原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「貧乏」の定義

2009年10月31日 | 人間関係
 手取り月収16万2千円の生活は「貧乏」なのか??


 本日(10月31日)朝日新聞別刷「be」“悩みのるつぼ”の相談は、自称“貧乏OL”からの「貧乏生活で友だちもいません」だった。
 それでは早速39歳独身OLの上記相談を、以下に要約して紹介しよう。

 入社20年目の貧乏OLだが、辞めたい辞めたいと思いつつ勤めている会社の業績も厳しく、正社員とは言え手取り月16万2千円のボーナスなしで親元からの通勤である。貧乏なので毎日の通勤服も着たきりすずめ。伸びきったブラジャーにすり切れパンツをロッカールームで見られるのが苦痛で、人気のない時間帯を狙って着替えている。昼の弁当も粗末でおかずのない日の丸弁当。これを見られるのも嫌で休憩室でも自分の机でも食べられず、外でスズメ相手に食べ雨の日は欠食している。貧乏くさいケチケチ生活をしているからいいご縁にも恵まれず、もちろん友達もいない。 どんな境遇になっても自分を見失わず明るく元気に生きていきたいが、こんな貧乏生活を続けていると自分が壊れそうで怖い。他人になんといわれても平気な強い精神力を持つべきなのか。 やはり他人の目を気にして、もっとコミュニケーションをを取る方がいいのか。
 (以上、朝日新聞“悩みのるつぼ”への、自称“貧乏OL”からの相談より抜粋)


 早速、私論に入ろう。

 この相談は「貧乏」であることがその趣旨ではなく、むしろ、人間関係があまりにも貧弱である現状に悩む相談者の深層心理に相談の重点があると私は見る。

 そうとは言え、相談者である女性本人が自称“貧乏OL”と名乗っているため、さしあたって月収16万2千円の生活が「貧乏」であるのかどうかにつき考察してみることにしよう。
 このOLの場合、現在独身で親と同居中とのことである。 もしも16万円余りの月収のうち、例えば親の扶養や介護等、家族のために幾ばくかの拠出するべき費用をこのOLが負担しているとするならば、その拠出額にもよるがかなり厳しい経済情勢ではあろう。 (この相談においてはその辺の事情の記載が一切ないため、一応ほぼ全額をOL自身が自由に出来るとみなして、以下に私論を続けることにする。)

 上記のごとく、手取り月収16万2千円のほぼ全額がこの独身OLの自由になることを前提として考察していこう。
 このOLの場合勤続20年の正社員であるのだが、税金や年金保険料等の社会保障料等に関しては既に差し引かれた額がこの手取り月収である。 要するにその全額をOLが自分のために自由に消費支出や投資に拠出できるという前提である。
 今回の相談の回答者である社会学者の上野千鶴子氏も述べられているのだが、ケチケチ暮らして貯金でもしているのなら別だが、その気になれば使えるお金はあるはずだ、との指摘に私もまったく同感である。

 16万2千円。 この金額、今の不況デフレ時代においては独身者が結構自由奔放に使える金額と私は判断する。

 私事を述べると、私はかつてのあの“幻の絢爛豪華なバブル時代”に独身勤労学生をしていた。あのバブルのお陰で仕事にも収入にも恵まれたとは言えども、昼間は勉学に集中するため勤労時間の制限があって自分が満足できる程の収入は得られない。 一方で物価がとてつもなく高い時代で、自分が欲する消費活動は不可能である。そのような時代背景の下においても、自分のポリシーは曲げられない執念の下、私なりの消費活動における努力を重ねたものである。
 この相談者と同じ30歳代後半までの6年間その生活を続けた私であるが、このOLの相談内容のごとくの一種の社会からの“疎外感”を抱くことなど私の場合は微塵もなく、むしろ我が独身勤労学生時代を我が人生の“華の栄光の時代”として刻んできている私である。


