原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

なぜ、入試会場へのネット通信機器持込を認める?

2011年02月28日 | 時事論評
 この手の犯罪が起こるべくして起こったとも言えるネット機器氾濫時代において、入試会場内への携帯電話等の持込が平然と認められている現状に唖然とする原左都子である。


 事が明るみになった発端は、京都大学で去る25、26日に行われた大学入試2次試験に於いてであった。

 数学と英語の試験問題の一部が“試験中”にインターネット上の「ヤフー掲示板」と称する掲示板に投稿されたそうなのだ。 京都大学は受験生が携帯電話等から投稿した可能性があると見て調査を開始すると同時に、本日(28日)午後、警察に被害届を出した模様である。
 京都大学副学長は昨夜の記者会見に於いて「厳正かつ公正に行われるべき入学試験の根幹を揺るがす重大な問題で、大学の業務として行われた入学試験を妨害する犯罪行為だ」と述べ、各学部長を集め緊急の入学試験委員会を開いたようだ。 来月10日の合格発表は予定通りに行うそうであり、不正を働いた受験生が特定され、この受験生が仮に合格していれば合格を取り消すことを確認したとのことである。

 報道によると、最も早い掲示板への書き込みは数学の試験の開始時刻である午後1時30分の直後とも言える1時37分に、入試問題と共に「解答だけではなく途中計算もよろしくお願いします」とのコメントが掲載されていたとのことだ。

 原左都子の憶測になるが、この事実から推測して今回の掲示板への書き込みは受験生(あるいはその他)が咄嗟の出来心でネット投稿に及んだのではなく、事前の準備を含めた綿密な計画性が伺えることは明らかだ。
 しかもそれは単に一受験生の思いつきと言うよりも、“組織ぐるみ”の犯行の可能性が強い気配もあるのではなかろうか? それも小さな組織ではなく、背後には受験生を合格させることにより利潤や恩恵を得ることができる、ある程度大きな組織のたくらみが存在するのでは?? と推し量る原左都子は、単なる推理好きであろうか?

 ところがそうも言っていられないのは、同様の犯罪が既に私立大学の入試会場に於いても少なからず行われていたとの報道である。 
 例えば、同じく京都市に位置する同志社大学では2月8日の文・経済学部の英語の入試中に同じIDから問題の一部が掲示板に投稿されたとのことであり、はたまた2月11日にも東京都の立教大学において同様に英語の問題の掲示板への投稿があったそうなのだ。
 その他、早稲田大学入試に於いても同様のネット上の書き込みがあったとのことである。
 今後捜査が進むにつれ、入試中にネット書き込みがあった大学は拡大していくことであろう。


 それにしても、原左都子は合点がいかない。

 例えば私立大学の入試会場に於いてもその種の不正があったのならば、何故私学はそれを直ぐに公表しなかったのか!? 
 世間への不正行為の公表はおろか、入試における不正行為発生を大学が認識出来ているにもかかわらず学内においてすらその捜査を実施するでもなく、既に合格者を発表しているとは、これまたどういう事なのだろう?? 
 今回京都大学が不正行為発生直後に公表に踏み切ったことを受けて、既に入試日から20日以上が経過した今頃になって私学が慌てふためいて 「我が大学でも同様の不正行為があった」 などと遅ればせながら公表し、「我が大学では既に合格者を発表しているが、今後の捜査結果によっては合格を取り消す…」 と言ったってねえ…

 だからこそ、原左都子は“胡散臭さ”を感じてしまうのだ。
 “その公表の遅さ イコール 不正行為の容認” と市民に受け取られてもやむを得ないのではなかろうか?
 時は“少子化時代”である。 どんな手段に頼ってでも一人でも多くの合格者を確保したい私学の裏事情が今回の不正行為の公表の遅さにつながり、最悪の場合、それが“組織ぐるみの入学者囲い込み”と意地悪く推測する私のような人間がいても不思議ではない時代背景ではないのだろうか??


 「原左都子エッセイ集」バックナンバーにおいて再三私論を述べているが、大学とはあくまでも学問を伝授、追究する学府であるべきなのだ。  そのような神聖であるはずの学問探究の場に、不正行為をなす学生などに決して門戸をくぐらせてはならない。
 とは言えども、国公立私立を問わず大学生とは名ばかりで大学在学中に学問に触れることもなく卒業単位のみを何とかクリアした学生が、今尚数多く社会に排出されていることは否めないであろう。
 その現実をもどうにかしたい思いが山々の原左都子ではあるが今はそれを差し置いて、今回の入試における不正行為は事が悪質である。 (京大はよくぞ警察に被害届を出してくれたものだ!


