原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

社会と融合する芸術

2008年11月30日 | 芸術
 先だって美術賞受賞のため私がインドまで同行させていただいた美術家の長はるこ氏は、ご自身の美術家としてのご活動と平行して、東京西池袋にてギャラリー「B-gallery」を主宰、運営されている。
 この「B-gallery」に於いて、現在「櫻庭春来展」が開催中なのであるが、昨日櫻庭氏による作者ギャラリートークを拝聴するため、私はギャラリーへ出かけた。


 まず、今回「B-gallery」に於いて個展を開かれている櫻庭春来氏について、その略歴を簡単に紹介しよう。
 櫻庭氏は現在ドイツ、フランス、米国等諸外国で活躍されている日本画家でいらっしゃる。
 氏は、画廊や美術館が日本においては実社会とかけ離れた状況にあることを懸念され、90年代後半より、公共性のある建築空間や人々の日常生活に近い場でのアートワークによる精神的な豊かさを創り出していく試みが現在の日本では重要と考えられた。そして、建築家とのコラボレーションを中心に、公共建設、集合住宅、能舞台、各種店舗等のアートを手がけられ、現在ご活躍中である。
 また、近年、中高生の学校のカリキュラムでどんどん削られていく美術教育についての問題点や、美術が社会とリンクして人々の精神的豊かさを創り出すことの重要性を一般の人々に身近に捉えてもらう事を目標として、講演活動を行なっている美術家でもいらっしゃる。


 今回の「B-gallery」の作者ギャラリートークにおいても“美術が実社会に創り出せるもの”とのテーマで、櫻庭氏のこれまでの美術家としてのご経験等に基づいた興味深いお話が展開された。

 以下に昨日の櫻庭氏のトーク内容を紹介しよう。(だたし、あくまでも美術に関してはド素人の私の貧弱な聴き取り能力や身勝手な興味関心に応じた内容にアレンジしてしまっていることも重々考えられますため、もしも櫻庭氏のご思想や論点と大きく外れておりましたならば、この場で失礼をお詫び申し上げます。)

 “美術”とはこの世の中で一体何を求めてきたのか?
 古代においては、それは“生存の祈り”であった。
 中世に入り、人々が共存する上での哲学、ルールの確立の要請が生まれ、宗教が広まることになる。そのような社会の要請と相俟って“宗教絵画”が流行した。
 近代になると市民、民衆の力が王政等の絶対権力に対抗して底辺から湧き出てくる時代へと移行し、自由を勝ち取り人々は解放されてゆく。そんな時代の美術も表現者としての自由と解放に向かう時代に移行する。
 第二次大戦後の現代の日本においては、ヨーロッパから短期間に多くの現代美術を吸収していく時代へと突入する。その過程において単なる“様式”のみを模倣してしまうという過ちも犯しつつ美術は発展する。そのような流れの中、人間本来の姿を一から問い直すシュールレアリズム等のダダイズムの動きとも相まみえつ現在の美術に至っていく。
 学校の美術教育が目指すべくは、10人いれば10人の発想があること、すなわちお互いを認め合う個性の尊重である。にもかかわらず、現在の日本の教育制度の変遷(偏差値教育への偏向)と共に、中高における美術教育の時間がどんどん削られてきている現状は大変遺憾であり残念な状況である。
 以上が、櫻庭氏のギャラリートークの内容の私の聞き取りの要約である。
 そして櫻庭氏は、芸術と市民、そしてその市民が暮らす地とのコラボレーションが現在日本国内でも進行している実例について紹介された。香川県の直島町の事例なども紹介されつつ、人々が日々暮らしを営む実社会との融合を目指す芸術の諸活動の展開の例と共に、ご自身の美術家としての現在の思いを熱く語られた。


 詳細は「B-gallery」において現在開催中の「櫻庭春来展」に足を運ばれましたら、更なる発見があることと思います。

 以下に、「B-gallery」の連絡先を記します。

   〒171-0021  東京都豊島区西池袋2-31-6
                 (自由学園 明日館 西隣)
    TEL&FAX  03-3989-8608
    E-mail    baru@beige.ocn.ne.jp
    URL    http://www.B-gallery.info 