 回答者である上野氏も述べておられるが、例えば、何も今時「日の丸弁当」にせずとて、晩のおかずを詰めることなどいくらでも可能であろう。(料理嫌いな原左都子とて、娘の毎日の弁当作りに際してそれ位の工夫はしているぞ。)
 上野氏同様(少しニュアンスが異なるかもしれないが)、私もこのOLの相談から慮るのは、決して「貧乏」が辛いのではなく、40歳を目前にして実は人間関係の希薄感にいたたまれない思いを「貧乏」のせいにして、自分の心の空虚感を軽減、逃避しようと試みているような深層心理を読み取ってしまうのだ。

 こじゃれた服を身に付けて人並みの弁当を作ったり買ったりすることは、誰でも少額の出費でいくらでも出来る程に、(失礼な表現をすれば)たとえ発展途上国においてさえ、消費経済社会が目まぐるしく多様的に発展し得た今の時代である。
 その一方でこの国に話を戻すと、若い世代の人々にとって、他者とのコミュニケーションを取ることに高いハードルが出来てしまっている現代の、人間関係があまりにも希薄化した社会を実感させられる今回の相談内容である。
 
 ここのところ新政権首相は“机上の空論”でしかない「友愛」ばかりアピールしておられるが、末端庶民である国民が今現在ドップリと浸かっている“人間関係の希薄化現象”を一体どれ程認識した上で「友愛」どうのこうのと主張していらっしゃるのか?  国民の目線でその実態を捉えずして、お上の立場から空虚な道徳論ばかりぶちつつ“スズメの涙”程の各種手当てを国民にバラまく政策で、この国の庶民が真の「友愛」精神を取り戻せるとでもお思いなのであろうか???
       
Comments (6)

生命体の継承と繁栄

2009年10月29日 | 時事論評
(写真は本日撮影した我が家のクリームメダカ。 今回ははっきりくっきり写せたでしょ!     
メダカがそれぞれ泳ぎ回るから、3匹をアップで一画面に撮影するのは至難の業なのよ~)


 本ブログの9月21日付のバックナンバー記事「生命体が共存する風景」にて紹介させていただいた我が家のクリームメダカ3匹は、本日で購入後51日が経過した。 あの記事の後も、私の“手厚い愛情”を一身に受けつつ、3匹共至って元気に順調に生育し続けている。

 前回紹介した頃と比較して、体長が1、5倍程度に育ち、一番大きいメダカで約3cm程の大きさであろうか。 もうすっかり立派な大人に成長し、写真の通りの精悍な姿を披露して“育ての親”である私の目を細めさせてくれる親孝行者たちである。
 (いや~、やっぱり子どもって元気が一番を実感!!

 9月初旬に私が仕入れて来たメダカを我が身内が一目見るなり「1週間で死ぬよ。」と冷たく言い放って、それでも過去に熱帯魚と金魚を長年“女手一つ”で育て上げてきた実績のある私は、このメダカたちも生き長らえさせる“根拠なき自信”が実はあった。
 特にメダカの育て方に関する専門情報を入手する訳でもなく、自分の経験による感覚のみに頼り、メダカの生態系を想像しつつ、水質管理や適温や酸素量、そしてエサの量を調節しながらの“子育て”の日々である。

 そうとは言え、メダカの飼育ポイントはただ一つ、神経質になり過ぎないことのようである。

 そもそもメダカという生物は、熱帯魚や金魚とは違ってひと昔前には日本全国どこの小川にも生息していて、小さいながらも繁殖力、生命力のある魚と私は認識している。
 我が子ども時代には、このメダカを近くの小川からすくい取って来ては、女の子同士の“おままごと遊び”の一端として、すくい取ったメダカを生きたまま「串刺し目刺」にして干す、という、今思えば何とも惨たらしい遊びを楽しんだものである。
 (子どもの遊びとはこの“メダカ遊び”に限らず本質的に残酷さを伴っているものである。 大人の世界を模倣、風刺しているようでもあり、また、今後大人になり行く子ども達が将来に向かって強く生き延びるための「通過儀礼」でもあるようで、大変興味深いのだが…)
 このメダカの「串刺し」が上手に出来る器用な女の子が羨ましくて、近くの小川に行けばいくらでも捕獲できるメダカをすくい上げて来ては、皆で日が沈むまでせっせと「串刺し干し」作りに励んだものである。  オレンジ色の夕日を背後から受けて干されている「串刺し」にされて整然と並べられたメダカの一匹一匹が、いとも美しく透明に輝ける光景を、今尚脳裏に鮮明に記憶している私である。