 差し当たっての解決策として、入試会場への携帯電話をはじめとするネット通信機器の持込を禁止してはどうなのか?

 原左都子自身も4、5年前に税理士試験受験経験があるのだが、その時にも試験会場内への携帯電話の持ち込みは電源を切る事を条件に「可」であった。 試験会場である大学によっては、300人規模の大教室に於いて試験監督者はわずか3人。  そのうちの一人は前方の席に座って試験の注意事項等の指示をした後全体を見渡す役割のようで、そしてもう一人は受験者全員の受験票写真のチェックに回り、後の一人は後方に位置しているものの、これでは監督業務が手薄であろうことを、私は元教員として入試にかかわった経験がある立場での感覚を抱いたものである。 (参考のため高校入試の場合は一教室の受験者数が40人程度であり、そこに監督者が2名張り付いたものである。 携帯電話など当時は存在しなかったし、現在でも当然ながら持込禁止だろうしね。)

 同じく、来年度大学入試を控えている我が娘も同様の事を口にするのだ。
 各種予備校の模擬試験を幾度か経験している娘が言うには、「机に座って寝ている監督者もいれば大して監督業務をしていない係員もいるから、カンニングを志す受験者がいるなら十分出来る環境だよ。」

 実際の大学入試では、厳格な監督がなされていることに期待したいものだ。
 ただ大学入試に於ける“大教室”の利用や監督者数の手薄さを考慮した場合、ここは思い切って携帯電話等のネット通信機器を試験会場に持ち込むことを禁止してはどうなのか。
 通信機器を持参した受験生に預り証を発行して事前に回収保管し、試験終了後に返却すれば済む問題であろう。
 まさか人件費が多大に発生する試験会場監督者を増強できるはずもない大学の実情に照らして、それこそが一番の解決策だと私は思うのだが…
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学校は、地域住民の苦悩にも配慮するべき

2011年02月26日 | 教育・学校
 2月16日の朝日新聞「声」欄に、学校の現役教員の立場から以下のごとくの投書があった。

 早速、 「匿名の苦情電話、合点いかず」 と題する投書の内容を要約して紹介しよう。
 「歩道での歩き方をもっとしっかり指導して欲しい」 電話口から怒りの声が聞こえてくる。 確かに道いっぱいに広がって登校する生徒もおり、学校では一列で登校しようと呼びかけている。 しかしなかなか指導が徹底せず、1年に4、5回はこんな電話が鳴り響く。 決まって匿名で、名前を尋ねても「結構です」の一言が返ってくる。 そんな匿名の電話に私は合点がいかない。 子どもを大切にして皆で育てる社会が今、求められている。「子どもが悪いのは学校だけの責任ですか。あなたには責任がないのですか」と問いたい。「子どもの姿はあなたの姿ですよ」とも言いたい。 もし、地域、保護者、学校が一丸となって子どもを育てていこうとの気持ちになれば、電話の仕方も変わってくるはずだ。 その場で直接注意し、子どもを諭すことが大切ではないか。


 早速、原左都子の私論に入ろう。

 この投書を一読して、ある種の不快感を抱いた私である。
 投書者である教員には何かが欠落している。 あるいは自らの教員としての責務を棚に上げて地域住民に子どもの教育の責任転嫁をする思想の背景に、何らかの特権意識が見え隠れしているような後味の悪さすら残るのだ。

 地域住民からこのような電話がかかってくる事を、今の時代はむしろ学校は歓迎するべきではないのだろうか?  電話の主は一地域住民として子どもと係わっていこうとの感覚が少しでもあるからこそ、子どもの登校時の様子を学校に知らせてくれているのだと、善意に解釈できないのであろうか?
 “地域”などという言葉が形骸化している今の時代に、誰が学校になど好き好んで電話すると思っているのだろう??  通常は“一切無視”で済まされてもやむを得ない所属生徒の登校時の情報を、地域住民がわざわざ電話で知らせてくれることに学校は感謝こそするべきだ。
 であるにもかかわらず、この教員は地域住民からの苦情電話を悲しいかな“否定的”に捉えている様子が投書の節々から伺えてしまう。
 投書者は、「子どもが悪いのはあなたには責任がないのですか」と電話の主である地域住民に迫ったり、 加えて、地域、保護者が学校と一丸となって子どもを育てていこうとの気持ちになれば電話の仕方も変わってくるはず、とまで(身勝手に)議論を発展させているのは、教員として一体如何なる思想に基づいているのであろうか??? 