(今回の記事は、あくまでも本ブログの著者である原左都子が自主的に綴りました内容です。記事内容の欠落、瑕疵等の責任はすべて原左都子に帰属致します。)
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インドでの動乱

2008年11月28日 | 時事論評
 26日夜、インド西部の商業都市ムンバイで起きた同時多発テロ事件を受けて、つい先日インド旅行を終えたばかりの私宛に、複数の知人より「少し時期がずれていて何よりだった」等のメール、メッセージを頂戴した。
 皆様のお気遣いに心より感謝申し上げます。

 私にとっては自分の旅行の時期がずれていたことよりも、つい先だって微笑み合ったあの円らな黒い瞳のインドの人々が生を営む地で動乱が起こった事実自体に、心が痛む思いである。


 今回の同時多発テロは、インド最大の商業都市ムンバイ(旧ボンベイ)を狙った大規模な動乱であり、邦人ビジネスマンも含む100人を超える死者と300人以上に上る負傷者を出している。ホテルや鉄道駅、病院、レストラン等人が集まる公共施設ばかりが標的になっているのが今回のテロの特徴のようだ。

 ムンバイは世界の外資系企業も集まるインドの経済の中核都市で、現在日系企業も100社余りが事務所を構え270人を超える邦人が住んでいるらしい。 
 先月私の渡印直前に来日したインドのシン首相と日本の麻生首相との間で、日印の経済連携協定(EPA)の早期妥結に向け協力することで合意したばかりである。日本はニューデリーとムンバイを結ぶ貨物専用鉄道の建設に円借款の供与も約束している。もしもテロが続けばこうした日印間のプロジェクトにも陰りがでることも懸念される。 

 インドではここのところイスラム系過激派グループによるテロが頻発しているが、今回の事件もイスラム武装集団の関与による犯行であることが示唆されている。 
 報道によると、インド治安当局は、過去に首都ニューデリーやバンガロールで爆弾テロを起こしているイスラム過激派の「インディアン・ムジャヒディン」と、パキスタンに拠点を置くイスラム武装集団が事件に関与したとみて、背景解明を急いでいる。
 現地に立てこもっている犯行グループは地元テレビに対し「インド国内のイスラム兵士の解放を求める。(今回のテロは)イスラム教徒を迫害してきたことへの報復だ」と主張しているらしい。 過去のインドにおいては、ヒンズー教徒とイスラム教徒の間での宗教闘争も勃発しているのに加えて、貧富の格差の大きいインド人同士の対立も事件の背景に潜んでいそうである。

 ただ、今回のテロは過去にインド国内で起きた連続テロとは異質の部分もあるという。今回のテロの場合、ムンバイにある数多くのホテルのうち海外からの宿泊客が多い最高級ホテル2つを選んで襲撃し、さらに犯行グループは米国人と英国人を探していたとの報道もある。
 ここまで大規模な同時テロを行なった犯行グループの動機はいま一つ不透明であり、今後の捜査当局による犯行組織の実態や背後関係の徹底的解明が待たれる。

 (以上、朝日新聞、読売新聞、産経新聞の報道を参照)

 
 インド旅行出発前に私が想像していたよりもはるかに貧富の格差が激しく、悲しいかな“貧しさ”を実感させられた国、インド。 多宗教が混在する国でもあり、宗教間対立による争いも十分に予想出来る事態ではあった。

 そのように複雑な社会情勢の中にあって、旅行者である黄色人種の我々を見つけると純粋な瞳で見つめ微笑み返してくれたあのフレンドリーなインドの人々の表情やしぐさが、今尚私の脳裏に焼き付いている。

 文明の歴史や伝統があり自然環境も豊かなインド。そんな大地に生を受けた国民一人ひとりが貧富の格差や宗教の違いを超え、日々懸命に生を営むインドの人々にとって、動乱などまったく無用の存在と願いたいものである。 
     
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荒川静香的快進撃

2008年11月26日 | 自己実現
 荒川静香氏といえば、皆さんもご存知のように2006年にトリノ五輪女子フィギュアスケート種目で金メダルを獲得した後、その直後にプロに転向して現在アイススケーターとして活躍中の女性である。

 私は特にアイススケーターとしての荒川静香氏のファンという訳ではない。いや、クラシックバレエ公演を観賞する趣味のある私は、一度アイススケートショーというものを観に行きたい気持ちは大いにある。だが残念ながら、今のところまだ彼女のショーを観せていただいたことはない。