 話が“我が過ぎ去りし過去のノスタルジー・メダカ物語”にすり変わってしまったが、ここで我が家のクリームメダカに話を戻そう。

 我が家のメダカが、先週の土曜日からある“異変”を起こしているのだ。
 買い求めたメダカのエサ箱の裏面に、メダカが卵を産んだ時の注意書きが記されていたのであるが、私は我が家のメダカに関してはまさか卵を産まないと勝手に決め込んでいた。
 ところが、上記写真の真ん中のメスメダカが、下腹に「卵」を抱えているのを先週の土曜日に発見したのだ! 直径1mm程の、それはそれは美しい透明の卵を下腹に十数個抱えているのだ! その後注意して観察していると、毎日午前中に産卵することが続き今日に至っている。産卵は水草の上で行われているようであるが、どうもうまく水草に定着しなかった卵が母メダカの下腹にくっついたままのようである。 
 卵を産んだ母メダカの警戒心たるや、凄いものがある。 私が水槽の前を横切っただけでパニック状態に陥り、水槽の壁(?)に体をぶつけて尾ヒレを損傷している有り様だ。

 そのような我が家のメダカの生態を日々観察しつつ、“育ての親”である私は生命体の継承と繁栄に心を配る日々である。
 このような経験は今までの熱帯魚や金魚にはないため、日々メス親の行動と「卵」の存在を確認しながら、水替やエサやりに神経を尖らせる私である。 
 次世代のメダカの赤ちゃんが我が水槽内に生まれるのを、心より待ち望む原左都子である。 


 本日(10月29日)昼間、参議院国会答弁を垣間見たが、新政権首相の主張されるところの抽象的な「友愛精神」を国民にアピールするのは、虚しいだけの思いを新たにした。 あのような陳腐な机上の道徳論で国民の関心を引こうとするよりも、(学校現場等で行われているような、単なるカリキュラムとしての上から強制の形式的なものではなく)“本気で”この国の子ども達にじかに生命体に触れる体験でもさせた方がよほど「友愛精神」が育まれるのではないかと、我がメダカの育成とあのセレブ首相の空虚な「友愛」答弁が交錯しつつ実感する私でもある。



 (本日、首相は国会答弁の中で“誹謗中傷”という言葉を使用されましたが、私どもの拙いブログごときの一般国民のオピニオンも、本日の答弁で首相がおっしゃったところの“新政権に対する誹謗中傷”に当てはまるのですか??  もしそうであるならば、自らのマニフェストにがんじがらめになっている新政権が今後何を目指したいのかに関して“怖さ”さえ抱かされる本日の答弁です。  一国の首相が国会答弁において安易に“誹謗中傷”の言葉を発し政権としての“被害者意識”を公然と主張するならば、一般国民が今後公的に何らのオピニオンも述べられなくなる一種の“言論統制”のようでゾッとした私なのですが…)
Comments (2)

“ファーストレディ”の真価

2009年10月26日 | 時事論評
 新政権の総理大臣として就任以来、外遊を好み諸外国へあちこちと出かけている鳩山首相であるが、夫人とおててつないで飛行機のタラップを降りてくるあの影像を見て、皆さん、どのような印象をお持ちであろうか?