 今回の電話が匿名であったことをあくまでも責める投書内容であるところも、大いに気掛かりな原左都子である。  私論としては、この事例の場合「匿名」であろうと名を名乗ろうと、さほどの不都合はないとの感覚を抱くのだが……
 (「原左都子エッセイ集」バックナンバーに於いて“タイガーマスク現象”を取り上げているが、例えばの話、寄付行為においては実名を名乗って自らの寄付金の使い道を明示するべきであろう。)  一方、地域住民が学校へ電話する場合、懸案に関して今後学校が話し合いを持つ程に積極的に対応してくれる期待感があるならば住民も自ずと名を名乗るであろうが、それが叶わない諦め感が強いからこそ匿名で済ませている実態なのではなかろうか? 


 ここで、原左都子の私事に移ることにしよう。

 「原左都子エッセイ集」のバックナンバーでも既述しているが、我が家は娘が通った公立小学校からわずか徒歩2分の距離に位置している。 しかも、一戸建て住居が一面に広がる低層住宅地域に於いて数少ない高層集合マンションの上階部の一部屋に暮らしているため、小学校からの騒音が直接大音量で響いてくるのだ。 日々、学校のチャイムをはじめ各種放送や生徒が発する喧騒を聞きつつ生活していると言っても過言ではない。
 我が子が転校後一時お世話になった小学校でもあることだし、まさかその苦情を今後も学校に提言することもないのだが、その騒音たるや決して生易しいものではないのが実情の日々である。

 加えて、小学校に程近い場に我が集合住宅が位置しているせいか、学校の放課後には周辺住民の子ども達が我がマンションの共用施設に集結して遊び放題なのである!(都会は子どもが遊べる公園も少ないことだしね…)
 人間関係が希薄なこの都会に於いて、多少の“悪さ”をはたらく子ども達を叱り飛ばせるのは教員経験がある私しかいないと腹をくくり、原左都子は果敢にも近隣小学校の児童達を注意した事が何度かある。
 例えば、我が集合マンションのエレベーターを恰好の遊び場所としていた少年達に向かって 「エレベーターとは子どもの遊び道具ではなく、住人にとっては大切な移動手段である!」 事を説諭したことがある。 はたまた、集合郵便受けの下のわずかなスペースに陣取ってゲームマシンに励む少年達を発見した時には 「あなた達がここでゲームをしていたのでは、このマンションの住人は郵便物を取り出せないよね!」 と厳しく迫ったこともある。
 それ程果敢な原左都子にして、後々2、3日は少年達の親どもが 「他人が我が子に勝手な指導をしないで下さい!」 と我が家に攻撃してくるのではないかと本気で怯えたものだ。
 それ程に、今の時代は一般住民が他者に係わることとは危険を伴っていることも私は理解できているのだ。 だからこそ、学校(特に公教育現場)にはその種の“受け皿的役割”を果たして欲しい思いも強い原左都子なのである。


 現在我が娘が通う私立女子中高からも、保護者会において再三再四同様の通学時の生徒の態度の乱れに関する報告を校長をはじめとする先生方から聞く。 やはり、少なからず地域住民から苦情の電話があるそうなのだ。
 女子校に通う生徒など元々“かしましい”ことこの上ないであろうことは想像がついて余りあるし、加えて我が娘が通う通学路が なんと! 閑静な住宅街に位置しているのである。 我が子は静かな部類であるが、大勢の生徒達が及ぼす近隣住民の皆様への日々の迷惑度を想像しては、一保護者として心より申し訳ない思いである。


 今回朝日新聞へ投書を寄せた学校の教員の方に一言申し上げたい。
 そのような排他的発想でせっかく電話を掛けてきてくれた地域住民を攻めていたのでは、ますます “地域、保護者、学校が一丸となって子どもを育てる” とのあなたの理想が遠のくばかりではあるまいか?
 そのような窮屈な感覚で日々子どもに接している教員がいることに、私はむしろ危機感を抱いてしまうのだ。
 ここはもう少し寛大な心で、せっかくの地域住民の訴えに耳を傾けるキャパシティを学校の教員として持つべきなのではなかろうか?
                         