 ファンという訳ではないのだが、私は荒川静香氏がトリノ五輪で金メダルを取得した直後から彼女の生き様に惹かれている。

 本ブログの時事論評カテゴリーのバックナンバー「高橋尚子と荒川静香」でも既述しているが、“クールビューティ”荒川静香氏の印象はまさに一貫して“クール”である。決して周囲に媚びることなく、いつ見ても研ぎ澄まされた表情をして“軽率な”マスメディアのインタビュー等に対しても一貫して論理的な受け答えを難なくこなす。確固とした自己を確立していることを一見にして見て取れる人物である。
 トリノ五輪での金メダル獲得に関しても、彼女自らが論理的に計算し尽くした結果であったらしい。点数競技であるフィギュアスケートで勝つための要素を事細かく分析し、それを練習により完璧にマスターした上での金メダルだったと見聞している。
 金メダル後のプロスケーターへの転向に関しても何の迷いもなく、五輪メダリストがよく醜態を晒すような“再びのメダル獲得への未練たらしさ”のかけらもない鮮やかな転身劇であった。


 さてこの荒川静香氏であるが、報道によると、昨年1年間で107回のアイススケートショーの公演をこなしたらしい。この数字、バレエ公演観賞が趣味の私にはある程度理解できるのであるが、とてつもなくハードなスケジュールである。やはり、彼女はとてつもなく研ぎ澄まされた精神と肉体を維持し続けている人物には変わりはないようだ。
 荒川氏はこの報道の中で、「オリンピックで金メダルを取ることが最高の喜びではなく、その後にこんな楽しみがあるということを伝える場所にしたい」と、アイススケートショーへの意気込みを語っている。今までのメダリストにはない超越したコメントである。
 (そう言えば、つい最近の北京オリンピックで金メダルを獲得した柔道の石井選手とやらも、きっぱり柔道はやめて他のプロ競技に転向するらしい。私は事の詳細をまったく把握していないのであるが、今の時代、そういうのも流行りつつあるのだろうか??)
 

 荒川静香氏は、現在まだ27歳の若さで既にご自身の人生の自己プロデュース力を培ってきているところが彼女の魅力であり素晴らしいと私は感じる。やはり、元々並外れた能力の持ち主なのであろう。
 前回の記事中でも少し述べたが、人間が生きていく上で最重要な要素は“達成感”であると私は考えている。私は荒川氏のような才能には元々一切恵まれてはいないのであるが、充実した人生を歩むためには自分の能力に見合った弛まぬ努力と“達成感”を得るための自己のプロデュース力が欠かせないと考え、微力なりにもそれを実行してきているつもりである。


 アスリートにとってのオリンピックという最高の舞台を経験し、とりわけメダルを獲得したトップアスリートにとっては、オリンピックへの郷愁や思い入れが強いことは理解できる。ただ、人間の長い人生において、まさか金メダルのみが最高の喜びではないことは明白な事実であろう。時代は過ぎ去るものである。気持ちを切り替え、自己のあるべき将来に思いを馳せ、再び訪れる未来に向かい努力できる人間こそが真の喜びを掴み取れるのではなかろうか。

 過去の栄光や実体のない人気に依存することなく、荒川静香氏のように常に自己を見つめ、今ある能力に見合った可能性に挑戦し続ける人生でありたいものだ。
     
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楽するのってつまらない

2008年11月24日 | 仕事・就職
 前回の記事「風俗への入り口」と共通点があるのだが、今回は中学生の男の子の「楽にもうけたい」相談を取り上げよう。


 朝日新聞11月21日(金)夕刊の“こころ”のページ「悩みのレッスン」の今回の相談は、男子中学生による「楽にもうけたい」という内容であった。

 早速、この相談内容を以下に要約する。
 学校のHRで将来どんな職業につきたいか、と聞かれたので「楽してもうかる仕事」と答えたら、先生に「ウケねらいか?そんなのはダメだ」と一喝された。でも、僕は本気でそう思っている。仕事は人間にとって単に生活できるお金を稼ぐ手段で、それなら楽な方がいいに決まっている。苦労が多い仕事が貴いとは限らない。「仕事とは苦労を伴うものだ」「やりがいのある仕事を見つけるべき」等のお説教は全然ピンとこない。僕の考え方は間違っているのか?