 私の正直な感想を述べさせていただくと、あの影像には“反吐が出そうな不快感”を抱かされるのだ。


 そもそも、何で総理大臣としての公務に家族を同伴するの? 如何なる一般職種とて、短期出張に奥さんをおててつないで連れて行く職業人は皆無であろうに…。

 しかも、あれが公然と「公費」でなされている現状だ。 あくまで私費で夫人を外遊に同行して、国民の目に触れる表舞台には一切出さないのならばまだしも許せるが、国民よりの血税等の貴重な国家財源を食い潰して総理大臣が「公私混同」の振る舞いをすることを国民が容認してよいものなのか。

 そもそもこの国の選挙制度においては、選挙に際して選挙民は候補者本人に投票しているのであり、その奥方はじめ家族も含めた共同体として政治にかかわるべく期待している訳では決してないことは明白である。 奥方が“内助の功”として陰で首相を支えるのは自由だが、表舞台に姿を見せてしゃしゃり出て欲しいとは、少なくとも私は微塵も希望していない。
 “新与党とて先進諸外国の慣例に従って首相夫人を外遊に同行しているだけの話だ”、という政府からの弁解も聞こえてきそうである。 これに関しては、国による文化や慣習の違いを優先してはいかがなものか、と言いたくもなる。 公的地位のある職業人が公私混同する文化など、現在に至って尚この日本にはないと私は心得ている。(繰り返すが、しかも「公費」で… ああ、嘆かわしい… )

 もっと言わせてもらえば、この鳩山夫人は自分が首相と“不倫婚”だと周囲に豪語しているらしいことを報道で見聞している。 “不倫婚”にしてのあの“おててつなぎ”影像は、どうも“いやらしさ”が前面に滲み出ているようで、想像力豊かな私に“反吐が出そうな不快感”を抱かせるのである。
 (鳩山総理も“夫婦で宇宙人”との愛称を付けてもらって人気取り目的ではしゃいでいる場合ではなく、節度を心得ない奥方の不適切発言を自重させるのが先決問題である。)


 そもそも、たまたま一国の総理になった男の奥さんであるだけの話だけなのに、何が“ファーストレディ”だよ、と言いたくもなる。
 もっとも、“ファーストレディ”という言葉の語源とは元々は「ある分野で指導的立場にある女性」の意味合いだったのだが、今となっては単に「大統領・首相夫人の称」の意で使用されているだけのレベルの話なのだが。

 この“ファーストレディ”に関しては、本ブログ「原左都子エッセイ集」の2年程前の時事論評カテゴリーバックナンバー記事「サルコジ仏大統領前夫人の離婚の理由」においても私論は叩いている。
 その我がブログ記事の中から“ファーストレディ”を叩いた部分を以下に改めて紹介しよう。
 主要国元首会談等の会合に必ず大統領(首相)夫人が同行している報道をマスメディアから見せられて、昔から私は大いに違和感を抱いていた。何で旦那の仕事に奥さんがのこのこついて行かなきゃいけないの? まあ、夫婦だからついて行ってもいいけれど、公の場にまでしゃしゃり出て記念写真までいっしょに入り、それが世界中に報道されるって、おかしな話でしょう? ファーストレディって言うけれど、着飾って、旦那の仕事に金魚のうんちみたいにつきまとって、あらかじめ仕立てられた慈善行為のパフォーマンスだけマスメディアの取材のためにする事のどこがファーストレディなんだか、私には理解しかねる。 だいたい、「夫人」という言葉も気に入らない。奥さん(この言葉も変な言葉だが)は夫の所有物なのかい?
 しかも、逆はあり得ないのだ。例えば、サッチャーさんの旦那が元首会談にのこのこついて来たのを私は見たことがない。アメリカ大統領選に出馬中のクリントンさん(女)は、クリントン元大統領にはいつも同行していたけれど、現在出馬中のクリントンさんに旦那がくっついている姿も見ない。男女平等意識の高い国々でさえこの有様なのはなぜであろうか。政界における単なる慣習なのであろうか。
 (以上、「原左都子エッセイ集」2007年10月のバックナンバー記事より引用)


 鳩山夫人に関しては、やれ、そのファッションセンスがいいだの、ジーニスト大賞受賞だのと、現在ファッション界で持てはやされている報道を見聞する。

 これも自重するべきではないか、というのが私論である。
 よもや総理夫人のそのファッションまでもが国民の血税から出費されている訳ではなく、“セレブ首相夫人”の私費での趣味の範囲のマスメディア公開ではあろう。
 とは言えども今のこの不況下において、新与党からの“雀の涙”程の各種手当てを待ち望んでいる貧困にあえぐ国民の目前で、総理夫人が華やかなブランドファッションを披露するこのギャップ観を、新政権は如何に捉えているのであろうか?