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ワクチン接種は保護者の判断に任せて欲しい。

2011年02月23日 | 医学・医療・介護
 一人娘がフランス修学旅行から帰国し、我が束の間の“独身三昧”も終止符を打っている。

 エジプト、リビアのごとくの政変動乱に巻き込まれることも、現在ニュージーランドで発生中の大地震のような天災にも見舞われず、大きな病気も怪我もなく無事帰って来てくれたのが親としては何よりである。


 ところで、今回の我が娘の修学旅行の出発前に一保護者として大いに頭を悩まされる事象があった。
 それは、高校からのインフルエンザワクチン接種“半”強制だったのであるが、事の始まりは昨年10月頃、フランス修学旅行に際して参加者生徒全員に配布された“インフルエンザワクチン集団接種のお知らせ”であった。

 
 元医学関係者でもある原左都子のインフルエンザワクチン接種に対する見解については、昨年度新型インフルエンザが世界規模で流行した時期に、「原左都子エッセイ集」バックナンバーにおいて私論を再三述べているのでそれを参照していただきたい。
 厚労省が年齢層等により接種順位を決め、そして接種は2回だ、いや1回、と医学的根拠もなく二転三転して醜態を晒しつつ全国民にワクチン接種を“半ば”強制した事は、皆さんも記憶に新しいであろう。 国を挙げてすったもんだの大騒ぎで国民を混乱に巻き込んだものの大した流行規模にはならず、輸入ワクチン大量余剰による巨額の損失を積み上げただけの新型インフルエンザ騒動であった。(あの巨額損失に関しては国会においても追及されないのだが、如何に処理されたのだろうか???)

 「原左都子エッセイ集」の長期読者の方々は既にご存知であろうが、原左都子は医療行為に関して一貫して慎重な立場を貫いている。
 現代社会において、科学の一分野である医療の目覚ましい進化は生命体の存続発展にとって今後共無くてはならないものであり、我々はその恩恵があってこそ命を育むことが可能であることに関しては、原左都子も当然ながら認めるところである。 
 一方で、医学・医療とは生命に直結する科学分野であるが故に専門性が高く、一般市民に分かりにくいのも事実であろう。 「この薬を飲めば治ります」「このワクチンを打ったら病気にはかかりません」…  医師をはじめとする医療関係者、ましてや国家からそのように指導されたら、それを鵜呑みにしてしまうのが悲しいかな一般市民の実情でもあろう。

 ところが、ワクチン一つとってもそう簡単にはいかないのだ。 
 「みんながワクチン打ってるから、私も早くワクチン打って助かろう!」
 昨年の新型インフルワクチン騒動など、国民皆にその種の吹聴をしてワクチン接種のために我が身息災観点から“我先に!”と病院へ走らせた厚労省であったと言えるのだが、その罪は大きいものがあると今尚私は捉えている。

 まずワクチンの「安全性」面から説明すると、薬に副作用があるがごとくワクチンにも当然ながら副作用がある。(これが発症するのは全接種者中ごくわずかな確率ではあるが。) それ故にワクチン接種時に手渡される説明書にも副作用に関する記載があり、医師もワクチン接種直前に接種者毎に体調や副作用が発症し易い体質か否かのチェックはしている。 ただ医療機関に於けるこのチェック体制が万全とは言い難く、いずれのワクチン接種においても必ずや大なり小なり(重篤な場合死に至るほど)の副作用が僅かな確率ではあるが発生しているのが現状である。

 そして次に検証するべきはワクチンの「有効性」であるが、インフルエンザワクチンに限って言うと、その有効性は“低い”と結論付けるのが現実ではあるまいか? ワクチンを打ってもインフルエンザに罹患する患者が少なからず発生してしまうのがこのワクチンの特徴でもある。 これに関しては、ワクチンを打っておけばインフルエンザに罹患しても症状が軽くて済むと医療機関から説明されているようだが、私に言わせてもらうと、その種の接種者とはたとえワクチンを打たずにインフルエンザに罹患したとしても、そもそも重篤な症状には至らない健常人の範囲内の話ではなかろうか??


