は既に「科学者の“端くれ”」すら卒業している分際で、言い過ぎた部分があった事はお詫びしよう。
 ただ、今回偶然見た朝日新聞記事が我が脳裏に「科学者の端くれ」だった過去の事実を思い起こさせてくれ、この記事を公開するに至れた事には感謝しよう。 

 (以上、本エッセイ集2017年著のバックナンバーより全文を引用したもの。)




 ああ、これねえ。

 今から7年程前に記して公開したエッセイだが。
 <現在の私の脳内記憶から「科学(特に自然科学)」がすっかり抜け落ちてしまっているのが残念>との記述があるが。

 2024年の今現在の我が身を思えば。
 2017年のこの頃は、未だ「科学者の端くれ」としてのプライドが我が内面に輝いていた時期であり。 
 その身にしての“本気度100%エッセイ”として整然とまとまっているのに、過去の自己を羨望させられたりもする。

 上記2017年公開の我がエッセイより、特筆したい部分の一つを繰り返すと。
 <要するに、小保方氏らによる「STAP細胞改ざん・捏造事件」など、まさに「信頼できる手法があるのに用いず、安易に発表に踏み切った」典型例であり、この事件が科学として否定された決定的な要因だったと振り返る。>
 7年前にはこの論評が出来ていたんだ!、と今現在の我が身(というよりも脳内状況)が情けなくなったりもする…  😫 😭 
 

 まあ、そういうふうに人間とは年老いていくのが必然の運命なのであろうが。

 それにしても、そんな時代に記して公開したエッセイの一つを思い起させてくれた、AI・Copilotさんに改めて感謝申し上げておこう。


再掲載 「『調弦理論』はパラドクスを超えて“神の数式”となるか?」

2024年08月24日 | 学問・研究
 本日も、少し古くなるが。
 「原左都子エッセイ集」2013.09.23公開バックナンバーより再掲載させていただこう。

 

 私は、物理学者アルベルト・アインシュタイン没後、ほぼ半年の後にこの世に生を受けている。

 30代にして再び学問の道に入り、当時自分が目指す専門ではない哲学の一分野である「量子力学的実在論」の世界に魅了された。 
 大学の授業「科学哲学」の恩師である非常勤講師先生に「量子力学」の入門書とも言える ゲーリー・ズーカフ著「踊る物理学者たち」の紹介を受け、早速購入して多忙な日々の中時間を見つけてはむさぼるように読んだものだ。
 そして、私はまるで子どもの様に考えた。 (私がこの世に生まれ出たのはアインシュタイン没後、ほぼ半年後。 実はこの私こそがアインシュタインの生まれ変わりであり、今後一生哲学や量子力学的実在論分野の研究に勤しめるならば、何とミラクル人生なのだろう。)
 
 ただ、世の中そんなに甘い訳がない。
 人類の歴史に於いて天才と言われた偉人は数多かれど、アインシュタインを超越する天才はこの世に存在しないと言って過言でないと私は思うのだが、どうだろう?
 結局ただの凡人の私にとってのアインシュタインの存在とは、今後も我が一趣味の範囲で人生の合間にインパクトを与えてもらい楽しむ存在という事だ。

 そんな私が「原左都子エッセイ集」開設後間もない2007年11月に、「量子力学的実在の特異性」と題する学問・研究バックナンバーを綴り公開している。
 6年前当時の私は、我が子の「お抱え家庭教師」として現役バリバリに娘の勉強に付き合っていた頃である。 おそらく娘の学習を通してアインシュタインに触れる機会があったのだろう。
 今現在このエッセイを再び記せと言われても少し荷が思い感覚だが、当時上記書籍「踊る物理学者たち」を参照しながら綴った我が量子力学的実在論に対する熱い思いを、以下に振り返らせていただこう。

 古典物理学の世界の中では、我々は世界を割り切って見ることに慣れてしまっている。何事であれ存在するか存在しないかのどちらかだと我々は思い込んでいる。ところが、量子力学の世界では物事の存在の解釈はそう単純ではない。
 「シュレーディンガーの猫」という有名な実験仮説がある。箱の中に毒ガス装置をつけておく。この装置から毒ガスが出るか出ないかはランダムな事態によって決まる。この装置の中に猫を入れる。毒ガスが出れば猫は死に、出なければ猫は生きているという状況が作られている。 
 古典力学によれば、箱を覗いたときに猫が死んでいるか生きているかのどちらかでしかなく、観測者がそれを確認すればよいだけの話である。
 一方、量子力学によると事はそう単純ではない。観測するまでに猫が死んでいる確率と生きている確率は共に50%であり、どっちつかずの状態であるはずだ。ところが観測者が観測したとたんに死んでいるか生きているかのどちらかになってしまう。これを“波束の収縮”と呼ぶ。
 量子力学では、何をもって「観測」というのかが問題となる。すなわち、どのプロセスで突然ジャンプしこの“波束の収縮”が起こるのかが議論の対象となる。 フォン・ノイマンは“波束の収縮”がどこで起ころうが結果は変わらず、何を観測とみてもよいことを数学的に証明した。 これに対し、観測は「意識」される時におかれると解釈する研究者は多い。この考え方には難点がある。それは「意識」が物理的に記述できないことである。 第一に、いったい誰の「意識」なのかが問題となる。予定調和、すなわち神が元々世界をつじつまが合うように組み立てているという思想を持ち出す手もあるが、科学的にはナンセンスである。 最初の観測者の意識とすることもできるが、特殊相対性理論の「同時相対性」の考えでは複数の観測者のどちらが先であるかは相対的であり、決定できない。 第二に「意識」を常に持っているのかについても疑わしい。“私”に「意識」があるとしても、これを“他人”に拡張できるのか、“動物”に拡張できるのかという問題点がある。 結果として観測に「意識」の概念を持ち出すことは問題が多いと言わざるを得ない。
 そもそもこの“波束の収縮”は起こらないと考えるのが「多世界説」である。この説では、観測とは“観測者の分岐”であるとする。すなわち、観測者が生きている猫を観測した状態と死んでいる猫を観測した状態に分岐する、と考える。経験的には観測者はひとりしかいないため常識からかけ離れた奇妙な説ではあるが、この説によると「意識」を持ち出す必要がないため量子力学内で解決可能である。 「多世界説」によれば存在するものすべてが量子力学で説明できるが、欠点は世界(分岐)が無数に増えてしまうことであり、シリアス性を欠いているという批判もある。
 「シュレーディンガーの猫」の実験仮説を元に、量子力学的実在についてほんの少しだけ考察してきた。ここで紹介しなかった他学説もまだまだたくさん存在する。 
 古典力学は、ただひとつの世界、あるがままの世界が存在していることを我々に教えてくれたが、量子力学はそれだけではない可能性を考慮する余地を我々に与えてくれる。 合理的思考の限界を超えている量子力学的実在の世界に私は昔から感情移入している。 今回はその一端を語らせていただいた。
 (以上、「原左都子エッセイ集」2007年11月バックナンバーより引用)