 “ファーストレディ”などという言葉は上記の通り既に形骸化しているけれども、新政権の総理も「友愛」がどうたらこうたらの空虚で抽象的なテーマの所信表明を54分もの長時間、国民の前でうだうだと繰り広げている場合ではなく、我が身を振り返って“ファーストレディ”なる身内の真価でも問うてみてはいかがなものか? 
        
Comments (7)

「女」であることの意味合い

2009年10月24日 | 自己実現
 「女を捨てたくない」という“低俗な”言葉をよく耳にする。

 この種の言葉を発する女性に限って、コラーゲンやヒアルロン酸入りの化粧品を買い漁ったり、シェイプ下着でブヨブヨの贅肉を締め付けて苦しい思いをしたり、はたまた、ベリーダンスなどに精を出して三段腹を振り回していることであろう。

 こういう言葉を発する女性達にとっての「女」の意味合いとは如何なるものなのか、この種の言葉を好まない私がそれに直面する機会が訪れた。

 本日(10月24日)付朝日新聞別刷「be」“悩みのるつぼ”の相談は、その名の通り「女を捨てたくないんです」である。 早速50代主婦によるその相談を、以下に要約して紹介しよう。
 還暦前の女性であるが、異性から若く見られたい、10歳くらいは若々しくいたいと思うが、顔や首のしわの隠し様がない。テレビ通販で目を引いたアンチエイジング化粧品を買い求め顔のマッサージに励んだり、粘着テープをほうに張ってたるみを持ち上げようとしているがダメ。リフトアップ整形も考えているが、いまひとつの勇気と多額の費用がない。プチ整形も慎重派の私には怖い。「その年でまだ男性を意識しているの?」と友人たちは言いそうだが、女を捨てたくない。女にとって美は永遠の課題。私は切羽詰まっている。的確な肌対策、若返り法があれば教えて欲しい。


 さっそく私論に入ろう。

 この相談女性にとっての「女を捨てないこと」とはどうやら、“異性に若く見られること”であり、“男を意識すること”であるようだ。
  う~~~ん。 

 相談内容を読むと、この女性は家族のいる主婦であるようだ。 ということは、「女」を全面的に売りにするべく職業に就いているという訳でもなさそうだ。 不倫願望が強いのか、それとも不特定多数の男にチヤホヤされることを好んでいるのか?? その辺の心理的背景は不明である。

 還暦前の年齢ということは私より少し人生の先輩に当たるのだが、何と申しましょうか、“暇過ぎる”日常を送られているのか、何か他の事に関心が向かないのか、一体今まで何を考えて生きておられるのか、失礼ながら、相談内容が低俗過ぎて私の心にまで隙間風が吹いてしまいそうである。

 この女性にとっての「女」であることの証明とは、「男」の存在が鍵であるようだ。
 もしもこの女性が今現在不倫したい男がいる等の差し迫った具体的事情を抱えているのならば、まだしもこの相談の存在意義もあろう。 あるいは、友人グループの中に若々しく見えるライバル女性がいて男性にモテているのがしゃくに障るため、自分がマドンナの地位を奪いたいと狙っている等の場合にも、この相談は意味を持とう。 そうではなく、漠然と「男」を意識するという発想がどうも私には理解し難いし、ましてや、新聞の相談コーナーに投稿する程に“切羽詰っている”心理状態とは一体どうしたことなのか。