 話を我が娘のフランス修学旅行前のインフルエンザワクチン接種に戻そう。
 学校の気持ちは重々分かる。 二百数十名という大集団を引き連れて厳寒の時期にフランスを訪れようとする場合、とりあえずインフルエンザワクチン接種を生徒全員に半強制しておくことで引率側の学校の“責任”は大いに軽減されることであろう。
 修学旅行前の保護者会でも、再三再四ワクチン接種について大人の保護者相手に強要されたものである。

 学校の気持ちは分かろうと、一方で保護者には我が子の生命を“本気”で守り抜く責任があるのだ! 
 我が娘の場合、産まれ持っての若干の事情があるためか身体面においても万全とは言い難い側面を抱えている。(生命にはさほど係わらないのだが、幼い頃より原因不明の“奇病”を発症して医師さえその診断が下せなかったことを幾度も経験している。 医学経験のある母の私は、私なりのある程度の診断を下して来ているのだが…)  その一つとして娘は“不明熱”を発症し易い体質であり、以前エジプト・ギリシャ方面へ家族旅行した時にも39度を超える発熱をして、ホテルで2日間寝て過ごした経験がある。 
 今回のフランス修学旅行に当たっては、アレルギー体質も兼ね備えている我が子のインフルエンザワクチン接種後の副作用を考慮して、親としてはワクチン接種は避け通したかったのが本音である。 ただ、厳寒のフランスで運悪く不明高熱を出した場合、それがインフルエンザと現地医師に誤診されてしまう場合も想定して、“苦渋の選択”としてワクチン接種に踏み切った私だったのだ。

 幸いなことに、ワクチン接種後副作用が出現せずに娘がフランスに旅立てたのは実にラッキーだった。
 一方で、上記のごとくインフルエンザワクチンの「有効性」に関しては元々信用していない原左都子であるため、娘にワクチンの副作用さえ出現しなければそれだけで万々歳であったと言えるのだ。 (本音を言うと、“医療と政府との癒着”か?とも言えるワクチン接種に、個人負担金5000円を投資したくはなかったのだけどね…。)


 インフルエンザワクチン接種など私自身は一回足りとて受けたこともなければ、今後一生受けることもないだろうけれど、もう数年来インフルエンザに罹患していない原左都子である。
 人為的医療に出来るだけ頼らず自然体で生きている私は、恐らくあらゆる病原体に対して“不顕性感染”(感染しても発症はせずに免疫を獲得している状態)で自然に強靭な免疫力を得ていることであろうと信じている。 “アジュバント”(病原体の免疫増強剤であり、人体内において予期せぬアレルギー反応の原因となる物質)等の不純物が混ざるワクチンを体内に入れることこそを、私は何が何でも避けたい思いだね!


 それにしても、もうそろそろ日本の学校も大集団で修学旅行に行くことを終焉してはどうなのか??
 集団とはその規模にかかわらず“存在自体が”周囲に迷惑を及ぼすことが明白である。
 はたまた今回のインフルエンザワクチン全員半強制のごとくの、個体差の激しい子供達一人ひとりの個性を尊重し得ない無責任な一律指導などしなくて済むのだ。

 そしてそして、今回のニュージーランドのごとくの予期せぬ大地震等に際しては、一度に多くの命を失わずに済むと言うものでもあろう。
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酒の適量と周囲への迷惑度との相関関係

2011年02月19日 | 
 先だって我が一人娘が高校の修学旅行でフランスに旅立ち、束の間の“独身”を謳歌する原左都子である。
 昨日も昼間、とあるコンサート(また機会があれば「原左都子エッセイ集」で紹介しましょう。)に出かけた帰りに、夜一人でイタリアンレストランに立ち寄った。

 (余談になるが、こういうシチュエーションの場合何十年も連れ添っているご夫婦は滅多にない2人だけの時間を大事に共有するのだろうか??  一方見合いで晩婚に至った我が夫婦の場合は、当初よりお互いのライフスタイルを尊重し合っていることに関しては「原左都子エッセイ集」バックナンバーでも再三既述している。)
 今回の一人娘“外遊”の間のお互いの行動に関しても、 私曰く「夜多少帰りが遅くなってもいいよね?」 亭主応えて「どうそ。どうぞ。」 との快諾を得ている原左都子なのだ。
 (それ程に普段より原左都子に対する亭主からの信頼が厚いという訳なのよ!?! いや、ほんと!!)