 この相談に対する今回の回答者は哲学者の森岡正博氏である。では、以下に森岡氏の回答内容を要約してみよう。
 あなたの考えは間違っていない。多くの大人たちも、そういう仕事に就けたらいいなあと思っている。私も自分の書く本がベストセラーになって欲しいなあと、毎日思っている。ただ、注意しておくべき点がいくつかある。
 まず思いつくのは、競馬などのギャンブルだ。ところが、世の中にはギャンブルで人生を狂わせてしまう人がたくさんいる。破産しないようにギャンブル生活を続けるのはとてもしんどいし、楽ではない。
 家がすごくお金持ちで仕事をせずに暮らしていける人もいる。ただお金持ちのまわりには何とかしてそのお金を吸い取ろうとする人々が群がってくる。それに騙されずに資産管理を続けていくのも楽ではない。
 あなたがギャンブラーでも金持ちでもないのなら、楽して儲かる仕事を自分で作り上げていくしかない。誰もそれを与えてくれないから、自分で作って成功させてどんどん稼ごう。でも大もうけして資産を築き上げるまで、結構苦労すると思うよ。楽そうに見える株取引ですらすごくしんどいものだ。
 結局、「楽をするためには少々の苦労を引き受けないといけない」という考え方でやっていくのが一番賢いと思う。


 私が将来の職業について具体的に考えたのは就職試験を受け始めてから、すなわち実際の就職直前であったかもしれない。その点、この男子中学生はたとえ“楽してもうかる仕事”と多少短絡的であるとはいえ、将来の職業像を早くも描いている点、私の上を行っているようにすら感じる。

 そして私も高校生の頃、この相談者の中学生の彼同様の感覚を持った経験がある。
 私は高校生の時に親から将来の職業に関してある“縛り”を課せられた。それは「一生身を助けるような“確か”な職を身につけるべく精進せよ」という“縛り”であったのだが、これが当時の私にとって大きな重荷となってのしかかっていた。
 時代背景的にはまだまだ男尊女卑思想が蔓延っている頃で、周囲の女友達からは“私立の女子大にでも入って花嫁修業をする”等の言葉が普通に発せられる時代だった。片や私は親に命じられた通り“手に確かな職をつける”べく国立理系(理系は元々私自身の希望)を目指す訳なのだが、受験科目数が私立文系希望の彼女達の2、3倍になるため勉強量も自ずとそれに比例する。 私も私立女子大にでも入って“チャラチャラ”したいのに私は貧乏くじを引かされていると、当時どれ程本気で思ったことか…。


 ただ人生経験を経て職業経験を重ねてきた今実感するのは、森岡氏もおっしゃる通り、“楽してもうかる”仕事とは皆無であることである。自分自身がその仕事に感情移入できて没頭できる程、仕事とはハードなものである。
 そういう訳で、私の場合今まで“楽な”仕事の経験がないのであるが、おそらく“楽な”仕事はつまらないのではないかとこの年齢に達すると想像できるのだ。
 仕事に限らず物事すべてに共通であるが、人間が生きていく上で“達成感”が最重要であると私は自分自身の様々な経験から実感する。この“達成感”を得たいがために人間は生き長らえているとも言えるのではなかろうか。そしてその“達成感”とは苦労の大きさに比例して大きくなるものでもあろう。

 前回の「風俗…」の記事のコメント欄でも述べたのだが、たとえ風俗業で働いている女性達であれその仕事にプライドを持ち、真に“達成感”を得ているのならば私は何も申し上げることはない。もしもそれが一切なくただ“高給”のみに釣られ日々流されて暮らすのは何とも悲しい。 


 昨日は“勤労感謝の日”だった。将来何らかの職業に就く若年者に対しては、今回の回答者の森岡氏が書かれている通り、結局は「楽をするためには必然的に少々の苦労を引き受けることになる」と、とりあえずは伝えてあげるのが適切と考える。
 多少の苦労をして“達成感”が得られてこそ、自分自身の勤労に感謝できる日が訪れるのであろう。 
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風俗への入り口