 しかもこの相談女性は、還暦近くまでの長い人生を歩んできて尚、「女」であることを“外見的要素のみ”で判断しようとしているところが、これまた不可解である。
 
 確かに、人間外見は大事だ。それは私も否定はしない。
 この私とて、長年毎日かかさず体重測定をして体型を維持し続け、フィットネスクラブに通って筋トレもし、家中に鏡を置きめぐらして暇さえあれば自分の姿形の点検をしている。 外出する時にはたかが近所のスーパーへ買い物に行くのにも、顔を塗りたくってお化粧をし、ファッションをバッチリ決めないことには家を一歩も出ない徹底した“外見こだわり派”である。
 そうとは言えども、それは決して漠然たる概念としての「男」のためではない。 不特定多数の男を普段から意識して、男から若く見られたいという発想でそのような行動を取っている訳ではないと、私の場合は断言できる。

 それではなぜ私が自身の外見にこだわるのか。 それはいわば“自己満足”の世界なのである。 すなわち私が自分の外見にこだわるのは、このブログで我がオピニオンを綴るのと同レベルの、一つの個人的“趣味”としての範疇なのである。 故に、それはこの相談女性のごとく“「女」であろうとして切羽詰まって”いるのとは事情がまったく異なるのだ。


 確かにこの相談女性が言う通り、“女にとって美は永遠の課題”であるのかもしれない。
 だが、「男」をはじめ他者の目や評価を気にし過ぎるがあまり、還暦近くして尚自分をがんじがらめの独りよがりの“美の世界”に追い込むのではなく、遅まきながらも今後豊かな人生を育む事により、(自分なりの)“美しさ”を自分が楽しめるような発想の転換が出来得るならば、この相談主婦もこれ程までもの“歪んだ美”への悲壮感から解放され得るのではなかろうか。 あくまで自然体で自分らしい「美しさ」を身に付けられたならば、その結果とは後からついてくるものであろう。
 そういう境地に入れるならば、この女性の顔や首の皺も少なくなり、「女」であり「人間」であることの真の輝きを取り戻せるのかもしれない。
      
Comments (4)

各自が免疫力を高め、冷静な対応を

2009年10月21日 | 医学・医療・介護
 新型インフルエンザ関連の記事が続くが、私が居住している自治体が発行している「広報」の本日(10月21日)発行の紙面において、新型インフルワクチン接種に関する“お知らせ”が公表された。

 この“お知らせ”では、ワクチン接種のスケジュールや接種の受け方、費用に関する情報等が公開されているのだが、それに加えて、“予防接種に関する注意点”の中で 「ワクチンの安全性・有効性は、十分検証されていません。接種前に医師と相談して下さい。」 との注意書きがあった。 この文言を見て“ワクチン接種慎重派”の私としては、自治体の住民への適切な配慮に、とりあえずは胸を撫で下ろしたのである。(願わくば、もっと目立つ大きい文字で記載して欲しかったものだが。)


 やれ、ワクチン接種は1回だ、いや2回だ。 これは官僚が決めたのに、なぜ厚労相が決めた事になっているんだ??  単に仲のいい(医学)専門家を呼び寄せた会議で決めた内容で十分だったのか??? (以上、新聞報道より抜粋)

 厚労相さん、内輪もめの茶番劇を国民に披露して醜態を晒している場合ではないですよ。 ともかく、今後はもう少し腰を落ち着けて冷静に新型インフル対応をしていきませんか。

 前自民党政権時からそうであるが、やれタミフルだリレンザだ、そしてワクチンだ。 その備蓄はあるぞ、何千万人分は備蓄しているから国民は安心していいぞ…  
 国民の指導者たるべく政府がこの状態では、医学に疎い国民は、それらの薬剤やワクチンに頼らなければ生き残れないかのごとくの、大いなる誤解の錯覚に陥るのみであることを私は懸念し続けている。


 10月18日付朝日新聞記事の中で、医師による新型インフルに関する興味深い投書投稿を2つ発見した。 私の医学的見解と一致する2つの投書の内容を以下に要約して紹介しよう。