 という訳で、私は昨夜コンサート帰りに“お一人様”の身分で某イタリアンレストランへ夕餉を楽しみに行ったのである。
 原左都子程の年齢になると、外部の食事処で“お一人様ランチ”を食する程度に関してはもう“お手の物”である。  それでも、ことディナーとなると(飲兵衛であるから当然ながらお酒を嗜みたい私であるため)、女一人であるが故の多少の躊躇感は否めないのが実情である。 今回はその種の躊躇感を抱かなくて済むとの知人から得た情報を元に、このレストランを訪ねたのだ。
 ところが、お酒を注文するに当たってやはり“躊躇”した私である。
 お酒は「シャルドネ種スパークリングワイン」と自分の好みで即決!したのだが、これをフルボトルで頼むかあるいはハーフボトルにするか大いに迷ったのだ。 (飲兵衛の原左都子にとってはフルボトル1本でも足りないアルコール量なのだが、女一人であることが周囲に見え見えの立場でフルボトルを注文したら、きっと目立つよな~~。 かと言ってハーフボトルを何本もお替りするのももっと目立つし……) 
 と言うのも、持ち前の客観力で周囲を見渡すと、同年代の女性客達が“しらふ”で料理のみを注文して“喋り力”のみで長時間居座っているようなのだ。
 その様相を観察して、結局ハーフボトルわずか一本のみでそそくさとその場を退散した私である。

 
 要するに、酒の適量とはTPOに応じてわきまるべき事を“我が意に反して”再確認させられたという訳だ。
 そうしたところ本日(2月19日)付朝日新聞「悩みのるつぼ」においてタイムリーに、「酒の適量が分かりません」と嘆く30代既婚女性の相談を発見した。

 その相談によると、会社員である30代既婚女性はご亭主の理解も得つつ普段友人等と酒の会合を楽しんでいる様子である。 そんな恵まれた身分であるようだが、時折記憶を失う程に飲み過ぎるらしいのだ。 現在のところ、それで今の生活を失う事はないようなのだが、いつか取り返しのつかない大失態を演じそうで怖いから故に、「酒の適量」を知りたいとの相談内容である。

 
 ここで私事に入って恐縮だが、生まれ持っての飲兵衛体質の原左都子など長い独身時代には余りある酒の醜態を周囲に晒して来ている。 
 それらのすべてが自己責任の範囲内だという事を私は当時から十分自覚出来ている故に、その醜態をきっかけとして友や恋人を失う事になろうとて、あくまでも自分自身で解決してきたものである。(そんな私に対して皆さん好意的に対応してくれ、結果として真に大事な友は失わずに済んだものだ。)
 今回、車谷長吉氏が回答欄で述べておられるような、警察官等の第三者にお世話になったアクシデント(新宿歌舞伎町で朝方補導されかかったことがある)に関しても原左都子はバックナンバーで述べている。 既に成年に達している私にとってはまさに“自己責任の範疇”であり、自分で対処すれば片付く程度の失態だったと振り返る。

 とにかく酒に酔っ払った挙句の“過ち”を酒から覚めた後に自分で善処できてこそ、末永く「飲兵衛」として生き延びられることであろう。
 (もちろん、飲酒の沙汰が飲酒運転等人命を奪うごとくの法に激しく反する罪深い事象を避けられないならば、当然直に飲酒人生を更生するべきであるが。)


 ただ、今回の“悩みのるつぼ”相談者と同じく底なし飲兵衛である原左都子も、酒による大きな“過ち”をしでかす前に、自分自身の酒の適量を把握しておきたいとの気持ちは分かる。
 自分らしく酒を楽しめて周囲に迷惑をかけない酒の量ぐらいは、飲兵衛個々人が把握できているべきなのである。 おそらく真正飲兵衛の方々とは家庭においては愛飲するお酒が決まっていることであろう。その純アルコール量を正確に計算して、その量を超過しない酒量を測りつつアルコールを楽しめばよいのだ。
 
 ところが、外部の飲み処でこれを実行するのは多少の困難が伴うのが事実である。
 一緒に飲む相手やその目的、飲む酒の種類、そして場の雰囲気により大いに飲む量が左右されるのが飲兵衛の宿命である。 それでも、私の場合は自分が摂取する純アルコール量をある程度計算しつつ、周囲に流されず自主的にお酒を注文するのだけどね。 そしてアルコール純量が計算できなくなった時点で既に飲み過ぎだからもう止めようね。