2008年11月21日 | 仕事・就職
 先だって、知人から突拍子もない相談を受けた。
 何でも、大学生の未成年の娘さんが風俗(キャバクラ)でアルバイトをしたいと言うのだがどう思うか、とのことである。
 私の答えは迷うことなく即答で「NO!」なのではあるが、なぜ親の立場としては答えが明白であろうはずのそういう類の相談を、あえて知人は私に持ち出したのかが興味深い。

 知人の相談によると、都会で一人暮らしで大学に通う娘さんは既に複数のアルバイトに励んでいるのだが、風俗(娘さんの場合はキャバクラ希望らしいのだが)は普通のアルバイトと比べて時給が飛び抜けて高いので、短時間で大金が稼げて効率がよい、とのことである。しかも今時風俗は大学生にとって一般的なアルバイトであり、周囲の女の子皆が風俗のアルバイトをしていて、娘さんの大学で風俗にかかわっていないのは自分を入れて3人しかおらず出遅れている。加えて、遊楽費等の出費もかさむためそれを親には迷惑をかけずに自分で稼ぎたい。とにかく体験入店だけでも早くしたい、とのことであった。

 今回相談を受けた知人とは、ご自身は今までの人生においてそういう世界とは一切縁のないお嬢さんタイプの人物である。娘さんの自立心は認めるものの、話の信憑性等に関して自身では判断できないため、長い独身時代に多業種の仕事を経験しつつ、したたかに生きてきている“海千山千”の私に相談を持ちかけたというのが事の次第である。

 この場合の「風俗」とは当然ながら「性風俗」である。すなわち、性的サービスを提供する業務が「風俗業」である。

 知人は、私が30歳代の学生時代にラウンジコンパニオンやパーティコンパニオンを経験していることを引き合いに出して相談する。そこで私は知人に説明した。私が経験した上記コンパニオンの仕事も確かに酒の席で女であることを売り物にしつつ媚を売る仕事ではあるが、“着席”しないことが特徴である点を強調した。“着席”するかしないかには雲泥の差がある。すなわち、体に触れられるか触れられないかの差があることを強調した。(すなわち、私が経験したコンパニオンとはあくまでも“観賞用”なのである。) キャバクラという所は私はまったく未知の世界であるが、おそらく“キャバクラ嬢”とは客席に着席して客に体を触れられることが前提の業務なのであろう。(違いますか?ご存知の殿方、是非お教え下さればと思います。)
 そこでまずは、まだ未成年で将来のある大事な娘さんが、見ず知らずの男性に夜な夜な最低限体を触られることを想像してみるように知人に促した。
 
 知人の娘さんの年齢的な要因も大いに考慮するべきことも指摘した。まだ未成年で人生経験が浅く、判断能力や責任能力もまだまだ未完成状態であろう。
 私は元々職業差別意識はない部類の人間である。風俗であれ何であれその道のプロとして成功しようという意欲が本気であるのならば、ことこん全力でぶつかればよいと思っている。 知人の娘さんの場合、大学卒業後はそれなりの“真っ当な”道に就職する予定とのことで、風俗はあくまでも学生時代のみのアルバイトの位置付けにしたいとのことである。 例えば年齢は若くとも既に複眼的視野を十分に育てていて、事象の客観視や使い分けが自在に出来る能力が備わっているというのならば話は別である。だが、判断能力もないのに甘っちょろくいい加減な意識で風俗の道に足を踏み入れるのは危険性が高過ぎるし、世の中それ程甘くもない点も知人に釘をさした。


 いやはや、一体今時の若い学生は何を考えているのやら。 片や、それを認めている、あるいは見て見ぬ振りをしている、または気付きもしないで放置している保護者の思考回路もアンビリーバブルな世界である。
 学生がアルバイトをする事自体は有意義であり私は賛成である。学業の合間に職業経験を積んだり、自分で収入を得ることを経験する事は若かりし頃の貴重な体験となろう。

 「風俗」ねえ。 その種(誰でもいいから触られたい等?)の特殊な嗜好のある女性(男性も?)には適した楽しい職業であるのかもしれない。 が、若年者が小遣稼ぎを目的に安易に足を踏み入れる場であるのかどうか…。
 社会の荒廃、閉塞化が急激に進んでいる今の時代背景には、こんな女子学生のアルバイト事情も影を潜めていそうである。
     
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