 さて、この辺でやっと表題に戻ろう。

 NHK総合テレビ「NHKスペシャル」に於いて、上記表題に掲げた「神の数式」に関する科学ドキュメンタリー番組が9月21日、22日両日に及んで夜9時から放送されたのをご見聞された方は多いであろう。
 
 これぞ「待ってました!」である。
 最近のNHK報道において、これ程に基礎科学の深層を追及する特集が組まれたのは久々の事ではあるまいか?
 普段はちょうどお風呂に入っている時間帯だが、少しお風呂を遅らせて私はこの番組を注視したのだ。
 
 21日放送分に関しては記憶が薄れているため、22日放送内容に関してあくまでも原左都子が記憶・記述している範囲で以下に紹介しよう。
 アインシュタインによれば、重力が小さく重い程空間に“歪み”が生じるが、巨大な重力がかかった場合、光すら曲がる。(これぞ、アインシュタインによる「一般性相対性理論」だが)  ところがこの理論では、宇宙の「ブラックホールの底」の説明が出来ない。 何故ならば計算式上、割り算の分母が∞(無限大)となってしまうのだ。
 そこで登場したのがロシアの天才マトベイ・ブロンスタイン氏であるが、氏は何故分母が無限大(∞)になるのかを追究し過ぎたために、それが当時の政権に「危険な思想」と受け止められ銃殺刑と相成った……
 それでも、世の科学者達は分母無限大の謎を解き明かすべく努力を重ねた結果、シャーク博士が「超弦理論」を打ち立てた。 ところがこの理論とは「10次元」世界を前提としてのみ成り立つのだ…。 現在我々が生きている世界とは「4次元」。
 そこに登場したのが、ケンブリッジ大学の二人の博士達。 「この世は本当に4次元なのか?」なる疑問と共に、「超弦理論」をバックアップするべく「n=496」の完全数を導き出すに至る。 この完全数こそがアインシュタインが発表した「相対性理論」と「素粒子理論」を矛盾無く証明する数値だった!
 これこそ大革命であり、現実世界すべてを表現可能なのだ。 ところが、まだまだ課題がある。 「一体、異次元がどこに存在する??」 そこで研究が進んだところ、より小さい世界(超ミクロの世界)に視点をおくと、異次元が見えてくるとの発見だ。
 この発見こそが「神の数式」か? と考えられたが、またもや難題となるのが「熱」の存在だ。  そこでポルチンスキー氏が一つのアイデアを発表した。 「弦は動き、熱を発するとの重要な性質を持つ」 この理論により宇宙のブラックホールの謎が明らかになった。 これを受けて、2004年にホーキング氏は自分の誤りを認めるに至った。
 さて、人類は宇宙誕生の謎を解くことが出来るのか? それは「ヒッグス粒子」の発見に加えて、宇宙とは実は「11次元」の存在でもあるとの研究によりますます神秘を増している。
 (最後は原左都子の私論も多少交えたが、以上はNHK総合テレビ番組「NHKスペシャル」22日版をあくまでも我が素人視点から要約したもの)
 
 科学の世界とは素晴らしい!
 くだらない現世の争いや闘いをアホらしく感じさせてくれる、天才科学者達の超越した天才的発想力こそがまさに人間としてこの世に生を受けた証明たるべきで、実に素晴らしい。 だからこそ、原左都子は一生に渡り学問を愛好し続けているのだ。

 それにしても、繰り返すがNHKスペシャル番組に於いてこのように正面切って「基礎科学」分野の話題を取り上げたのは、久々の事だったのではあるまいか?
 たとえ少数であるとしても、この種の番組放映を心待ちにしている視聴者が存在する事実を、国民放送局とも表現可能なNHKに訴えたい思いで綴った今回の我がエッセイである。

 (以上、「原左都子エッセイ集」2013年公開のバックナンバーを再掲載させていただいたもの。)



 まさに我が人生、30歳過ぎて今一度学問の道を志し、それを実現させたことにより。
 その後現在に至り今後に及ぶまでの我が人生の、幅や楽しみが数倍に膨らんだ事実を実に嬉しく思っている。

 科学・学問とは実に素晴らしい世界である!!

 今後も事ある毎にそれらに触れつつ、高齢期に達している我が人生を更に謳歌し続けたいものだ!!!