 「原左都子エッセイ集」において、「嫌な飲み会は行かぬが一番!」なるバックナンバーも披露しているが、職業人の立場としては仕事上の飲み会を回避できない等々、好まない飲み会に出席せねばならない時もあることは心得ている。
 事実上記のごとく、私の年齢にして外部の飲み処で一人で飲む場合にすら周囲をはばからねばならぬ場合もあるし…。


 それでも、飲兵衛にして自分が気持ちよく飲める量をある程度把握出来ていて尚、周囲にはばかれる客観性を持ち合わせているのであれば、きっと何処の飲み会においても「酒の適量が分からない」と嘆く事もなければ、記憶を失うまでに深酒してしまうこともないと思うのだけど……

 それにしてもこの朝日新聞「悩みのるつぼ」の相談女性は、今現在は酒に理解のある亭主に恵まれている身であるからむしろ、30代にして自らの“飲兵衛気質”に苦悩しているのかとも捉えられる相談と推測する。 
 やはり酒とは人間関係において災いをもたらし易い厄介物であり、30代相談女性がこのまま“記憶を失う”程の大酒を浴び続けた場合、果たしてご亭主と長続きするのだろうかと、(自分を棚に上げて)要らぬお節介をする原左都子である…        
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50代にして早くも“孫”が心の支えなのか?

2011年02月16日 | 自己実現
 50代にして、長男夫婦が既に不妊治療適齢期であり体外受精に6回挑戦したが赤ちゃんが授からない???

 これは2月12日付朝日新聞別刷「be」“悩みのるつぼ”の相談内容なのだが、(相談者である50代主婦は一体幾つで長男を産んだのだろう?) と咄嗟に計算を始めた私である。
 不妊治療適齢期と言えばおそらく長男夫婦は40歳前後位と仮定して、相談主婦が仮に59歳であるならば19歳頃に長男を産んだことになるから、そうおかしな話でもないのか…
 などと、高齢出産の我が身としては50代同世代にしていろんな人生があることを再認識させられる相談なのである。


 それでは早速“悩みのるつぼ”の 「子のいない長男夫婦がふびんで」 と題する相談内容を以下に要約して紹介しよう。
 50代の主婦であるが、夫婦共に保育士をしている長男夫妻にまだ赤ちゃんが授からない。年齢的なこともあり不妊治療を受け体外受精に6回挑戦したが結果が出ない。本当にかわいそうでならない。 嫁は気立てのいい芯のしっかりした子で(不妊治療が)ダメだった時に「折れた心を修復してまた頑張ります」とメールを打ってきた。私はこれを読んで涙が止まらない。 世の中は順番通りにはいかないもので後で結婚した下の子に先に初孫が授かった。それはうれしいのだが、世の不条理を思い本当につらい日々だ。 こんな立場の時はどんな気持ちで乗り切ればよいのか。


 早速、私論に入ろう。

 嫁、 孫、 順番通りにいかない? それが世の不条理? それで涙がとまらない…??  
 いや~~、立場の違いとは言えども、40近くまで独身を謳歌した後にやっと一人だけ子どもを産んだ原左都子にとっては、一生縁がなさそうな言葉ばかりが羅列されていることにたまげてしまう相談である。

 まあそれにしても、上で計算したように50代と言えば確かに“普通に”孫がいる年代である。 私の知人にも早くも30代で“おばあちゃん”になった女性もいれば、60歳少しで既に“ひ孫”がいる人もいる。 これらは極端な例かもしれないが、原左都子世代の世間一般の常識からすれば、40近くで子どもを産む事の方がごく少数派で例外的であったことであろう。
 以前、女性の出産年齢に関する当時の統計資料を目にしたことがあるが、私が出産した時代の40近くの「初産」は1%以下の統計確率だったように記憶している。

 そんな私であるためか、今回の相談に関してはどの角度から考察しても相談主婦の心境にはなれない。
 「原左都子エッセイ集」のバックナンバー「年老いては子に従わず、見返りも求めず」においても既述しているが、私の場合娘に若干の事情があるせいもあるのだが、親として我が子の将来を展望に入れて今後どれだけの事をしてやれるか、との発想しかない。 この先我が子が順調に成長し自立してくれるだけで、親として十分過ぎる感覚なのだ。