 まずは、52歳小児科医による  「新型インフル『すぐに医者へ』は誤り」  と題する「声」欄の投書から。
 9月1日に文科省から「かぜやインフルだと思ったらすぐに医者へ」との文書が学校経由で全国の子どものいる家庭に配られた影響で、念のための「心配受診」のみならず、学校や保育園から受診を強制されたり、陰性証明や治癒証明を求める形式的な受診も少なくない。 このままでは、(医療現場においては)本来のインフル診療だけでなく、他の重い病気の見落としにつながり大変危険だ。 検査の信頼性を考慮したり重症者を迅速に治療できる態勢の維持が大切な事を周知するべきだ。 国は学校や保育所に対して過度な受診勧奨をしないよう改めて指導し、国民に対して冷静に判断できるよう、その目安をPRすべきだ。

 ここで一旦私論であるが、まったく同感である。 学校からの病院受診指導には元医学関係者である保護者の立場からも辟易とし続けている私である。 やれ、早めに受診せよ、やれ、治癒して登校する時には必ず医師発行の「登校許可証」を持参するように…   今回の新型インフルに限らずこれの連続である。 ある程度保護者の考えや意向も尊重してくれないものなのかと、学校よりの通り一遍の指導をどれ程煩わしく思ってきたことであろう。
 そして、この小児科医先生のおっしゃる通りで、まずは重症患者から救うというのは医療における基本中の基本でもある。
 どうかこの小児科医先生のような医学における“正統派”が、国政の単なる“焦り”による無駄な労力の負荷で押し潰されるようなことのないような、新型インフルに対する冷静な対応策を是非とも望みたいものである。


 もう一点は、首都大学東京教授による同日付“私の視点”欄への投稿「十分な栄養が免疫をつくる」であるが、以下に一部抜粋して紹介しよう。
 インフルエンザに感染しても、ほとんどの人は免疫を獲得するから発病するのはごくわずかだ。 通常インフルエンザの流行は冬季に毎年繰り返されるが、国民のほとんどは感染せずに免疫を獲得する「不顕性感染」である。 しかし、バランスのとれた適切な栄養を摂取せず持病などにより免疫機能が十分に働かない虚弱高齢者などは、二次感染として肺炎などを併発し毎年約1万人が死亡している。 つまり、有効な感染症対策の核心は人に備わっている免疫機能を最大限に発揮することにある。それには栄養が最も大事だ。 今後、国民の半数以上が新型インフルに感染すると推定される。その対策としてワクチン接種を推進させる前になすべき重要事は、しっかりした免疫抗体づくりに励むことだ。
 (以上、朝日新聞“私の視点”投稿より抜粋引用)

 この教授であり医師であられる投稿者のご意見にも、私論は賛同の立場である。


 そうは言われても、医学方面における素人にはさしあたっての対処法が分かりにくいから、どうしても医療機関や薬剤やワクチンを頼らざるを得ないのよ…   との一般国民からの困惑の声も聞こえて来そうだ。

 そういった時にこそ活躍するべきなのが、地元自治体の保健所や保険センター等の公的機構であるように考察する。
 すべてを医療現場任せにして医療現場の混乱をあおっている場合ではなく、市民の困惑、疑問質問等に対応できるレベルの“有能な人材”を地元の保健所等の機関に配置して地方自治体も電話、メール等でそれに対処するべきである。
 そういう施策は既に実施している、と回答する自治体も多い事とも推測するが、恐らくその対応が“不十分”だからこそ、国民は新型インフルの特効薬やワクチンに頼って医療機関を彷徨うことを余儀なくされている現状なのではなかろうか?

 地方自治体とて(縁故等の安易な職員採用のみではなく)もっと視野を広げて、実質的に対応可能な真に“実力のある人材”を広範囲から募集して採用してその能力を活かすことにより、市民の困惑に対処するべきではないのか。(ここで論点がすり変わってしまい恐縮だが…)


 自分の心身が自分を守るという自己の体内の“免疫システム”の働きは、生命体の歴史が始まって以来の永遠普遍の歴史でもある。(本ブログの学問・研究バックナンバー記事「self or not self」も参照下さい。)
 どうか国民の皆さん、今回の新型インフルエンザ騒動に関しても情報に翻弄されることなく冷静に対応しつつ、各自が自身の免疫力を高めることにより我が身を守り抜かれますように。
        
Comments (9)