 別の側面から考察すると、そもそも私の場合子どもを設けることに関してすらどちらでもよかった程であるから、ましてや孫をこの手に抱こうなどという発想もまったくない。 (いえいえ、もしも我が子が孫を産んで「育児を手伝って!」などと嘆願されたものなら俄然張り切る性格ではあろうが、今のところはその種の希望は一切ない。)
 今はただただ我が子の自立を望む私の将来の夢は、我が子自立後の自らの“自己実現”なのである。
                                
 そんな50代原左都子の存在もかなり極端であろうことは認めるものの、それにしても同じく50代相談主婦の、未だこの世に産まれ出ない長男夫婦の孫にかける“歪んだ思い”もどうにかならないものであろうか。
 こんな “孫一筋!” とも言える義母を抱えている“嫁”こそが最大の犠牲者であることは明白だ。
 長男夫婦が子どもを欲しがり体外受精に及んでいる事に関してはある程度は本人たちの自由であるとしても、特に産む性である“嫁”の苦しみに義母の立場からの言動が追い討ちをかけていることに、この50代主婦は気付かないのであろうか?
 この相談、誰が読んでも一番落ち度があるのは相談者であるあなたなのだ!
 赤ちゃんが出来ずに切羽詰っている長男夫婦(とくに“嫁”)の真相心理の程を気遣うことも出来ず、嫁に「また頑張ります!」メールまでさせているあなたの存在こそどうにかならないのか??


 今回の“悩みのるつぼ”回答者であられる 社会学者の上野千鶴子氏 も、私と同様の回答をされている。 以下にその一部を紹介しよう。
 こういうご質問、困りますね。 これはどなたのお悩み? お困りなのはあなたご自身なのですね? 長男に子どもがいないことを気に病んでいるのはあなたご自身ではありませんか? そんなあなたに「がんばります」とメールで報告してくるお嫁さんは何てけなげなのでしょう。せめてその負担を減らしてあげられませんか。 自分の子どもを産むか産まないかは本人達自身の問題であって、たとえ親であっても容喙すべきではない。 あなたの役割はむしろ、子どもを産まなければというプレッシャーをお嫁さんから解放してあげることだ。お世継ぎを期待している訳じゃあるまいし。 子どもがいない女はかわいそうと思っているあなたがお嫁さんのストレス源であることを自覚して下さい。 ひとの生き死にに人為がはたらかないことに、もう少し世の中が謙虚であってくれたらと思う。
 (以上、上野千鶴子氏の回答内容の一部を要約引用。)   


 再び、私論に戻ろう。 

 それでは、今後この相談主婦はどのように気持ちを切り替えていけばよいのであろうか。 
 この解決策が困難であることを、今に至ってひしひしと感じる私である。
 今回の相談に対する私と社会学者の上野千鶴子氏との見解がほぼ一致しているのは、おそらく独身が長かった私と今尚独身を貫いていらっしゃる上野氏が、その背景において一部共通であるためと考察する。
 ところが一般的には、団塊の世代前後の年代とはいわゆる“適齢期”で婚姻に至り子どもを複数(通常は2人)設けることが当時の世の“決まり”でもあったのだ!  それを素直に実行しつつ人生を送った多くの単純“善良な市民”達は、現在孫を可愛がっているのが実態なのであろう。 一方でその種の人種が適齢期に産んだ子ども達が現代の経済危機社会を最たる背景に晩婚とならざるを得ないが故に、団塊の世代にして今尚孫がいない人種が増殖しているのも実態であろう。
 長い独身を謳歌したいがために主体的に晩婚を選択した私は、昔からその人種とは根本的な部分において思想が異なっていたと言える。  我々の世代において“世間一般に迎合して適齢期に婚姻に至った連中”達の心中とは、時代の変遷を捉えきれず今に至って尚老後の楽しみを“孫”に見出したいのではないかとの危惧感を感じる場面によく出くわすからである。


 この相談主婦には身近な“孫”や“長男夫婦”から大きく気持ちを切り替えて、まだまだ今後の人生長いのだから、自分自身の“内面”から湧き出る「自己実現」意欲に燃えることに期待したい気持ちである。
 
 そういう意味では時代の先端を先取りしてきているとも言える上野氏や私(一緒くたにする失礼を何卒お許し下さい。)は、今現在の若き世代の苦悩を真に受け止めることが出来るような気もするのだ。

 身内の じーさん ばーさん の身勝手な“孫”に期待する思いなど テキトー に振り切って、今後も 自分達の生活を大事に育もうね!
          
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